
いかにも神経衰弱気味の現代的少年少女にありがちなものを、逆に言うとこの著者ほど、鮮やかに文章で表現しているをみたことがありません。行動は異なるものの、自分がそういった社会に対する束縛感に苛まれていたので、人ごとには思えないのも事実。しかしその一方で社会に出て人に使われ、人を使い、組織を動かして社会を受動的に捉える観方から、主体的に働きかける対象として捉える観方に変わると、また違ってみえるのも事実。
嫌な言い方ではあるが、別な視点からみると、子供だ幼稚だとは言わないものの、やっぱり自分一人の観点からしか見ていない視野狭窄はバランス感覚の欠如に裏書されたものだと言えてしまうのを強く感じる。私にも経験があり、未だにひきずっているのものがあるが、ちっぽけな自分に対する薄っぺらな自負や自尊心は、往々にして自分以外の他者(若いときには世間や社会がこれに当たる)に対して不寛容で対処しようとするが、それは失敗する。
もっと高次元でみた場合(私の勝手な考えだと仏教的な悟りもこれに入るかな?)、何よりも他者への寛容を実現しながら、自己の独自性の確保が自然に出来てしまうように感じるのですが・・・。う~ん、この本の内容とは、違う話になっているような???
まあ、そういったいろんなことを考えさせてくれるきっかけになる本です。桜井さんの本は、なんだかんだと言いつつ、10冊以上読んでいて立派な読者のくせにいちゃもんつけてるようなこと書いてますが、どうなんでしょう? 本書もそうですが、非常に純粋でそれでいてガラスのように怜悧で脆い心理描写には、真似できる人はいないのではないでしょうか? 読むたびに10代の頃の感情がリアルに甦ります。一方で、それに対する自己否定までいかないものの、本に描かれる感情を礼賛するのに対しては、異様に拒否反応も覚えます。
周りを否定するだけで、自分が我がままであることを当然の権利として周囲にまで認めさせようとする若者故の傲慢さをもそこに感じてしまうからでしょうか?いつものことながら、私の中にアンビバレンツな感情を起こさせる本です。
主人公の少女は、性的自由を主張する女性を中心に集まって共同生活をする特殊なコミュティーで育つ。後に警察や福祉事務所の手で、いわゆる普通の社会生活に適応するべく保護観察下におかれるのだが・・・。
彼女は、それを社会への『束縛』としか認識し得ない。コミュニティーの主催者であった女性から教えられた自由への渇望から、商品として少女の性を売ることで、擬似的な『束縛』からの解放を図る。更に究極的な束縛から解放の手段として・・・。
見かけの自由と、本物の自由の違いが分かるでしょうか? 放浪の末に、自給自足する方がはるかに自由のようにも感じますけどね。社会に寄生している時点で、自由を放棄している論理的矛盾に気付かないのも、また10代的感性の素晴らしさかもしれませんが・・・・。
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