2009年02月08日

ヘロデ王 波瀾万丈の生涯

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ヘロデ王の墓、さらに確証求める考古学者
上記でナショナルジオグラッフィクの記事に触れていたので探してみました。

特集:ヘロデ王 波瀾万丈の生涯
【ナショナル・ジオグラフィックより以下転載】
昨年春、「ヘロデ王の墓発見」のニュースが世界を駆けめぐった。幼児殺しで知られる聖書の“悪玉”は、実際はどんな人物だったのか。王墓発掘をめぐるドラマと共に紹介する。
 イスラエルの首都エルサレムから南に約13キロ。貧相なオリーブの木々や石ころだらけのトウモロコシ畑の風景が終わり、ユダヤ砂漠の乾いた荒地が広がりはじめると、目の前に突如として、小さな火山のような丘が見えてくる。ユダヤの国のヘロデ王が白亜の石で築きあげた要塞宮殿の遺跡がある、ヘロディウムだ。
 紀元前40年頃からユダヤ王国を支配したヘロデ王は、古代世界で建築事業に誰よりも力を入れ、現在のパレスチナとその周辺に、数多くの宮殿や砦を築いた“建築家”でもあった。ヘブライ大学のイスラエル人考古学者、エフド・ネツェルは、その建築物から王の実像に迫ろうと、実に半世紀にわたって、ヘロデが残した遺跡の数々を調査してきた。
 そして2007年4月、ここヘロディウムの上部斜面で、これまで謎に包まれていたヘロデ王の墓をついに発見する。その発掘調査を通じて、王の新たな人物像が浮かびあがってきた。
 ヘロデには、新約聖書のマタイ福音書に描かれた残忍で狡猾(こうかつ)な人物というイメージがつきまとう。ユダヤの王と予言されたイエスを亡きものにしようと、ベツレヘムの幼い男児を皆殺しにしたとされているからだ。だが、マタイ福音書の記述以外に記録が見つからないことから、ヘロデはこの件に関してはおそらく潔白だったようだ。ただ、3人の息子と妻、義理の母、それに多数の家臣を殺したのは確かだ。ヘロデの生涯は、創造性と残虐さ、調和と混沌が交錯したものだった。
ローマとの協調をめざした王
 ヘロデは紀元前73年、古代パレスチナの中心だったユダヤ王国に生まれた。ユダヤはそれまで70年間、ハスモン家に支配されてきたが、ヒュルカノス2世、アリストブロス2世という二人の王子が、王位をめぐり国を二分して激しく対立していた。一方、国外では、北と西のローマ軍団と、その仇敵である東のパルティアにはさまれ、三方に火種を抱えた状態だった。

ヒュルカノス2世の顧問でもあったヘロデの父親は有能な武将で、ローマ軍と足並みをそろえてアリストブロス2世を追放し、ヒュルカノス2世をユダヤ王に即位させた。
 こうした環境で育ったヘロデは、ローマと協調するメリットを幼い頃から理解していた。ヘロデが王に即位できたのはローマ人のおかげであり、在位中にいちばん心を砕いたのは、ローマからの要求と、政治的・宗教的な独立を守ろうとするユダヤの民の間に折りあいをつけることだった。だが、この態度がユダヤ人の目には裏切りと映ったようだ。
 母親はアラブ人で、父親はユダヤの南のイドマヤ出身というヘロデの出自を考えると、この微妙なバランスを保つのはかなり難しかっただろう。ハスモン家の王は代々エルサレムで大祭司を務めてきた。だが、ヘロデはユダヤ人として育てられたものの、大祭司にふさわしい名家の出ではなかった。ヘロデの伝記を書いたユダヤの軍人で貴族のフラウィウス・ヨセフスによると、配下のユダヤ人の多くは、ヘロデのことを「半ユダヤ人」としてよそ者扱いし、ハスモン家の復権をねらっていたという。
 紀元前43年、ヘロデの父親がハスモン家の手先に毒殺され、その3年後にはパルティアが突然ユダヤを侵略する。当時の王、ヒュルカノス2世は、パルティアと手を組んだハスモン家の一派に耳を切り落とされ、王位を追われた。そして次の標的となったのが、ヘロデだった。
 この危機に際してヘロデは、ローマ人に助けを求めた。暗闇に乗じて家族ともどもエルサレムを脱出し、捨て身の戦いでパルティアとハスモン家の連合軍を破る(その戦場跡に、のちにヘロディウムがつくられることになる)。ローマ元老院は、その変わらぬ忠誠心を高く評価して、ヘロデをユダヤの王に任命した。
 元老院から出てきたヘロデは、ローマで最も有力な二人と腕を組んでいた。将軍マルクス・アントニウスと、のちに初代ローマ皇帝カエサル・アウグストゥスとなるオクタウィアヌスだ。不安定な王位を維持するためならば、ローマにどんな便宜を図ることもいとわない。ヘロデはその意志を示そうと、カピトリウムの丘に立つユピテル神殿を訪れ、異教であるローマの神々にいけにえを捧げたのだった。

 かくしてヘロデは王国の主となったが、国を掌握するには、さらに3年の戦いを要した。紀元前37年にエルサレムを陥落して、少なくとも政治的には、ようやくユダヤを手中におさめた。そして社会的・宗教的な権威を高めるため、最初の妻ドリスを離縁し、ハスモン家のマリアンメと結婚する。
 それでもハスモン家の脅威はおさまらなかった。2年後の仮庵(かり いお)の祭りのとき、第二神殿の大祭司を務めるマリアンメの弟が、ユダヤの民から大歓迎を受けた。この若者が王座を脅かすのではないかと恐れたヘロデは、エリコの宮殿にあるプールで彼を溺死させる。
 ヘロデ王の不安の種はハスモン家だけではなかった。紀元前42年から前31年まで、マルクス・アントニウスがローマの東方を支配していた間、ヘロデは彼の忠実な友であり、同盟者だった。ところが、エジプト女王クレオパトラが、夫アントニウスをそそのかしてユダヤ王国をねらい、ヘロデを誘惑しようとまでした。
 そして紀元前31年、アクティウムの海戦をきっかけに政治情勢は一変する。アントニウスとクレオパトラの連合軍を撃破したオクタウィアヌスが、ローマ帝国を打ちたて、初代皇帝の座に就いたのだ。アントニウスとの長年の友情が不利に働くと見たヘロデは、急いでロードス島に向かう。そして王冠をとった姿で、しかし威厳は失うことなくローマ皇帝の前に現れ、アントニウスとの友情をはっきり認めたうえで、新たな主人への忠誠を誓った。その落ちついた率直な態度に感じいったオクタウィアヌスは、ヘロデのユダヤ王としての地位を改めて認める。
 それから20年間は比較的平穏で、経済が繁栄した時代だった。宮廷ではヘレニズム文化とローマ文化が花開き、東西から優れた学者、詩人、彫刻家、画家、建築家が集まってきた。飢饉や災害のとき、ヘロデは王者にふさわしい寛大さを臣民に示し、その恩恵は国境を越えて遠くギリシャや小アジアにまで及んだ(ヘロデの惜しみない寄付に感謝したオリンピアの市民は、彼をオリンピックの総裁に選んだ)。
 ヘロデは、壮大な野心と創造性を発揮した大規模な建設事業に次々に着手する。まず、天然の良港がなかったユダヤ北岸には、十分な水深のあるカイサリアの港を建設した。ここでは、水中で固まるセメントでつくった巨大なブロックをいくつも用いて防波堤を築くという、革新的な技術を採用している。
 マサダに築いたヘロデの北の宮殿は、断崖の段状の地形を利用して築かれた3段の建造物で、採光と風通しがよくて住みやすいうえ、要塞としても堅固だった。またエルサレムの第二神殿の改修にあたり、長さ12メートル、重さ600トンもある巨石を基礎に据えた。その名残は西壁(嘆きの壁)として今も残り、ユダヤ教第一の聖地となっている。

栄光と繁栄に彩られたヘロデ王の治世だが、私生活には不穏な影が迫っていた。ヘレニズム期の統治者の例に漏れず、ヘロデにも妻が10人、子どもも十数人いた。だが、妻や子が絶えずめぐらす陰謀のせいで疑心暗鬼となり、残虐な行為に走るのだった。
 紀元前29年、妹サロメに嫉妬心をあおられたヘロデは、妃マリアンメを殺してしまう。だが、妃への思いを捨てきれず、何カ月もふさぎこみ、死んだ妻を黄泉の国から取り戻そうとするかのように、その名を呼びつづけたという。のちには息子たちにも陰謀の疑いをかけ、そのうち3人を殺した。遺言は6回も書きかえた。
 紀元前4年、ヘロデはエリコで病に倒れて息を引きとる。その葬列からは、臣民が王を尊敬し、畏怖していたことがうかがえたと、ヨセフスは伝記で書いている。王の遺体は、宝石をちりばめて紫色の布を敷いた黄金の棺台(かん だい)に横たえられた。右手には笏(しゃく)を持ち、頭には金の王冠がかぶせられていた。
 大勢の親族が棺台を取り巻き、さらに戦闘用の軍服を着た兵士たちと500人の従者、それに解放奴隷が、香料を携えて控えていたという。彼らは遺体と共に40キロの道のりを進み、南西の砂漠の端にあるヘロディウムへと向かった。ヘロデ王は、丘の上にそびえる真っ白な石造りの建物の中で、永遠の眠りについた。

それから2000年以上の歳月が流れた。2月のある寒い朝、私は強風のなか、考古学者のエフド・ネツェルと共に、ヨルダン川西岸にあるヘロディウムを訪れた。小柄なネツェルは今年74歳。内気で寡黙な性格からか、ふだんは薄い唇を真一文字に結んだ無愛想な表情だが、ときおり満面の笑みを見せることもある。
 私たちは、砂漠の端にある丘のふもとに車を停めた。そこはアラブ系の遊牧民が暮らす村のはずれで、コンクリートブロックでできた家々が点在している。高さ2メートルもある看板には、イスラエル国籍をもつ者の立ち入りを禁ずと書かれている。
 ここヘロディウムでの発掘は、ネツェルの研究者人生と同様、政治と暴力と戦争に振りまわされてきた。エルサレム育ちのネツェルは1948年、イスラエル建国の直前にアラブ勢力が市の東部を占領したとき、自宅を砲弾で破壊された。その後建築を学びはじめ、1950年代には毎夏、考古学調査にも参加していた。建築家として独立後も二足のわらじをはき続け、稼いだ金を発掘作業に注ぎこんだ。人手を雇えないときは学生を駆りだし、機材の運搬には自分のステーションワゴンを使った。
 ネツェルとヘロデ王との最初の出会いは、1963年にさかのぼる。マサダの遺跡を発掘する3年間のプロジェクトに建築家として参加したのがきっかけだ。それは死海を望む台地にヘロデが建設した要塞だった。
 1967年、第三次中東戦争(六日戦争)でイスラエルがヨルダン川西岸を占領したために、ヘロデ王時代の多くの遺跡をイスラエル人考古学者が調査できることになった。ネツェルは、なかでも遺跡が豊富なエリコやヘロディウムを担当した。「独特の建築デザインや手法が随所に見られるので、これらはすべて同じ人間が考え出したのだと思うようになりました。ヘロデは建築と都市計画に深い素養があり、多くの建築事業で積極的な役割を果たしたと、私は考えています」
 私たちは、数時間かけて丘の上をめざした。ヘロディウムは二つの区域に分けられる。丘のふもとと斜面の下部が、庭園都市である下ヘロディウム。ここにはローマ世界でおそらく最大の邸宅群があった。そして丘の頂、上ヘロディウムには、要塞宮殿が鎮座していた。廃墟になって久しいが、そこにはかつて、5階建ての東の塔がそびえていたという。
 下の宮殿に通じる坂道を歩きながら、ネツェルが説明してくれた。「ヘロディウムは斜面に築かれ、複雑な多層構造となっています。そこへさらに時間という第4の次元が加わるので、この遺跡の調査は四次元の巨大なパズルを解いているようなものです」

 ネツェルが指さした先に、1972年に発掘が始まった大プールがあった。優美な白い柱廊に囲まれた長方形のプールはレンガ造りで、広さはサッカー場ほどもあるという。ネツェルはパズルのピースを少しずつ集め、個々の建築物について仮説をあれこれ検証しながら、ついにその全容の解明に成功した。
 上ヘロディウムと下ヘロディウムの建物は、2本の正確な対称軸で貫かれている。軸の一つは頂上の要塞の中心と、下の宮殿の中心を結ぶ南北の線だ。東の塔と大プールを結ぶもう1本の軸は、南北軸から約30度ずれている。このことから、ヘロディウムは包括的なマスタープランに基づいて建設されたと考えられる。そしてネツェルは、その立案者がおそらくヘロデ自身ではないかと考えている。
 「ヘロディウムは、ヘロデが思い描く理想の都市を表現したものだったのかもしれません。整然と配置された豪華な建物と美しい柱廊、水しぶきのあがる大きなプール。こうした静かで平穏な雰囲気を、ヘロデは強く求めていたのでしょう」
 妻と息子たちを殺し、廷臣を拷問にかけ、まともに言葉の出ない精神状態に陥った男から、これほど美しい風景が生まれたのだ。
ヘロデ王の墓を発見
 ヘロディウムの発掘を始めた当時、ネツェルは王墓の探索にはあまり関心がなかった。だが時と共に、なんとしても墓を見つけなくてはという思いが強まった。「私たちは頭を割って、墓のありかを必死で考えました」。ヘブライ語独特の言いまわしで表現して、ネツェルは笑う。
 2000年にパレスチナとの間で大規模な武力衝突が起きて発掘は中断したが、2006年はじめ、ヘロディウム発掘を再開した直後に、ネツェルは新たな角度から考えることにした。「何年も下ヘロディウムを掘ってきましたが、墓は見つからない。だから、上を探してみることにしたのです」。ネツェルが狙いを定めたのは、東の塔からそう遠くない地点だった。壁の高さが不規則になっていることから、地下に何かあるのではないかと直観的に思ったのだ。
 ふもとの村の尖塔(ミナレット)から、イスラム教の礼拝の時刻を告げる声が流れてくる。発掘地点に上がると、ごつごつした丘の斜面にできた平らな場所に、石灰岩を積んだ高さ9メートルの壁が露出していた。石の切り口がまっすぐで、さっき積み終えたばかりのように表面が輝いている。

2007年春、この新たな場所で発掘を始めてから数カ月後、発掘チームは興味深いものを掘りあてた。それは淡紅色の硬い石灰岩で、美しい彫刻がほどこされている。その一つには、埋葬品によくある円花飾りがあった。発掘チームのベテランの一人、ロイ・ポラスは写真を撮り、「ひょっとして石棺?」と一言添えてネツェルに電子メールで送った。発掘現場を離れていたネツェルは、写真を見て胸を躍らせた。
 さらに4月27日、ポラスが地面を掘っているとき、何か大きくて硬いものに当たったような音がした。慎重に掘りだしていくと、メレケ(アラビア語で「王の」という意味)と呼ばれる白い石灰岩の巨大な積み石が三つ出てきた。
 「石材は一級品で、加工技術も高く、装飾も豊富でした。大規模な建築物の一部に違いない、大発見だと確信しました」。ポラスは、すぐさまネツェルに電話で知らせた。
 このときネツェルは、妻ドボラと車で移動中だった。「夫はごく冷静に応対していました」とドボラは語る。「石の様子についてポラスから話を聞き、これまでの出土品とは違うという意見で一致したようです。『よし、まちがいないだろう』。夫はそう言って電話を切りました。その途端に、両手を高く突きあげて『イェッシュ!』と叫んだのです。これは『あったぞ!』という意味の若者言葉です。あんな風に喜ぶ夫を見たのは初めてで、本当にびっくりしました」
 掘りあてたその建築物は、かつては高さ24メートルの巨大な記念建造物で、立方体の1階部分の上に円柱形の2階部分が乗り、教会の尖塔のようなとがった屋根があったのではないかと、ネツェルたちは考える。
 近くではさらに二つの石棺の断片が見つかった。最初のものにくらべて石の質は劣るが、優美な彫刻がほどこされている。なかには人骨も残っていた。もう、まちがいないだろう。ついにヘロデ王の墓を見つけたのだ。
 石棺に意図的な破壊の跡が残っていることから、ヘロデは死後も攻撃の的になっていたことがわかる。特に淡紅色の石棺はハンマーで打ち砕かれて、ばらばらになっていた。おそらくヘロデの死から約70年後、ローマ人の支配に耐えかねたユダヤ人が2度の反乱を起こし、ヘロディウムを占拠した際に破壊されたのだろう。「ユダヤ人からみたヘロデは、ローマへの協力者、つまりユダヤの信仰と政治的独立を踏みにじった裏切り者でした。これはただの略奪ではなく、復讐だったのです」
 ネツェルたちは、この大発見を2週間秘密にしていた。「事実をすべて明らかにするまで、公表には踏みきれませんでした。たいへんなニュースになることはわかっていましたから」

その予想は的中した。5月8日の記者会見で発表すると、すぐに政治問題が持ちあがった。エルサレム南部のユダヤ人居住地、グーシュ・エツヨン自治区のシャウル・ゴールドスタイン代表は、イスラエル軍放送のインタビューで、国の宗教史跡に指定すべきだと主張した。
 一方、パレスチナ側は、ユダヤ人がこの墓を根拠に領有権の主張を強めるのを警戒して、墓がヘロデ王のものであることに疑問を呈した。また、ヨルダン川西岸にあるヘロディウムの出土品をイスラエル領内に運ぶことに難色を示した。パレスチナのベツレヘム自治区のナビル・ハティブ代表は、米ワシントンポスト紙に「これはパレスチナ文化財の略奪だ」と語った。
 死後2000年たった今も、ヘロデは強大な政治力を発揮しているかのようだ。
現代に伝わるヘロデの志
 ヘロデが壮大な構想のもとに建設したヘロディウムも、王亡きあとは輝きを失った。ユダヤ王国の繁栄にも陰が差し、子孫は莫大な遺産を浪費するばかりで、宗教的・政治的な調和の維持にも無頓着だった。後を継いだ息子の無能さにしびれを切らしたローマ人は10年後、ユダヤ属州を総督に統治させることにした。
 多くのユダヤ人にとって、ローマ人はもはや異教徒の抑圧者でしかなかった。紀元60年代後半に起こった1回目の反乱では、ユダヤ人はヘロディウムとマサダの要塞にたてこもってローマ軍団に果敢に抵抗した。ヘロディウムではヘロデ王の墓を破壊し、豪華な食堂をシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)に変え、中庭にミクヴァという儀式用の沐浴場を二つつくった。
 ヘロディウムのユダヤ人は降伏したが、マサダの戦士たちは最後まで戦いをやめなかった。敗北が避けられないと悟ると、ローマの捕虜になって奴隷にされるよりも、集団自決する道を選んだという。130年代に起きた2回目の反乱でも、二つの要塞は反乱軍の拠点となった。
 ヘロデ王が再建したエルサレム神殿と共に、ヘロディウムとマサダは現代イスラエル人にとっても重要な場所だ。理想をかかげて戦った戦士たちの姿に、多くのイスラエル人は中東における自国の立場を重ねあわせる。第一神殿と第二神殿が破壊された史実をしのぶティシャーバブの日には、エルサレムではなくヘロディウムの丘の上で最初の祈りを捧げる者もいる。イスラエル軍将校は、任官時に「マサダを二度と陥落させない!」と誓いの言葉を述べる。
 しかし最近では、マサダの集団自決は狂信的で無意味な行動だったと考えるイスラエル人も増えてきている。「やみくもに戦って死ぬよりは、ローマ人と交渉すべきだったとの意見も多い」とネツェルは言う。ローマと手を組んだヘロデの行動は長きにわたって裏切りとされてきたが、そこに経世の志を感じとる人も出てきた。
 独立か協調か。純粋な信仰を守るのか、異文化を容認するのか。ヘロデの生涯が突きつける問題は、現代の私たちにも重く切実だ。
知りませんでした~! こんなにも詳しく知られていたんですねヘロデ王の事績って。

しかも、実にしたたかで優秀な豪腕政治家だったようです。同時に、類い稀な実行力をも兼ね備えていたみたいです。ふむふむ。スケールでかいね! 都庁のようなハリボテを作って喜んでいる方々とは器が違うようです。

しかし、こうした発掘作業に資金を提供するナショナル・ジオグラフィックって、やっぱりただもんじゃないですね。去年の「ユダの福音書」もそうですが、世界に多大なる影響を与えるプロジェクトへの投資は、日本では出来ないでしょう。なんだかんだ言ってもアメリカの凄さなんだろうなあ~。

お金への執着も凄いが、じゃないと投資へ資金回せないもんね。今後も世紀の大発見を大いに期待したいところです(笑顔)。


アメリカのナショナルジオグラフィックのサイトでは、更に動画や「ヘロデ王の失われた墓」というゲームまで提供されています。す、すげぇ~!! 

本家ナショナルジオグラフィックのサイト

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ラベル:考古学 雑誌 歴史
posted by alice-room at 21:22| Comment(1) | TrackBack(0) | 【ニュース記事B】 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちわ
ヘロデ王というと
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ruebens_massacre.jpg
こうした絵画を思い浮かべるくらいでしたが、
なんだが凄いですね。

それとこの部分なども
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パレスチナのベツレヘム自治区のナビル・ハティブ代表は、米ワシントンポスト紙に「これはパレスチナ文化財の略奪だ」と語った。
 死後2000年たった今も、ヘロデは強大な政治力を発揮しているかのようだ。
Posted by kwin at 2009年02月14日 11:23
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