


結界?石室上で柱穴が複数出土 奈良・桜井茶臼山古墳
【asahi.comより以下、転載】
大和政権初期の大王(おおきみ)の墓の可能性がある奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳(3世紀末~4世紀初め、全長200メートル)で、後円部から複数の柱穴跡が見つかった。県立橿原考古学研究所が12日発表した。被葬者を安置した石室の真上部分で、約150本の丸太で囲まれていたとみられる。
橿考研によると、古墳から木造構造物跡が出土したのは初めて。石室の神聖さを守る「結界」の役割や、死者を弔う祭礼の館の可能性があるという。
同古墳は1949~50年に発掘調査されたが、竪穴式石室の構築法などの解明を目指し約60年ぶりに今年1~3月に再調査した。後円部中央にあった「方形壇」と呼ばれる祭壇遺構(東西9.2メートル、南北11.7メートル、高さ約1メートル)の周囲98平方メートルを調べた。
方形壇の周囲4カ所から幅約1メートルの溝が見つかり、いずれにも丸太がすき間なく並んだとみられる柱穴(直径30センチ)が計10個あった。柱が埋め込まれた深さは1.3メートルで通常はこの2倍程度が地上に出るとされる。未発掘の部分も含め当時は、地上高2.6メートルの約150本の柱が「丸太垣」として、方形壇を四角に囲っていたらしい。
格式が高いとされる前方後円墳など定型化した古墳が出現する古墳時代以前では、弥生時代の墳丘墓上から柱穴が出土した例がある。
橿考研の寺沢薫・総務企画部長は「神聖な場所である埋葬施設を外部と遮断して結界し、邪気が入ってこないようにしたのだろう」と話す。現場は埋め戻され、現地説明会は予定されていない
【桜井茶臼山古墳】度肝抜く発見…被葬者は誰?
【MSNニュースより以下、転載】同じ事実に対してでも、新聞社によりずいぶんと違った内容の記事になっています。
石室を囲む「玉垣跡」が全国で初めて見つかった桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)。大王クラスの大型古墳の発掘例は極めて少なく、60年ぶりの再調査は研究者の度肝を抜く発見に結びついた。「被葬者の魂を守る施設」「たたりを恐れて権力者の霊を封じ込めた」。前代未聞の発掘成果に、研究者も興奮を隠さない。聖なる白木に囲まれて眠りについた被葬者へ、ロマンは尽きない。
「垣の内側には、被葬者の魂が住むための木製のミニチュアの家などが並んでいたのではないか」と推測するのは和田晴吾・立命館大教授(考古学)。外部世界と隔絶するための玉垣説を唱える。
「玉垣ではなく、建物跡だ」と主張するのは石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)。古代中国の皇帝陵の墳丘上に建物が設けられた例を挙げ、「被葬者の魂が宿るための建物を設け、中国の制度を積極的に取り入れたのだろう」。
一方、平安時代の法律注釈書「令集解(りょうのしゅうげ)」には『倭の五王の一人、雄略天皇が亡くなった際、魂が暴れ出したため儀式を行って鎮(しず)めた』との記載があることを指摘する和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は「柱列には、死者の魂が暴れ出さないよう鎮める役割があったかもしれない」と指摘する。
調査担当の岡林孝作総括学芸員も「柱をすき間なく立てたのは、被葬者の魂を内部に封じ込めようとした証し。当時の人たちが、亡き首長の霊力に対し、いかに恐れおののいていたかが見えてくる」と話す。
それほど強大な力を誇った被葬者はいったい誰だったのか。
奈良盆地東南部には、桜井茶臼山古墳をはじめ邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説が根強い箸墓古墳(同市、全長280メートル)や崇神天皇陵(同県天理市、同242メートル)など、200メートルを超す巨大古墳が6基あり、いずれも大王クラスの墓ともいわれる。
そのなかで、桜井茶臼山古墳は箸墓古墳などから南に約4キロ離れ、大王説に否定的な見解も。塚口義信・堺女子短大名誉学長(日本古代史)は、崇神天皇が全国に派遣した「四道将軍」のうち北陸を担当した大彦命(おおびこのみこと)を挙げ、「天皇伝承がない桜井茶臼山古墳は、大王に近い有力者の墓と考えるべきだ」と話した。
元々は日経新聞の朝刊でこの発見を知り、後で読もうと切り抜いて記事なんだけど、比較してみると大変面白い。日経はその性格からして淡々と事実と、そこから考えられる可能性を控えめにあくまでも推測と明示しつつ記事を書いていて、朝日新聞もそれに近い。
読売新聞に至っては、なんかだいぶ煽っている系で面白おかしく書いてますね。垣根を聖域の結界とみる視点から、さらに進んで死者の封じ込めとなると・・・だいぶ穏やかではないですね。
ここから数歩進むと、推理小説作家の妄想に基づく、よくある系の歴史もどき小説に発展します(ワクワク)。俗物の私は結構好きだけど、まあ、トンデモ系にならなければOKですネ(笑)。
来月、奈良の桜井市も行く予定なんで、なんかワクワクしちゃいます。