
実は、一番最初に作ったサイトがこの「鬼鎮神社(きじんじんじゃ)」に関するものだったりする。もう何年前か分からないほど昔のことだけど…。地方新聞社から取材の申込みを受けたことがあったり、稚拙な割に思い出もあったのだが、パスワードも忘れ、メールアドレスも解約し、いじれなくなっている。それにもかかわらず未だに表示されていてなんか嫌だったりもする。
節分が過ぎてしまったけど、たまたま思い出したのでそこからデータを移しておこう(パクってません。自分のだもん…笑)。本当は、どこかの節分に行ってブログに書きたかっただが、仕事が忙しくて帰宅が夜の11時ではさすがにどこにも行けない(涙)。

<祭神について>~「埼玉大百科事典 第2巻」埼玉新聞社刊~
創建は鎌倉時代寿永元年(1182)10月。
畠山重忠が菅谷館を築造したときに、城門大手の東北、すなわち艮(うしとら)の方角に厄除け守護として祭ったものと伝えられ、古くは鬼神社と呼ばれた。
祭神は衝立船戸神(つきたつくなどのかみ=道祖神の発展したもの、イザナギノミコトが悪魔を打ち払った杖の事)と八街比古命(やちまたのひこのみこと)。
戦時中は武運長久を祈る人々で賑わい、念願がかなった人の奉納した金棒が奉納されている。戦時中、金棒は大量に供出された。当社に祈願すると必ず勝つということで多数の金棒が奉納された為。


<由緒>~「嵐山町史」嵐山町刊~
鬼鎮様
むかし、川島に刀をつくる鍛冶屋さんが住んでいた。朝から晩までトンテンカン、トンテンカンと、一心につくっていた。ある日、若い男が鍛冶屋を尋ねて来た。「わし、刀が作りたい。教えてください。」と頼んだ。鍛冶屋も忙しかったので「よし、よし」と許した。
若い男は、とても熱心で、休みの時間も、また夜もろくに寝ないで、刀造りに精を出すようになった。鍛冶屋の家には、美しい女の子がいた。若い男は、主人に娘を嫁にくださいと頼んだ。主人は、少し考えて「それでは、刀を一晩に100本作れたら、嫁にやろう。」と答えた。
若い男は、喜んで種々準備し、約束の夜を待った。夜になったので、若者は槌を振り上げ、トンテンカン、トンテンカンと刀をうちはじめた。みるみるうちに、三本五本と出来てくる。夜も遅くなった。主人は心配して、そっと刀を作るところを覗いた。出来た。出来た。今うったばかりの刀が山と積まれた。
しかし、その時、主人は刀をつくっている若い男をじっくり見た。何と、その男はいつもの男ではない。まるで鬼だ。トンテンカン、トンテンカンとうつ様も、火花を散らしてあたり一面が火の海だ。鋭い目、頭には角まで生えている。手は次々に出来た刀を積んでいく。
主人はアッと驚いて飛び出した。あの男に、可愛い娘をくれられるものか。それには鶏を鳴かせて、早く夜が明けなくては、と考え、大急ぎで鶏小屋へ走った。コケコッコー、コケコッコーと鶏が鳴いた。
主人は、また覗きに行った。鬼になった男は。まだまだ刀をうっている。けれども、そのうちに東の空が明るくなって夜が明けた。刀は99本出来ていた。鬼の男は槌を握ったまま倒れ、死んでしまった。主人は、なくなった男を哀れに思い抱き上げて外へ出た。男の亡き骸は神主を頼んで庭の隅へ埋め、そこに鬼鎮様というお宮をつくっておまつりした。

<節分祭について>~「埼玉ふるさとシリーズ3」~
節分は本来、四季の変わり目の前日を指す名称でこの夜はトシコシとかトシノヨと呼ばれ、正月の年越しと同様。
年越祭り(節分祭)2月3日午後3時頃 社殿と特設舞台で行う。定刻になると赤鬼と青鬼の面をつけた二人の者が参道から社殿に向かって入って来る。二人とも白装束で右手で金棒をついている。その後に町内の功労者や世話人、氏子代表など30人余りが続く。これらの人々が年男役をつとめる。以前には芸能人、力士などを招き華やかな豆まきを行っていた。
社殿から続く特設舞台には紅白の綱のかかった桶や籠が用意され、いよいよ豆まきとなり、参道を渡ってきた年男たちは鬼を中心として舞台に登る。
最初に赤鬼、青鬼装束の氏子(年男)が「福は内、鬼は内、悪魔は外」と叫びながら、舞台から福豆を参拝者にぶつける。ここでは鬼は神の使者であり、参拝者の悪魔を追い払うとされているからで、昔から諸国の鬼たちが鬼鎮様の祭神の許しを得て逃げて来るとさえ伝えられるので、決して「鬼は外」とはいわない。
年男によって舞台から投げられるのは福豆だけでなく、用意された桶・籠のなかから丸い小餅・みかん・菓子や紙袋にいれた福銭なども子供たちのため投げられる。豆まきは最高潮に達し、参拝者は押し合いながら、これらのものを競って拾い合う。
夕方まで境内で賑やかに展開された豆まきが終ると、参拝者は社務所から赤鬼、青鬼が金棒を持った絵がかかっている絵馬を受け、家路へ急ぐ。
家に帰ると、絵馬は盗難除けに家の門口につるし、神社で拾ってきた福豆と自宅で用意した豆をいっしょにし、家内安全、無病息災を祈って再び豆まきをする。この時にも「福は内、鬼は内、悪魔は外」と唱える。

<資料1>~「埼玉大百科事典 第2巻」埼玉新聞社刊~
「新篇武蔵風土記稿」広野村の項では 「鬼神明神社」
埼玉叢書巻六 「鬼神宮別当に関する訴訟」
鬼鎮神社と呼んだのは明治三十年代以後の事
薬師堂 広野広正寺持、本尊は薬師を安置す。一時荒廃したが昭和五十四年(1979)再興。

<資料2>~「日本民族大辞典 上」吉川弘文館~
節分の夜には、豆占が行われる
豆を囲炉裏の灰に12粒並べ、その焼け具合で1年の各月の天候を予想す
る。新しい年のことを予想することから。節分の夜は年末とするという考えが
うかがえる。豆は神に供える供物であったためと考えられる。
<資料3>
追難:
12月晦日の大祓いについで行われ、悪鬼を祓い、悪霊を退け、疫病を除く儀式。オニヤライ、ナヤライともいう。
平安時代初期の儀式は、群臣が中庭に立ち、大舎人の中から身体の大きな者が方相氏(ほうそうし)に扮し、方相氏は熊の皮をかぶり、四ツ目の黄金の目の仮面をつけ、黒衣に朱の裳を着て鉾と盾を持ち、紺の衣に朱の鉢巻き姿の童子二十人を引き連れて鉾で盾を三度うち、群臣は桃弓・葦矢で鬼を追いやるものであった。本来鬼は登場しないが、平安末期になると方相氏が
悪鬼と考えられるようになり、群臣が方相氏を射るようになった。

鬼鎮神社のすぐ近くにある鬼鎮沼。ここは放生池(仏教でよくある魚を放して、自由にしてあげることで功徳を積む)みたいになっており、50cmを越える鯉もたくさんいるが釣ったら逃がしてあげなかればならないと聞いたことがある。子供の頃から何度と無く釣りに行き、沼海老をとったり、ザリガニや鮒や鯉を釣ったが逃がした記憶はなかったりする(オイオイ)。見つかると怒られると噂だけは聞いていたが、事実はどうだったのだろうか? 未だに謎である。
余談ではあるがここは鬼を祀った珍しい神社であると共に文字通り、鬼門封じが本来の役目である。そして、その鬼門封じは菅谷城の鬼門であったりする。この辺りには、旧鎌倉街道もあり、木曽義仲が産湯をつかったとされる鎌形八幡の清水もある。また、この神社のある埼玉県比企郡の「比企」とは鎌倉幕府の有力御家人であった比企能員からきていたりする。
しかも創建は安徳天皇の時代である。察しのいい方にはピンとくるだろうが、檀ノ浦の闘いで平家一門が破れ、当時3歳であった幼子の安徳天皇が抱きかかえられて海に飛び込むことになった時である(この時に三種の神器が失われたのはご存知の通り)。単なる鬼門封じであるのか? 源氏による平氏の封じ込めとまでみるのは、考え過ぎであろうか??? 個人的には、結構興味を持っていたりもする。
この辺りには、他にも面白い地名が多々残っている。滑川という川が流れているが、これは鎌倉にも流れている川と同名である。教科書に載っていて、覚えのある方もいるかもしれないが、男衾三郎も実はこの神社からさほど遠くは無いところにいたようで、男衾という地名と駅もある。
更に、歴史を遡ると坂上田村磨(最初の征夷大将軍)が蝦夷征伐にこの地を通り、それにちなんで将軍沢という地名も残されている。まさに「まつろわぬ民」に関わってきそうな話だ。
また「まつろわぬ民(中央政府に従わぬ地方の独自勢力)」に土蜘蛛が有名であるが、彼らの棲家にふさわしいような洞窟遺跡が吉見百穴として残されてもいる。暇つぶしに散策するだけでも歴史を踏みしめる実感を覚えることができるだろう。実は他にも面白いことがあるのだが、余りにも長いので今回はこの辺で止めておこう。
っていうか、もう夜中の3時だし、眠いし本も読まなきゃだし…。
関連サイト
特集 鬼に願いを
Yahoo地域情報 鬼鎮神社 節分祭
観光スポット案内(鬼鎮神社の節分祭)
Wikipedia 節分 ここにも鬼鎮神社が出てます
比企能員 wikipedia
吉見百穴
鎌形八幡
源氏に絡めて見るのも悪くないと
私も浅学ながら感じました。
歴史を陰謀史観でみたがる、俗物の私です(苦笑)。
そのうち是非一度訪ねて見たいものです。
吉見百穴も又入って見たいかも。。
恥ずかしながら、この神社のことは知りませんでした。
基本的にフィールドワークが嫌いな僕は、あまり何処にも出かけません。こちらにも、車で30分くらいのところに酒呑童子にまつわる寺があるのですが、ブログネタに使えると思いながらも、一年経っても行っていません。(苦笑)
lapisさん>私は一時、鬼系の話にはまり、そういったサイトに何度かお邪魔したりカキコしていたりしたこともあります(実は単なる暇な人かも?)。
こういう寺社仏閣って面白いですよね。京都や奈良では、朽ち果てた廃寺が実は千年以上の歴史があったりということが普通にあるので、よく行くとあちこちぶらついてます。普段は暇なんで自宅近辺をうろうろしておりますが…。
酒呑童子にまつわる寺、おおっとなんかそそられますね。そのうち期待しています。数年後でOKですので気長にお待ちしておりますね(ニヤリ)。
うちからはちょっと距離がありますが、高麗(こま)神社とかいうのもあります
http://www4.ocn.ne.jp/~fkoma/
名称の通り、渡来人の子孫の方が作ったものでしょう。まさに古事記の世界です。当時の最新の知識と技術を持った人々が戦乱を避けて渡ってきたわけで、調べると何か面白いことが出てきそうですよね。そのうち、行こうかと思いつつ、私も10年経ってます(オイオイ)。
鬼神神社の詳しいお話ありがとう御座います、
我が家は三人の受験祈願に・今年は孫の受験で伺いました。先代の宮司さんの時から、長女の時は30センチ位の金棒を貸してくれました。
お陰様で4人とも合格しました、その内お礼参りに伺うつもりです。
吉見の百穴には光るコケがありましたね、大分前に行きましたが、ありがとう御座いました。
吉見のひかり苔、うっすらとしか分からないですが、私も見た覚えがあります。でも、もうほとんど覚えていなかったりします。改めて思うと、いろいろと楽しめるところだったかもしれませんね。こちらこそ、どうも有り難うございました。