しかし、本書を通じて初めて理解できたことも多かったです。私のようなキリスト教門外漢にはなかなか得る所の多い本です。そもそもキリスト教的な正統と異端ですが、何が違うと思いますか?
カトリック教会の本質は客観的制度にあり、客観的に存在する歴史上の教会が、その聖職者の位階的秩序ともども神の人類救済の為の恩寵の施設なんだそうです。これに対し、異端の教会は自覚した成員の自由意思による共同体であることを特徴とし、それは成員を離れて客観的な価値を持たないんだそうです。
これって凄くないですか! 私流に噛み砕いて言うと、カトリックは要は教会に来ているだけ
の形式さえあればOKで、心は二の次ってことでしょう。勿論、極論ではありますがちょっと驚きません? 異端はあくまでも個々人の内心が重要視されていて、教会の形に囚われないわけです。
そりゃ、カトリックが必至になって異端を敵視するのも分かりますよね。ふむふむと、ど素人が勝手に納得。そこから、名称だけはよく聞く幼児洗礼の問題が出てくるわけです。自由意思の確立していない幼児に洗礼を受けさせることの問題ですね。一面的に言うと、カトリックは形式があればいいのでOKなのですが、異端側からすると自由意思のない洗礼なんて意味ないジャン!って訳です。ようやく、この問題の意味が分かってきました。
あとね、あとね。面白いなあ~っと思ったのは、聖職売買に関すること。金で聖職を買った瀆聖聖職者が行った秘蹟が有効か否かという論争なんですが、カトリックの神学理論上では、客観主義の原則から、それを行う人の徳性にたとえ問題があっても、あくまでも神の道具として代行しているのに過ぎないので問題ないとするんです。つまり、品性下劣な司祭だろうが、やっている本人は問題じゃないんでOKなんですよ~。物凄い徹底ぶりですね。
もっともこの背景には皇帝派と教皇派で割れていた時代であり、皇帝派の聖職者の行った過去の秘蹟全て(洗礼や叙品)を無効にしたら、ひどい混乱が生じるので現実問題としてそんなことできないという切実な側面もあったそうです。なんだかねぇ~。
もっともグレゴリウス改革では、この聖職売買等の腐敗を一掃しようとする情熱の余り、この客観主義を逸脱し、神学的な矛盾を内在したまま、瀆聖聖職者の秘蹟を無効にしようともしたりするのですが…、まあ大変だったりします。
その他にも、今の感覚からするとどうしていけないのか不思議に思うような説教の禁止も当然のこととされていたようです。だからこそ、一番熱心であった人々が使徒的清貧を推進し、広く説教活動をする、それがもう異端だったりするわけです。しばしば名を聞くワルド派なども口語訳の聖書を作ったり、説教したりと熱心に宗教的情熱のままに行動した為に異端とされ、迫害されたりしたわけです。
本書を読むと、何故そんな理不尽なことがなされていたのか?カトリック側からの論理が見えてきてとっても勉強になります。
以前見て、私の中では非常に強く印象に残っている映画「スティグマータ」で、聖痕(せいこん、スティグマータ)を受けて神の言葉を伝えようとする者を司教が神の国を脅かすものとして殺そうとするシーンが目に浮かびます。
「私の教会、私の神の国を脅かすこの悪魔め!」
まさに、これは真実だったんですね。最初は映画故の誇張した台詞だと思っていたのですが、これが真実を表していることを知り、ちょっとショックを受けました。
逆にそこで語られる台詞も強烈です「教会とはなんだ、単なる建物でしかない。そんなところに神はいない。神は常に存在し、どこにでも存在する」
やばいです、映画でありながら結構感動しちゃいましたが、これって異端の主張そのものじゃないですか。う~む。プロテスタントをカトリックが血眼になって、争うのもまさにコレなんでしょうね。いろんなバラバラの知識が、この本を読んでようやく有機的に結びついたカンジです。いやあ~良かった&良かった(笑顔)。
きっと、ご存知の方には当たり前なんでしょうが、全然意味が分からなかったのでちょっと賢くなった気がします♪
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関連ブログ
スティグマータ 聖痕 <特別編>(1999年)
「異端カタリ派」フェルナン・ニール 白水社
>さえあればOKで、心は二の次ってことでしょう。
驚きません。世間なんてそんなもの。
キリスト教だけが崇高なものであるはずなし。
歴代のキリスト教徒の罪業を見れば
とっくに分かってることです
もっともこれは、法的安定性と個別事案における法的妥当性とか、類似のものは、どこにもでもあるんですけどね。
見方次第で、大変興味深いものがあると私的には思っています。