この本で描かれている美術は、技巧的に珍しいとか美術史上において高い評価を得ているとかいう次元で採り上げられているのではなく、あくまでもその美術を生み出した人々がどのような生活をし、どのような思いからそれを描き出し、それと共にあったのか。それを可能な限り、理解しようと勤めた試みを描いている。
実際に著者はその秘境といわれる地に向かい、そのカッパドキアなどの遺跡の中で壁画に向かってそれを体感しようとする。或いは、中世以来全く変わらない生活を続ける修道士達が住むアトス山に入り、修道院での生活を経験したりもしている。写真や記述された資料に頼るだけでなく、自らをその場に実際に置くことでその秘境における美術の存在自体に迫ろうとする姿勢には、何よりも説得力がある。うわっつらの理解ではない、本物の美術に対する情熱がつまっています。
著者が本文中で語っていることで特にう~んと唸らされたことは、「自分の目から見れば、およそ上手いともいえず、生き生きとした躍動感にも欠けた、単に様式に従って描かれただけの壁画の宗教画でしかない。しかし、一人の修道士がその絵に向かって飽かず眺め、その絵に口づけして祈る姿をみて自分の理解の仕方が学問的ではあっても宗教的な理解でない。」ことを愕然と悟るのが衝撃的でした。
宗教画において描かれている絵が上手いか下手かというのは、本来問題ではなく、あくまでもそこに描かれているものは、たかだか平面の存在でしかなく、大切なのはそれらを超越した聖なる存在であり、あくまでもそれを敬う為に聖なる存在に至るきっかけ程度のものでしかないわけです。
まあ、これは本書でも偶像崇拝の否定論・肯定論にも触れて書かれていますが、どちらにせよ、最も大切なのは表面的に目に見えるモノではなく、あくまでもその背後にある聖なる存在
こそが宗教画の本質であることを改めて理解し、自らの学問的な美術理解の限界を認識する。そのうえで著者が研究を進めていこうとする姿勢がとてもイイ! 感動物です。
そういった意味で美術を捉える根本を考えさせられました。まずは、自分の率直な感動、それを基点に徐々に興味が湧いた範囲で調べたり考えたりしていくしかないかなあ~と私なんかは一人で勝手に思ったりしました。まあ、基本は何事でも大切ですが、偏見に曇るのは避けたいしなあ~。その兼ね合いが難しそう。
これって旅行で史跡・旧跡などを回る時にも感じる複雑な感情です。ある程度は調べておいた方が対象物に対して関心が増し、同じものを見てもインパクトや感動が変わってくるのですが、中途半端な解説などを読んでしまうと勝手なイメージを自分の中で作り上げてしまい、まっさらな気持ちで目前のものを自分自身の感覚で捉えられなくなってしまうのも怖い…。
そんなわけで現在の私がよくやるのは、一つの場所を何日か或いは何度か行ってみたりします。最初はあまり知識を入れずに、その場所に行って気分の赴くままに適当に見て回ります。そして、その場所でのんびりと座っておもむろにその場所・建物・絵画に関する本を読み始めます。先ほど見て感じた思いを再現しながら、情報を集め、自分の中で理解が深まってからおもむろにまた同じ場所を回ったりします。
これを時間が無い時は、同じ日の午前と午後に。もっと時間があれば、もう一度別な日にその場所を訪れてあれこれ考えたり、本を見ながら実物を見ることでようやくなんか自分のモノにした気がしたりします。そこまでしないと、どうも自分のモノにならないんだよねぇ~。そこまでしないと、人様のものをただ見ただけのような気分でつまんない。逆にそこまでやると、結構、自分のもの的な感覚が芽生えていいカンジになったりします。ラファエロの聖母子なんか、連日通ったし、1回見終わってから戻るのを5、6回は最低でも繰り返したもんね。プラハ城も午前と午後に回るのは4日以上繰り返したから、結構知ったかぶりですもん(笑顔)。
勿論、アルハンブラ宮殿も連チャンです、ハイ!
とまあ、いろいろと思うことはありますが、美術について考えさえてくれる一冊でした。いい本だと思うけど、普通の美術関係の本を求める方向きではないかもしれません。
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