2009年12月07日

ストラスブール~読書メモ

「ストラスブール」宇京頼三 未知谷を読んだ時に、なるほど~と思ったものを抜き書きメモ。
ヴィクトル・ユゴー「ノートルダム・ド・パリ」で「中世においては、建築物が完全に出来上がったというときには、地上にある部分とほとんど同じだけのものが地下にあった・・・教会、宮殿、城塞はいずれも半身を地下に埋めている」P45
オペラ座の怪人も地下の水路を使ってましたね。あの場面を彷彿とさせます。パリのオペラ・ガルニエの地下には、実際、地下水の湖があるそうですし・・・ね。
「こどもの井戸」とコウノトリ伝説 P47

むかしむかし、子供たちに次のような話が語りつがれた。弟や妹が欲しかったら、窓際に砂糖をひとかけら置いて、コウノトリに願い事をすればよい。そうすると、コウノトリが現われて、大聖堂の地下の湖に子供を探しに行ってくれる。そこには、ストラスブールで生まれることになる、あらゆる子供たちがうじゃうじゃしている。

白いあごひげのこびとの地の精がいて湖をまもり、アルザスの夫婦の願いを記録しており、しかるべき日にコウノトリに子供を渡すと、その家に届けるのだ。

この地下の湖に直接通じているとされたのが「こどもの井戸kindelsbrunnen」と呼ばれた井戸である。

この井戸にはまた別な言い伝えもある。これは、古代ケルトのトリボック族が崇めていた、聖なる森の三本の樫の木の時代にすでに知られていた深い泉に源を発する。

泉は異教の時代、熱烈に崇拝されていたので、ローマ教会がこれを聖別化した。以後、この井戸は初期キリスト教徒の洗礼に使われた。五世紀に、司教サン・レミはそこでフランク族の王クローヴィスに洗礼を施したと伝えられている。後にこれは、アルザスの多くの司祭がここに洗礼に必要な水を取りに来たので、「こどもの井戸」と呼ばれるようになった。

この井戸があったとされる同じ場所に、ストラスブール大聖堂の基礎が築かれるのは、これよりもずっと後の1015年である。

一説によると、むかし、この井戸は聖堂内の南側廊の辺りにあり、十七世紀末、ときの司教が儀式の行列行進の邪魔になるとして、井戸の縁石壊し、撤去させたとされる。その位置は今でも認められるというが、この井戸から前述のような伝説が生まれたのである。
これも実に興味深いです。本書の中でもシャルトル大聖堂の聖なる泉について言及されていますが、まさに同種の発想になるモノですね。

あのクローヴィスの洗礼がここのストラスブールだったというのは、初耳で何かに絡んできそうで気になります。
「鼠の塔」の伝説(ヴィクトル・ユゴー「ライン河」)P65

マインツに強欲な大司教で大修道院長がいた。凶作の年には、この大司教は小麦を買い占めておいて一儲けしようとした。ある年大飢饉になり、領民たちは泣きながらパンを求めたが、大司教は頑として応じなかった。

飢えた領民たちが大司教の宮殿を取り囲むと、この強突く張りは領民たちを穀物倉の中に閉じ込めて、倉に火をかけた。「石も泣き出すような光景」の中で、領民たちが断末魔のような叫び声をあげても、大司教は「鼠がちゅうちゅう鳴いているのかな?」とうそぶくだけだった。

翌日になると、穀物倉の中から鼠が雲霞のごとくわき出て、町のありとあらゆる建物をはいずり回った。仰天した大司教はビンゲンの町に逃げ込んだが、鼠はどこまでも追いかけてきた。そこでライン河の中に塔を建てさせて、そこにたてこもったが、鼠どもは河を渡ってなおも追ってきて、地下牢に隠れた大司教をいきてままむさぼり食ってしまったという。
こういう凄みのある伝承って好きだったりする♪ グリム童話の残酷さにまけないぜぃ~(笑顔)。
ステンドグラスの色ー「青の出現」P179

エジプト人を除いて、古代人はこの色(青色)を無視しており、ローマ人は青を蛮族、例えばゲルマン人が好む色としていた。女性にとって、青い目はいかがわしい女のしるしであり、男には滑稽さの表れであるとされたのだ。

これは青という言葉の語彙にも反映されており、古典ラテン語では青の語義は不安定・不正確であr、ロマンス諸語が語源としたのはゲルマン語のblauかアラビア語のazraqであるという。19世紀のある文献学者たちは、ギリシア人は青色を見分ける事ができなかったと、まじめに信じていたそうである。

ところが、12-13世紀になると大きな変化が起こる。これも前述したが、人心の変化、とりわけ宗教観のうえで決定的な変化が起こり、 キリスト教徒の神は光の神となる。そして、光とは・・・天の青なのである。西欧ではじめて天が青色で描かれたのである。それまでは天は黒か赤か、白か金色であった。しかも、ときは聖母マリア信仰が盛んであり、天にまします聖母が黒ではなく青いベール、青いローブ姿で思い描かれたのである。
これは恥ずかしながら、知りませんでした。青が高価である、聖なる色であることは知っていましたが、光の形而上学の反射的効果とでもいうべき、空の青だったとは・・・うかつだ! これだけでも私には十分に読む価値ありました。
「むかしむかし、聖なる森に三本の樫の木と泉があった・・・」 P252

伝承によると、ストラスブール大聖堂はイル川の支流に挟まれた小高い地にある、異郷の神々に捧げられた、2000年以上も前に遡る信仰の場があったところに建てられた。そこには、漁師が住んでいたが、生い茂った小さな聖なる森(Heiliger Hain)が広がり、神秘のざわめきに満ちていた。

堂々たる三本の樫の巨木が中心にあって、その根元には円卓のような原始的な祭壇が置かれ、戦の神(krutzmanna=keirgsmann)に捧げられた生贄や供物が供えられた。白衣のドルイド僧が聖なるヤドリギの枝を手にして、祭式を執り行った。祭壇の横には、清らかな泉が流れ、その周りに井戸があって血を好む軍神の生贄にされた動物や人間を洗うのに使われていたという。

トリボック(Tribogques)族というケルトの古名は、三本の樫を想起させるが、これは聖なるものは自然に宿るとされた、一種のアミニズムにおける聖樹信仰である。ケルト民族のドルイド教では、この聖樹(樫、ブナ、ヤドリギなど、いずれも常緑樹)、聖水(泉、湖、川)や巨石(メンヒルとかドルメン)が象徴的に崇拝された。彼等は風で三本の樫が大きく揺れざわめくたびに 、地にひれ伏して戦の神に祈ったという。

ローマ時代になると、この三本の樫は切り倒され、ローマ人はそこに彼らの軍神マルスを祀った広大な寺院を建てた。支配民族は変われども崇拝するのはつねに戦いの神なのだ。その歴史に顕著に表れるストラスブールの軍事的宿命は、すでにこの有史以前の時期に始まっていたわけである。

時代が下がり、アルザスがキリスト教化されると、この聖地は信仰の場に変わる。キリスト教の黎明期、南からきたアルザスの使徒とされる聖マテルヌスが軍神像に代えて十字架を建てた。ある伝承によると、ローマ人の寺院はそのままキリスト教信仰に使われていたが、次第に崩れていき、聖アマンドゥスによってストラスブールに司教座が置かれるとともに、そこに最初のキリスト教会堂が建てられた。

五世紀に蛮族の侵攻によって破壊されたが、後にクローヴィス、ダゴベール、ルードルフ・フォン・ハプスブルクなど諸王のおかげで再建された。アルザスの初期キリスト教徒の間では、これが”クローヴィスの教会”となり、中に聖泉とか戦の神の井戸と称される泉があり、後にキリスト教の洗礼堂になった。フランク王クローヴィスはこの井戸の水によって、聖レミから洗礼を受け、キリスト教に改宗したのである。

以後、これも前述したようにアルザスの司祭はこの井戸の水を使って信徒を洗礼し、16世紀の宗教改革によって禁止されるまでは秘跡に使っていた。この井戸は南側廊の中央柱の前にあり、深さ34ピエ(約100m)あった。なお、この井戸水は教会の外にある通称”魚のいる泉”でも取られ、イル川の方に流れ出ていて、ノートルダム事業財団の石工たちにも使われたという。
三女神かと、3人の乙女とかいうのに繋がるお話ですね。ふむふむ。
井戸伝説余話 P253
17世紀末、あるフランス人兵士が「こどもの井戸」に落ちて溺死した話である。

この兵士は、地下の湖に通じる深い井戸に怯えた人々の前で、井戸の底に降りていって、戻ってきてみせると豪語していた。伝説によると最初、兵士は高笑いして”船で散歩しているよ・・・今まで見たこともないようなものが見える・・・” と、井戸底から叫び伝えていたが、そのうち教父におののき震えた声で助けを求める絶叫が聞こえきた。

それは、地上の教会前のシャトー広場のあちこちで、下からうなり声のように上がってきたという。どんな助けも無駄で、やがて兵士の声は途絶えてしまった。

二日目の晩、大聖堂の僧と番人たちは、”神かけて言うが、なんびとも私がしたようなことをしないように、この井戸をふさいでしまえ”という声を聞いた。司祭が祈りを唱え、すぐさま井戸はふさがれた。夜、大聖堂のそばを通りかかると、いつも聞こえてくるのは無謀な若者の声だった。

実際に井戸がふさがれたのは、18世紀末、ミサの時の聖行進の邪魔になるからであった。なお、こうした「聖なる井戸」がほとんどの中世のゴシック教会にあったが、前述したシャルトルの地下聖堂の、4世紀に遡るという「サン・フォールの井戸」ははじめ、万病に効く癒しの効用のために崇拝されていた。だが、ストラスブール大聖堂の井戸は洗礼とか秘跡に使われていたのである。
ほらほら、シャルトル出てきたし・・・。ただ、こちらは洗礼用らしい。
クローヴィス王のキリスト教受洗と聖母崇拝の大聖堂に捧げられた最初の寄進 P254

異教徒のクローヴィス王は、トルビアックの戦いで勝利した暁には、キリスト教に改宗すると、キリスト教徒である妃のクロティルド女王に約束していた。戦勝後、ストラスブールにきてアレマン族の王宮殿に居を定めると、約束どおりに改宗した。そして、六世紀初め、クローヴィスはマルスの神殿を倒すと、はじめてのキリスト教の寺院を”フランク族”方式で建立させ、多くの宝物を寄進した。

8世紀半ば、ピピン三世がストラスブールにきて、司祭礼拝室の上に石造の内陣を建設するよう命じ、息子のカール大帝によって完成された。後者も多くの聖遺物や金銀細工品、宝石類を寄進した。

敬虔王ルートヴィヒの頃(9世紀)から、初期ストラスブール大聖堂はライン流域の他の宗教寺院を圧倒していたといわれ、天使や聖人、聖母マリアが頻繁に訪れ、そのたびに数々の奇跡が起こったという。
天使の柱の不思議 P262

天使の柱はその基部に四人の福音史家、中央に喇叭を吹く四人の天使で飾られており、さらにその上に、四人の天使像が見下ろしている。ひとりは十字架を、もう一人は王冠を手にしている。

ところが、もとは、この柱には彫像も飾りも無く、滑らかなままの石肌だった。ある日、サタンが大旋風を起こして現れ、柱を倒そうとしてその周りに一陣の風を巻き起こした。

だが、聖母マリアがこれを見守っており、柱に一連の彫像を出現させた。すると、サタンはあわてふためき、お急ぎで立ち去った。まさに悪魔よけである。

それ以来、大聖堂の奥ではいつも一陣の風が吹きぬけることがあるという。サタンがしつこく現れ、天使の柱を倒そうとしているのだ!

これにはもう一つの逸話がある。むかし、悪魔が風にまたがって空を飛んでいた。すると、大聖堂に自分の肖像が彫られているのに気づいた。自尊心をくすぐられ、好奇心にかられて悪魔は中に入って、他にも自分の彫像があるかどうか見たくなった。

ところが、聖なる場で囚われの身となって出られなくなってしまった。風は教会の前庭でずっと待っており、今でも大聖堂の周りの広場を苛立って吹きまくっている。悪魔も激怒して、教会奥の天使の柱の上で一陣の風を巻き起こしているという。
この辺もお約束のようにありがちではあるものの、なんとなく好きなんだよねぇ~。

法隆寺とかでも天邪鬼を踏みつける像があったりしたが、基本はあの路線ですね。やはりこういう伝承とか好きなんだよねぇ~。黄金伝説や今昔物語と同じような面白さを感じちゃうなあ~(笑顔)。

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「シャルトル大聖堂」馬杉 宗夫 八坂書房
「図説 ケルトの歴史」鶴岡 真弓,村松 一男 河出書房新社
「色で読む中世ヨーロッパ」徳井淑子 講談社
ゴシックのガラス絵 柳宗玄~「SD4」1965年4月より抜粋
posted by alice-room at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録B】 | 更新情報をチェックする
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