出典は昨日読んだ「中世の巡礼者たち」。
エクスからフレジェスへ向かうローマ街道沿いに横たわったこのかなり大きい町においてずいぶん以前から、ボーム――この南側地平線を突出した山脈が閉ざし、入り日に赤く燃えるところ――の洞窟から下りてきたマグダラのマリアは、この地の地下聖堂にねむっているのだという言い伝えがひろまっていた。フ・フレネの巣窟を出てうろつきまわっていたサラセン人の驚異も、この言い伝えを一時抑えはしたものの、消し去ることはなかった。
1279年、聖ルイの甥、シャルル・ド・サレルヌが急に、プロヴァンス伯領へ呼ばれ、地下聖堂の石棺を開くことになった。一体の死体が発見され、聖女の遺体であることは疑いないとされた。ただ、悪口を言う連中だけが、これは故意に持ち込まれたものであった、ヴェズレーの名声をおとして、北方のこの聖なる丘に押し寄せていた巡礼者の大波をプロヴァンスの方へ向けかえようとはかった陰謀なのだと言い張った。
作戦は、完全な成功をおさめた。1458年、教皇ピウス2世は聖地ヴェズレーの衰退と、献金額の減少とを認めねばならなくなる。これに反し、サン=マクシマンでは、ことは首尾良く運び、1280年には厳かに聖女の遺体の移葬も行われた。そして15年後、教皇ボニファティウス8世は、重大な決定を下し、ドミニコ会修道士たちに、マグダラの聖マリア崇拝の組織化を委ねた。サン=マクシマンとサント=ポームとは、かくして今日に至るまで、ドミニコ会の活動の中心地となってきた。
同じ1295年に聖堂の最初の礎石が置かれ、14、15世紀を費やして建設が進められたが、当初のプランを逸脱することはなかった。内陣の完成は1316年頃である。身廊東側の各支間の建造は、されに14世紀いっぱいつづけられた。そのうち最初の三支間が出来上がったのはやっと16世紀初め(1530年頃)に過ぎなかった。
関連ブログ・・・マグダラのマリア及びヴェズレー関連
「中世の巡礼者たち」レーモン ウルセル みすず書房
「フランスにやって来たキリストの弟子たち」田辺 保 教文館
「図説 ロマネスクの教会堂」河出書房新社
マグダラのマリア 黄金伝説より直訳