2010年07月15日

シャルトル大聖堂6~フランス(20100624)

シャルトル大聖堂5~フランス(20100624)の続き。

地下のクリプト・ツアーを申し込んだ際にもらったパンフ。実は、今回、ブログに載せる為に(OCRの認識良くなかったので)改めて手打ちしたら、結構、勉強になりました。

十分に貴重な資料だと思います。

いろんな本読んでましたが、知らない事も多かったし、実際に見学している時は説明が分からなかったので勘違いしていたことにも気付きました。

地下の壁画、初期キリスト教ではなくて13世紀なんだ。へえ~。

あの聖遺物である聖母のヴェールがここのクリプトで守られたということは、初めて知りましたよ~!! 今更ながらに、読んでてようやく気付きました!!

いやあ~、これは為になりますネ。
【聖母マリアに捧げられた地下聖堂(La Crypte Notre-Dame de Chartres)】

1020年、司教フルベルによって立てられたシャルトル地下聖堂は地上大聖堂内陣と回廊の真下にあって、その広さはバチカンの聖ペトロ大聖堂、イギリスのカンタベリー大聖堂に次いでヨーロッパ第3位と言われています。

平行する長く広い廊下の奥に小聖堂が放射状に配置されています。主として11世紀初期のものですが中には9世紀のものもあり、また12世紀に加えられたものもあります。南側回廊は、拝観区域外になっていますが、北側回廊には遠い昔から人々の崇拝のまととなっていた地下聖母聖堂(Notre-Dame de Sous-Terre)があります。

地上の内陣と中央本堂に相当する地下は1ヵ所を除いて全く発掘されておりません。手がつけられているのは、地上内陣中央にある18世紀の聖母被昇天像の真下にあたる部分で、そこには9世紀カロリンガ王朝時代の聖堂があります。

少し前に進みますと「勇者の井戸」(Puits des Saints Forts)があり、更に奥へ進むと狭い窓のある聖堂が3つと1194年の大火後即ち12世紀に増築された聖堂が4つあります。先の3つは、半円形天井をしたロマネスク様式のもので、あとから造られた4つは、アーチ型窓と先の尖った同じくアーチ型天井(オジーブ)のゴシック様式のものです。この7つの小聖堂が調和を保ちながら交互に配列されています。

中世の巡礼者たちは、西方の扉から入堂し、わずかに射す光をたよりに220mの長い廊下をローソクのともる聖母祭壇に向かって、心を整えながら進んで行ったのです。

シャルトル大聖堂の特徴の1つは、聖堂内には誰一人として埋葬されていないということです。聖母マリアに捧げるという目的以外何もなかった聖母崇敬の表れといえましょう。
【聖クレメント聖堂】
コース入口の階段をおりて左に進むと右手に色彩豊かな12世紀壁画の施された小聖堂があります。西側壁面に円の中に描かれたライオンなど東方教会の影響の跡が見られる装飾があります。北側壁面は、左から右へ先ずカール大帝の前でミサを捧げる聖ジル、次に一人の司教、次は聖ペテロ、貝殻模様の衣をまとっているので、すぐ見分けられるコンポステルのヤコボと呼ばれる大ヤコボ、続いて聖ニコラオと右端に教皇聖クレメントがそれぞれ立っています。最上部に鳥や闘士があしらわれています。
【聖マルチノ聖堂】
ここには正面入口「諸王の門」にあった大聖堂建立時の柱像と太陽時計をもつ天使像がおさめられています。外気による損傷をまぬがれさせるため1967年ここに移されました。4世紀、ガロロマン時代の石碑、羊の頭と 撚模様、8世紀の聖水盤もあります。
【内陣回廊】
半円形の回廊にいくつもの小さな聖堂があるのに気づきますが、広い3つの聖堂は11世紀のものです。半円形の天井、入口は広く奥行きも深く造られています。内陣修復即ち1196-1199年に、この3つの聖堂の間と両脇にアーチ型の窓にアーチ型をしたオジーブ天井のゴシック様式の小聖堂が追加されましたので、ロマネスクとゴシックが交互に並ぶ結果となりました。
【カロリンガ王朝地下聖堂、別名聖ルバン聖堂(聖ルバン=6世紀の司教)】
地下聖堂の儀式用具室の向かいにある扉から数段おりると、天井の高い空間があります。ここがシャルトル大聖堂の最も古い一角で、18世紀までは発掘されていなかったので、入ることができませんでした。この聖堂こそカロリンガ王朝にさかのぼるもので、1194年の大聖堂大火のおり、"聖母マリアのヴェール"として尊ばれている聖遺物が保護され、難をまぬがれた場所でもあります。

奥にある広い階段は、地上主祭壇に通じるといわれていますが、途中までしか今はのぼれません。聖母マリアのヴェール発見が、大火後人々の大聖堂再建の推進力となったことは有名です。この場所は、外敵侵入の度毎に貴重な品々を収めるところとして使われました。

カロリンガ王朝時代のこの聖堂は、東方に向かって開いた窓が5つありましたが11世紀にふさがれてしまい、今は幸い残された煉瓦窓縁によって当時をしのぶことができます。

窓正面にある太い柱の周りは2m掘り下げられていて、9世紀に建てられたこの聖堂の床面に達しています。なお、この柱は地上主祭壇が設けられた1768年に補強されました。

柱部分の壁はガロロマン時代そのままのものです。この壁の北西部分は18世紀にふさいでしまった長い回廊に開いていました。カロリンガ王朝聖堂北側廊に通じていたと思われます。20世紀初めに発掘が試みられましたが、都合によって続けられないまま、多くの史跡が埋蔵されています。
【勇者の井戸】
深さ33.50m壁のくぼみにそって掘られたカロロマン時代の古井戸で病人の治癒に効能があるという伝説があります。それ以前に、この井戸は北方民族の侵入時代にキリスト者であるという理由で殺害された殉教者たちが投げ込まれたので、非常に大切にされた井戸でした(857年)。

1645年、井戸はいったんふさがれ、1901年に再び掘られ、現在に至っています。伝染病の流行した時代、この場所一帯は病人たちを収容する場所と化して多くの婦人たちが援助の手を差し伸べて看護に当たったといわれますが、17世紀にはそのような活動も姿を消しました。
【地下聖母聖堂】
地下諸聖堂のうち、最も深い尊敬がはらわれているこの地下聖母聖堂は幾世紀にも亘る多くの巡礼者たちの訪れる聖域でした。廊の一部をくぼませてしつらえられた脇聖堂は、聖サヴィニアン、聖ボタンシャンに捧げられています。

勇者の井戸を埋めたてた頃、即ち17世紀に手直しされて聖マルチノ聖堂に通じる道が造られ、現在も使用されています。長さ4梁間分ある聖母聖堂と大理石に当時はやりの金箔が施された立派な祭壇がありましたが、1975年シャルトル近郊10kmで採掘されるベルシェール石灰石の祭壇が代わってしつらえられました。聖の扉は七宝焼です。

フランス革命時、聖堂は荒らされ、倉庫として使用されましたが1885年に修復され、さらに1975-76年、初期の姿に戻されました。奥にゴブランつづれ織壁布が掛けられ聖母子像が安置されました。

革命時に焼き払われた聖母子像は、正確な資料に基づいて複製されました。威厳に満ちた姿の、この聖母子像はロマネスク時代のおもかげをとどめています。クルミの木の木彫りです。聖母の冠が、特に繊細にできており、背景のアーモンド形デザインのつづれ織部分にマッチして、栄光のうちに包まれた聖母として尊ばれています。

※ローソクや石油ランプによって、真黒くすすけた壁面や天井を丹念に削って、すずを落とす事によって13世紀の壁画を表面に出す事に成功しました。南壁面左端の絵は、中央に聖母が描かれ、その左手にキリストを礼拝するため、東方の国から訪れてきた三人の賢者がみられ、右手にキリストを見守る二人の聖者が立っています。その昔シャルトル司教区に帰属していたサンスの司教聖サヴィニアンと聖ポテンシアンと思われています。この壁画は18世紀のものと大変異なった手法で書かれています。

※この壁画の正面にロマネスク様式の出入口が13世紀に造られましたが、19世紀にふさがれてしまいました。16世紀の専門家たちは、フランスがゴールと呼ばれていた太古、ドロイド僧達の洞窟がここにあったという仮説を支持していますが、さだかでありません。

※"聖母マリアを通してキリストへ"と暗黙のうちに示しているかのように大聖堂に収められている175にのぼるマリア像は、常にイエス・キリストと共にあります。

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posted by alice-room at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 【旅行 散策D】 | 更新情報をチェックする
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