2010年08月17日

「心は孤独な数学者」藤原正彦 新潮社

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インドに現れた無名の一経理事務員が、ケンブリッジの並み居る数学者達をはるかに凌駕する業績を成し遂げた。まさに謎に満ちた『天才』の生涯を辿った物語です。

本書の中では、他にも二人の数学者が採り上げられていてそちらはそちらで十分に魅力的ではあるものの、やはり、紙面の3分の2近くを占めるラマヌジャンの物語が秀逸です。

日本人の数学者である著者が格別の関心を持って、インドへ向かい、ラマヌジャンの足跡を辿るのですが、著者が旅人として書いた紀行文とも読める文章が大変魅力的です。

それが実に自然体で、それでいて見るべきものをしっかり見て、しっかり自分の中で感じ取っている姿勢が大変共感を覚えますし、考える事、感じさせられることの多い文章です。

紀行文としても興味深く、インドという国について改めていろいろな認識を新たにしました。通り一辺倒の「カースト制から抜け出して、IT立国へ進むインド」などという日経的ステレオ・タイプは、やはり作られた虚像(あるいは、ごく一面)なのかなあ~とも今、思い始めています。

そして何よりもラマヌジャン!
噂だけは知っていたものの、これほどまでに独創的で常人離れした天才とは・・・。

通常なら、一年に半ダースの公式や定理を発見できれば、優秀な数学者と言われるところを毎日半ダースの公式や定理を発見していったとは・・・!!

しかも本人はその裏付けたる数学的厳格さを保った証明の重要性、必要さを最後まで納得できないでいたというのも、また不思議です。

もっとも、それははるか昔から数学をそういう神への栄誉としてみなし、他者との関わりよりも神との関係で、殊更に自己の名声を誇ることに価値を見出さないインドの伝統的価値観によるのでは・・・という見解が挙がられています。(まるで西欧中世の芸術作品みたいです。)

他にも、ラマヌジャンが独学で学んだテキストがそもそも証明や解説の無い公式集で、だからこそラマヌジャンは自分でそれらを一から自分で作り上げて理解していったというのも一因らしい。

今の日本でも、ビジネス本やらなにやら本を読んで勉強して仕事に役立てようというのがブームですが(私も嫌いじゃないけど)、上っ面だけ学んだ効率良さをウリにしているが、所詮付け焼刃ではないかと思う。

まあ、凡人はそちらの方が確かに時間の節約なのかもしれませんが、彼等は未来永劫、本質に辿りつく事はないし、そこからラマヌジャンは生まれることだけはないでしょうね。絶対に。

この天才レベルの話とは比較できないのを承知で言うと、やっぱり何事も自分で苦労して試行錯誤して見に付けたものでないと、本質的な意味で自分のものになっていない気がします。

事象の類型化(パターン化)が形式的な為、ちょっとした変化でもう何もできない人って周りにいません?

逆にいうと本質を身に付けている人は、状況が変わっても、しばしば言われるように応用がきき(=本質で捉えるから)、対応できちゃうんですよ~。

まあ、それは置いといて。

興味のある数学以外は全てそっちのけで、当初はもらえていた奨学金を失い、大学を中退せざるを得なくなど、いやあ~驚異の集中力と共に、なんとかと紙一重です。まじに。

その一方で、職もなく、ひたすら石板に数式を書いては消し、書いては消ししているだけの、ある意味、社会の落ちこぼれ的な存在になっても、それを支える家族。彼の才能を認める周囲の人々。

彼をこのままインドの片隅に埋もれさせてはいけないと、本国英国の数学者にラマヌジャンの成果を評価してもらえるよう、働きかけ、数々の支援と共に支えた人々。

う~ん、本当に人間って素晴らしい人達がいることを感じます。

仕事もしないでひたすら数学を考える事しかできない彼を、経理事務員として雇い入れて、仕事をさせずに自由にさせておくなど、法律事務所で下働きしていた棟方志功をふと思い出しました。どちらも似たり寄ったりみたいですが・・・笑。

偉大な才能は、それを評価し、支援する存在があって初めて世に出るのだなあ~と思いました。

ラマヌジャンの場合、彼が厳格な戒律を守る模範的なバラモンの階級出身であり、貧しくても芸術や学問などを尊重し、それに価値を見出す環境にあったことも大切なポイントだったようです。

純粋数学は、論理だけではなく、そこに美的感覚が必須になるようですが、それを可能にしたのもバラモン特有の精神性を重んじる土壌があったればこそみたい。

また、彼がバラモンだからこそ、どんなに貧しい身なりであろうと、一目置かれるような大物が彼に会ってくれ、また、彼をそういった人物に結び付けてくれたのもバラモンというカーストが育んだ独特の価値観故というのは、実に考えさせられるものが多いです。

人としての誇りがあるんでしょうね。きっと。

英国のパブリック・スクールなんかも、そういう意味での誇りを持った人材育成なんだと思う。

日本にも、昔はいたみたいだけどねぇ~。能力のある人物を引き立て、支援するような地元の名士とかね。

紆余曲折ありつつ、彼は王立フェローの一員になるなど、素晴らしい評価を得る一方、宗教上の理由によるものなどもあり、満足に食事さえできずに心身を損ね、30ちょっとであっけなく夭折しちゃんです。

健康の為にインドへ戻っても、愛する母と妻の確執や争いでますます精神を病み、肉体も弱まっていくというのは・・・・文字通り悲劇です。なかなか人は幸せになれないものなんだと思います。

才能や努力とは別次元で、『幸せ』って何かと深く考えさせられます。

人間の素晴らしさ、切なさ・・・・胸を熱くするほどの感動も覚えましたが、やり切れない切なさ・哀愁をも感じました。

読む人次第で、多様な読み方が出来る本だと思います。

そうそうケンブリッジの卒業試験「トライポス」も面白いです。
最初は数学だけ、後世でも数学の比重が大変高かったこの試験は、中世の哲学に変わって論理的な思考力を見るものらしいですが、なるほどねぇ~っと思います。

先日もアルゴリズムの勉強しようと本読んでいて、「ロゴス」をテーマにした本があったのですが(読書途中なんだけど)、それがまさに哲学的な論理思考を題材にしていてね。

実に、実に興味深かった! 
論理的に事象を処理するための記号として、仮想言語まで出して、論理説明してたもんね。ふむふむ。なんか数学重視、分かるなあ~。

まあ、リーガルマインドとかも究めれば、そこに行き着くとは思うんだけどね。

話がそれたか。
ラマヌジャンは、ナーマギリ女神の崇拝者でもあり、夢の中でナーマギリ女神から公式を与えられたと本気で言っているぐらいなので、そりゃ独創的でしょう。

同時に、彼をイギリスに招聘して、正しくその才能を評価し、一緒に共同研究を行った当時のイギリス数学者の第一人者ハーディ博士も凄いよねぇ~。

ラマヌジャンの既存のものに縛られない、真に天才的な才能を生み出す自由な発想を最大限に尊重し、それを損なうかもしれない高等数学の学習をあえて薦めなかったり、行ったりしなかったそうだし、彼をよく支えたのもハーディ博士だったそうです。

他にも、いろいろな箇所で興味深いところがありました。
くだらないノウハウ本読むよりは、本書を一冊読む方がその後に、大きく得るものがあるかもしれません。読み手次第だと思いますが、私は本書から大変感銘を受けました。是非、心ある方には読んで欲しい本です。

あっ、また思い出した!
インドの文化として、数学でも国語でも理科でも、ありとあらゆるものが詠唱によって学ばれることが書かれていました。

音読もそれに通じると思いますが、これは一つの真理でしょう。

物事を考える時、一定のリズムに乗って多面的に丸ごと頭に入れるのは、英文の音読丸暗記みたいなもので、一番人にあった学習法かと思います。

話があっちこっち飛んでしまいますが、この本はイイ!
絶対に読むべきでしょう♪(笑顔)

・・・・
当時の硬直した学校組織において、ラマヌジャンの救われる道はなかった。今のインドでも、日本においてさえも、救われるか疑問である。無限大の能力者は無限小の確率でしか現れない。このような人間の出現を想定して規則は作られていない。すなわち規則破りの特例で対応するしかない。人間を扱う教育現場では、公平の原則からいったん離れ、時には特例を認める度量が必要なのだろう。この点ケンブリッジは立派である。高卒のインドの事務員に過ぎぬラマヌジャンを、招聘したばかりかフェローにまでしたのだから。・・・・


【目次】
神の声を求めてーアイザック・ニュートン
アイルランドの悲劇ーウィリアム・ロウアン・ハミルトン
インドの事務員からの手紙ーシュリニヴァーサ・ラマヌジャン
心は孤独な数学者 (新潮文庫)(amazonリンク)

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posted by alice-room at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 【書評 未分類B】 | 更新情報をチェックする
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