2006年04月16日

「黄金伝説3」ヤコブス・デ・ウォラギネ著 人文書院

この第3巻で取り上げられているもので、面白かったのは、聖ステパノ、聖ドミニクス、聖女マルタ、聖母マリア被昇天、聖アウグスティヌス、洗礼者ヨハネの刎首、聖母マリアお誕生、聖十字架称賛、使徒聖マタイ、大天使聖ミカエル辺りかな? 

聖ステパノの殉教の絵は、上野の西洋美術館で何十回も見たことあるんだけど、詳しい話を知らなかったんです。今回、黄金伝説を読んで始めてその絵画がいかに忠実に聖人伝を表していたのかを実感しました。その絵では、ステパノの説教から石を投げつけられ、殺された後に船でその高貴な遺体が運ばれていく様が一連の伝承に従って描かれているんですが、確かに分かり易い! この絵を観ながら、聖人についての説明を受けたら一発で文盲の人でも理解できますね。映像だからイメージとして記憶に残り易いし、布教の手段としてこれほど有効なものはありませんね、納得しちゃいました。うん。

聖女マルタ、黄金伝説の中ではマグダラのマリアの姉とされる。弟のラザロ、妹のマグダラ達と共に舵のない船で海上に放り出されたが、マルセイユに辿り着いて布教を行ったという話がある。聖マルタの話でマグダラに関するところを抜き書きしてみると・・・。
マルタが重い熱病にかかり、一年間床についていた。死の一週間前に天使達が賛歌を歌いながら妹(マグダラ)の魂を天上に運んでいく歌声が聞こえた。それを聞くとマルタはこういった。「私の道連れであり、教え子である皆さん、私と一緒に喜んで下さい。と言いますのは、天使達の群れが喜びの声をあげながら妹の魂を約束の地に導いているのが見えます。ああ、美しい、いとしい妹のマリア、あなたはこれからあなたの師であり、私の客人(まろうど)でいらっしゃった方と御一緒に至福の国に住まうことになるのです。」

マルタは自分の自分の最後も遠くないことをすぐに感じ取り、弟子達に自分が死ぬまで灯りをともして見守って欲しいと言ったが、死の前日の真夜中、睡魔に打ち負かされて人々が眠り込むと一陣の強い風が吹き込んで灯りを全て消した。悪霊達の群れが押し寄せてきたが、マルタが祈り始めた。「私の主、私のおん父、私の大切な客人様、悪霊どもが私を血祭りにあげようとして、手に手に私の罪状を書き記した紙切れをもっています。私の主よ、どうか私から離れずに、この身をお守り下さい。」

すると妹のマリア(マグダラ)がこちらにやってきて、手にした松明(たいまつ)でろうそくに火をつけ、全ての灯りをともした。姉妹が互いに名を呼びあったちょうどその時、主がみずからおん姿をあらわされ、お言葉をかけられたうえで最後まで見守る中、マルタは息をひきとった。

聖母被昇天後の話の中で、シャルトルの聖遺物に関する記述があったのでこれもメモ。
聖母被昇天後、信者達をなぐさめる為に墓の中には聖母の御衣が残っていたという。それまつわる奇跡として、ノルマン人の将軍がシャルトルの町を包囲した時、この町の司教は町に保存されていた聖母のトゥニカを取り出しきて槍の先につけて軍旗にし、市民の先頭にたって果敢に敵軍にむかって打って出た。すると、敵の軍勢はことごとく狂気と盲目にとりつかれ、手足をふるわせてうつけたような顔つきでその場にきょとんと立ち尽くしていた。町の人々はこれを見て神の裁きをまっとうしようとばかりに。敵兵の中になだれこみ、相手かまわず殺しまくった。しかし、聖母は自分の衣に助けられて大量の殺戮がおこなわれたことを大変不快に思われた。すると、たちまち御衣は消え失せ、敵兵達の視力が回復した。

聖コスマスによると、
聖母は使徒達によってゲッセマネに埋葬され、主がご降臨してご遺体を天上に導かれたが、疑り深いトマスだけはこの葬儀に列席できなかった。彼はこれらの出来事が本当であるかどうか確かめる為に墓を開いて見せて欲しいと言った。使徒達は断ったが、自分だけが同じ使徒でありながら、共有の宝を見せてもらえないのですかとトマスが言ったのでしかたなく、墓を開いた。墓の中にはご遺体は見当たらず、おん衣と布だけが残されていた。

コンスタンティノポリスの大司教ゲルマノスは、「ヒストリア・エウテュミアタ」に出ている話として次のように書いている。
女帝プルケリアは、マルキアヌス帝の時代にプルケルナの町にも聖母を称える美しい教会を建て、イェルサレムの司教ユウェナリスをはじめ、カルケドン公会議のため首都に集まっていたパレスティナの司教達を呼び寄せてこう言った。「聞くところによりますと、聖母様のご遺体はゲッセマネの村に葬られているそうですが、この町を守っていただく為にこちらにお移しさせて下さい」ユウェナリスは昔からの言い伝えによりますと、ご遺体は変容して、おん衣と棺掛けの布しか残っていないそうです、と答えた。ちまみに、ユウェナリスはその後このおん衣をコンスタンティノポリスに送り、おん衣はそのうちに手厚く葬られた。

まだ、面白いのがたくさんあるんで・・・もう少しメモしておきたい♪
聖ヨハネの頭骨(聖遺物)の発見のお話。
「教会史」によると、ヨハネはアラビアのある城壁に幽閉されていて、そこで首を刎ねられた。しかし、ヘロディアスはその首をエルサレムに運ばせ、ヘロデの宮殿の側に葬った。首を胴体と一緒に葬ったのでは、預言者が甦るかもしれないと恐れたからである。

ところが「聖書物語」によると、452年に帝位についたマルキアヌス帝の時代にヨハネはちょうどエルサレムに来ていたふたりの修道士に自分の首のありかを教えた。ふたりは、さっそく昔のヘロデの宮殿の跡に行き、毛の毛布にくるまれた首を見つけた。この布は、聖人が荒野でまとっていた布であったのかもしれない。

ふたりの修道士は頭骨をもって帰途についたが、その途中で故郷を食い詰めて旅に出たエメサの一陶工と道連れになった。彼らはこの陶工に持ってもらうことにして、彼の背嚢(はいのう)に聖頭骨を入れた。こうして陶工は神聖なお荷物を運んでいったが、ある夜のこと聖ヨハネが夢枕に現われて修道士達から逃げよと告げた。そこで陶工は故郷のエメサに舞い戻り、ある秘密の洞窟に聖頭骨を隠して死ぬまでこれを崇め、大きな恵みにあずかった。

それから長い歳月がたち、マルケロスという聖徳に満ちた修道士がその洞窟に住みつくことになった。聖ヨハネはこの修道士に聖頭骨のありかを教えた。その経緯はつぎの通りである。

ある夜、マルケロスが眠っていると夢の中で大勢の人々が聖歌をうたいながら、洞窟の中に入ってきて「見よ、洗者聖ヨハネが近づいてこられる」と言った。みると、聖ヨハネが左右にふたりの供(とも)を連れて近づいてきた。全ての人々は彼の側に寄っていった。彼は、それらの人々を祝福を与えた。マルケロスも側に寄って、聖人の足元にひざまずいた。しかし、聖人は彼を立たせて顎をもって平安の接吻を与えた。そこでマルケロスはたずねた。「どちらからおみえになられましたか」聖人は「セバステから来ました」と答えた。

その後またある夜、眠っていると近づいてきて彼を起こす者があった。見ると、洞窟の入口のところに一つの明るい星が輝いていた。彼は起き上がって、その星を手で触ろうとした。すると、星は別の入口の方に逃げていった。後を追っていくと、星は洗者ヨハネの聖頭骨が埋められている場所のうえで止まった。そこを掘ってみると、壺が出てきて、中に聖頭骨が納めてあった。
う~ん、定番の聖遺物発見のパターンですね。サンチャゴ・デ・コンポステーラもそうだし、マグダラのマリアも聖遺物もそうでした。星が指し示し、そこを掘ると聖遺物がある! それを祀ると霊験あらたかな奇跡が次々と起こる。そしてそれこそが、聖遺物であることの証(あかし)になるわけです。やっぱり、論より証拠、『奇跡』こそ大切なんですよねぇ~。日本各地にある弘法大師様の伝説と一緒ですね。ここでは引用しませんでしたが、当然ヨハネの聖遺物による奇跡譚が続いています。

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関連ブログ
「黄金伝説1」ヤコブス・デ・ウォラギネ著 前田敬作訳 人文書院
「黄金伝説2」ヤコブス・デ・ウォラギネ 人文書院
シャルトル大聖堂 ~パリ(7月5日)~
聖母マリアの聖遺物があります!
黄金伝説 ~聖人伝~ ヤコブス・デ・ウォラギネ著

関連サイト
国立西洋美術館
マリオット・ディ・ナルドによる
《説教する聖ステパノ/ユダヤ法院での聖ステパノ》1408年
《聖ステパノの殉教/聖ステパノの埋葬》1408年
《聖ステパノの遺体を運ぶ航海/聖ステパノと聖ラウレンティウスの遺体の合葬》1408年
posted by alice-room at 14:27| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【書評 宗教A】 | 更新情報をチェックする
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