2006年06月05日

「ダ・ヴィンチ・コード」とかけて「小泉改革」と解く

「ダ・ヴィンチ・コード」とかけて「小泉改革」と解く
【NB ONLINEより以下転載】
「ダ・ヴィンチ・コード」が映画史上歴代2位の順調な滑り出しを見せている。レオナルド・ダ・ヴィンチが名画に託して伝えようとしたイエス・キリストの謎を追う原作の歴史ミステリー小説は、全世界で5000万部を突破する売れ行きを記録したのだから、映画の方も計画通りの立ち上がりと言っていい。
 この映画、実は「小泉改革」とある種の共通点を持っている。複雑な物事の背景をすぱっと短い言葉で斬って、畳み掛けるように結論に導いていく。検証のために持ち出してくる資料や素材そのものは事実を含んでいるのだが、相反する膨大な証拠や資料の検証を抜きに、考える暇を与えず映像や音で本能に訴えかける。

 小泉改革の本質が「テレビ時代の劇場型政治」なのだとすれば、「ダ・ヴィンチ・コード」の中で繰り広げられるのは、「映像時代のパフォーマンス型神学論争」にほかならない。国会のテレビ中継で民放のニュース番組も顔負けのフリップが使われるようになった今、「パフォーマンスを否定するよりも、うまく活用した方が勝ち」なのは、残念ながら否めないのだろう。

小泉首相の資料は60字が上限

 知人の官僚で、小泉純一郎首相に経済政策を説明するための資料を作成している人物がいる。彼曰く、「小泉首相に手渡す資料では、1ページにつき20字×3行、合計60字以上、文字が並んでいると読んでもらえない。そんな不文律がある。文字が長くなりそうな場合、60字で止めて、後は余白にグラフや図表を多用するのがコツ」なのだそうな。

 上に引用した発言がすでに100字近いのだから、60字の制約がいかに大きいか、お分かりいただけるだろう。見出しと簡単な要旨を語っただけで、すぐに60字など超えてしまう。
 この方法には、1つの利点がある。1枚につき60字の文字とグラフしかない資料なら、読まずに「見る」だけで理解できるのに加え、ポイントが1点に絞られているだけに、改めて疑問を抱くこともない。

 これ1枚だけなら論争に耐え得ないものの、1枚めくると関連した別の資料が何枚も飛び出してくる。

 要するに、論点を少しずつずらしながら、細部に深入りしないで結論に導いていく技術さえ身につけたなら、相手が疑問を感じる材料を最初から提供しないという意味で、「一見すると隙のない論戦」に持ち込めるのだ。

 映画の中でも、同じ手法で「バチカンが闇に葬ってきた歴史の真実」が語られる場面がある。

1700年前の「見てきたような映像」

 映画の重要な登場人物は、「聖書が神の国からファクスで送られてきたと信じているのかい?」と誰もが感じるであろう疑問を口にして、こう畳み掛けていく。

「聖書は4世紀当時の権力者、つまり教会の指導者とローマ帝国の意思が加わって、布教に都合の良い文書だけが選別された」

「イエスが人だった事実はコンスタンティヌス帝が開催した公会議で否認され、父(神)と子(人)と聖霊の三位一体論が作り上げられた」

「聖書から削除された外典の中に、イエスがマグダラのマリアと呼ばれる女性を誰よりも愛し、接吻し、結婚していたとの記述がある」

 かっこ内に引用した3つの文章は、ともに60字以内に収まっている。いずれも、それだけを取り上げたなら、事実そのものを捏造しているわけではない。それぞれローマ時代のセピア色の映像がかぶさって、ニケア公会議や新約聖書の編纂という4世紀の出来事が、「あたかも見てきたように」描かれている。

 結論から先に言えば、「ダ・ヴィンチ・コード」で論点となっている「歴史的真実」は、タイムマシンでも登場しない限り、科学的には白とも黒とも断定できない代物にほかならない。そもそも、イエスが十字架にかけられてから、ニケア公会議や新約聖書の確定までに、300年を超える月日が流れている。

 現在の科学技術を駆使しても、江戸時代の史実を検証するのは容易ではないだろう。まして羊皮紙の写本と口頭伝承で伝えられた史実を4世紀に検証するのだから、それこそ事実は藪の中だったに違いない。

福音書にない「イエス復活の現場」

 ダ・ヴィンチが生きた中世末期のヨーロッパなら、教会の側が上記のような混沌とした事実に目をつぶり、聖書の正典に書かれていない伝承や外典の記述をすべて抹殺した、との批判もある程度の意味を持つ。

 しかし、現代はプロテスタントを中心に聖書そのものの研究が進み、1冊の本や1本の映画などでは到底論じきれないような、膨大な業績が残されている。

 手短にいくつか興味深い例を挙げてみよう。「現存する聖書はすべて写本で、聖書の原本というものは存在していない」「旧約聖書と新約聖書の間には、カトリックだけが正典と認めている旧約聖書の続編がある」「イエスの生涯を記した4福音書の中で、最も古いと見られるマルコによる福音書は、元々はイエスの復活の現場を描いていない」

 上記の論点は、ごく一部の原理主義的な教派を除き、現代の教会が普通に認めている事実である。

 マルコによる福音書は、マグダラのマリアを含む3人の女性が十字架にかけられて葬られたイエスの墓に行き、遺体がなくなっているのを目にして「墓を出て逃げ去った」と記している。「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

真実は分かりにくい混沌の中にあり

 本来の福音書はここで終わり、その後は「後代の加筆と見られている」ことを表す〔〕でくくられている。この加筆部分でイエスは復活し、まず話題のマグダラのマリアの前に現れて、11人の弟子(ユダを除く)の前に現れ、天に上げられる。

 この〔〕は、カトリック、プロテスタントが共に公認している「新共同訳聖書」(日本聖書協会)の新約聖書97~98ページに明記してあるので、ご興味ある方はご自分でページをめくってみることをお勧めしたい。少し大きな書店なら、必ず棚に置いてあるはずだ。

 60字の見出しと映像で分かりやすく見せられるものはすべて偽りである、などと言うつもりはない。それでも、真実などというものはいつでも「藪の中」なのであり、「分かりやすい単純な真実」に飛びつく前に、正反対の方向から物事を考え直す癖だけは、忘れないように心がけたいと思っている。

 さて、せっかくなので最後に映画の感想を一言。エンターテインメントとしての魅力に欠ける、との酷評も伝わってくるものの、少なくともカネを出して見る価値はある。それが筆者の結論だ。

 ただし、見る前に原作を読んでおかないと、ストーリーについていくのが難しいのではなかろうか。ベストセラー1冊、映画1本で西洋史の根本が揺らぐなどと信じ込む前に、「そもそもの原作」である新約聖書も合わせて読破しておけば、現代の世界政治に対する理解を深めるきっかけにもなるだろう。

 「改革なくして成長なし」のワンフレーズと比べると、本にも映画にもそれなりに複雑な筋書きが込められているので、念のため。
いや、実に面白い見方である。だてに日経ビジネスではない、と思った。最近ん、あまり読まなくなったけど、たまには読んでみたくなったもの。

いろんな意味で勉強になるね。仕事をしていても、やみくもに資料を作るのは正直仕事のできない人とされる。何故なら、忙しいみんなは誰も読まないから。

まず、一覧してサマリーなり見出しで内容を把握して必要か否かを判断し、必要に応じて、さらに資料を出して説明する。これって月次の予算会議や進捗状況の確認会議で同様だよね。

但し、グラフやイラストは考えもの。作り方や表現の仕方によって数字の意味が誤解されることもしばしば。プレゼンでは、見易さが重視されるのも事実だが、真にできる人は数字自体をよくチェックしている。数字に表現された背後の事実をいかに読みとれるか、これが管理者以上のクラスに求められることだが、できてない人が結構いるんだよねぇ~。

まあ、それだけではないけど・・・。こういう独自の見方というのはしかし、興味深い!!
posted by alice-room at 00:26| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【ダ・ヴィンチ・コードC】 | 更新情報をチェックする
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