2006年07月09日

「ベロニカは死ぬことにした」パウロ コエーリョ 角川書店

beronika.jpgこれまで読んだ本とは違い、あえてお薦めしようとは思わない本でした。舞台が精神病院であるからとかということではなく、扱っているテーマがあまりにも私には慣れ親しんだもので、本書で展開される内容が正直幼稚に感じてしまうからです。
平易な文章と内容の幼さには、関係がありません。ただ精神状態の均衡についてなら、たくさんの実例を見たことがありますし、実際に知り合いにもいましたから。ありがちな心理学関係の本なども中高生のぐらいの時に、一部の子と同様に読み漁っていた時もありましたし。もっとも専門家の臨床医や研究者ではないので、偏ったサンプルなんでしょうけどね。

1)自分自身がイメージする世界と2)社会がある種の共同幻想として認識される世界、さらに3)その共同幻想だろうと自分が思い込んで勝手に生み出す自分自身が既定しつつも社会的に強制される世界。大概は、こんな感じの世界観があり、1)と3)のズレに対して、個人がそのズレを許容してはいけないという自己規範を生み出し、勝手にその規範に抵触して悩み、自己嫌悪に陥り、ひいては自己存在の否定に至る。

自傷行為や刹那的な性的快楽へ耽溺、暴力衝動、自己欺瞞、まあいろいろあります。先天的な遺伝的器質もあれば、後天的な獲得器質の場合もあるでしょうしね。社会の成功者と落伍者なんて、分類しようとすれば、いくらでも精神病の範疇に入れれるでしょう。ネット依存症やブログ中毒だって、その軽微なものというのは簡単ですし。

ドンドン話がそれていきますが、自分が他人と違うことは当たり前だし、平均的な普通人なるものがいるのは幻想でしかない。身長や体重、学歴や平均睡眠時間、ボーナスの平均支給額やら1回の性行為の平均回数などなど、全く意味のない数字が乱舞する中、そんな数字を気にする人々が集団的な社会幻想に埋没しているのには気付かない。マクロ的には意味があっても、適当なサンプルを元にして作られた、実体のない『標準』幻想ほど滑稽なものはないだろう。ところによっては雨という降水確率に何の意味があるだろう? 私が知りたいのは、特定の時間に特定の場所で傘が必要か否かであり、ブラジルやNYで雨が降っても、竜巻が起ころうと関係はないのだが・・・。

長々と書いてきたが本書で扱いたいのは、上記のように、人はみんな違うということに尽きるのではないだろうか?人類という「種」で考えた場合、異なっているのは当然で、「種」は多様性を保つことで環境適応能力を高め、不測の事態であっても全滅は逃れられるような仕組みを予め内包しているのだ。犯罪者や怠け者、酔っ払い、異常人格者等々もその多様性の中で予定されているピースの一部であり、特定の時代の特定の社会においては不適格であり、排除・隔離すべき対象であっても、それを無くす事は有り得ない。できることは、適切に制御するだけだ。巷において、犯罪者を処罰するのは、当然で厳罰に処すべきではあるが、それはあくまでも被害者感情を考慮し、社会組織として円滑に機能させる為の便宜的なものに過ぎない。その点を理解していない人が多い。

信号は赤で止まることに必然はない。青で止まってもいいのだが、便宜的に決められたルールでしかない。赤で突進することが罪になるのは、まさに交通ルールという便宜的な社会規範に反しただけである。規範のない世界は、更なる不便が生じるので規範はよりベターなものとして多数の人々が欲した成果に他ならず、大多数の利益の為に特定個人の不利益を甘受させるものである。まあ、それ自体は必要悪であり、問題はないのだが・・・。

困ったことにこれらの社会的規範を金科玉条の如く、遵守することこそが幻想的な『普通人』だと思っている人があまりにも多いことだ。逆に声高に『個性的』な自分を標榜する者も「自分は人間だ」と自明なことを主張する愚者と同列に思えるが、学校の先生やら親の評価を気にして無遅刻無欠席の完璧を演出する人以上に、みんなに合わせて行動する矮小なその他大勢を自演する輩には、ある種の憐憫の感情さえ覚える。

(と、ここまで書いてきてこの私的なブログでさえ、誰か見ることを意識して偽って書いている自分の姿に気付いた。ある種の憐憫・・・ああ、なんて偽善的な表現だろう。実際は、軽蔑以下のどうでもいい人達と避けて接触しないようにさえしているのにね。仕事中の私は、自分の描く『プロ』を演じていて、社外・社内を問わず、そつなく人間関係処理するが、そんな自分を嫌悪する自分が時々現われて、こんなことしていていいのだろうかという思いが苛まれる。自分を偽っている感覚がたとえようもなく嫌いだ。だからこそ、書籍やブログに別なものを求めるのだろうか・・・)

既にこの文章も書籍のレビューではなく、別なものになっているが、本書はこの手のことに近い話です。でも、扱い方が生ぬるい。もっとディープなものをお薦めします。クレチェマーーの「天才人」とか、白倉由美の「贖いの聖者」とかお薦めですね。白倉氏の作品は漫画ですが、そこに描かれる世界観はエヴァよりもはまります。っていうか、アスカもまだまだ救いがあるかなあ~って。絶版の多い方ですが、思春期の儚い心理状況を描かせて白倉氏以上の方を見たことがありません。思春期にこういう本や漫画を読んで育つと、私のようになります(自虐的微笑)。

そうそう、そこに澁澤龍彦氏や芥川龍之介氏を加えれば、素敵な虚無主義者の出来上がりってね!

ベロニカは死ぬことにした(amazonリンク)

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posted by alice-room at 13:58| 埼玉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 【書評 海外小説A】 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
だいぶ前にこの本を読みました。しかも英語で。(原作はポルトガル語なので、英語で読む必要もないのに。。。) コエーリョの本はどれも大好きですが、この本はちょっと違った感がありました。なんて言えばいいんだろう。決して嫌いなテーマではないのに、読んでいて少し物足りない、というか掘り下げ方が少し甘い、というか。。。うーん、うまく書けないんだけど、読み終わった充実感がイマイチだった気がします。aliceさんのコメントを読んで、また再読したくなりました^^
Posted by なな at 2006年07月12日 00:52
ななさん、こんばんは。微妙なんですよねぇ~、なんとなく本で言いたいことは分かるんだけど、ちょっと分かりづらい感じがします。英語だったら、また感じが違うかな? あまり英語だと読めないのですが・・・。

でも、自分は自分であるっていうことが当たり前なんだ。周囲に自分を合わせる必要はないんだ、ってところはシンプルに共感できました♪
Posted by alice-room at 2006年07月12日 23:26
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