プラトン
形相・・・眼で見られた形(エイドス)
質量・・・材料(ヒユレー)
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「・・・プラトンはただ二種の原理だけを用いた。すなわち、もののなんであるかを示すそれと質量(ヒユレー)としてのそれとを。けだし、明らかにかれの形相は他のすべての事物のなんであるかを示す原理であり、それぞれの形相(エイドス)にとってはさらに「一(ト・ヘン)」がそれであった。」(『形而上学』第一巻第六章) (P105)
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プラトンの用いた二つの原理とは、机のイデアから魂の眼によって見てとられる机の「形相」(エイデス)と、その「形相」によって裁断され構造化される木や石などの「質量」(ヒユレー)のことであり、この二つの原理だけで世界のすべての存在者が整序されると言うのです。
そして、[質量」は物ごとの本質存在を決めるものではなく、それが「あるかないか」を示すだけで、物ごとの本質存在を左右するのはその事物の「なんであるか」を示す「形相」だというのです。 P106
アリストテレス
可能態(デユナーミス)・・・質量(ヒユレー)とはなんらかの形相(エイドス)を可能性として含んでいるもの、「可能態」の状態にあるもの
現実態(エネルゲイア)・・・その可能性が現実化された状態
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アリストテレスはプラトンの「形相―質量」という図式を「可能態―現実態」という図式に組み替えたのです。(P107)
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自然的存在者と制作物とを統一的にとらえ、これらすべての存在者は可能態から現実態へ向かう運動のうちにあると考えます。(目的論的運動) (P108)
アリストテレスVSプラトン・・・動的VS静的、生物主義的VS数学的。しかし、超自然的思考様式は共通点。(P108)
プラトン主義とアリストテレス主義という対立しあうこの二つの思想、二つの世界観がその後かわるがわる西洋の文化形成を規定することになります。(P112)
プラトン哲学はフィロンによってユダヤ教と結び付けられました。フィロンは<世界制作者>(デーミウルゴス)によって宇宙は作られたのだと説くプラトンの「ティマイオス」の宇宙論の枠組みを使って「聖書」の『創世記』を解釈してみせるのです。(P113)
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プラトンには、イデアの世界と、その模像であるこの現実世界、いわゆる個物の世界という二つの世界を考える独特な「ニ世界説」がありました。
新プラトン主義経由でこのプラトン哲学を学んだアウグスティヌスは、プラトンのこのニ世界説を「神の国」と「地の国」の厳然たる区別という形で受け継ぎ、あの制作的存在論によって世界創造論を基礎づけ、イデアに代えてキリスト教的な人格神を超自然的原理として立てます。(P118)
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アリストテレスにあたっては、プラトンのイデア界にあたる純粋形相(いかなる可能性も残さず、すべての可能性を現実化した最高の形相)が、この現実界をまったく超越した彼岸にあるのではなく、この現実界と一種の連続性を保ったものと考えられていました。
したがって、このアリストテレスの哲学を下敷にして考えれば、神の国と地の国、恩寵の秩序と自然の秩序、教会と国家とかが、アウグスティヌスにあってのように絶対の非連続の関係にあるものとしてではなく、もっと連続的なものとして捉えられ、ローマ・カトリック教会が国家なり世俗の政治なりに介入し、それを指導したとしても当然だということになります。(P126)
質的自然観この部分が前提に存在して初めて、『光の形而上学』が成立し、ゴシック建築に見られるステンドグラスなどもその意義を見出せる!
13世紀の後半以来スコラ哲学の主流になったトマス主義は、アリストテレス哲学を下敷にしているので、当然その自然観は有機体論的なものでした。
そこでは、すべての存在者に「実体形相」という一種の生命的原理を認め、われわれが感じ取る感覚的諸性質はその実体形相の外へ発現したものだと考えるのですから、質は自然の実質的な構成分であり、自然は量的にではなく質的なものとみなされていました。 (P137)
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一般にキリスト教の世界創造論では、こんなふうに考えられています。つまり、世界は神によって創造されたものであり、したがって世界には最高の理性(Ratio)としての神の意図が摂理(ratio=理性的法則)として支配している。
一方で神は、世界創造の仕上げとして、みずからに似せて人間を創造し、それに理性(ratio)を与えた。従って、人間の理性は人間のうちにありながらも神の理性の出張所か派出所のようなものである。
その理性に神によって植えつけられた生得観念は、世界創造の設計図ともいうべき神の諸概念の不完全な部分的写しのようなものだということになる。したがって、人間の理性に生得的な観念と、世界を貫く理性法則とは、神を媒介にして対応しあっている。
人間が生得観念をうまく使いさえすれば、世界を底の底で成り立たせている理性法則を正しく認識することができるはずである。(P154)
サン・ドニのシュジェールが何を考え、その想いがどのようにして、シャルトルの「青の聖母」で具現化するか、一本の論理でようやく貫くことが可能になった。
それだけで、私にとっては本書の価値は、値千金です(満面の笑み)。
他にも、中世以降の部分も面白いのですが、そちらは私的にはオマケです。抜き書きもここまでで終了。