平安時代、第七十五代崇徳天皇の御代(1123から1141年)、平間兼豊・平間兼乗(ひらまかねのり)という武士の親子が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、 ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。しかし、これを読む限りでは本来的には弘法大師さんと直接関連があったわけではないんですよねぇ~。前もちょっと触れたけど、時代は中世でしょ。世の東西を問わず、やってることは一緒なんだよねぇ~。
兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、 日夜厄除けの祈願をつづけていました。
ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。
兼乗は翌朝直ちに海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。この地は「夜光町(やこうちょう)」と名づけられ、大師の浜の古い歴史を今に伝えています。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。
その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途中、たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、 ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。 これが、今日の大本山川崎大師平間寺の由来(おこり)であります。
兼乗は、この信仰のおかげで、晴天白日の身となり晴れてふたたび尾張の国に帰任しました。平間寺の開基である尊賢上人は保延二年(1136)弘法大師を篤く信仰されておられた鳥羽上皇の后・美福門院に平間寺開山の縁起を申し上げ、災厄消除と皇子降誕の祈祷を修行されました。その霊験たちまちに現われ、まもなく皇子(のちの第七十六代・近衛天皇)がお生まれになりました。これ、まったく厄除弘法大師のご霊徳と美福門院も殊のほかお喜びになりました。
このことを上皇にご奉告申し上げ、永治元年(1141)近衛天皇のお名によって、平間寺に、勅願寺のご宣旨が下されました。
爾来、皇室のご尊信も深く、以降、徳川将軍家の帰依も篤く厄除弘法大師のご霊徳はいよいよ天下にあまねく関東厄除・第一霊場として善男善女の参詣、あいついで跡をたたず、現在に至っております。
ヴェズレーでマグダラのマリアの聖遺物をここ掘れワンワンよろしく、発見して大聖堂を作ったのもそうだし、星が指し示した所を掘ったら、出てきた聖ヤコブの骨を祀ったサンチャゴ・デ・コンポステーラも右に同じ。日本の場合は、夢を見て海の光っているところに網をかけたら、大師様の像だもんね。
そしてそれらを祀った教会や寺では、次々と奇跡やらご利益やらが生じるのもまさに一緒。民衆は集まり、熱狂し、さらにその影響は広がっていく。
う~ん、この類似性は非常に面白いですね。しかも発端の時代は崇徳天皇の時代だもの。未だに日本を、そして天皇家を呪い続けている禍々しい祟り神にまでなられた方だし、まさに御霊会の主役じゃん! 先日の祇園祭のま・さ・に・・・・対象者だし(笑)。
他にも何か面白い縁起ないのかな? 川崎大師。これだけでは、ちょっとインパクト弱いよなあ~。それなのに、何故あれだけ大きな建物を作れたのか? また、大した来歴もないのによく勅願寺にまで出世したなあ~。これぐらいの歴史なら、日本中にははいて捨てるほどあるのに、そこの表に出ていないものの方が興味湧くなあ~。
そもそも血生臭い、崇徳天皇や鳥羽上皇が絡んでいた時の厄除けだからね。それなりに裏がありそうなんだけど・・・。結構、ヤバメの祈祷とかしてたりして・・・ダキニとかさ(ニヤリ)。
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