2006年08月01日

ゴシックのガラス絵 柳宗玄〜「SD4」1965年4月より抜粋

著作権が切れていないので、厳密にいうと問題があるのですが、あくまでも個人的なメモとして以下、「SD4」1965年4月 特集フランスのゴシック芸術より抜粋。

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【ゴシックの絵ガラス/柳 宗玄】絵ガラスの美
 
15世紀の大思想家である聖トマス・アクィナスが、「美とは眼を喜ばせるもの」(「神学大全」1)と定義づけたとき、彼は、具体的には何を考えていたのだろうか。彼の世紀は、ゴシックの大聖堂の世紀であり、それを飾る壮麗な絵ガラスの世紀であった。この世の何にも増して美しきものとして、彼は同時代のすべての人びとと共に、絵ガラス窓を考えていたに違いない。しかし、この絵ガラスを、「眼を喜ばせるもの」という程度に評したとすれば、それは、われわれには甚だ物足りないように思われる。

 今日、パリのサント・シャペルやシャルトル大聖堂の絵ガラス窓を前にして、われわれの受ける感動は、たんに喜びというようなものではない。およそ色彩芸術にして、これほどの強烈な印象を人間の視覚に与えるものがあろうか。色彩画家といわれるいかなる巨匠の大作とても、このゴシックの絵ガラスを前にしては、たちまち色褪せるであろう。金銀宝石(少なくともカロリング朝時代までは、これが第一芸術の素材であった)の輝きをもってしても、この色ガラスの絢爛たる輝には、比すべくもないであろう。それはまことに、色彩芸術の極致である。たんに芸術といわず、人間のなせる美の極致である、それを前にして、身のしびれるような強い感動を覚えない者はいまい。それは同時に驚愕であり、讃歎である。ともかくそれは、喜びというような程度の感情を遥かに超えたものである。この対象は、われわれがそれを手のうちにとってその美を味わい喜ぶには、あまりにも壮大である。ゴシックの絵ガラスは、むしろその巨大な掌の中にわれわれを掴みとり、それわれを圧し潰してしまう。その大いなる力の前にあって、われわれはほとんど自らの存在の意識をも失ってしまう。

 このとき、対象を感受するのは、もはやわれわれの眼ではない、心である。われわれの心情は地を離れ、遠く無限の天界に飛翔する。それは、同時に聖なるものの直観である。

 かくて絵ガラスは、本質的に宗教芸術なのである。それは、聖母子を表わしているからというのではなく、キリストの説話を描いているからというのでもなく、まさに色彩の歌い上げる絢爛たる叙情詩によって、宗教芸術なのである。神と無縁な者も、ゴシックの絵ガラスを前にしては、その宗教性を認めざるを得ないだろう。

 いったい、何故に、この絵ガラス芸術は、見る者の心をかくもゆさぶるのか。そこには、いかなる芸術の、そして技術の秘密があるのか。そしていかなる情熱が、この芸術を生み出したのか.

光と色彩の神学

ここでわれわれは、まずこの絵ガラスが作られた時代の人びとの言葉に耳を傾けよう。

 シャルトルの神学校長であったロワッスィのベテルスは、1200年頃こう書いている。「教会にあるガラス窓、太陽の明るさを透過させるガラス窓は、聖なる書を意味する。それは、われわれを照明することによって、われわれから悪を追い払ってくれる。」またほぼ同時代の著名な典礼学者、ドゥランドゥスは言う。「ガラス窓は聖なる書である。それは、真の太陽なる神の光を教会の中に注ぎ込む。つまり、それを民衆の心の中へ注ぎこんで、これを明るくするのである。

 これらの言葉をまとめると、絵ガラスは、たんに人間の感覚を楽しませる芸術品なのではなく、さらに深く、人間の心の奥深くまでに作用して、それを道徳的宗教的に浄化する力をもつ「聖なる書」である、ということになる。

ここで「聖なる書」というのは何か。「聖書」とは旧約新約の書をいうのであろうか。絵ガラス窓が「聖なる書」として、人びとの心を浄化するとすれば、それは絵ガラス窓に表現された聖書の主題の意味ゆえにであるか。それは、聖書の文字を読むのと同じ効果をもつものなのか。

 前述の神学者たちは、明らかに教会の絵ガラス窓一般について語っているのだ。その窓は、今日残るものを見ても、かならずしも聖書の場面だけを表わしているのではない。シャルトル大聖堂の例を見ると、聖人伝の場面も数多い。暦を示す十二宮の図像もある。さらに窓を寄進した組合の人びとの働く姿も、ほとんどすべての窓の一部に見られる。それらすべてが、「聖なる書」であるとすれば、その「聖なる」所以は、その主題にあるのではなく、その輝く色彩の効果にあるといわねばならない。ここでは、美が同時に聖であるのだ。当時の人びとが、主題の意味はともかく、給ガラス窓の美しい色彩の輝きを、そのまま神の光として見たことは、明らかである。

 神が光であるという考えは、なにもゴシック時代特有のものではない。東西両洋を問わず、たいていの宗教にこの種の考えが認められるが、西洋でもオリエント・ギリシャ各文明を通じて神=光(太陽あるいは月)の信仰が見出される。そういった異教の痕跡は、キリスト教の中にも明瞭に認められる。

 聖ヨハネ福音書にも、神は「すべての人を照らす真の光(1の9)という文章が見られ、聖アウグステイヌスも、神は「光のうちの光」という。光についての神学的解釈は、とくに12−13世紀に大いに進み、イギリスの神学者ロバート・グロステスト(1253年死、「光についてDe Luce」の著者)、イタリヤ生れの聖ボナヴェントゥーラ(1221−1274)、「理性論 De Intelligentis」(13世紀中葉)の未詳著者など、その他多数の学者が活動し、また東方のユダヤ・アラビヤ系の思想家達の影響も著しかった。
13世紀のキリスト教神学者達の光についての見解を総合すると、次のようになる。光には、まず「増加 mulplicatio」という特性がある。つまり瞬間的にあらゆる方向へ増加しながら伝播して行く力をもっている。次に、光はすべての行動力、運動の源である。ところで、神は、万物を増加させ、あらゆる運動を起こす力をもつもの、創造能力の根源であり、従って純粋な状態における光にほかならない。

 ひとつの物体においては、その完全性は、その物体に含まれる光の度合に依拠する。物体が輝かしければ輝かしいほど、それは美しく、貴く、そして聖なるものとなる。物体の輝きは、神の輝きへの参与である。

 宇宙にあって最も美しく、最も完全かつ高貴なものは天である。天は最も光に満ちた存在だからである。天は、いわば霊界と感覚界の仲介をなすものである。

 地はこれに対して、最も不透明でかつ重く、最も賎しいものである。しかし、地とても、光のエネルギーと美とを保有しているのである。なぜならば、地中のものを擦り磨くことによって、それに輝きを与えることができるからである。砂や灰からガラスを作ることができるし、また地中から輝く大理石や貴金属、さらには宝石類を取り出すことができるではないか。

 ところで、光がある物体にぶつかって跳ね返るとき、それは「輝き」あるいは「色彩」と呼ばれる。すべての色彩は、多かれ少なかれ輝かしく、またすべての輝きには、多かれ少なかれ、色をもっている。しかし厳密にいえば、輝きは、とくに光る物体がもつものであって、その物体は輝きによって可視的になるのであるし、色彩は、とくに地界の物体を認知できるようにさせるものである。そこで、眼に見える色彩というものは、2種の光の出会いから生まれるものである。そのひとつは、不透明な物体の中に閉じ込められているものであり、他は透明な空間を通って射してくるものである。後者が前者を現実化し可視化するのだが、色彩は、それらの相互的限定から生まれるのである。色彩は、光の量、強さ、純粋さの度合によって、白へ、あるいは黒へと接近する……。

 以上が、ゴシック時代の神学者達の光および色彩に関する理論の要旨であるが、ここから、重要なポイントの幾つかを抽き出そう。まず、光がたんに物理学的だけでなく、形而上学的、さらに神学的に解釈されている点が注目される。光は、物理学的な意味での輝きであると同時に、美であり聖である.

それは、最も純粋な形においては、神そのものである、物体すべても光を含み、その度合に応じて、美しく、貴く、聖なるものとなる。色彩もまた、光の作用によって生まれ、その含む光の度合によって変化する.

 こうして、美しきものとは、輝くもの、輝く色彩をもつものであり、それはまた聖なるものであり、神的なものである。逆にいえば神あるいは聖なるものは、輝くもの、輝く色彩によって可視化され、表現される。つまり、図像学的主題ではなくて、まず素材の性質が問題となるわけである。メロヴイング朝からカロリング朝にかけて、あるいはまた、東方キリスト教社会において、神ないし聖なるものの表現(十字架、聖遺物器、さらには聖杯と聖盆その他)のために、常に金(ときには鍍金された銀)、宝石、ガラス、エマーユなど、色が美しく同時に強い輝きを帯びた素材がもっぱら利用されたのは、そのような素材が、ア・ブリオリに聖なる性格をもつものと解されたからに他ならぬ。

色彩美の探求

こうして、光と色彩が形而上学的、神学的に論じられている限り、芸術は本質的に宗教芸術であった。光と色彩の探求は同時に聖なるものの探求であり、芸術の素材としては輝く色彩をもつものが第一とされたわけである。これは直ちに芸術表現の様式に関連する。つまり素材を扱う場合、作者は、素材における輝きや色彩の効果をいかにして最大限度に発揮させるか、ということに営々その努力を集中する。メロヴイング期からカロリング朝にかけての第一芸術である金宝石細工を見るとよい。それは具象的な主題の表現のためには殆んど利用されず、もっぱら色彩と輝きの効果を最大限度発揮するように工夫されている。それゆえにその形は抽象的なのであり、文様的なのである。

いな、抽象的一具象的、文様的一写形的などという形態の問題は、ほとんどそこでは意識されていない。すべてが色彩の問題であり、光の問題なのである。われわれの時代でさえ、たとえば指輪や首飾りのごとき、宝石をもって人間や自然物を表現するというのではなく、宝石を、ただその輝く色彩の効果を最大限度発揮させるために、美しく磨き上げる。これは、メロヴィング朝以降の中世色彩美術の理念をそのまま今日に伝えているものとして興味深い。

 さて絵ガラス芸術の場合、輝く色彩の美しさが、どのような技法によって探求されているか。まずガラスそのものである。着色以前のガラスである。いかなるガラスが美しいか。われわれの時代のある人びとは、透明な物体としてのガラスの純度を問題にするであろう。しかし科学的に純度の高いものは、美的には無意味である。光線の透過度が高ければ高いほど、ガラスは無に近くなる.これに反して、爽雑物や気泡を含む不純なガラスは、その不純さが、光線に抵抗し、これに強弱を与え、その方向を乱す。その不純性ゆえに、ガラスはその存在性を獲得し、神学的な言い方をすれば、自然光を超自然光に変質させる能力を獲得するのである。

 具体的なガラスの製法に関しては、かのテオフィルスの著なる「諸技芸大要」の第2の書に詳しい。この書はおそらく1100年頃、ドイツのベネディクト派修道士へルマルスハオゼンの、ロゲルスの手になるものと推測されており、われわれの知る絵ガラスの時代(おおむね12世紀中葉以降)とは多少のずれがある。しかしおそらく、技法的には両者はさして隔りがないと思われる。それによると、ぶなと羊歯の灰、および川砂を2対1で混合して用いるという。この種のカリ性のガラスは12世紀に一般的であるが、13世紀に入って、ソーダ性のガラスが次第に使用されるようになった。これによってガラスの純度は増し、厚みも減り、製法は容易になり、14世紀には、前者をほとんど駆逐してしまったが、それによって、ガラスは無性格的なものへと堕してしまった。しかしこの場合、絵ガラス作家が、ガラス製法の科学的な進歩に盲目的に追従して行ったかどうかには、疑問がある。製造の容易なソーダ・ガラスを知っていたにかかわらず、美的効果のゆえに、製法のもっと原始的なカリ性ガラスを選び用いたのだと推測する人もいる。われわれの時代の絵ガラス作家が、故意に不純な分厚いガラスを用いる傾向にあることを思い、また当時の美的理念が輝く色彩の効果という点にまず置かれていたことを考えれば、これは大いにありうることである。

 着色に関しても、非常な配慮がなされたに違いない。たとえば、サファイアを混用したとサン・ドニ修道院長シュジュールが伝えている青ガラスについていえば、とくに12世紀のものが明るく輝き、13世紀に入るとそれがかなり暗くなってくる。良質の着色剤である材料が欠乏したゆえか、製造の秘法が何等かの理由で忘れられてしまったせいか、あるいはまた、色彩の輝きを求める熱情の薄れたゆえか。

 しかし一般に青ガラスは光線の透過度がよい。これに対して透過度の悪い赤ガラスをどのように処理すべきか。そこで当時の人は、特殊な赤ガラスの製法を案出した。簡単に説明すると、赤銅の細片を着色剤に用いて得た赤ガラスの薄層を自ガラスの表面に付着させるのである。こうして色の重い本来の赤ガラスに代わって、光の透過度の高い、美しい赤ガラスを得たのである。

 以上は各々の色ガラス自体の問題であるが、これらのガラスをいかに組み合わせるかとなると、問題は更に複雑である。その複雑さは、タブロー画などの場合の比ではない.なぜならば、それぞれのガラスはその材質からいって、透過する光をさまぎまの異なった仕方で放散させるからである。これについて、19世紀の建築家にして、中世美術史家なるヴィオレ・ル・デュックが、その「建築学辞典」第9巻の絵ガラス(vitrail)の項で、明快な説明を試みている(第1図参照)。つまり、黒い幕に正方形の穴をあけ、そこにさまざまの色ガラスを俵め込んでみると、その輪廓はかならずしも正方形でなくなるのである。とくに青ガラスは青い輝きを輪廓外に放散させる力が強い。光の屈折率の度合いのしからしめるところである。

 実際の絵ガラス窓は、適宜に切った色ガラスの断片を、工字型の断面をもつ鉛の枠を用いて組み合わせるのだが、この場合、鉛枠は、色彩の輪廓を描く黒い線の役割を演ずる。それは、前述のような、色彩の輝きの放散による色彩の混合をある程度防ぐ役割を演ずるわけである。しかし、色彩の放散は、鉛の項界線を超えてなお強烈に四方に作用する場合が多い。ことに太陽光線が強いと、この現象はなお著しくなる。

 およそ相互に隣り合った色彩は、相互に種々の作用を及ぼす。赤一緑、橙一青など、いわゆる補色的関係にある色彩は、静的な状態においては、お互いの色彩価値を強め合う。しかし、それが境界を破ってお互いに侵食し合うとき、そこに色彩の混乱が起こる。

 混乱といったが、それは必ずしも美的にマイナスなのではない。赤と黄とが並び合って、お互いに影響しあうとき(それぞれの色ガラスに放散性がなくても、一定の距離をおいてこれを見るとき、人間の眼の網膜において色彩の相互侵略がなされる)、赤は朱となり、黄は橙色に変じ、それぞれが温かみを帯びてくる。これは、美的効果からいえば、プラスの例であろう。

 赤と青の場合はどうか。青の側は、紫色に変ずるであろう。赤の側は、とくに青ガラスの放散性が態いから、かなり深くその侵食を受け、暗く重い1種の茶色に変ずるだろう。こうして、境界線からかなり離れた部分はともかく、境界線の附近は、混乱した重い色彩によって占められるだろう。

 色彩効果について驚くべく敏感であった中世の給ガラス師たち(おそらくわれわれの時代の画家よりも遥かに敏感であったろう)は、この問題について、極めて巧妙な対策を講じている。ヴィオレ・ル・デエッグの観察によると、色彩の混乱を防ぐ手段として、グリザーユが巧みに利用されている。グリザーユという語はフランス語のグリ(灰色)から派生した言葉で、一般には灰色の濃淡だけを利用して描かれた単色画(中世末紀にかなり現われている)を指すが、絵ガラスの場合、色ガラスにあとから焼きつけられた黒褐色の描線を意味する。つまり、個々の色ガラスの断片を組み合わせて何等かの形象や文様を表現する場合、境界をなす鉛枠は黒く太い線の役割をなすが、人間の目鼻ロ、毛髪、衣の襞など、細部をこれで表現することは、よほどスケールが大きくないと、できない。そこで銅の酸化物などの粉末を液体に溶かしてガラス面に塗りつけ(テオフィルスによれば、銅、ギリシャのサファイア、および緑色ガラスを紫斑岩の板の上で等量に砕き混ぜ、これを葡萄酒あるいは尿で溶いて用いるという)火に入れてこれを焼きつけるのである。

12〜13世紀の作品を見ると、とくに青ガラスの上にグリザーユが多用されているが、これは造光性のよい青ガラスの造光度を抑えて、赤その他の色ガラスとの明るさの均衡を保たせるためと、青ガラスの放散性を抑えて、他の色ガラス(とくに赤)との色彩の混乱を抑えるためなのである。しかしある場合には(第2図)、逆に青に接近する部分に、ある方法によってグリザーユを施し(その方法については第2図の説明参照)、それによって赤の純粋性を保とうとするのである。

 これは色彩の混乱を防ぐためにとられた巧妙な方法のひとつの例であるが、絵ガラス窓に、どのような主題が表現されようと、その色彩の輝きを美しくするために、絵ガラス師たちは、あらゆる工夫をこらしたようである。その工夫の中には、われわれになお解読されぬものが、なお数多く残っているに違いない。

ゴシック建築と絵ガラス

ゴシック時代になぜ絵ガラスが発達したかということは、一般に建築構造の変化によって説明される。建築が支壁構造から骨組構造に移ったため、従来ロマネスク建築に重要な意味をもった壁が次第に消えて、窓と柱との建築に変わったこと、従って壁面に展開される色彩芸術である壁画に代わって絵ガラス窓が発達したのだと説明される。

 しかし、ロマネスク建築の窓にも、絵ガラスが用いられていたことは、古い例としては南ドイツのアウグスブルク大聖堂のもの(1130年頃)を見てもわかる。1140年代以降より、12世紀の遺例はことにフランスに多く、サン・ドニ修道院聖堂(祭室小聖堂)、シャルトル大聖堂(とくに西窓)、ル・マン大聖堂、ポワティエ大聖堂、シャロン・スュール・マルヌ大聖堂などのものがある。それらは、建物の方は、交差穹窿を頂くゴシック建築の性格を強めていったにもかかわらず、絵ガラス芸術の様式としては、ロマネスク的性格が極めて強い。13世紀のもの(シャルトル大聖堂、パリのサント・シャペルおよびノートル・ダーム、サンス大聖堂、ブルジュ大聖堂、イギリスのカンタベリ大聖堂など)は、一般にゴシックと呼ぶに人びとは蹄躇しない。 そして絵ガラス芸術を、ゴシック時代の芸術と考える人は多い。絵ガラス窓が最も発達したのは、量的にいってこの時代だからである。

 しかし質的にみるとき、おそらく何人も12世紀のものを上位に置くだろう.

スケールの大きさこそ13世紀のものに及ばないが、ガラスそのものの明度、色彩効果など、総合的に見て、ロマネスク的な性格の強い12世紀のものは、いかなる他の時代の作品よりも、上位にある。

 思うに、12世紀には窓がまだそれほど大きくなく、人びとは心をこめて色彩効果を探求することができたのだろう。窓が極めて大型化し、また巨大な大聖堂が数多く建造されて、厖大なる数の絵ガラスが要求されたとき(今日残るシャルトル大聖堂の絵ガラスだけでも面積3000平方米を越えるという)、人びとは次第に量産に力を奪われるようになったのだろう。それでも、同時代の神学者達の理論に見られるように、光と色彩の探究に対する誠実な態度は、なお失われなかったのである。この時代には、彫刻の方面では、シャルトル南北両ファサード、アミアン大聖堂、ランス大聖堂などに見られるように、自然主義様式が極度に進んでいたのだった。それにもかかわらず、絵ガラス窓においては、自然主義ないし写実主義はなお全く省みられず、人びとは依然として輝く色彩の芸術の探求へとその誠実な努力を傾けていたのだった。建築はますますこの色彩芸術のために、その舞台を広げて行った。窓を極度に発達させたゴシック建築は、絵ガラス芸術のために生まれ、絵ガラス芸術のために存在したといっても、過言ではあるまい。何故なら、当時の人びとにとっては力は、聖なる光を求めることが、最高の務めであったからである。

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関連ブログ
「SD4」1965年4月 特集フランスのゴシック芸術 鹿島研究所出版会
「ステンドグラスの絵解き」志田政人 日貿出版社
「ステンドグラスによる聖書物語」志田 政人 朝日新聞社
posted by alice−room at 00:16| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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