2006年08月02日

ゴシック空間の象徴性/高階秀爾~「SD4」1965年4月より抜粋

「SD4」1965年4月 特集・フランスのゴシック芸術より抜粋。


ゴシック空間の象徴性/高階秀爾

イタリアの建築史家ブルノー・ゼーヴィ教授は、ゴシック建築の空間の持つ特性を、ふたつの方向性の相剋から生まれるFラマチックな緊張感にあると指摘している。ふたつの方向性とは、言うまでもなく、水平性と垂直性ということである.

「‥・ゴシック建築においては、建物の軸に添った水平方向と天に向かう垂直方向とのふたつの方向性が、無言の、しかし力強い対立の中に共存し、せめぎ合っている。視線は、ふたつの空虚な広がり、ふたつの対立する主題に、同時に惹きつれられるのである….」(『建築の見方』1959年刊)。

 だが単にふたつの方向性の相剋ということであれば、すでにロマネスクの時代に、その萌芽を見てとることができる。いやさらに時代をさかのぼって、8世紀から10世紀にいたるいわゆる「前ロマネスク時代」に、きわめて素朴なかたちながら同じ問題が提出されていたといってよい。東ローマ帝国からバジリカ式のプランを受け継いだイタリアの建築家たちが、例えばプレシアのサン・サルヴァトーレ教会で、あるいはミラノのサン・ヴィンツェンツオ・イン・アラート教会で、合唱壇の天井を身廊部のそれよりもひときわ高く作ろうと試みたとき、ラヴェンナのサン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会に見られるような一貫した水平方向のリズムは、突如として切断されてしまった。ゴシック空間の持つふたつの方向性の相剋は、この時にすでに予告されていたのである。

 したがってゴシック空間の持つ特性は、単にふたつの方向性の共存対立のみにあるのではない。その共有対立が、人間の尺度を越えた次元でぎりぎりの均衡を実現している点にこそあるのである。

 ゼーヴィ教授は言う。「…建築の歴史においてはじめて、芸術家たちは人間の尺度と挑戦的な対立関係にある空間というものを構想した。それらの空間は見る者の心の中に観照的静謐さをもたらすのではなく、不安定さと、異様な情動効果と、矛盾する呼びかけを、すなわち葛藤状態を生み出すのである・‥」。(同上)
 ロマネスクの建築空間は、人間をそのまま受け入れ、包みこんでくれる。

どんな山奥にある修道院でも、ひとたびその中に足を踏み入れれば、われわれの心はその空間と共鳴し、同調して、充実した対応関係が生まれる。空間は人間を包みこむと同時に人間によって満たされ、人間は空間に取り囲まれながら空間を所有する。あえて言えば、そこには人間と建築とのひそかな共謀閑係が成立するのである。

 だがゴシックの大聖堂の空間は、町の真中にありながら冷たく人間を拒否しているように思われる。払はポーヴェの大聖堂の内陣に立って、その天井を支えるアーチを見上げた時の畏怖に似た感情を、はっきりと思い出すことができる。ほとんど丸ビルの2倍に近い高さの何もない空間が、私の頭上に傲然とのしかかっているのだ。もしそれが天に向かって開かれているものであったなら、私は感嘆はしても恐れはしなかったに違いない。無限の広がりと結びつくことによって空間は消滅し、空虚だけが残るからである。だがポーヴェのあの大聖堂の内陣は、天に向かって聳えながら、天に向かって閉ざされていた。閉ざされることによって、空間というものの重みをまざまざと感じさせてくれたのである.

 巨大な空間の前で人間が小さく感じられる――、そのような単純なものではない.人間が小さく感じられるのではなく、私自身が押しつぶされ、否定されてしまうのである。小さなものが大きなものを前にして感じる恐れではない。自己の仝存在が消されてしまうことに対する畏怖である。底知れぬ深淵というものがあるとすれば、その緑に立たされた時に覚える感情がそれに似たものであろう。かぎりない喪失感に捉えられながら、人間は天に向かって落ちて行くのである。

 だがもちろん、人間の尺度を越えたスケールというものも、ゴシック以前になかったわけではない。エジプトにおいても、巨大なものへの憧れは存在していた。超人間的な尺度ということだけでは、ゴシックをその他の建築空間から区別する指標にはならない。もしゼーヴィ教授の指摘するとおり、ふたつの方向性の対立葛藤と、超人間的なスケールというものがゴシック空間の特性であるとしても、それらのいずれかだけでは、ゴシック空間の真の独創性は理解し得ない。重要なのは、それらふたつの特性――それまで一度も同時に存在したことのないふたつの特性――が、ゴシックの大聖堂のなかにひとつに統一されて存在しているということである。その両者が同時に実現されているという点にこそ、ゴシックの建築家の偉大な創造を読みとることができるのである。

 ではそれら二つの特性はどのように結び合わされ、そしてその空間はどのような意味を持っているのだろうか。

 第一の問いに答える前に、われわれはまず建築の内部空間における方向性のあり方と意味を探らなければならない。すでに触れたように、方向性を持った内部空間は、キリスト教の教会堂とともに登場した。方向性というのは、単に動線が確立しているということだけではない。確立された動線が、たしかな意味づけを与えられているということである。別の言葉で言えば、空間が単なる物理的場ではなくて、精神的価値を与えられているということである.しかも、そのような「意味づけ」は、存在する空間と無関係に外から与えられたのではない.空間そのものが自己の意味づけに参与している。空間が自己自身を超えているのである。

 そのことは、初期キリスト教の時代の代表的バジリカ・プランの教会堂、例えばローマのサンタ・サビーナ教会、またはラヴェンナのサン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会と、その原型となったローマ時代のバジリカ建築、例えばバジリカ・ウルピア(2世紀初頭)またはボンベイのバジリカとを比較してみれば、明らかであろう。

 ローマのバジリカ建築というのは、さまざまなヴァリエーションはあるにせよ、基本的には、四面を壁で囲まれた長方形のプランの内部に天井を支える柱列を持ったものである。入口は普通の場合、ふたつの長辺のそれぞれ中央に設けられている。4辺を壁で囲うのは、外部から切り離された建築空間を作り出すためである。内部に柱列があるのは、むろんその内部空間をできるだけ広いものにするためであったろう。バジリカの起源については、取引場、裁判所、宮廷儀式場等、さまざまな説がなされているが、いずれにせよ大勢の人びとが集まって何かをするための集会場であったことはたしかである。初期キリスト教は集会場としてのこのバジリカの機能を巧みに利用して自己の教会堂の基本プランを定めた。言うまでもなく教会堂は大勢の信者が集まってさまざまな儀式を行なうための場所であり、それも俗世界からは切り離された、すなわち外部から遮断された神聖な場所であった。パジリカという形式がこの目的のためにまことに都合よかったことは言うまでもない.

 先ほど挙げたサン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会とボンベイのバジリカのプランを比べてみると、両者は(スケールはもちろん異なるとしても)いずれも基本的に同じ原理にもとづいて成立しているように思われる。しかし、それでいて両者のあいだには、ひとつの根本的な差異がある。

 バジリカ建築では、入口は長辺の中央にある。その入口から入ったとき、内部の空間は左右に均等に存在している。それは人間が一歩足を踏み入れた時から、中心点の左右に等しく分割された安定した不動の空間を見せる.このことは、入ロが4辺のそれぞれ中央に、合計四つある場合でも基本的には変わらない。四つの辺に囲まれた空間は、お互いに向かい合う2辺の中心を結んだ長短2本の軸線のそれぞれに対して相称であり、したがってそれら2本の対称軸の交わる点に1箇の中心を持つ.すなわちそれは、どんなに大きなスケールを持っていようと、本質的に安定した不動の空間なのである。

 これに対し、サン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会は、長方形の長辺はすっかりこれを閉ざし、短い辺の一方に半円形のアプスを、それと向かい合うもう一方の辺に入口を設けた、一見きわめてささやかな変化である。建物の構造は基本的にはいささかも変わっていない。しかも、そこには新しい空間が登場した。人はこの建物の内部に一歩足を踏み入れた時、自己の前に、一番奥の祭壇に向かって一直線にずっとのびて行く空間と直面する。事実そこには、もはや空間をその1点につなぎとめるような中心点はない。西側の入口と東側のアブスを結ぶ軸線だけが存在し得る唯一の対称軸であって、人間は現実においても心理的にも、その軸線に添って入口から祭壇へと進まざるを得ぬ。空間の持つ方向性とは、そういうことなのである。

 教会堂の入ロというのは、言うまでもなく、内部空間と俗世界との接触するところである。あるいは両者の分かれるところと言ってもよい。そして祭壇は神のための場所である。入口から祭壇に向かって人を導く動線は、同時に人間世界から神の世界へと向かう信仰の道でもある。教会堂の内部の空間は、その動線との関係において、より人間世界に近い部分から、より神の世界に近い部分へと「価値づけ」られる。空間の「意味づけ」というのは、まさにそのことにほかならない。

初期キリスト教がバジリカ建築に与えたこのような方向性は、その後のキリスト教建築の基本的テーマとなった。初期キリスト教建築から「前ロマネスク」へ、前ロマネスクからロマネスクヘ、そしてロマネスクからゴシックヘというその発展の歴史は、入口から祭壇へというこの基本的主題の上に組み立てられた壮麗な変奏曲と言ってもよい。いやあるいは、サンタ・サビーナ教会や、サン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会に見られるような、あまりにも単純な一直線の方向性に対して加えられたさまざまなチャレンジ(挑戦)とその解決の歴史と言った方がいっそう正確であるかもしれない。そしてひとつのチャレンジが解決されるごとに、空間はそれだけ豊かさを加えて行くのである。

 最初のチャレンジは、サン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会に見られるような純バジリカ式プランを、ラテン十字形のプランに変えた時になされた。

言うまでもなくラテン十字形のプランというのは、入口から祭壇へ向かう動線に添った身廊部に、祭壇に近いところで左右に袖廊を加えることによって成立する。すなわち、入口から祭壇へと向かう一直線の流れは、身廊と袖廊の交わる部分において、文字通り十字路に出会ってせき止められる。西から東へ向かう身廊の方向性に対して、南と北に向かう紬廊の方向性が待ったをかけるのである。それは、人間の世界から神の世界へと向かう基本的方向性が出会った最初の難問であった。

 しかもその難問は、当時の屋根の架構がカマボコ型の円筒穹窿に頼っていたことから、いっそう困難にさせられた。身廊から祭壇までをずっと覆う円筒穹窿と、抽廊を南から北へ覆う円筒穹窿との交差する場所をいかに解決するかという問題である。

 ラテン十字形のプランが提出したこのチャレンジを正面から受け止めて、さまざまの試行錯誤の後ついにこれを解決したのは、オットー朝の建築であった。その過程をこまかく跡づける余裕も必要も今はないが、詳細はルイ・グロデッキーの優れた研究『オットー朝建築』Louis Grodecki, Architecture ottonienne,Paris,195 を参照していただけばよい.ここではただ、その課題の最も優れた解決のひとつとして、例えばあのヒルデスハイムの聖ミハエル教会が挙げられることを指摘するにとどめる。

 ラテン十字形プランのチャレンジを解決したオットー朝建築は、その解決のゆえに今後はあらためて第2のチャレンジをもたらす結果となった。身廊と紳廊との交差部分を高くすることによって導入された垂直性のリズムの挑戦がそれである。ラテン十字形プランが先ずもたらした問題は、入口から祭壇へと向かう方向性を、同一水平面においてせきとめようとする袖廊の方向性であった。だが第2のチャレンジは、入口から祭壇へと向かう動きを同一垂直面でせきとめようとする。南北に走る袖廊の方向性が、西から東へという基本的な方向性を曲げてはしまわないまでも少なくともその流れに対するブレーキとなったように、垂直方向に向かう上昇のリズムも、基本的方向性を曲げてしまわないまでも、少なくともその流れに対するブレーキの役割は果たす。それにもかかわらず基本的方向性を保ち続けようとすれば、垂直方向のリズムを受け入れながら、そのリズムをも基本的方向性に参加させなければならない。すなわち、壁から天井までを含めて、内部空間全体を新しく有機的に組織しなおさなければならない。ロマネスクの建築家たちが行なったのは、まさにこのことにほかならなかったのである。

 サンタ・サビーナ教会にしても、サン・タポリナーレ・ヌオーヴォにしても、その内部空間はただ軸線の方向においてのみ組繊されている。入口から祭壇へと向かうアーケードの美しいリズムは、天井とは完全に切り離されている。だが例えばヴェズレーの聖マドレーヌ教会においては、入口から祭壇へと向かう身廊両側のアーケードを構成するアーチは、そのまま壁の上部から天井までを組織する基本単位となっている。ロマネスクの建築においてはじめて、内部空間はひとつの生きた有機体となるのである。

 水平面における第1のチャレンジ、垂直面における第2のチャレンジに続いて、ゴシックとともに第3の、そして最後のチャレンジが登場する。それがスケールのチャレンジである.

 ゴシックの壮大な大聖堂を生み出した技術は、原理的にはロマネスクの建築家にも知られていなかったわけではない。事実、アーチの出発点における水平力を弱めるための尖頭アーチの使用も、屋根の荷重を壁の一部に集中する技法も、時には筋骨穹窿まで、ロマネスクの建築に指摘することができる.

したがって、ゴシックはロマネスクが初歩的なかたちで試みたものを完成させ、徹底させただけであり、それゆえゴシックはロマネスクの延長線上にあるという見方も、技術的側面に関するかぎり、それほど見当違いとも言えないであろう。だが、その結果生まれてきたゴシックの空間は、決してロマネスクの空間の延長線上にあるわけではない。両者のあいだには、単なる「程度の差」以上に、本質的な「質の羞」があるのである。

 そのような「質の差」は、スケールの変化によってもたらされた。建築においては、単なる尺度の差が、時に決定的な次元の羞をもたらす。それは洋服のサイズのように、同じ型が大きくなったり小さくなったりするのではない.大きくなり、あるいは小さくなることによって、型そのものの意味が違ってきてしまうのである。ゼーヴィ教授の言菜を借りるなら、「ギリシャの神殿を半分に縮少すれば、それは単なる玩具になってしまう。また倍に拡大すれば、見るに堪えないネオ・ヘレニズムの産物となってしまう」のである。

 ロマネスク建築からゴシック建築への内部空間の拡大は、このような「質的変化」をともなうものであった。基本的には、ゴシックの建築においても、ロマネスクの場合と同じように、水平方向と垂直方向と、ふたつの方向性の統一が課題であった。だがその統一が人間の尺度を越えたスケールにおいて求められるところに、ゴシックの空間のドラマがある。

 初期キリスト教時代や、前ロマネスク時代においてはもちろんのこと、ロマネスク時代においても、建築の各部分はそのまま人間の尺度と結びついていた。西正面を入ってから祭壇の方へ進むにつれて、アーチも、壁も、窓も、人間の歩く動きをそのまま受け止めながら空間を展開して行く、人はロマネスク建築の内部においては、まさしく自分のために造られた空間の中に抱かれているという安心感を持つ。だがゴシックの建築においては、そのスケールは冷たく人間を拒否する.拒否された人間は、眼の前に広がる巨大な空間に暈惑されて、ほとんど不安に近い感情を覚える。

 もちろん、そのような不安感は、単にスケールの大きさだけからくるのではない。われわれはローマのパンテオンやコロセウムに対しては、決して不安も、めまいも感じないからである。また、エジプトのビラミッドを前にして不安を覚えるものもあるまい。ローマやエジプトの建築は、巨大ではあっても、それ自身で完結し、安定し、静止している。別の言い方をすれば、自己の中に中心点は持っていても、方向は持っていない。したがってわれわれは安心してその巨大さを嘆賞することができるのである。

 だがゴシックの内部空間は、それ以前の教会堂と同じようにはっきりした方向性を持っている。方向性を持っているということは、それ自身で完結したものではなく、人間の参加を要求するということである。われわれはロマネスクの建築の場合と同様に、ゴシック建築においても、建築空間が潜在的に持っている動きを、自から実現してみたいという衝動に駆られる。だがそのとき、空間はその超人間的なスケールによって人間の参加を拒否する。人間を誘いながら人間を拒否する、そのような不気味な冷たさがそこにはある。
人間の方から言えば、引きずりこまれたいという欲求と、しかしそこには人間を受けとめてくれる何ものもないという不安とを同時に、同じくらい強く感ずる。ゼーヴィ教授のいう「不安定さと、異様な情動効果と、矛盾する呼びかけ」とは、おそらくこのようなものに違いあるまい。

 ではゴシックの建築空間は、不安定と矛盾に満ちたものであるのか。むろんそうではない。それはお互いに相対立するふたつの方向を極度におし進めながら、最後のぎりぎりのところで見事な均衡を保っている。ロマネスク空間においては、軸線に添った水平の方向性も、上に向かう垂直の方向性も、ともに人間の尺度に結びついていた。ゴシック空間においては、水平性も垂直性も、いずれも人間の尺度を越えたスケールで実現されている。無限に天空に落ちて行くようなその垂直方向の動きを辛うじて支えているのは、同じようにかぎりなく奥に向かって進んで行く水平方向の動きだけである。そこではもはや人間的なものを媒介とするのではなくて、空間そのものが曲芸師のような微妙な均衡のアグロバットを演じているのである。

 とすれば、ゴシック空間は、お互いにバランスを保ち合っているこのふたつの方向のいずれかが欠けても、たちまち均衡を失してしまうであろう。今にして私は、あのポーヴェ大聖堂の内陣で私の感じた畏怖を、はっきりと理解することができる。その畏怖は、単にフランスで最も高いその内部空間の高さだけに由来するのではない。その高さの重みに対抗し得るだけの水平性を持たないということが、何よりも大きな理由なのだ。ポーヴェの大聖堂は、1247年に起工されて以釆、多くの困難を重ねて合唱壇とその周囲の部分だけを完成したのみで、今日にいたるまで身廊部は造られていない。人間離れのしたその「高さ」の重みを支えるに足るだけの水平性の力を、それはついに持ち得なかった。当然その中に入った者は、その「高さ」の重みを一人間の尺度ではとても支えきることのできない空虚な重みを一一身に引き受けねばならない。私の感じた無力感と畏怖とは、そのような努力の空しさに対する絶望感からきたものではなかったろうか。

ゴシック空間の持つ圧倒するような力が、実はふたつの相対立する方向性の葛藤と均衡の上に成り立っているものであることを、ゴシックの建築家たちはほとんど本能的に理解していた。事実、12世紀中頃からほぼ百年間にわたる探求の時期は、これらふたつの方向性を、いかにしてバランスを保たせるかというさまざまな可能性の追求をはっきりと示している。もちろんそのバランスというのは単なる妥協であってはならない。両者の力をそのぎりぎりまで発揮させながら、しかも最後の一点で均衡を保たせるような、そのような解決でなければならない。当然、探求期のゴシック大聖堂は、それぞれの方向性をできるだけ強調しようとする傾向を見せている.その結果、シュジュールのサン・ドニ教会から始まって、「古典的ゴシック」の最も完成されたかたちと言われるアミアン大聖堂にいたるまで、その間のゴシック大聖堂群は、そのプランにおいてすでに、軸線に添った水平性を強調するものと、逆に垂直性を強調するものと、はっきり二つのグループに分けることができる。 

ひとつは、西正面入口から祭壇まで一直線に向かう方向性を強調するあまり、裾廊すらなるべく目立たないように、時には完全に身廊部の中に取り込んでしまって、垂直方向のシンボルである尖塔は、入口両側のふたつだけにかぎろうとする傾向である。すでに、1140年頃から造営され始めたサンス大聖堂のプランが、ほとんど申訳程度の袖辟を持つだけで軸線方向を極度に強調しているし、1170年頃に起工されたマントのノートル・ダム教会も、1220年頃に起工されたパリのノートル・ダム大聖堂も、同じように「神廊拒杏」と「塔の制限」という傾向を見せている。そしてその流れは、バリのノートル・ダムに対する対抗意識から造られたプールジェの大聖堂にいたるまで、明白にあとを引いているのである。

 これに対し、ほぼ同じ頓に、東西の軸線の方向性を故意に切断しようとするプランが、一連の教会堂にはっきり認められる。西正面から東側の祭壇まで向かう水平の方向性を妨げるものは、すでに見たとおり、ひとつは南北に走る袖廊の強調であり、もうひとつは垂直性の強調である。事実、早くも1160年、サンス大聖堂よりわずかに遅れて着工されたラン大聖堂のプランが、その傾向を強く見せている。袖廊は思い切って南と北に突き出され、その上ご丁寧に、西正面入口の塔と同じ高さの塔がつけられている.もともとラン
の建築家の考えでは、このような塔を全部で七つ建てるつもりであったという。しかしそれと同時に、身廊両側の壁面櫓成を見てみると、プランにおいて水平性を強調しているサンス大聖堂では、主要な基柱が床から天井アーチの出発点まで途中で切れることなく1本に続いており、したがって壁面は2本目毎の基柱によって垂直に区切られるという、プランとは逆の垂直のリズムを見せており、またプランにおいて垂直性を強調しているラン大聖堂では、アーケードを支える基柱とその上の円柱がはっきり別になっており、その上、
アーケード、ギャラリー、トリフォリウム、窓と4層に分けられた壁面の各層の項目の帯が柱をまわってずっと水平に続いており、つまりプランとは逆に水平性を強調するという構成を見せている。ここにも、ゴシックの建築家たちの微妙なバランスの感覚を見てとることができるだろう.

 ランにおける垂直性強調の傾向は、ただちに、シャルトル、ランスによって受け継がれた.シャルトレ大聖堂(1194年頃起工)の最初のプランは、全体で9本の塔を考えているし、ランス(1211年起工)ですら、7本の塔が計画されていた。つまり12世紀後半から13世紀初頭にかけてのゴシック空間の探求は、軸線方向の水平性の強調か、あるいはそれに対する抵抗かというふたつの流れを持っていたのである。

 このようなふたつの流れが、ようやくひとつに統一されたのは、アミアンにおいてであった。事実1220年に起工されたアミアン大聖堂のプランは、塔は西正面の2本にかぎり軸線の一貫性はこれを保ちながら、身廊部は3廊形式、袖廊部より奥は5廊形式を採用し、その境目に階段をつけて袖廊の意味を強調するという巧みな解決方法を見せている。アミアン大聖堂のプランが、ゴシック建築の「古典的なるもの」と考えられるのも決して偶然ではない。

 同じような矛盾対立する要素の葛藤と均衡は、その他の部分にも数多く見られる。身廊両側の壁のエレヴェーション・プランがそうであり、それと関連して基柱の柱身の構成がそうである。だがここでは、もうひとつの例として、西正面都におけるバラ窓のコンポジションを挙げよう。

 天に向かって高く聳える尖塔と並んで、バラ窓はゴシック建築において最も人眼につくものであり、最も華やかな存在である。しかしながら、実はこのバラ窓は、ゴシック建築の本質と正面から対立するものであった。なぜならば、水平性、垂直性いずれにおいても、「方向性」を生命とするゴシック空間において、バラ窓のように自己完結的な円形は、それ自身「方向性」を拒否するからである。はたして、バラ窓の登場は、とくに西正面部のエレヴェーション構成において、大きな問題を提起した。

 もともと西正面部の窓は、少なくとも12世紀初頭までは、建築の内部空間をそのまま外に向かって翻訳するという形式をとるのが建前であった。バラ窓の登場は、この原則に対する真向うからの挑戦であった。

 バラ窓の壮麗な輝きを西正面部に取り入れようとしたのは、サン・ドニのシュジュールであった。1140年に献堂式の行なわれたこの記念すべき建物の正面には、身廊と側廊との境界を示す太い控壁の間、尖頭アーチを持った従来の3列窓の上に、ゴシック最初のバラ窓が見られる(現在のサン・ドニ西正面は、19世紀の修復)。それはまだ、正面部の中心となるほど大きくはないが、しかしその後の輝かしい発展を予想させるには充分のものであった。

 ところが、このバラ窓をできるだけ大きく、できるだけ輝かしいものにしようとする要求は正面部全体の構成にさまざまの問題をもたらす。第一にバラ窓をできるだけ大きくするとすれば、理論的には身廊の幅いっぱいまで広げることができるはずである。しかし、バラ窓をそこまで大きくすると当然その両側の控壁は左右におしやられて、ただでさえ狭い側廊部正面をいよいよ圧迫することとなる。その結果、正面部全体は中央のみ広くて左右が窮屈になるというアンバランスを生じる。といってもし、必要な控壁の幅だけバラ窓の直径を小さくするとすれば、窓が小さくなるという点は別としても、左右の狭くなった分だけ上下にも狭くなるので、バラ窓上下の空間がぶざまな空きを見せることになる。その空間を適当に埋めようとすれば、左右の側廊都正面とは無関係の構成にならざるを得ない。すでにサン・ドニの正面部がこのようなアンバランスの危険を暗示しているし、サンリスにおいては、その危険は現実のものとなっている。サン・ドニに続くゴシック教会堂建築家たちの努力は、この矛盾をいかに解決するかということに向けられた。

 その解決において、最も幸運であったのは、パリのノートル・ダムの建築家たちであった。この場合は、正面から見ると三つの入口があって3廊形式を暗示しているように見えながら、実は、プランから明らかなように、2重の側廊を持つ5廊形式の身廊部を持っているということが、問題を自然に解決してくれたのである。すなわち、中央バラ窓をいくら大きくしても、左右の側廊部は普通の2倍の幅を持っているので、決して狭められた印象を与えない。むしろ、全体は見事に3分された調和あるバランスを示すことになる。
しかしながら、本来5廊形式である建物に、3廊形式の建物のための正面部をつけるということ自体が、いわば誤魔化しであった。それは、フランスの建築家たちがつねに求めていた内部と外部の対応という合理性に背くことだからである。

 パリに対して、ランの建築家たちはもう少し正直であった。そして正直なだけに、いささか不器用な解決法を考え出した。彼らは、バラ窓は充分に広くして、しかも左右の側廊入口にも必要な幅を与えるため、身廊都と側廊部の境の 控壁を途中から切断して、上部のバラ窓の両側は左右に広く、逆に下部の門扉の部分はそれよりも狭くするという遣り方を採用したのである。ランの大聖堂西側正面部を飾るあの巨大な張出しポーチは、控壁が下から上まで1本に続いていないというみっともない状態を覆い隠すために無理につけ加えられたものにほかならない。

 マントにおいては、もっと短刀直入に、中央の部分を実際の身廊よりずっと狭くするという解決法をとっている.しかし、これは実は最も単純で、しかも最もまずい解決であった。なぜなら、バラ窓はずっと小さくさせられながら、それでもなお左右の側廊部門扉もやはり充分な幅を与えられておらず、結局どっちつかずの中途半端なものになってしまっているからである。

 この難問はアミアンにおいてすら完全には解決されていない。他のゴシック大聖堂に比べれば比較的幅の狭い身廊を持つこの大聖堂では、身廊部いっぱいにバラ窓をとってもなお正面部のエレヴェーションを充分に埋めることができず、結局バラ窓と入口門扉の間に普通単層で置かれる「ギャラリー」を人像のあるものとないものと2層に重ねて置かねばならなかったからである。

 このバラ窓と正面部の矛盾の最終的な解決は、こんどはランスにおいて果たされた。ランスの建築家たちは、内部の構造をそのまま反映する従来の尖頭アーチの窓をそのまま正面部に保ちながら、その尖頭アーチの窓の内部にバラ窓を内接させるという離れ業をやってのけたのである.これによって正面部は、内部の構造を正確に反映しながら、しかも完全なバラ窓を有し、その上、バラ窓と入口門扉の間の空間にも、色ガラスを配するという成果を得ることができた。この解決法は、現在破壊されて残っていないサン・ニケーズ教会(1230~1263年頃)においても、大聖堂においても採用されている.

ゴシックの建築空間は、あらゆる部分でこのような矛盾対立とその克服とを見せている。プリンストン大学のパノフスキー教授は、そこに、相矛盾する命題を積み重ねながら一段と高い次元で解決を求めるスコラ哲学の思考法と同じ精神構造を見ている(『ゴシック建築とスコラ哲学』Erwin Panofsky,Gothic Architecture and Scholasticism,London,1957)。ゴシックの大聖堂が、トーマス・アクィナスの『神学大全』に見られるような整然と秩序づけられた体系の反映であることは、これまでにもしばしば指摘されたが、それ以上にゴシック空間は、当時の精神的風土をそのまま表現しているのである。

関連ブログ
「SD4」1965年4月 特集フランスのゴシック芸術 鹿島研究所出版会
「ゴシック建築とスコラ学」アーウィン パノフスキー 筑摩書房
「カテドラルを建てた人びと」ジャン・ジェンペル 鹿島出版会
「フランス ゴシックを仰ぐ旅」都築響一、木俣元一著 新潮社
「ゴシックとは何か」酒井健 著 講談社現代新書
「アミヤン大聖堂」柳宗玄 座右寶刊行会
「シャルトル大聖堂」馬杉 宗夫 八坂書房
posted by alice-room at 23:58| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | 更新情報をチェックする
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