2006年09月11日

ゴシックと現代/吉川逸治~「SD4」1965年4月より抜粋

「SD4」1965年4月 特集・フランスのゴシック芸術より抜粋。 

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ゴシックと現代/吉川逸治

19世紀に入って、イギリス、フランス、ドイツなど西ヨーロッパの国々で、ゴシック・リヴァイヴァルが叫ばれ、中世建築の価値を見なおして、古寺古城の修復や復原をさかんに興し、ケルンの大会堂が半ばまで出来上がったところで、中世の末に工事が中止され、そのまま2世紀余りも放置されていたのを、完成を目ざして国民的支持のもとに工事を起こし、半世紀余の後、1880年に完工式をあげるとか、さらにイギリスではロンドンの国会議事堂のように、新しい大建築にもゴシック様式を採用してみるという気運が生まれたのは、当時のロマン主義運動によってルネサンス以来久しく忘れられていた、自分らの国の中世文化への関心が呼びさまされたものだが、もうひとつ広く考えると、ナポレオン時代が終わって、各国に民族的自覚の上に国民主義の動きが高まってきた風潮が背後にあるので、社会的には前世紀の絶対王制治下に比べて新しい広い社会階層、新興の中産階級、さらに民衆の進出ということがこの国民的風潮を支持していたのだった。ゴシック美術は、12~13世紀のパリを中心とするフランス王国で、都市の大会堂の建築によって明確に実現されたものだが、この建築様式の源泉はもっと広く、西ヨーロッパの北方全般に渉って人びとが前ゴシック時代の石造建築のうちに追求していたところが、15世紀のフランスのカテドラル建築に最も論理的な形態で解決されているというものだった。会堂の高い切妻屋根や鋭角的な破風形は、人びとに木造民家の面影との結びつきをもって、大規模な建造物にもかかわらず、周囲の民家町家と調和をもって親しさを感じさせ、会堂建築を飾る彫刻が表わす樹葉や花も彼らの見慣れた山野の植物である。会堂の扉ロに並ぶ神や聖母、使徒らの彫刻も、中世の民衆のように厚い毛衣に身をつつんで、親味深い顔貌に刻まれている。堂内に入れば、左右に林立する巨大な石柱の群は高い石天井のもとに、樹幹から分かれ広がる枝のように多数のアーチを広げて頭上を覆い、大森林に入るがごとき感銘を与える.さらに、この大空間が周囲の高大な窓という窓に繋りめぐらされたステンドグラスから射し入る光線が赤、青、黄、緑という強い単純な色に彩られて、いやが上にも神秘的な印象を高める。この天上的な空間にオルガンがミサの音楽を鳴り響き渡らせる。ルネサンス以来3世紀の間、人びとがこの大美術を閑却祝していたのは不思議な位である。

 ゴシック様式は、宗教建築から王侯の城や館の建築様式となり、さらに中世後期の都市の庁舎や民家の建築様式となって、人びとの住みなれた都市環境を形成していくとともに、周囲の自然と一体となって、西ヨーロッパの北方の風土を考えるときには、その景観を作る構成分子となってしまっている.橋も、町の城門も、鋪道も同じ技術の所産なのである。

 16世紀にイタリアのルネサンス古典様式がアルプスを越えて西ヨーロッパに広まっていくに際し、いろいろと抵抗をうけたのも無理からぬことで、長年の土地の風土と材料の上に訓練されてきたゴシック技術を身につけた建築家たちの、強力な組合に新様式を採用させるのは容易なことではなかった。住みなれ、見なれた人びとのゴシック愛着を排除するのもまた容易なことではなかった。フランスのルネサンス建築は、少数の学識ある建築家たちがウイトルウィウスやイタリア建築家たちの古典書を学びながら、知的に古典様式の秩序と高尚な理想装飾を理解して推進させられるのだが、これを強要した上からの政治力がなければ不可能であった。

 16世紀になって、新大陸を彼らの生活圏に併合したヨーロッパの列強は、古い中世封建社会の枠を破って、世界性のある新様式が必要だった。古代世界を風靡したギリシャ・ローマの古典様式をば、イタリア・ルネサンスはその卓越せる普遍的人間(ユニヴァサル・マン)の理想に相応しい建築様式として復興した。この古典様式が、16世紀からl7・18世紀のヨーロッパ絶対王制の宮廷文化の装いとして、こぞって諸国で採用されたのである。バロックもロココも古典様式のヴァリエーションに外ならない.それはまたルネサンスに始まるヨーロッパの人文主義の装いでもあった.印刷書籍の装飾デザ
インにまで古典様式は浸透していった。しかもなお、この古典様式はアルプス以北の国々では、人意的に上から課せられた文化的様式、輸入様式としての上塗り的な、よそゆき的な性格を払拭しきれなかったのである。18世紀末から19世紀に渉って試みられる、古代建築様式の厳正な復原をめぎした、新古典主義もまたかような知的な、権力的な、所産という性格を免かれえなかった。自分ら自からの生んだ民族的なものへのノスタルジーが新しい時代の風潮によって中世様式の復興を促すのは当然であろう。

 1840年、27 歳でバリのサント・シャベルの修復に携わってから、ノートル・ダム、サン・ドニ、アミアンの諸会堂の修復やカルカソンヌ城、ピエルフォン城の復原などを行なって中世建築篠興のために生涯を捧げたフランスのヴィオレ・ル・デュックは、はじめイタリア留学した頃、他の人びとがイタリア・ルネサンス建築の模倣に汲々たる有様で、フランスではまだ一般に自国の中世建築を軽んじていた状態だったのを嘆き、「自分らの過去を否定する民族は憐れだ、彼らに将来性はない、過去を研究することが将来の基礎を据える。民族の長い歴史の各時代を結びつけている絆こそ民族性に外ならないといい、またゴシック建築の形成発展の事情をば説明してその社会的背景として、封建領主らに対抗しながら形成されていく中世都市コンミューンの新勢力と、これを援助するフランス王と教会との役割を強調し、12、13世紀の北フランスの各都市が競って建立するゴシック式大会堂こそは、中世における民主的勢力興隆の象徴といって、共和主義者の情熱を燃やしている。彼は多年修復に携わった実地の経験に学究的考察を加えた結果を「中世フランス建築辞典」10巻に著わしているが、フランス人らしい明確さで、中世建築の精華であるゴシック建築を説明して、すペて全体も部分も、形態も表現も、その合理的な構造から必然的に生まれでたものであることを主張している。ゴシック建築には、古代ローマ建築が煉瓦とコンクリートのヴォールト構造の体駆を覆いかくして、大理石の円柱列や軒回り一式からなる古典様式をはりつけるという虚偽や矛盾はない。それはラスキンのいうように誠実な建築であって、道徳性の高いものである。また、そこには桂か日光かの論争を思わせるようなものがある。


ヴィオレ・ル・デュックは、多数の中世建築の修復事業を通じて、それらの作者たちの建築思考を洞察する。古代ローマの大穹窿が堅固なコンクリートの単一体をなしていたのに対し、中世建築家たちはまず単純な半円筒穹窿や交差穹窿に、太い肋骨(リブ)アーチを附加して補強するようになる点を注目し、穹窿架構において支えられる要素と支える要素を分け、また覆う面と力線に分けて考える痕を窺見する。この考え方の合理的な結論に達したものが、ゴシック式の肋骨附穹窿(リブト・ヴォールト)であり、ゴシック建築は、この肋骨附穹窿が単位構造であって、これを論理的に展開させ、多数の
単位を有機的に結合して、全体が作り上げられていることを指摘する。肋骨附穹窿の対角線に交わる肋骨アーチと、その四辺のアーチがすなわち支える要素であって、その上に穹窿の面が架構される。この架構工事に際しては、先に築かれたこれら6本のアーチは木枠を支える役目をする。こうして初期の肋骨附穹窿は実際的に合理的に工事を進めさせる。また、対角線に交わる肋骨アーチの頂点と矩形のプランの上に築かれる穹窿の長短両辺を結ぶアーチの頂点を揃えるために、長短のアーチには自由に任意の高さをえられるように、尖頭アーチの形を与えて解決する。こうしてゴシック式肋骨附穹窿と、尖頭アーチのプロフィルが合理的に結合される。この穹窿は、正方形のプランの上にも矩形のプランの上にも架構することができるし、肋骨の組合せと数を工夫すれば容易に三角形のプランにも多角形のプランの上にも適用できる。建築物のさまぎまな機能に応じて適用され、形態を整頓することができる。しかもつねにこの建築物の表現は構造を明示し、構造の論理の上に立つ。

高大な教会堂の中央身廊部を左右から支える飛扶壁(フライングバトレス)の列は、側廊の屋根の上に立ちならんで、会堂建築の構造を外部に表わしながら、生物体の骨格を見るような有機的な姿を全体に与えている。窓の尖頭アーチのプロフィルは、穹窿の側辺を縁どるアーチのそれと協和し、構造の線を示しながら、上昇的効果を与える。窓の上に鋭角的な大きな石の破風形(ゲーブル)が乗せられるが、これも穹窿に接する側面に十分な重量を上から与えて、穹窿の横圧力に対抗させる合理的な役割を荷なうし、破風形の先端や飛扶壁の上端に小尖塔状に石が積まれるのも同様に重量を加重して均衡の役割を与えるという。すべての要素はここでは、構造の要請から発し、附帯的な装飾と思われる小さな部分も、建築全体の均衡のためにそれぞれの任務を荷なっていると考える。

 大会堂の門に入って、立ちならぶ大石柱が地上40メートルもの高さに昇りゆく姿は、すばらしい構造美を発揮している。大石柱はそれぞれ、数条の細い、長い小円柱を表面に附着させた集合柱の形式で、小円柱坪のいくつかは、上にいくに従って途中のアーチに連絡して消え、残った数本は天井の穹窿のアーチ群へと連結し、樹枝状こ開く構造の力線網の終結点に到達する。多数の柱とアーチがかたどるこの力線網が、われわれに大建築体の有機的構造関係を明示している。実際の構造関係を正確に反映するというのではないが、理想的な穹窿建築の構造関係はかくあるべしと視覚的に明示して、われわれの知的亨受を促がし、大空間を秩序だてるこれらのカ線の流れに無限感へといざなわれる。こうして、ゴシック建築の表現が構造を基として放射してくるのを感じる。力線網はまた、この大空間を天上的空間の象徴たらしめようと意図した人びとの精神の弁証法的に展開する軌跡であり、また天井の摂理そのもののイメージと映ずる。構造から発して、ゴシック会堂建築は、最高の表現に到達しているのである.個々の石材という堅い重量ある物体がいかに精神化されているか。この厖大な石の構造体のなかに入って、物質的重圧感は少しも受けない.中世の人びとがいみじくも形容したように、これらは活ける石である。石が柱として、アーチとして築かれ、構造の力線に化せられて精神化される。ゴシック建築はこの材料たる物質が、精神化される過程や方法を、読みとらせる。この精神性こそ、建築に大きな価値を与え、芸術の最高たるものの地位を保証するものなのである。ゴシック会堂建築ほど如実に精神がいかに強靭であり、無限であり、いかなる堅牢鈍重な物質をも克服する威力をもつものかを教えているものはない。また歴然と精神が天上的な霊と交流し、融合しうるものであるということを感じさせるものはない。

 西洋中世の建築は、古代ローマ建築の量感ある充実した面の構成体から面と線の複合構成ヘと発展していった。ローマ建築のヴォリュームはいかにも雄大な古代人間主義文化の表現に相応しく、壁体や穹窿体の充実感は地上的な生存、肉体的な欲望の象徴であり、巨大な量塊の単純な構成は権力的な意志を思わせる。この量塊的な面の構成の建築から古典的外装をとりさった時、中世人は古典円柱とは違った簡潔な角柱や構造的な円柱、アーチ、扶壁といった抽象的な線をいれて、構造体とその包む空間に方向性を与え、リズムを与えて精神化へ踏みだしたのだった。この抽象的な線に支える要素を集中して、壁面を次第に減少させ、抽象的線構成に向かうのだった。この線的構成の思考は、中世建築の技術的発達と助け合いながら発展して、13世紀ゴシックに到達する。会堂建築は飛躍的に高大となって、穹窿の下に40メートルの大空間-その大部分は実用約には無用な大空間を実現するようになった.そして、その表現は構造に発する力線的構成によって得られるのである.このフランス・ゴシックの合理主義に対して、イギリスのゴシックはもっと大胆な、自由な線構成を駆使して、一種の宗教的情熱の表現に到達している.この場合も、線要素は、基柱やアーチ、筋骨(リブ)であって、それらが構造の役割に沿いながら、それに束縛されず、自己の力を強調しているのである。そこには中世初期のケルト・アングロサクソン系の複雑な抽象図様に見られるような線自体の動きが感じられ。

 イギリス・ゴシックは、木造建築と密接に連関ある側面でまた独得な表現をもつ。元来、西ヨーロッパ北方の中世建築では民族的な木造建築の占める地位は大きく、石造の会堂建築にもいろいろな影響を与えてきた。屋蓋が後代まで木造である外、南方で穹窿が採用されても会堂身廊の天井はしばしば遅くまで木造だった例が少なくない。イギリス・ゴシック建築では、穹窿の代りに、その練達な技術を示す木組みで屋根を支える例が少なくない。これら上部の木造架構が天井板でかくされることなく、下部の石造構造と協和している。元釆、これら木造建築はその簡単な力線構成を露呈しているもので、それがゴシック建築の線的構成の表現と協和するのは不思議はない。両者の間には何か親近な関係が早くから存在したのかも知れないと想像させるほどである。イギリス後期ゴシックの垂直様式(バーペンディキュラー・スタイル)建築は、明瞭に木造建築の直角に交わる木組、窓や扉の楯にならった垂直線と水平線の交差する枠形構成をライトモティーフとしている。ゴシック後期は垂直様式でも大陸のフランポワイヤン様式でも、13 紀の構造にもとづいた合理主義の建築に対して、理想を失った装飾主義と見なされがちだが、この時期は中世後期の町人文化の時代で、美術でも建築よりも絵画が興隆に向かう。しかし、この後期ゴシック建築も、人間の住む空間、環境に重点をおいて、人間的尺度を考慮して建築を作っていくので、生活機能によく順応した建築物を生んでいる。町家や館、庁舎、療養院の建築に興味あるものが生まれ、それら生活に応じたプランをもち、部屋の配置が実際的で、それに応じて外形も整えられるから、近世の大典様式の城館のようにシンメトリを強制され、外形によって内部の部屋割りが左右されることはない。従って、窓の配置、窓や戸口の大小、屋根窓の設置、階段塔の位置によって、内部のプランが推察できるほど、機能主義を発揮している.装飾も、木造建築を見るような構造線に従い、矩形の窓や戸口の枠形であり、フランポワイヤン様式の場合でも、窓や戸口の上縁には、以前の尖頭アーチを止めて、慎ましい偏平な大括弧形(アコラード)を?などの上に添えるのである。この実際的な機能主義の故に、後期ゴシック様式は、中世人の日常生活に親しくく食いこむような建築を残したのだった。

 ヴィオレ・ル・デュックは、13世紀ゴシックの理想様式を合理主義とて、構造からすペて説明しているが、彼の頭には当時ようやく起こりつつあった新しい鉄骨構造のイメージがあった。これの反映を無意識にも受けて、ゴシック建築を支える要素と支えられる要素に分けて説明していったのだか、現在のコンクリート建築の時代になると建築家のなかから、彼の説のゆきすぎを反省するような学説が現われてきた。ポール・アブラムはゴシック穹窿において、支える要素はむしろ穹窿の面全体で、その肋骨(リブ)アーチはむしろ附帯的な装飾要素であり、ゴシック建築もまた、ローマ建築のように、面構成の建築体に線構成の装飾組織を附加したものと新解釈を提出した。この新説で、ヴィオレ・ル・デュックの構造中心の合理主義説を緩和した折衷説が今日の通説となっている。


われわれは過去の事物を考える場合に、必ず現在の立場から考察しているので、歴史を求めるといっても、何らかの現代的関心が、心がそこに投射され、理解できるものが浮彫となって、歴史的イメージが作りあげられる。ゴシック美術が19世紀に入って、いわゆるゴシック・リヴァイヴァルとよばれるほど熱心に再検討されるようになったのは、いろいろな理由があった。それらには、今日のわれわれも、関心をよせうる問題が多々含まれている。古くから土地に育った建築伝統は、自然条件と戦いながら世代を重ねて獲得せられた数々の優れた解決を含んでいる。ゴシック建築には民族的木造建築の秘密が石造建築のうちに承けつがれている。よりよい構造をもって、よりよい建築を作りだそうという努力が技術的な誠実さをもって追求されてきた。その努力の核心に、理想の建築として、天国を地上に現出させようという会堂建築のイメージがあって、人びとを奮いたたせた。天国とは、宇宙であり、大会堂建築は中世の宇宙的構想を具体化しているので、宇宙像の芸術である建築の本姿をこれほどよく示しているものはない。ふたたび新しい宇宙像を求めてきた現代人は、新しい野心的課題を建築に要求している。そこでは当然、新しい構造体系が中心になって、それを偽らない誠実な表現が要求されよう.これと対象的に、地上における人間の慎ましい生活を保証する建築としてのゴシック住居建築とその機能主義は、近代建築がさまぎまな合理的解決を提出しているところと平行するものであろう。古典建築と対称的なゴシック建築に対する現代的関心は、かような理由にもとづいている。
            
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posted by alice-room at 14:30| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | 更新情報をチェックする
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