中世の異端審問というと、宗教的権威をかさにしておよそ強圧的に一般人に課せられたイメージばかりでしたが、そんな単純なものではなかったんですね。ローマ教会が一律に最上位の存在であったのではなく、地元の世俗権力もしたたかに対抗していた事を知りました。
ローマ教会の司教が俗物化して、豪奢な生活に溺れる一方で異端とされた各宗派(カタリ派やワルドー派等々)の指導者が進んで庶民の生活に入り、使徒的清貧を実践する状況下では人々が異端に走るのは当然の事であり、その現状を憂うことから、正統派ローマ教会側からも清貧を重んじたフランチェスコ修道会が生まれていくのもなるほどと思いました。更に異端審問に情熱を注ぐが故に、まさにその為の存在としてドミニコ修道会が誕生し、従来は司教の権限内であった異端の取り扱いを、権限を分かつ形で法王直属の異端審問官の独立職務としていくんですね。
勿論、その流れは地元有力者や住民からの反発だけに留まらず、既存の権限を侵される司教側からの抵抗も受けてまさに外と内からの両面の敵に挟まれた中での苦しい戦いだったとは…。裁かれる立場の者達も決して唯々諾々として従った訳ではなく、国王や法王に異端審問官の所業を直訴したり、なかなか政治的な駆け引きが重要だったらしい。
異端審問官や司教が領土外に追放されたり、殺されたりすることもあり、その切迫した状況も自己の立場と存在意義を肯定する為にはいよいよ過酷な異端狩りへとなっていったのも肯けます。いやあ~この本薄いのになかなか内容は奥深いものがありますね。
とにかく疑わしきは皆殺せという、異端憎しという場合もある一方で、より正確に真偽を見極めようとする真摯な姿勢が見られる場合もあり、一概に論評するのも難しい。歴史は表面的に見られる事柄だけでなく、その背景をも考えなければ分からないという好例です。
とまあ、概論はこの辺にして、部分で印象に残ったことは、フスの件。宗教改革の先駆者で宗教会議において異端とされ、三角帽をかぶさられて火あぶりにされたので有名ですが、フスはプラハと関連が深いんですよね。プラハは、以前から錬金術師の都として関心を持っていたうえに、実際に行ってみて、その中世以来の遺物にすっかり魅了されている私としては、なんかプラハと関係深いフスが出てきて妙に心踊る感じ。プラハにあるカルレ大学の学長だったのがフスですから、そりゃ因縁の浅かろうはずがありません。
(カルレ橋の聖人の像が目に浮かぶ・・・)プラハの街は今もそうですが、妖しい雰囲気に満ちています。ゴーレムだった土塊が未だに残るというシナゴーグさえあるし。
話はだいぶそれていますが、この本には他にもあのベルナール=ギーについても書かれています。「薔薇の名前」の映画でまさにはまり役的な印象を残すイメージ通りの異端審問官ギー。本当に実在の実物だとは知りませんでした。それを知れただけでもこの本読んで良かったかも?なかなか楽しい本です。
ただね、こうやって魅力たっぷりの本ですが、後半ちょっとダレきてしまいます。裁判の細かい内容になり過ぎて、ちょっとね。もっとも、被疑者が問われた問いに対して二義的な(=二重の意味に取れる)答えを言う事で、嫌疑を成立させず、同時に自分の信条を冒さずに済ませるといったしたたかな行動をとるなど、興味深い点もありました。(でも、なんかだるいんだけど・・・)。あの「薔薇の名前」の映画中に見た一場面を思い出します。かつてのドルチーノ派であった僧が、まさに異端審問の最中に答える姿。これとオーバーラップしてきます。「ペニティンツィアージテ」ってね!
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2005年03月11日
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