レンヌ=ル=シャトーの謎 柏書房 感想1
(感想の続き)
そうそう、この小説を読んでの感想と言えば、やはりカタリ派に関することかな?他にも何冊かカタリ派の本は読んではいるが、結構分かり易く説明されているのも良かった。
当時のランドック地方(南仏)がヨーロッパでも有数の裕福な地域であり、商業も盛んでヴィザンチンと並ぶ文化的先進地域であったこと。ユダヤ思想や最新のイスラム思想・知識(当時の科学知識の最先端はイスラムでヨーロッパは科学的後進国であったのは、有名。医学等はすべてイスラム教徒の書物をラテン語に翻訳して学んでいた)が流入する土地であった。そういった事を背景に、文化的先進地域では往々にして多種多様な宗教・思想が流行し、教養溢れる文化的多様性からあらゆるものに寛容でもあった。そうした地域であるにも関わらず、ランドック地方に存在したローマ教会は、世俗の金儲けに忙しく、腐敗に腐敗を重ねた為、他宗派に比べて評価は著しく低かった。これがランドック地方における異端の最大なる繁栄を可能にしていたそうです。
そうりゃ、そうだよね。経済的余裕があり、各種の思想や最新の知識に触れられるような地域に住む人々が、金儲けに走り、ミサさえ行わない聖職者がいたローマ教会の信仰を絶対的に受け入れるわけはないでしょう。それゆえ、実際に清貧を実践しつつも、聖職者自身に価値を認めるのではなく、あくまでも神を崇め、神と個々人の直接的な対話、神秘的な経験(=グノーシス)を重視するというカタリ派が宗教として支持を多く集めたのは当然の帰結と言えるし、その背景の説明には納得しちゃいます。
でもね、聖職者がいらないってことになったら、ローマ教会はおまんまの食い上げですし、働きもしないで贅沢な王侯貴族の生活ができなってしまいます。彼らが強く反発し、異端憎しという感情が起こるのも理解できます。また、純粋に教義的にも異なるんだから、始末が悪い。ローマ教会における神は唯一の存在であり、敵対する悪魔は神よりも劣った存在とする。それに対し、カタリ派の神は2種類有り、霊的存在の善き神と物質的存在の悪しき神がいる。後者を世界の王(レックス・ムンディ)と呼び、まさにローマ教会の栄華がそれを現すと捉えているので、同じ二元論でも相容れないわけです。端的にはイエスの捉え方で決定的な差異が生じてくる。イエスが物である肉体に受肉しながら、神の息子であるのというのはカタリ派に受け入れられるはずがなく、ローマ教会における十字架刑や十字架の重要性は一切が否定された。
カタリ派を支持する有力者や貴族は文字が書けたり、当時としては教養ある人々であり、他の地域の大多数の領主や貴族が文盲であることに比べ、扱いにくい理性ある人々であったらしい。また、教会に収める十分の一税を逃れたいという経済的目的もたぶんにあったそうです。まさに「合理的」な思考ですな(笑顔)。
こういった状況下、カタリ派(実際には、総称で個々に細かな差異が見られる)は、ローマ教会より清貧であり、より使徒的ふるまいを実践していて宗教的崇高さを尊重され、ローマ教会にとって大切な教会制度や司教の存在意義まで否定する教義でもあった。アリウス派(イエスは神ではなく、人であるとする)を異端として三位一体を推し進めてきたローマ教会にとってカタリ派は自らの存在を脅かすものであり、一般の人にとってより魅力的であるがゆえに彼らにとっては存亡に係わる敵であったそうです。やるかやられるか?――― 実際、そこまで追い詰められていたみたい。そこで政治的陰謀に長けているローマ教会は、豊かな土地に対して領土的な欲望(or 羨望)を持つ周りの貴族達をけしかけてアルビ十字軍へと導いていったわけです。
う~ん、いつの時代でも政治力が大切なんですね。正しいところが勝つのではなく、勝ったところが正しいという「勝者の論理」は国を超え、時代を超えて普遍性をもつのですなあ~。まさにカトリック(=普遍性の意味)にふさわしい!! 日本の国津神と天津神の闘い然り(古事記参照)、イラク戦争然り。
このカタリ派の最後の砦モンセ=ギュールが十字軍に包囲される中、密かに財宝が運び出せれたという。それがソニエールの探し出した秘密につながる・・・・??? 謎が謎を呼び、魅力的なストーリーですね。
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2005年03月12日
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