2006年10月24日

教皇、一般接見でイスカリオテのユダに言及

【世界キリスト教情報 第825信より転載】
【CJC=東京】教皇ベネディクト十六世はバチカン(ローマ教皇庁)のサンピエトロ広場で行われる水曜恒例の一般接見の際、10月18日に十二使徒のリストの最後に記述されるイスカリオテのユダに言及した。
 バチカン放送(日本語電子版)によると教皇は、イエスを裏切った者でありながら12使徒の1人として福音書に記されているユダについて、なぜイエスは彼を選び、グループの会計係とされながら中身をごまかしていたとさえ記されるユダに、なぜ信頼を与えていたのか、という疑問を提示した。
 「人の子を裏切るその者は不幸だ」(マタイ26・24)というイエス自身の言葉を前に、イエスの選択は神秘の中に残されたままであるとした教皇は、のち後悔したユダが、裏切りの報酬として受け取った銀30枚を祭司長や長老たちに返そうとし、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言い、首をつって死んだことは、さらなる神秘であり、その行為についての判断は神にゆだねるべきだと述べた。
 また教皇は、ユダの裏切りの理由を問い、ユダが金銭に貪欲であったためという説や、イエスの意図がユダのメシア観と相容れなかったためという説を紹介した。
 ただ教皇は、福音書中の「悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダにイエスを裏切る考えを抱かせていた」(ヨハネ13・2)、「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」(ルカ22・3)という記述に注目、悪の誘惑に屈したユダの心を指摘した。
 ユダの裏切りは一つの神秘であると教皇は述べ、ここに自分の道に従う者を強制せず、人間の自由を尊重されるイエスの姿を描き出した。人間の心が邪悪に傾く可能性は大いにあるが、常にイエスのもとに立ち返り、イエスの視点を持ち、イエスと完全に一致することが、それを防ぐ唯一の方法である、と教皇は説き、罪を悔やみながらも絶望し自滅してしまったユダの中に、聖ベネディクトの「神の憐れみに決して望みを失ってはならない」という教えを思い出すべきだとも語った。
 そして、ユダのエピソードに、「イエスは私たちの自由を尊重される」、また「イエスは私たちの悔悛と回心を待っておられる。イエスは憐れみと赦しに満ちた方である」と指摘した
う~ん、今なぜこのタイミングでユダなのだろう???
ユダの福音書について、この時期に言わなければならない必然性って???

何はともあれ、興味深い発言であることには間違いないわけで教皇の発言というのは、絶対的な影響力があるし、今後どういうふうになるのか益々関心が増してしまいますね(笑顔)。

でも、この話のポイントって人間が自由意志を持っていること or 神は憐みをもって慈悲深いこと? ついこないだの物議をかもした十字軍発言とも関係あるのかな・・・。よく分かんない。

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posted by alice-room at 01:54| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 【ニュース記事A】 | 更新情報をチェックする
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