2006年11月30日

ステンドグラス(朝倉出版)~メモ

「ステンドグラス」の書評は、こちらを参照。

中世時代におけるステンドグラス芸術の開花は、プラトンやネオプラトニムスの影響として跡づけることができる。ネオプラトニムスの”光の形而上学”は、5世紀にシリアの神秘的な神学思想家偽ディオニシウスによって広められ、その著作が7世紀ののち、ゴシック建築の父たる修道院長シュジェールに、パリ近郊のサン・ドニ修道会協会堂の「きわめて輝かしい窓」を作ることによって「人間の心を照らし、その光によって神の光へと思い至ることができる」ようにという理念を吹き込んだのである。(P6)

19世紀フランスの美術考古学者ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュック。彼は1868年刊行の『辞典』の「ステンドグラス」の項目の中で、中世時代のステンドグラスのすべてに渡って根底に横たわる法則・原理を体系づけようと試みた。
 デュックが主として関心を寄せたのは、光のにじみ(光滲)の現象であった。即ち、透明な色を透過してくる光の視覚的効果であり、この光滲の現象は色によって異なる―ある色では弱まり、ある色では強まり、拡大する―というものであった。
 この現象のもっとも一般的な例は、赤ガラスでは光のにじみが弱まり、青ガラスでは強まり、しばしば青色の占める面積以上の力を集めるという傾向があるという所説によって示されている。黄色は中立的であり、強まるとすれば、それは黄色が赤から青へスペクトルの配列に従って変化した時、即ち濃いオレンジ色から淡いレモン・イエローに色がずれた時だけに限られる。

←アメリカの美術史家ジェームズ・ローザー・ジョンソンはシャルトルのステンドグラスについて徹底した想像力を駆使した研究を行った。彼はヴィオレ・ル・デュックの「原理」を科学的に美学的に試してみて、これらの諸原理というものが、ある程度、事実が理論に辻褄をあわせられるという昔流の悪弊に染まっているということを明らかにした。(P18)

中世のステンドグラス画工のデザインの二つの主要な源泉は「貧しい人々の聖書」と「人間の救済の鏡」(P27)

ステンドグラスに描かれる図像に決定的な影響を与えたのは「黄金伝説」Legenda Aureaであった。これはドミニコ会の修道士でのちのジェノバの司教となったヤコブス・デ・ウォラギネによって1275年頃に編纂された膨大な聖者伝である。これには聖者や使徒の生涯のみならず、聖母マリアの伝説や教会の祝祭日に関する説話が収められていた。これによってデ・ウォラギネは名声を博した。ウィリアム・カクストンの助手の一人ウィンキン・デ・ワーデという名で呼ばれるのを喜んだ男はこれに関して「金が価値において他の金属に勝るがごとく、この伝説は他のあらゆる書物を凌駕する」といった。(P28)

使徒の表徴
・ペトロ…鍵、魚
・アンドレア…斜め十字
・大ヤコブ…巡礼の衣裳
・ヨハネ…蛇の巻きついた聖杯
・トマ…建築家の物差し、ほこ
・小ヤコブ…棍棒
・フィリッポ…司教杖、小さな十字架
・バルトロメウス…皮剥ぎナイフ
・マタイ…財布
・シモン…鋸
・ユダ…ほこ、槍
・マッテア…槍

大天使の表徴
・ミカエル…正義と魂を秤る表徴の剣と天秤
・ガブリエル…百合の花を持ち、救済を告げる
・ラファエル…巡礼の杖、トビトを引き連れて表される
・ウリエル…巻物と書物

黙示録の四つの生き物:福音書記者
・マタイ…有翼の人間の形
・マルコ…有翼の獅子
・ルカ…有翼の雄牛
・ヨハネ…鷲

マリア崇拝が最高潮に達した中世末でさえ、シャルトルほど聖母マリアを崇めたところはない。伝説によれば、最初の大聖堂の建物は紀元前100年頃のドルイド教の洞窟の上に建立され、virgo paritura(子を産んだ処女)に献堂された。聖母マリア自身、ヘブライ語でシャルトルに福音をもたらした殉教者たちに、教会の女王として戴冠することに同意すると書き与えたといわれている。
 シャルトルにおける聖母崇拝は876年シャルルマーニュの孫シャルル禿頭王がこの大聖堂に、キリストが降臨したときにマリアが身に着けていたといわれる上衣(パラディウム)を寄進した頃、9世紀に大きな力を与えられた。この神聖な遺物は「美しき絵ガラスの聖母」とともに、ロマネスクの大聖堂を破壊した1194年の火災を免れた。
 シャルトルの町の人々は、この奇跡を聖母マリアが大聖堂が崩壊するのを許すことによって、より大きく壮麗な大聖堂を建てることを望んでいることを表明し、しかも聖遺物を救うことによって信者たちへの愛を示したしるしと解釈したのであった。


大聖堂が壮麗なゴシック様式で再建されたとき、「美しき絵ガラスの聖母」は内陣周囲の放射状礼拝堂の一つに設置され、いまでは13世紀の天使に囲まれて、大きな窓の中央に収められている。これは7フィートの高さの、膝の上に右手を上げて祝福を与える御児キリストをのせた聖母の坐像である。
 御児は左手に本を持ち、開いた本のページにはイザヤ書からの引用「すべての谷は滅びん」と記されている。
 この中世のガラスの色の透明感は、それ以後には実現できなかったものであり、「美しき絵ガラスの聖母」をかくも傑出せしめているのはこのルビーやバラ色によって際立たせられた、信じがたいような輝く青である。(P64)

窓はシュジェールの計画の主要な要素であった。彼が膨大な記録の中で明らかにしているごとく、彼は光の象徴的精神的意義を深く思慮していたからである。「最も輝かしい窓の驚くべき妨げられることのない光によって満たされる」べき教会堂を立てるにあたって、彼の目的は「人間の心を照らしてその光を通じて神の光の理解へと導かれていかれるようにする」ことであった。
 これを成就せんがために、のちゴシック建築として知られる新しい建築様式の技術的改革に助けを求めた。この新しい技術は大部分の壁の空間にガラスをはめこむことを可能にしたのである。(P68)

『荷馬車の崇拝』:モン・サン・ミッシェルの修道院長の言葉
…「シャルトルの人々は、石材や木材や、小麦やその他新しい教会堂に必要な物資を積んだ荷車を、自分たちの肩に引き具をつけて引張りだした。」(P74)

聖アンナはシャルトルで崇拝されるもう1人の聖者となった。この聖者の頭蓋骨が、十字軍によってコンスタンティノープルから持ち帰られ、シャルトル大聖堂に贈呈されてまもなかったからである。(P74)
posted by alice-room at 23:37| 埼玉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | 更新情報をチェックする
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