【シャルトル大聖堂】
フランス北部シャルトルにある大聖堂。正称はノートル・ダム Notre-Dome。
建築、彫刻、ステンド・グラスなどのほとんどが12~13世紀の面影をそのまま伝える貴重なゴシック建築で、彫刻家ロダンは<フランスのアクロポリス>と絶賛した。
大聖堂の建つ場所には聖なる泉があり、キリスト教化される以前からガリア人の信仰を集めていた。クリプタ(地下祭室)には今なおその井戸が残る。
876年カール禿頭王がシャルトル大聖堂に<聖母マリアの御衣>を寄進して以来、シャルトルは聖母マリア(ノートル・ダム)信仰の中心地となり、広く西欧全体に知られ、多くの巡礼を集めた。
非対称の双塔が比類なき美を見せる西正面は、1134年の火災ののちに再建された12世紀の部分を残す。また、その晴朗な輝きから<シャルトルの青>との呼び名を生んだ西正面の三連窓のステンド・グラス、および西正面の三つの扉口側壁で稚拙な微笑を浮かべて並ぶ旧約聖書の王たちも12世紀初期ゴシック芸術の粋である。1194年の猛火がシャルトルの町を襲い、同大聖堂は民衆の情熱に支えられて再建され、わずか26年後の1220年にはほとんどが完成した。献堂式は1260年、聖王ルイ(9世)臨席のもとにおこなわれた。身廊はアーケード、トリフォリウム、高窓の3層構成で天井はリブ・ボールト(筋骨穹窿)に統一され、堂内は盛期ゴシック建築の到来を告げている。
南北袖廊扉口を飾る彫刻群も盛期ゴシック時代(13世紀)の作で、北袖廊扉口にはキリスト生誕までの旧約聖書の世界、南袖廊扉口には新約聖書の世界が表現される。ステンド・グラスは12世紀のものを除き、三つの薔薇窓をはじめ大部分が1210-1240年の短い期間に完成されたため、均一な質を見せている。
身廊の床には、直径12mの迷宮(ラビリントス)が彫られているが、これは一説には聖地エルサレムに至る苦難の道を表すと言われる。
【シャルトル学派】「十二世紀ルネサンス」伊東 俊太郎 講談社
シャルトルに形成された中世哲学の学統。シャルトルはパリの南西部にあり、6世紀に修道院がおかれ、司教フルベルトゥスFulbertus(960頃ー1028年)のときに付属学校が開かれて自由学芸の活発な展開を見、12世紀には当時のプラトン研究の中心をなすまでになった。
シャルトルのベルナールはプラトンの<ティマイオス>に従って自然有機体説を唱え、ベルナルドゥス・シルウェストリスはこれに生命を与える<宇宙霊魂>を神的なものに高めて汎神論的傾向を帯びるに到った。
このプラトン主義のゆえにイデアの実在が説かれ、ギルベルトゥス・ポレタヌスとソールズベリーのヨハネスはこれを主張したが、同時にアリストテレス主義に従って個体概念の成立にも関心を示した。
ヨハネスはこの学派の中心人物で古典に基づく人文主義を掲げ、修辞学を盛んにしたほか、叙任権闘争においては自然法を実定法に優先させる考えを示して、これに反する君主を抹殺すべきことを説いた。
こちらの方が説明分かり易いね。でも、個人的に関心があるのは、この学派の合理主義的思考方法がゴシック建築へどのように影響を与えたのか?・・・この一点に尽きる!
【シャルトル Chartres】カエサル著「ガリア戦記」の記述が大変有名。
ローマ時代にはケルト人カツテヌス族Carnutesの中心集落がここにあった。シャルトルという名称はこの部族名に由来。当時から交通の要地でパリとブルターニュ地方を結ぶ街道とオルレアンからルーアンにいたる街道の交点に位置した。
シャルトルの名を世界的なものにしているのは、宗教の分野における歴史的重要性である。すなわち、同地の泉は古くより聖所としてガリア人の崇拝を集め、キリスト教化された後も同地はマリア信仰の中心地として多くの巡礼者が訪れた。シャルトル大聖堂はフランス有数のゴシック建築として知られ、現在は数多くの観光客を引きつけている。1146年には第2次十字軍を準備するための公会議が同地で開かれ、また1594年にはアンリ4世の戴冠式がシャルトルの司教の手で行われた。
【ベルナール(クレルボーの・・・)】Bernard 1090-1153年ベルナールが十字軍勧説を行った場所が、火災に会う前のシャルトル大聖堂だったりする。当然、テンプル騎士団との関係を取り沙汰する本もあるが、まともな本では特にその相関性については触れていないのが普通。
フランスのキリスト教思想家、聖人。その人柄の魅力、文体の美しさゆえに<甘蜜博士Doctor mellifleus>と称される。
ディジョンに近いフォンテーヌの貴族の家に生まれ、1112年頃近親・兄弟ら30人とともにシトー会修道院に入る。3年後、自ら場所の選定をした新設のクレルボーclairvauxの修道院長となる。以後、シトー会は急速に発展し、彼の名声や影響力も広まる。
1128年トロアの宗教会議で承認された神殿騎士団(テンプル騎士団)の会憲は彼の手になるものと言われ、彼が<神殿騎士への新たな軍役奉仕を讃う>で異教徒との戦いへの関心を失った世俗騎士を告発し、新しい修道騎士の理想を讃えたことは会員の増大に資するところ大きかった。
クリュニー修道院(院長ペトルス・ウェネラビリス)との論争、教皇インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世の正閨問題への影響力、40年サンス会議におけるアベラール批判、およびギルベルトゥス・ポレタヌス批判、41-43年ルイ7世との対立、45年南仏伝道、46年第2回十字軍勧説も注目される。
また教皇権における両剣論の主張や神の恩寵と人間の自由意志に関する論考などは彼の学識の深さをよく示している。1174年列聖。
※シャルトルのベルナールとは別人