2007年03月28日

「天使のような修道士たち」ルドー・J.R. ミリス 新評論

普通の歴史書なら、修道院の歴史的変遷を描くところ、本書は修道院や修道士が中世を通じて(500~1500年の約千年間)変わらずにもっていたと思われる社会的存在意義や影響力を対象にしてあえて通常とは異なる視点から描いています。

また、歴史が文字に書かれた資料を基に考察されることから、必然的に内在する問題も明確に指摘しています。具体的には、本書で扱う文字文献の98%から74%(数値は一種の目安程度のもので年代によっても異なる)以上が修道院や教会で作成されると共に、書かれた内容自体も記述者である彼らが当たり前のことではなく異常で記述するだけの価値があるとした事柄であり、長い歴史を偶然に生き残った限定的なものであることを明示しています。

従って、資料からの考察には、各種のバイアスの存在を差し引いて考えることが必要だとまで言っています。実に良心的だし、大切な前提条件を再確認させてくれます。大いに期待して読んでいったのですが、・・・内容はかなり微妙?

私的には、他の本でも見た内容を少しだけ異なった視点で説明している感じがしてなりませんでした。合わせて、本書での説明がだいたいある程度は知っていることだったので、新しいことを知りたいという私には、物足りなかったのも事実。もうちょい、変わったことを知りたかったんですが・・・残念!

扱っているテーマは幅広いし、興味をひくテーマなんだけど、他にもいろんな本を読んでると、もう少し突っ込んだ解説を期待しちゃうなあ、やはり。決して悪くはないと思うんだけど・・・。

でも面白い記述もあったからそこだけメモ。免罪符の件。
「我々は厳正においてあなた方のお世話を致します。あなた方は天国において我々の世話をして下さい。」

修道院とそこに寄進する人々の間には、現世における保護と安全の保障が魂の救済と取引される役割上の互恵関係があるのである。

物事が目に見える形で外面化することが支配的通念となっている社会では、天国を手に入れることも目に見えるように外面化する行為の結果なのである。一方が天国の値段を決め、もう一方がその金額を支払う。これは現世の生をよりよいものにし、来世の生を保障する保険契約である。

罪は禁欲という非現実的な(=実行が甚だ困難な)行為によっても償うことができたし、また禁欲を善行や献身活動に変換するリストに従ってもっと現実的な償いに変えることもできた。

中世末期に出現してくる免罪符売買は新しい現象というよりは、中世前期のこのような考え方の名残である。
マフィアが人殺した後に、告解して教会に多額の寄付するようなもんでしょうか? そうか罪が金で購えることが社会システム的に認められるという地盤がまず、当時の社会にあって初めて免罪符が許容され、その乱用によって問題化されたということだったんですね!

確かに修道院を立てたり寄進して、神の栄光を現世に積むというのは分かるが、免罪符は即物的な金銭だから、本来的に許容されないものだと思っていたのは私の誤解だったようです。あくまでも乱用の程度問題だということが分かっただけでも本書は価値あったかも。ふむふむ。

ゴシック建築におけるステンドグラスで神の国を視覚化したのも、これと同じ外面化に共通するものなのかもしれませんね。
【目次】
第1章 文字に書かれた情報―例外的なものの記録から日常的なものの記録へ
第2章 創造された世界の世界観
第3章 世俗的富の源
第4章 人々に対する修道士の態度
第5章 価値観―キリスト教的なものと修道院的なもの
第6章 知的貢献
第7章 キリスト教、修道生活、教会
第8章 芸術表現
第9章 修道生活
天使のような修道士たち―修道院と中世社会に対するその意味(amazonリンク)

関連ブログ
「中世修道院の世界」M.‐H. ヴィケール 八坂書房
「修道院」今野 國雄 岩波書店
「修道院」朝倉文市 講談社
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posted by alice-room at 18:30| 埼玉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 【書評 宗教A】 | 更新情報をチェックする
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