2007年04月07日

「凍れる音楽-シャルトル大聖堂」~メモ

ちょっと前に読んだ「凍れる音楽-シャルトル大聖堂」 からのメモ。
ローマ時代には、アウトリクムと呼ばれたシャルトルは紀元前からケルト族の一支族カルヌーテースが住まいしてガリア人の宗教的中心であった。ドルイド教を信仰した彼らは、カエサルの「ガリア戦記」によれば(ガリアとはフランス一帯の古名)ガリア人は「一年間のある時期にガリアの中心の地と思われているカルヌーテース族の領地の神聖な場所に会合する」という。このカルヌーテース Carnutaes が Chartres という地名のもとになった。
実際にガリア戦記を読んだ時に、この記述は確認しました。その時は、あまり意識していなかったけど。
シャルトルに関する文献5個:
1)「聖母の奇蹟」
1190年から13世紀にかけての大聖堂建設についての物語。シャルトル大聖堂の建設資金を求めて聖王ルイ9世の時代1262年に著されたもの。

2)「フィリピッド」(1220年)
ギョーム・ル・ブルトンの詩

3)「意見書」(1316年)
建築技術者による修理に関するもの

4)「パルテニ、いとも荘厳なるシャルトルの御堂の歴史」(1609年)
セバスティアン・ルイアールによる1609年の記録

5)「シャルトルの荘厳にして崇敬すべき御堂」
ヴァンサン・サブロンにりょう1671年の記録。古代からの伝承を伝えて詳しい。
サブロンによると、イエスの死後まもなくこの地に福音が宣べられており、早くから聖母信仰が始まった。少なくとも4世紀末には、キリスト教がシャルトルに根付いていた。
伝承によると、

 この地の信仰の中心としたドルイド僧は「ウィルゴー・パリトゥーラ」(生むべき処女)に祭壇を捧げていた。イエスの受肉以前に彼らはイエスの生誕を予兆する処女を信仰していたというのであり、キリストの福音を受けたケルト人たちは彼らの処女信仰の洞窟を聖母マリア信仰の場「地下の聖母」に変えたのだという。

 中世以来、この地下の礼拝堂において木彫りの「黒い聖母」像が崇敬されてきた。サブロンは元の像を、ドルイド僧がその祭壇に捧げたものだと信じて「聖処女は腕にその子を抱いて玉座に座す。シャルトルの聖処女のあらゆる像と同じく、彼女は色が黒いかムーア色である。彼女は我らの国よりも、はるかに太陽の輝く国から来たのであるから、ドルイド僧は彼女にこの色を与えるべきだと考えた」という。

 彼はドルイド僧が聖像を崇拝したというが、それは誤解であり、12世紀に製作された像が近世まで崇められてきたのである。この像は大革命の際に燃やされてしまい、現在クリプト(地下祭室)の北廊に安置されている黒い聖母は、1857年に作り直された像である。
ドルイド教絡みだとむしろ、マリアの母である聖アンナ崇拝の方ではないでしょうか? それだったら、もともとのケルト人の神がそのままキリスト教にスライドしていくのでドルイド僧が崇拝する可能性もありそうな気がしますが・・・さてさて?
「柱の聖母」
ルアールによると、信者の口づけで石の柱に穴があいていると述べるほどに敬虔な人々の祈りを神にとりなしてきた。1510年の作といい、もとは内陣の祭壇に置かれていた。
現在は地下の聖母よりもこちらの方が古いんだよね。元々クリプトにあったのを、聖なる井戸の崇拝を止めさせようと無理して引き離した訳だし。
876年にフランス王シャルル1世(禿頭王)がこの大聖堂に「聖母の御衣」を寄進した。「聖母の奇蹟」によれば、「聖母が神の御子を産みたまいし時、着用しておられた」衣であるというが、一説には大天使ガブリエルがマリアに受胎を聖告した時に彼女が身につけていた衣であるともいう。
サブロンによれば、

 臨終の際に聖母は使徒たちに向かってイエスの死後ずっと彼女に仕えてきた正直な未亡人にそれを与えるよう命じたのであるが、それが人手を経たのち、ビザンチン皇帝ニケフォルス1世とその妻イレーネの手にわたっていたのを、シャルルマーニュ帝がコンスタンティノポリスを訪れた際に拝受してアーヘンに持ち帰っていた。そして彼の子孫で西フランクの王になったシャルル1世に譲られていたのである。
(この布はササン朝ペルシアの産と判断されている)

 シャルルⅢ世(単純王)がフランス王位にあった911年にロロの率いるノルマン人がフランス各地を劫掠し、シャルトルを包囲した時、司教ゴスランは聖衣を御旗として敵を打ち破ることができたという。

 この衣は聖母マリアの処女懐胎にちなんで子宝の授与と安産の信仰の対象となり、16世紀にはフランス王アンリⅢ世が往時ルイーズ・ド・ロレーヌとともに世継ぎを求めていくたびとなくここに巡礼し聖母に祈願している。
十字軍がコンスタンティノープルに侵略して以来、たくさん聖遺物が西欧に流入したきたけど、強奪する前に譲り受けたものなんですね。

大聖堂のクリプトの一隅に「サン・フォール」(強く聖者)と呼ばれる井戸がある。この場所はガロ・ロマン朝(前1世紀にガリアがローマの支配下に入って以来のローマ文化の時代)の市壁に近い位置にあってもとは「リュー・フォール」(強き場所)と呼ばれていたというが、のちにこの井戸がその名を得るに至った。

 クリプト自体はおおむね11世紀、司教フュルベールの時のものであるが、カロリング期の石積みの他、ガロ・ロマン期に遡る石積みも確認されている。深さ33mに達するというこの井戸はプレカロリング期のものであり、4世紀にまで遡るともみられているが、ここに古くからの泉信仰があったものと思われる。そのケルト起源を確認することはできないが、少なくともローマ時代にはここに井戸の存在したことが伝えられている。
サブロンによれば、

 シャルトルの地に定着したキリスト教が次第に盛んになって聖母マリアに捧げられた地下の洞窟で多数の信者が日々に祈りを捧げつつあったのを耳にしたこの町の為政者ローマ総督クィリヌス(クラウディウス帝時代:41~54年)は、彼の娘モデスタまでも洗礼を受けて改宗したのを知って怒りに狂い、彼らがこの聖所集まっている時を狙って兵を遣わし、彼の娘ともども数多くのキリスト教徒を虐殺してこの井戸に投げ込んだという。

 「サン・フォールの井戸」という呼称はこれに由来する。殉教者たちの流した血からキリスト教が成長し、そこに聖母が花開くことになる。聖女モデスタは今日なお、北袖廊扉口の西面の台座に刻まれたサン・フォールの井戸の彫刻の上に立っている。

 この井戸は聖水の病を癒す力を信じる巡礼者たちによって久しくにぎわっていたが、聖水信仰を否定した17世紀の啓蒙的な聖職者たちは黒い聖母子ぞの像を地上の聖堂に持ち上げ、井戸を埋めてグロットを壁でふさいでしまった。今日クリプトの聖母子像の近くにみられる井戸は1905年に再発見されて修復されたものである。
以前に行った時には、この聖なる井戸を見学しそこなって惜しいことをしてしまいましたが、今も水あるのかな?さすがに枯れ井戸かな? 

聖なる泉を崇めるアミニズムは、ケルト由来の古い信仰ですし、ケルト人は聖なる湖や泉に貴金属などを奉納したそうですが、ここの井戸の底に何かありそうな気がするんですけどねぇ~。

聖杯とか沈んでないのかな?(笑顔) 

関連ブログ
「凍れる音楽-シャルトル大聖堂」建築行脚シリーズ 6 磯崎新 六耀社


posted by alice-room at 20:59| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | 更新情報をチェックする
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