2016年12月08日

「古本的」坪内 祐三 毎日新聞社

古書にまつわるエッセイ。
正直あまりエッセイとか個人的なものは好きではないのですが・・・その割に古書関係はほとんど著者の独り言なのだが・・・結構よく読んでいたりする私(苦笑)。

こないだは喜国氏の全然興味のないミステリ小説の古書の話でしたが、本書はさらに興味が持ちようがない、作家のゴシップとか明治期の作品の話だったりします。

本書で出てくる作家の名前さえも知らないし、更に作品も全然知らないのばかりで私にとっては情報的には全く無価値な本だなあ〜と思いつつ、それでもなんか少し楽しき読みました。

古書会館や神保町の古書店を同じように廻っていても、全然、ジャンルがかみ合わないとこうまで違うんだなあ〜と今更ながらに感慨深く読みました。

特に私は作家自体にはほとんど興味なく、本というのは作品自体がすべてであり、それ以外の作家自体とかどうでもいいと思ってしまうタイプなんで、作家一個人の行動やら情報やらは興味もないし、むしろ知りたくもないので著者のような関心をもつ方向性に非常に違和感を覚えながらも、すいすいと読み進めておりました。

映画や舞台見ても、役者とか個人は興味湧かないんですよねぇ〜。
あくまでもその作品の中の登場人物として見てしまうので、個々人はあくまで全体の中のパーツと思ってしまったりする。

まあ、どうでもいいんですけどね。

著者は特に博学でもないし、古書収集に異様な情熱をかける趣味の輩でもないが、淡々として自分の好きな本を読むのは同意します。美本でなくても手頃な値段で読めればってのも同感ですしね。

そうそう、私の読書ジャンルからは全く読んで価値がないと思われた本書ですが、意外や意外なことに価値のあることも書かれていました。位置づけ的には「松山俊太郎」というインド学者の凄さを紹介するくだりで澁澤龍彦についての話があるのですがこれがなかなか興味深かかったです。その部分だけでも本書は読んだ甲斐がありました。
河出書房の「澁澤龍彦全集」第五巻の40頁以上もの「解題」。この巻は「サド侯爵の障害」を中心とした作品が収められていて、同作品には桃源社の「マルキ・ド・サド選集」別巻版(1964年)と桃源選書版(1965年)、桃源社の「澁澤龍彦集成第二巻」版(1970年)、そして中公文庫版(1983年)の四つのバージョンがあるのだが、松山俊太郎はその四つのテキストの緻密な校異を行ない、片仮名表記の音引きと非音引きに注目する。1964年の版と65年の版は同じ紙型を使っているから表記の異同はない(つまり非音引きが中心である)。
ところが、新組である1970年版でも表記変更は行なわれていない。だが、これは変だ。なぜなら、その半年後、つまり1970年9月に澁澤龍彦は筑摩書房からジルベール・レリーの「サド侯爵その生涯と作品の研究」を訳出していて、その翻訳文では「一貫した音引き式を採用している」のだから。
この事に関して松山俊太郎はこう推理する。

このような事実は、澁澤龍彦が、遅くとも1970年初頭には、音引き式への転向を必要と認めたものの、旧作の表記改定を志すまでの熱意は、もっと後まで持つにいたらなかったことを物語る。

「もっと後まで持つにいたらなかった」という一節に注目してもらいたい。この一節に松山俊太郎の重心がかかっている。
実は1983年の中公文庫版に至って、にわかに、片仮名表記の大幅な改定が行なわれたのだが、それがはたして、澁澤龍彦自身のてによるものなのかと、松山俊太郎は疑問を持つ。「表記の整理は、他人に任せた疑いが濃いのである」、と。
最初の版では音引きと非音引きが混在していた。しかも同じ綴りを持つ、例えば「カトリイヌ」が、ある箇所では「カトリーヌ」となっていたりする。
松山俊太郎はその使い分けの意味する所を見逃さない。つまり、それはただの表記ミスではなく、澁澤龍彦の意思が込められていた。

すなわり、「サド侯爵の生涯」を執筆するころの澁澤龍彦は、理屈の上では音引き式表記に移行する必要を認めてはいたが、非音引き式表記にも愛着が残り、新しく扱う人名の表記には艇、抵抗なく音引き式を採用したが、馴染みの深い人名では旧態を保持しようとしたため、変則的な二様表記をあえてしたのだと推定される。
こうして熟知するメディチの悪女は、カトリイヌと昔のままであるのに、たまたま言及した職工の娘は、未練なくカトリーヌと音引きで表記され、そのカトリーヌの別称としてはジュスティーヌという新表記を適用したにもかかわらず、自らの訳著の女主人公は、頑固にジュスチイヌで通したのであろう。

すなわち、「澁澤龍彦による固有名詞の表記のかなり多くが、一般的規則に優越する、個別的理由により決定されているに相違ない」というわけである。
だからこそ最初のバージョンは

片仮名表飯野雑駁さによって、澁澤龍彦の無邪気な”我の強さ”を満喫させてくれる、懐かしいテキストであることが判明し、かれの初期教養形成のあとをたどる手掛かりを留める、有数の資料なのだと認められる。

それに対して文庫版は、

訂正が皮相的かつ不徹底で、滑りが好くなっただけの、澁澤龍彦の人格の投影である書き癖を大幅に削りとった、淋しいテキストに変貌している。

「懐かしいテキスト」と「淋しいテキスト」という、「懐かし」さと「寂し」さの対比が、とてもリアルで素晴らしい。普通の、ただの学者たちのテキストクリテッィクからは、こういう美しい文学的なフレーズは生まれない。
私は改めてこのフレーズに心動かされた。
もうこの部分だけで、私には本書は多大な価値があったと言っていいでしょう。河出の全集も持ってるし、桃源社のも持ってる、白水社だったかなビブリオテカも持っている。勿論、文庫も持っている。あと赤・黒・緑の初版も持っている私としては読んでいて何も気付かなかったことを気付かせて頂きました。

本書読まなかったら、一生知らないままだったかと。
知ったから、何か有意義で価値があるとかそんなことはないのですが、まさに目から鱗で相当な衝撃を受けました。う〜ん、学者にならなくて正解でした。私的にも感動物ですね。翻訳もの、あまり揃えてなかったので改めて澁澤龍彦のその辺も集めようかと改めて思ったぐらいです。

その前に中世思想原典集成を全巻購入してからですが・・・・。

あと、そうそう夢野久作の父は右翼の大物で有名ですが、本人に息子がいてその息子に名前が杉山龍丸というのも初めて知りました。

まあ、そういった古本以外の部分で、拾い物がたくさんある本でした。万人向きではないような気がしますが私にとっては価値大いにありでした。
【目次】
1 古本的
2 ミステリは嫌いだが古本は好きだからミステリも読んでみた

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タグ:書評 古書
posted by alice−room at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 【書評 本】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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