2007年08月23日

ゴシックの芸術~メモ

読了した「ゴシックの芸術」ハンス ヤンツェン 中央公論美術出版より、書き抜きメモ。
空間印象の全体性は、空間限界の構造によって規定される。(P3)
空間限界:(P4)
内陣頭部をも含んでその長さの全体にわたっての主廊の限界付けを意味する(=長堂)
空間限界の分析は「ディアファーンな構造」にかかわっており、(駆体的―彫塑的に形づくられた)壁とその背後にある空間部分との関係は、基本的に<駆体と地の関係>として現れる。即ち、長堂の駆体全体の限界付けとしての壁は、空間の地がなければ捉えられないのであって、空間の地によってその作用価値を保持している。(P7)
ゴシックの光空間はロマネスク建築の空間とは本質的に正反対である。ロマネスクの礼拝空間は闇そのものであるのに対し、ゴシックは「明るい」。(P11)
壁にうがたれた窓の面積とか、物理的な側面のみにあらず、ロマネスクがクリプト的な暗闇の中での幻想的な面を持つのに対して、ゴシックは相対的に合理的・開明的な明確さという面を持つという違いがあるらしい。
ディアファーンな壁の構造には空間効果に対して、どのような特別な表現的意味があるのか。

鋭く立ち上がるゴシックの空間の体験を特徴づけるところの、礼拝的に心を魅了するためのもっとも効果的な手段をあらわすのだ、と。
 確固としたものが、作用方法の非駆体性によって、自然な環境世界を奪い去られ、重さを取り去られて、上昇させられる。こうして、キリスト教的中世はこの空間によって、キリスト的出来事に対してまったく新しい象徴形態を創造したのであり、この象徴形態はその源がわれわれには隠されている敬虔性から成長したものなのである。(P21)
こればかりは自分で経験しない限り絶対に理解できない感覚である。しかし、体験をした人ならば、その超自然的な象徴空間の与える心理的影響について、無視する事はできないだろう。私が思いっきりはまったのが、まさに心理的影響だと思っている。
1144年モン・サン・ミッシェルのロベールの記述;
「この年はじめて、信仰篤い人達が自分自身を石や樹や穀物や、そのほか大聖堂の工事に必要なものを積んだ荷車につないだのが、シャルトルで見られた。魔的な力によって、その諸塔が天に向かって伸びた。そのことはここだけでなく、フランシア、ノルマンディその他の場所の、ほとんどいたるところで起った。いたるところで人々は謙虚になった。いたるところで彼らは悔い改めた。いたるところで彼らは敵を許した。男も女も沼地を通って重い荷物を引っ張って神が彼らの眼の前で行ったもうその奇蹟を歌を歌って讃えるのがみられた。」(P25)
しばしば引用される記述だが、ちょっと違う点がある。「いたるところで~」とかいうフレーズは、他の本では見たことないような気がする。
古典的大聖堂:
シャルトル、ランス(「フランス教会堂の女王」)、アミアン(<すぐれてオジーブ式の教会堂>)(P30)
本文では触れられていないが、シャルトルだって「凍れる音楽」とか称号なら不足はない。おしなべて古典たるだけの格があるのだ。
シャルトルの新しい建築におけるトリビューンの放棄の理由:

礼拝上の諸行為を一空間にまとめておいて、それに共通なヴォールトをかけ、信徒達をトリビューンから降ろして、長堂において光り輝く内陣頭部という目標に視線を集めるという試み(P55)

←ロマネスクとゴシックの差異は礼拝式への参与の差異であり、ゴシックは救済の真理にもっと直接的に参与しようとする。
「信徒達それに向けて駆り立てた一つの宗教的な動きが彼らを捉えた。聖体を拝領することが、少なくとも肉体的な眼で見ることが、あえて試みられたのである。この<直視の要求>は、司祭がホスチアを手にとり、それを奉挙し、それを聖別し、そしてそれの聖変化を告げる、その瞬間に集中した。東方教会の典礼においてもっとはっきりと見られる奉献奉挙は、当時、ローマ教会のミサにおいても儀式として強調されるようになっていた。」
そうそう、この観点については、最近になってようやく私知るようになりました。ミサって日々奇蹟を行っているんですよね。その奇蹟を生じさせる舞台作りというか環境こそが、まさにこのゴシック建築で採用されたものなんですね。ふむふむ。
ゴシックの光

 第一に、ゴシックの光が自然な光ではないことを示しており、第二に「非自然な」光が建築のもつ魅惑する力とかかわって「超自然な」光として体験されるということを示している。ゴシックの空間は暗色で赤紫色の光で満たされており、その神秘性は記述しがたい。とりわけ、それが<一つの>光源から発するのでなく、自然の外界の天気に応じて、その輝くの価値があるときは増大し、あるときは減少し、またその色彩は薄明においては信じ難いほどの輝きに高まって、たえず変化するように見える。ヴォルフガング・シェーネは、そこでは透明な光のようなものではなく、現象的にいって窓が直接的に光源のように感じられるということなのだ、と強調している。そこで彼はガラス窓の像の光を、「(濃色、明色、暗色として)同じく最高度の能力にまで高められた色彩と結ばれて最高度の能力にまで高められて形成された固有の光」と記述している。(P100)
光の空間と像の世界

 シャルトル大聖堂の赤―紫色の光が、内部空間の協同のもとで、どれほどに「忘我状態」という印象を決定しているかについて既に言及した。しかしながら、この大聖堂を設計した工匠が空間限界として「壁」を整えたその高身廊の巨大な窓は、側廊及び周歩廊の窓と同じく建築を光の空間に変える手段を形成したに過ぎないのではなく、像世界がこの光に溶け込んでおり、この像世界は大聖堂の内部空間に作用してゴシックの建築空間の超地上的な力に決定的に関与している。
 人物像のない色ガラス板が窓に嵌め込まれていたいたとすれば、その効果が同じであるかどうかが問われよう。しかしながら、この問いはすでに答えられている。人物像がともに作用しあっているのである。その彫像柱において人物像が浮遊した姿勢で外部に向かっている彫刻より以上に、ステンドグラスの絵の形姿が直接的体験において超地上的なものの印象を与える。なぜなら、これらの形姿は呪術的に燃えるように輝くシンボルであるかのように空間限界の層の中へはめ込まれている非物質的なものとして、光を本性としたものとして存在しているからである。(P200)
窓が光を放つ、空間が光に包まれて同化する。世俗から、一気に神の世界へと近づくことを許されたような、あの感覚。私は他のゴシック聖堂では味わったことがないが、シャルトルにおいてだけ、一度味わった覚えがある。心の底から、この説明に同意する!
信仰の神秘は、ミサ聖祭のしきたりの歴史的に変化する異なった諸形態において受け取られる。まさに、初期中世の諸世紀におけるおける典礼構成の変遷における豊かな精神生活は、教会建築の変化が礼拝的出来事のための枠組みとして理解できるものとなることを示している。(P212)
13世紀のドゥランドスによる

「聖書において多様な意味、すなわち歴史的意味、アレゴリー(寓意)的意味、トロポロジー(比喩)的意味、ならびにアナゴジー(神秘)的意味を確認する。
 第一のものは事物と出来事を、報告されている文字通りに理解する。アレゴリーは語られていることがその語の通常の自然的な意味に従ってもっているのとはちがった他の意味を与える。それに対し、トロポロジーは道徳的な語りの仕方をいい、自然な意味において道徳的視点に従って、他の何かを述べる語についての解釈である。アナゴジー的意味はアレゴリーと密接に触れ合っており、超地上的なものとであれ、教会とであれ、形而上的なかかわりをテキストにおいて求める。」


posted by alice-room at 13:17| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。