2007年09月08日

「ゴシックの図像学」(下)~メモ

先日読んだ「ゴシックの図像学」(下)エミール マール 国書刊行会より、抜き書きメモ。
『マギの礼拝』:

「コレクタネア」の中でベーダは次のように記している。

 「マギたちの先頭に立つのはメルキオールである。彼は白髪を長く伸ばし長い髭を蓄えた老人である・・・。聖なる王位の象徴である黄金を捧げたのは彼である。二番目のマギはガスパールという名で、若く、髭が無く、血色がよく・・・。彼はイエスに香を贈って崇めたが、香はイエスの神性を示す捧げ物である。三番目のマギはバルタザールという名で褐色(fuscus)で肌をしていて髭を顔中に蓄え・・・、沒薬を捧げることで<人の子>が死すべきことを証したのである。」(P25)
これらの伝承の中で最も出色なのは「カナの婚宴」であろう。この伝承は極めて古くベーダの書物に既に記されているが、福音書がほとんど何も語っていない花婿と花嫁の名前をこの伝承は明言していた。花婿は聖ヨハネ、花嫁はマグダラのマリアだというのである。そしてこのこの婚宴へのイエスとその母の出席を、次のような巧妙なやり方で説明している。聖母とその「子」はマリアの姉であり、聖ヨハネの母であるサロメによってそこに招かれていた。即ち、彼らは花婿の親戚として来ていたというわけである。
 伝承はさらにこう付け加えている。聖ヨハネは結婚の当日に妻を捨てた。食事の後、主イエスは彼に「この妻をここに残してわたしに従え」と命じ、童貞であることを選んだヨハネは主に従ったというのである。(P36)
マグダラのマリアって、人気というか実にモテモテですね。イエスと結婚していたとか、ヨハネと結婚していたとか・・・。う~む、そもそも結婚していたことはあるのだろうか? 

この伝承ではサロメがマグダラの姉になっているが、伝承によってはマルタが姉というものもあったし・・・。

まあ、あくまでも数ある伝承のうちの一つではあるんでしょうけどね。
もしわれわれが13世紀のステンドグラスと写本挿絵に関する「大全(手引書のようなもの)」を持っていたなら、同種の興味深い例を多数数え上げる事ができたであろう。そしてまた、中世の芸術の全ての規範を再発見し、13世紀の「絵画便覧」の各種をほぼ正確に再現することができたであろうに。

 このようなわけだから、書かれた伝承だけでは中世芸術のすべてを説明することはできない。そのためには芸術的伝統と呼びうるものをも考慮に入れなければならないのである。一方また、単なる工房の伝統でしかないものを外典の伝承と思い違いしないようにも注意しなければならない。(P52)
『聖母の奇蹟』

・聖母は絶望的な訴訟の「弁護士」であった。慈悲のあらゆる恵みは彼女の手中にあった。

・中世の聖母はまさに女性そのものであった。彼女は善悪を斟酌せず、愛によってすべてを許す。彼女の讃歌「アヴェ・マリア」の半分だけを毎日唱えれば、それで十分なのである。サタンがいくら精妙な論理を展開しても無駄である。最後の瞬間、聖母はその愛らしい優雅さとガリア的な巧妙さによって、サタンのスコラ的論法を壊滅させるのだ。彼女は姿を変えて、悪魔が予期していない場所に突然現れる。彼女は魂の計量に参加し、天秤を善の側に傾かせることができるのである。
マリア崇拝は今は亡き前教皇も熱心であったことで有名ですが、現教皇はどうなんでしょう? 神学的には、なかなかすんなりと評価しにく感じもするんですけどねぇ~。
シャルトルでは、ステンドグラスと彫像が先を争って、カルヌーテス族の国の最初の証聖者たちを称賛している。「生み出す処女(virgini pariturae)(シャルトルの丘の頂上の「強き者の泉」はドルイド神官たちが集会を行う場所であったが、その傍らに地母神像が祀られていて、その台座にこの文字が刻まれていたという)に何世紀も前から捧げられていたという洞窟の上に教会を建てた聖ポタンティアン、ローマ総督のクィリヌスの娘でありながら、父親によって他の殉教者と一緒に井戸に投げ込まれた聖女モデスト、聖ドニのように自分の頭を運んだという聖シェロン、シャルトル司教になる羊飼いの聖リュバン、ル・ペルシュの森の修道士、せいローメル修道院長などである。(P172)
この井戸ですねぇ~、現在地下ツアーで見れるところって! 次回行った時には絶対見に行きたいなあ~。
シャルトルもまたコンスタンティノープルからの聖遺物の一部を受け取っている。1205年、ブロア伯がオリエントから聖女アンナの頭部をノートルダム大聖堂に送ったのである。特許状の一項は「母の頭は大いなる歓喜の中で娘の教会に迎えられた。」と記している。

 大聖堂北扉口は13世紀初頭に着工されたが、その彫刻群の一つは、この貴重な聖遺物の取得を記念するもののように思われる。中央扉口の中央柱を背にして立っているのは、通常のように聖子を抱く聖母ではなく、聖母を抱く聖女アンナなのだからである。この異常さは大聖堂内部においても繰り返される。北薔薇窓の下に置かれた格子の中のステンドグラスの一つにも、腕に聖母を抱いた聖女アンナが現れているのだ。

 人々がこのような独特な仕方でマリアの母を讃美しようとしていたことは明らかである。教会に聖女アンナの頭部が秘蔵されているという事実のみが、彼女が占めている場所の異常さを説明し得るであろう。

 こうした種類の多くの謎は、もし13世紀にシャルトルの大聖堂が所蔵していた全ての聖遺物のリストが存在するなら、容易に解決する事であろうに。

 例えば、南扉口の聖テホドルスの大きな彫像は長い間、聖ヴィクトのものと看做されてきた。ティドロンはヘラクレイアのギシリア兵士よりもローマ軍団兵の方がフランスの諸教会ではよく知られていたと考えたのである。その頃にはまだ、聖テオドロスの頭が1120年にローマからシャルトルに運ばれてきたことを誰も知らなかったからだ。それが知られるようになったのは1862年に公表された特許状によってなのである。この時初めて、聖ゲオルギオスの像と一対をなしている美しい騎士の像の名を確実に言う事ができるようになったのだ。(P182)
そう、これこれ! 聖アンナの聖遺物って今、触れられている本ってほとんどないんだけど、どうなってしまったのでしょう? あの忌まわしきフランス革命(法律を学んでいた時は、素晴らしい人間の理性の勝利だと確信していたのだが・・・)のどさくさで失われたのでしょうか・・・。心が痛まないではいられません。ステンドグラスが残っただけでも奇蹟かもしれませんが・・・。
三百年以上もの間、聖人伝は芸術家の尽きる事無き材料であリ続けた。聖人伝は西欧においては聖書に次いで芸術に最も深い影響を与えた書物だったのである。(P200)
「黄金伝説」を知らないでいにしえの名画を理解できる訳はないってことを痛感します! ところで美術評論家ってみんな「黄金伝説」とかは最低限読んで頭に入っているのだろうか? 素朴な疑問なんだけど???
13世紀は16世紀とほとんど同じくらい古典主義的であるが、わずかにシャルトルの大聖堂において古典古代の大作家たちの姿が見られるに過ぎない。(P242)
これって、12世紀に盛んだったシャルトル学派の存在が大きいんでしょうね。
宗教芸術の黄金時代である13世紀においては、王も貴族も司教も普通は寄進者の資格においてしか大聖堂中に描かれることはなかった、と。そして、その場合においても、彼らはほとんど常に聖者たちとは明確に区別された態度で描かれていたのである。(P221)
中世が表現した地獄の姿もまた、スコラ的聖書注解から生まれたのである。13世紀のほとんどすべての「最後の審判」図では、炎を吹き出す巨大な口が開いており、そこに呪われた者たちが投げ込まれている。15世紀末の悪魔たちが出てくるのも、もっと節目も多く機能的になっているが、やはり同じような口からなのである。
 このようなイメージが中世全体を通じて忠実に伝えられていったのは何故だったろうか。その本当の理由は、このイメージが芸術家の気紛れな想像からではなく、聖書のテキストから生まれたことにある。地獄の口は「ヨブ記」の語るレヴィアタンの口なのだ。(P269)
私が持っている時祷書にも出てきてましたこの『地獄の口』!!
~聖ペトロは象徴に過ぎず、イエスがこの初代教皇に与えるという形で与えた縛る権能とほどく権能を象徴しているのである。聖ペテロを天国の戸口に置く事によって芸術家たたいが示そうと望んだのは、ただカトリック教会のみがその秘蹟によってわれわれを永遠の生命の中に入らせる力を持つということなのである。(P274)
聖堂は一つの書物なのだ。中世芸術のこの百科全書的性格が最もよく示されているのは、シャルトルにおいてである。「鍵」の各章がそれぞれの場を持っている。シャルトルの大聖堂は視覚化された中世思想そのものなのだ。そこには本質的なことは何一つ欠けていない。そこに描かれたり、彫られたりしている一万もの人物像は、ヨーロッパ唯一の総合的な全体を形作っているのである。(P285)
エミール・マールは著者の中で、シャルトル大聖堂が一番と何度も力説しています。
教会の彫像はステンドグラスによって、中世の聖職者たちは信者はできる限り多くの真理を教えようと努めた。彼らはまだ幼く蒙(くら)い魂たちに対する芸術の強い力をよく知っていた。詩篇編集もミサ典礼を持たず、キリスト教については自分の目で見たことしか覚えていない無学な大衆に対しては、観念を物質化し、視覚的な衣をまとわせねばならなかったのである。12世紀と13世紀においては、教義は典礼劇の登場人物と扉口の人物像のうちに肉体化されている。キリスト教思想は、感嘆すべきエネレギーによってみずからの道具を創り出した。(P267)
サン・ドニ修道院長がまさにゴシックを生み出した所以ですね!
posted by alice-room at 20:51| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録B】 | 更新情報をチェックする
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