【目次】本書は目次にある通り、4冊のそれぞれ別の小冊子で出ていたものをまとめて一冊にまとめたものらしいです。
順徳天皇 佐渡の御遺跡
佐渡伝説 順徳院物語
日蓮聖人と佐渡
佐渡の日蓮伝承
購入時にも書きましたが、ISBNコードもないから、全国配本されない地方出版物みたいです。国会図書館には蔵書ありましたし、値段も書かれてるから一般販売はされていたようです。
著者は、旧家の出で天皇陵の管理をしていた公務員だそうで、本の冒頭に宮内庁の人間の推薦まで入っているから、それなりに信頼が置ける人と考えられているようですね。
さて、本書の内容はあの有名な承久の乱で佐渡へ配流になった順徳院のその後について詳しく書かれています。現存する文献からだけでなく、佐渡に現在も伝わる伝承などもフィールドワークで広く採取していて、普通では知ることのできない情報が満載されていて実に興味深い本です。
順徳院が佐渡に来た当初は、土地の人は都の徳の高い僧侶としか思っていなかったそうですが、その順徳院が次々と不思議な現象を起こすので『只者』ではないVIPという認識を持った・・・云々と記述されています。この奇蹟譚のたぐいがまさに聖人伝説であって、実に楽しい♪
と同時に、ひたすら都へ戻る事を夢見て、配所で耐え忍ぶ姿は、どうしても崇徳上皇の姿がオーバーラップしてしまいます。なかば絶食して死に至った経緯も怨念の表現としては、崇徳上皇に負けるものの、どうして&どうして、荒俣氏の小説のモデルになってもいいくらいでしょう。
鎌倉幕府を祟りたくってしかたなかったはずですしね!
この手の話や歴史に興味のある方、是非どっかから入手して読んでみて下さい。実に面白い!! 参考までに本書の中に載っている話を以下に紹介してみましょう。
[竜神御剣を奉る」これって、安徳天皇が壇ノ浦の合戦の時に入水し、紛失した三種の神器の一つ(鏡だっけ?)が海上にぷかぷか浮いていたのと重なるような奇蹟ですね。こちらは竜神が明示的に示されている分だけ、強調されているようですが。
恋が浦へお着きになった順徳さんは、お船から御上陸になる時、おさすが(御剣)を海の中へ落とされた。お困りになった順徳さんは、すぐ
束の間も身に放たじと契りしに
浪の底にもさや思ふらむ
と、お歌をおよみになると、竜神も御威徳に感じたのであろう。波の上におさすがはしづかに浮かび上がり、こともなくお手に入ることが出来た。
[狐憑き]天子様の御威光、ここに至れり! 逆に言うと、未だに天子としての力を失っていないことを暗示sしている訳で、いつか中央に返り咲こうという意図の現れでしょうか? それとも単に田舎では、貴人として尊ばれていたということでしょうか?
佐渡には、昔から狐がいなくて狢がいることで有名である。そして狢に憑かれたのは落ち易いが、狐に憑かれたのは容易に落ちないといわれている。
昔、他国に出ていて、狐憑きになって帰ってきた男があった。家族の者たちは大変心配してあちこちに行って祈祷などしてもらったが少しも効き目がなかった。
そのうち、狐に憑かれたのには、天子様から睨んで頂くと、必ず落ちると教えてくれるものがあった。その頃、佐渡の島には順徳さんと申す天子様がおいでになったので、早速御殿にあがり、恐る恐るお願い申し上げたところ、「わしも位にあるときならば、請け合って落として遣わすが、今の境遇ではどうかわからぬ、それでもよければ」とのお言葉で、御聞きとどけ下された。
家の者達は、早速その狐憑きの男を、御前に連れて出るや、たちまちブルブルふるえて、トツトツと十歩ばかり走って倒れた。睨むまでもなく、ただ御前へ出ただけでその御威光に打たれ、憑いていた狐は落ちて元の人間に立ち返った。
[せきぞろう]やっぱりそこまで苦境にあったということなんでしょうね。こういった話が残っている自体、当時の様子がありありと目に浮かびます。
まことに恐れ多いことであるが、その頃の順徳さんには、ともすると毎日の御食事にすら事欠くという有様であった。
これを見かねたほいとうが節季(年の暮)になると、「節季に候」、「節季に候」と唱え廻って米などを貰い集めて奉った。
それから毎年行われたが、一年に一人だけがしかも一度しか廻る事の出来ない慣例であった。
「節季に候」が「せぎぞろう」に転訛した。明治初年頃までは、年の暮になるとほうとうの頭(かしら)が「せぎぞろう」と呼びながら物貰いに門に立ったのは、この風習の残りだといわれている。
それから佐渡で乞食のことをほうとうと呼ぶのは、順徳さんのお供のみこしかきに布衣(ほい)の位を与えて「布衣等」と呼んでからである。その布衣等は、位はあったけれども暮しが楽でなかったので、村人に衣食を乞うことが多かった。そのため「布衣等」は乞食のように呼ばれた。
[中川の御製]ブリテン島から、蛇を追い払った聖ゲオルギウスのようですね。超人的な力を有する聖人以外の何者でもない。こういう話は大好きです♪ 弘法大師様の話しなんかも面白いんだよねぇ~。
今の石田川は、昔中川といって鍛治町から八幡部落を横に流れて海に注いでいた。川幅が広く、石原が多かったが、所々にクリがあって、そこには大蛇が棲んでいた。少しの雨にも大水となり溺死する人もある位で大変困っていた。
ある時、順徳さんはこのことを御聞きになり、川岸にお立ちなされ、
見下ろせば佐渡の中川しろたへの
己が棲家は海にこそあれ
とお詠みになった。
この御製はヌイゴのお筆で、麻布にお書きになって、中川へお流しになった。その為大蛇もいなくなり、また川の流れも現在の川原田町との境へ変わってしまった。
この時お流しになった麻布は、万法院の修験者が石田川の川口で拾って家宝としている。また、現在八幡諏訪神社の東側を流れている小川は、その頃の中川のあとである。
本書には日蓮聖人に関するものも載っています。読むのが難しいのもありますが、資料として十分価値あるんじゃないでしょうか? しかし、本書を読むまで日蓮聖人が佐渡にいたことがあるなんて全然知りませんでした。いやあ~佐渡っていろいろあるんですね。以前、行った時には全然気付かなくて惜しい事をしました。
今度、改めて行ってみようかな?
関連ブログ
蒲田温泉・池上本門寺・川崎大師