聖ブレンダン航海譚はラテン語の他、各国の言葉に翻訳されて広く知られたベストセラーであった。本書以外に現在の邦訳には、2種類がある。
1)Benedeit のフランド韻文詩の訳。
(村松剛:冥界往来―「聖ブランダンの航海」東京大学教養学部外国語科編「外国語科研究紀要―フランス語教室論集」第39巻第2号、1991年)
2)1476年のドイツ民衆本の訳。
(藤代幸一:「聖ブダンダン航海譚」法政大学出版局1999年)
本書は、それらの各国版に先立つラテン語版の邦訳に当たるそうです。興味のある方は是非、読み比べてみて下さい。ずいぶんと内容が異なってきているのが分かります。
私は、2)の藤代氏のドイツ語訳を先に読んだのですが、ちょっと前で記憶は怪しいながら、かなり違う印象を受けました。勿論、訳出された文体の影響もあるのでしょうが、こちらの訳は読み易いし、どちらかというといろいろな要素が付加される前の原形故か、ストーリーがすっきりした内容になっています。比較しながら読むときっと更にその面白さが増すと思います。
後は1)のフランス語版の訳かな。これはまだ読んでないので機会を見つけて是非読んでみたいと思います(笑顔)。三つを並べて読むと面白そう!
ご興味のある方、お薦めします。
なお、この広島大学紀要のラテン語訳ですが、Curraghさんの「聖ブレンダンの航海」というサイト上で公開されています。ご興味のある方は、そちらもどうぞ!
風が止まった時、舟が止まった時、「兄弟たちよ、心配はいらない。神が私達を助けて下さる。神は私達の船頭、私達の舵取り、私達を導いてくださるお方です。櫂と舵を中にしまいなさい。ただ帆は広げたままにしておきなさい。神がそのしうもべと舟をお望みのままになさるでしょう。
「子供らよ、やめなさい。いたずらに体を疲れさせるのは愚かなことです。なぜならば、神みずから、お望みのままに私達の旅を導いていらっしゃるのです。上記の2ヶ所は、本文中で気になった引用部分ですが、黄金伝説の中にもこれとよく似た部分をいくつも見たことを思い出しました。
例えば、マグダラのマリア一行が航海中に遭難して死ぬようにと、帆の無い舟に乗せられたにも関わらず、神のご加護で無事に岸に上陸したとかね。
確かその伝承もケルト文化の影響の残るプロヴァンスのものだと思ったが・・・。ケルト的キリスト教の特徴(名残り)なのだろうか? 神に全てを委ねるという考え方自体は、キリスト教だけではないし、珍しいものではないが、その表現として舟の進行全てを委ねるというのは、いかにもケルティックなキリスト教に思うの私だろうか? ちょっと、気になったのでメモ。
そうそう、この航海譚で出てくる『ユダ』がなんと言っても印象的。とっても面白い(こういう表現っていけないのかな?)。ユダのイメージって私の中では固定化されていたので、かなり意外な感じを受けました。
後は、『レヴィアタン』の呑み込む部分かな~。いわゆる『地獄の口』の事でしょうね。ここでは、こういう形で表現されているのかなあ~と勝手にふむふむとか思いながら読んでました。違ってたら、恥ずかしいけど・・・、いろいろと知識は複合的に機能するから、もっと勉強せねばと思ったりもしました。
単純に物語として読むだけでも、いろんな意味で実に面白いお話ですよ~。お薦め!
関連ブログ
「聖ブランダン航海譚」藤代幸一 法政大学出版局
聖ブレンダンの航海譚 抜粋