2007年10月10日

「サンティヤーゴの巡礼路」~メモ

「サンティヤーゴの巡礼路」の『サンティヤーゴ巡礼案内書』の全訳を読んでいて気になった箇所をメモ。
福者マリヤ・マグダレーナ(=マグダラのマリア)は、癩者スィモンの家で救世主の御足に涙を流してこれを髪で拭き、さらにそれを貴き香油で濡らしてこれに接吻した人であって、そのゆえに彼女の数多き罪は浄められたのである。なぜなら、彼女はすべての人たちを愛した贖罪者イェスス・キリストを深く愛したからである。というのは、主の昇天後、彼女はイェルサレムの海域を離れて、キリストの弟子の福者アクスィミスや他の弟子と共に海を渡ってプロヴァンス地方に渡りマルセーユの港に上陸した。彼女はまさにそういう人であった。

 この土地では、彼女は穏修士的な生活を何年もして、最後にはエックスの町に埋葬された。というのは、あの同じマクスィミスがこの町の司教になったからである。しかし、その後、長い年月が経ったあと、修道生活で聖人となったバディロヌスという名の人物が彼女の貴重な遺物をこの町からヴェズレーまで運び、そこでその遺物が墓に納められて今日の人々の崇敬を集めている次第である。この地において壮大かつ美麗極まる記念聖堂と修道院が建設された。ここで罪人たちは聖女の愛のおかげで神に赦され、盲人には視力が返され、唖には言語が取り戻され、跛の人たちは真っ直ぐに立ち、悪魔憑きは癒され、その他、言いようの無い幸福が多くの信徒に与えられたのであった。
やっぱり、この古写本の中でも黄金伝説同様に、マグダラのマリアはマルセーユに流れついたことになっている。
ある日、聖エヴルティウスがミサを挙げているとき、神の手が祭壇の上の宙に現れた。それは参列者には人の手のように見えた。そして司祭が祭壇の前でやっていることはすべて神の手も繰り返していた。司祭がパンと聖杯の上で十字の印をすると、手も同じ事をした。司祭がパンと聖杯を高く掲げると、神の手も本物のパンと聖杯を掲げた。聖なる犠牲の式が済むと、主のいとも聖なる手は消えた。このことからして私たちは、司祭がミサを誦する時はいつもキリストが自らミサをサンティヤーゴへの誦するのである、ということを知らなければならない。

 それゆえ学者なる聖フルゲンティウスも言う。「キリストの体と身の犠牲を捧げるのは人間ではない。私たちのために生け贄になったイェスス・キリスト彼自身なのである・」そして聖イスィドルスは自らの考えを次のように述べている。「犠牲がよりよきものであるのは、聖なる司祭の聖性のゆえではないし、それがよりよくないならば、それは悪人の悪意のゆえでもない。」
これはまさに神学的にポイントになる考え方ですね! 司祭個人の聖性は問題ではなく、あくまでもミサ等を行う『機関』でしか無い。だからこそ、叙階が正規の手続きを経ない不正なものであっても、その問題の司祭によって行われたミサそのものは、有効とした解釈などに繋がる考え方だと思います。

是非、神学の専門家である現教皇に教えて欲しいものだなあ~。ふと、そんなことを思ったりしました。教えてくれるわけもありませんが・・・。

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「サンティヤーゴの巡礼路」柳宗玄 八坂書房
posted by alice-room at 20:36| 埼玉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録B】 | 更新情報をチェックする
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