「聖徳太子伝暦」より:
聖徳太子の母、間人穴太部皇女が夢に金色の僧が現れるのを見た。僧は「われは救世の菩薩なり。家は西方にあり」と言う。そして、皇女の腹に宿りたいと言って、口から入ってきた。皇女が驚いて目を覚ましたところ、喉のなかになにか物を飲み込んだような感触が残っていた。やげて皇女は自分が身ごもっていることを知った。この時、妊娠したのが厩戸皇子、のちの聖徳太子である。
「聖徳太子伝暦」より:願いが叶ったのか、確かに聖徳太子の子孫は、その後、政争に巻き込まれ、子々孫々に至るまで殺されて血筋が絶えたはず。
太子は生前に自分の墓所をさだめ、墓を造らせていた。そして、建設中の墓の中に入って「ここを絶ち、あそこを切れ」などと、墓を造る者達を指揮して、墓室の大きさをととのえさせたという。
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太子が自ら命じて自分の墓の大きさを切り詰めさせたのは、自分の子孫を断絶させようと太子自身が願ってのことだったという。
太子の墓所:大阪府南河内郡太子町・・・磯長(しなが)へえ~、お墓があるんですね!初耳でした。
「聖徳太子伝私記(古今目録抄)」法隆寺の僧顕信によれば、その中で磯長の墓の中の立石に彫られてあったという聖徳太子の「廟窟偈」が載せられている。それによると、聖徳太子は救世観音、妻の膳大郎女は勢至菩薩、母の穴穂部間人皇后は阿弥陀如来の生まれ変わりという。
1007年に、四天王寺金堂の中にある六重宝塔から「御手印縁起」という文書が発見された。
書かれていた内容:
1)「後世、国が乱れる時は、太子が国王・比丘(修行僧)・長者などに生まれ変わり、仏法の力によって、人々を救う」という予言があった。
2)「四天王寺は極楽浄土の東門にあたる」
恵信尼(親鸞の妻)の書簡「恵信尼消息」より:
六角堂にこもって九十五日目、親鸞の夢に聖徳太子が現れ、太子は親鸞に偈(仏教の真理を詩の形で述べたもの)をさずけたという。その偈の内容には諸説あり、一説は磯長の墓にあった「廟窟偈」であり、また一説には「女犯偈」がある。
「女犯偈」:そういえば、この内容どっかで聞いたことがあったんですが、実に有り難いお話ですね。確かに本能に由来するだけにその煩悩は切実で鬼気迫るものがあったんでしょうね!
行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽
【訳】
仏道の修行者が宿因の報いとして女犯の煩悩に悩むのなら、われ(観音菩薩)が美女に姿を変えて犯されよう。そして、一生の間一緒にいてその身を飾り、臨終の時は極楽に導いてあげよう。
しかしながら、禁欲によって得られるモノもありますし、一概には何とも言えなさそうですが・・・。節制は転じると、最高の悦楽(法悦?)に通じそうだし・・・ネ。
話それましたが、親鸞聖人って妻帯してたんですね。一休僧正が女性連れだったのは知ってましたが、これは意外でした。でも、ルターも結婚してるしなあ~。
まあ、いろいろ事情があるんでしょう。などと分かったようなことを言う私でした。
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