2007年10月18日

「コンスタンチノープル征服記」~メモ

先日読んだ「コンスタンチノープル征服記」からの抜き書きメモ。
(179頁以降)

 コンスタンチノープルには都のほぼ中央におよそ目にすることのできるもののうちで最も丈の高い、また最も大理石装飾の見事な柱塔の一つがあり、そこへ万人の見守る中、かの者を引き出して突き落とすことになった。このように崇高な裁きは、山と集まる者たちへ見せしめとすべしというわけである。こうして前帝ムルツプロスは柱塔まで引き出され、てっぺんに引き立てられて行ったが、都人は皆この大事を一目見んものと押し寄せた。そしてついにかの者はどんと突き落とされたのであるが、あまり高所から落下したため地面に届いたときは全身ばらばらになり果てておった(1204年11月末)。

 ここにまことに不思議な話がある。かの者が突き落とされたくだんの柱塔には、大理石に刻まれたさまざまな絵図があった。これら絵図の中に一つ、皇帝の姿かたちに彫られたものがあり、それがなんとまっさかさまに落下していく様子を描いていた。というのは、遠い昔よりコンスタンチノープルには、この柱塔から突き落とされる定めの皇帝が現われ出ると予言されていたゆえであった。こうして絵図と予言とがまこととなったわけである。
皇帝位を得る為に、親族の目をくり抜いたこの元皇帝は、復讐によりこの段階で目をくり抜かれていたが、さらにこうした見世物にされたうえで処刑されている。

残虐性を問題視する以上に、予めこうしたことは予定されていたとすることで神の御業にかこつけて自らの所業を正当化しようとしている十字軍の指導者達の姿勢が私には大変印象深かく思われる。『盗人にも三分の理』、だろうか?
【本文 註】より(299頁以降)

「略奪した富や財宝は全ラテン世界にあるものをすべて合わせた以上であり、これらの獲得は神の右腕の力が我々によって具現されたためである」(ボドゥワンⅦ152)。「この度し難い国家が多くの民を死なせ、傲慢のもとであった世俗的富を失うという罰を受けたことも、我々巡礼が尊大な民の遺した財で豊かになって支配することも、またローマ教会が、持つにふさわしくないものから聖遺物を得て、永遠に光り輝くこともすべて当然と思えた。さらにこの都が住人を変え、聖地獲得と保持の為、聖地からずっと近いだけに有効な拠所となることも加筆すべき大いなる実りであった」(ギュンテル11)。

 軍団幹部は、宮殿や豪奢な館を差し押さえ、収蔵される財宝を我が物とした。他方、一般軍士は獲物を求めて都中に散った。侵入者をなだめるため十字架とイコンを連ね、行列して出て来た市民がまず略奪の対象となった。都の中の都とうたわれたコンスタンチノープルは、金銀財宝の他ローマ時代の美術品、キリスト関係の聖遺物、ビザンツ工芸品など九世紀の伝統が育み貯えてきた文化遺産に満ちており、それらの価値を知るヴェネチア人は貪欲に奪った。現在ヴェネチアがビザンツ文明を今に伝えると言われる所以である。

 ところが、フランクのやり口は破壊的で粗暴極まりなく、群となってわめきながら市中の館を次々と襲い、金目の品を強奪し、持ち運べぬ物はぶち壊し、酒倉を蹴破って酒をがぶ飲みした。街角や広場を美しく飾る彫像は、溶かして銅貨にするために引き倒したし、荷をまとめ命からがら逃げ出すギリシア人を呼び止めては金品を巻き上げた。そればかりか、申し合わせで禁じられたはずの教会や僧院にも押し入り、聖画を地面にたたきつけ、聖遺物を不浄の場に投げ込み、貴重な古書を切り裂いた。

 特に聖ソフィア寺院では、様々な宝石を溶かして精巧に創りあげた祭壇を解体して分け合い、種々の典礼具をくすね、皿や杯は自らの食卓用に失敬し、絹の掛布を引き裂き、銀の聖像を蹴倒した。そして祭壇の杯で酒を浴びるその傍らでは、軍団にずっとついて来た浮かれ女が総主教の椅子に座ってフランス猥歌を口ずさみ、それから踵を鳴らして踊り狂った。

 また背に略奪物を負わされたロバが、あまりの重さに動けなくなると、かっとなってその腹を断ち割り、寺院内部は言うをはばかる状態になった。こうした狼藉が人間にも向けられないわけがない。街中では行きずりのギリシア人へ無差別に容赦なく刀を振り回し、きれいな女と見れば獣となった。通りや広場のあちこちで人々のうめきや泣き声が聞かれ、息絶え絶えの姿が見られた。占領した人家では嘆願する夫や父親を尻目に主婦や年頃の娘を犯し、男たちが都の外へ逃げ出した後は召使のように仕えさせた。修道院では尼僧すら辱めたという(ニケタス315~327)。

 もともと十字軍参加者は、聖地回復を果たすまでは清貧であると同時に貞節を守り、女性との交渉は慎むのが最も大切とされた。だが、聖地への遠征途上であるはずのコンスタンチノープルで、あり余る富に目がくらみ、聖なる高揚が一気に崩れ、鬱積を爆発させる野獣と化したのである。ニケタスはこうした行動を黙認した軍団の有識者を最も許し難いと記す。

 奪った美術工芸品は、ヴェネチアはもちろんフランスやドイツに多く渡り、近代になっても骨董商の間をめぐった。聖遺物・典礼具は各地の教会・寺院にもたらされ、ランス大聖堂にはヴィルドゥワンの寄進した典礼具、コルビの僧院には地元出身のクラリがプコレオン宮から持ち帰って奉納した水晶の十字架があった。それらは大革命時の混乱にまぎれ、行方知れずとなった。ヴェネチアでは、聖マルコ寺院内の展示室に数々の逸品が今に伝えられ、また入口の扉の上にはかつてコンスタンチノープルの大広場を飾った四頭の馬の石像が据えられている。
鬼畜の所業だが、戦争になれば中世も現代も変わらないことが分かる。人間のすることは、時代を問わず、文化や教育を問わないのだろう。中南米の軍事政権等では、いまだに日常茶飯事らしいし・・・。

そしてその鬼畜の所業の上に、現在のヨーロッパに見られる素晴らしい文化遺産が存在している事はなんとも皮肉なものだ。ヴェネチアの聖マルコ広場を歩き、あの金色に輝く神の聖堂にある四頭の馬は、私もしっかり見たし、写真を撮った覚えがある。しかし、あの馬達はビザンチンの優れた芸術作品の生き残りであると共に、あの作品の目前でどれほどの罪無き人々が虐殺されてきたかを見てきた証人でもあるのだろう。

大英博物館やルーブル美術館しかり。素晴らしい芸術作品を有することは、その一方で戦争で略奪をした結果であることがままあるのも歴史的真実だろう。悲しい話だけれど。


ラベル:歴史
posted by alice-room at 21:37| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録B】 | 更新情報をチェックする
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