2007年10月31日

「ロマネスクの図像学(上)」~メモ(続き)

「ロマネスクの図像学」(上)エミール マール 国書刊行会
「ロマネスクの図像学(上)」~メモ
上記からの続き。

マグダラのマリアの伝承がいかにして生まれたのか、非常に面白い話が書かれていたので抜き書きメモ。最初は透明テキスト付きpdf化したのだけれど、文字認識が正確にできないので泣く泣く、死ぬほど面倒ながら手打ちで入力した。しかし、これは貴重な情報だよなあ~。
(P323)『マグダラのマリア』
パリ国立図書館に保存されている十一世紀のある写本には、救世主の復活後、マグダラのマリアが姉のマルタ、弟のラザロとともにユダヤ人の迫害を逃れて船に乗り、マルセーユに到着したと記されている。彼らがプロヴァンス地方に信仰をもたらしたというのである。もう少し後の物語では、彼らとともにエクスの使徒聖マクシマンと、アルルの使徒聖トルフィームも一緒に来たとされる。こうして、オリエントのように光に満ちた美しいプロヴァンス地方は第二のユダヤとなる。ラザロはこの地に福音を説くために墓から起き上がり、マルタとマリアは主の口から聞いた言葉をそこへ伝えにやって来たというのだ。どのような教会がこれ以上高貴な起源を誇りうるだろうか。

 ところでこの伝説は12世紀のプロヴァンス芸術になんらかの痕跡をとどめているであろうか。

 アルルのサン・トロフィーム教会の正面では、聖トロフィームの姿が使徒たちの中央に見られる。彼は司教杖を持ち、二人の天使が、彼の使命の神聖さを示すかのように司教冠を彼の頭に載せている。回廊にもまた、柱を背にした彼の像が見られる。そこでは彼は冠をかぶらず、チュニックを着てマントをまとっており、もし彼が靴をはいていなかったら使徒の一人と見なされてしまったことだろう。聖人のこの二つの像は彼の生涯を語る柱頭彫刻も浮彫も伴っていない。1180年頃のアルルの芸術家たちは、聖トロフィームがラザロ、マグダラのマリア、マルタとともにプロヴァンス地方にやって来たという話を既に聞いていたにちがいないが、こうした物語を思わせるものは何ひとつ刻まれていない。彼らはもっと別の話に関心を集中させていたようだ。芸術家たちは聖トロフィームを聖ペトロのそばに置く事によって、彼が使徒の長聖ペトロによってローマから派遣されたとするアルルの教会の古い伝承に信憑性を与えようと望んだのではなかったろうか。

 それにしても、この有名な伝説の痕跡が十二世紀のプロヴァンス芸術にまったく残されていないとしたら、それはむしろ意外なことであろう。事実、少なくとも一つはその痕跡をとどめている。タラスコンのサント・マルト教会の側面扉口には、献堂の日付け(1197年6月1日)を示す碑銘がきわめてよい保存状態で残され、そこには二つの小さな浮彫彫刻が施されている。一つは祭壇奉献を示し、もう一つは一人の司教と二人の助祭が石の上に横たわる遺体を囲んでいる場面を描いている。この情景はいったい何を意味するのであろうか。献堂の十年前に聖女マルタの遺骨がタラスコンで発見されたと信じられ、その時、この貴重な聖遺物を受け入れるために教会が再建されたことを思うならば、その意味は理解されよう。わらわれが目にしているのは、聖女マルタの聖遺物がこの教会に移された場面か、あるいは彼女が埋葬される場面なのである。だが、この場合にはむしろ後の解釈のほうが妥当であるだろう。なぜなら、聖女の魂を天に運ぶ二人の天使が見られ、さらに立ち会っている聖人の一人は光輪をつけているからである。事実、新約聖書外典の一つは、聖フロンが奇蹟によってタラスコンの聖女マルタの死の床のそばに運ばれたと語っているのだ。

 このようにして十二世紀の終り頃には、ラザロとその姉妹の伝説は確立されていた。タラスコンの浮彫は、この伝説に基づいて生まれたプロヴァンス地方最古の芸術作品であり、ミストラルの『ミレイユ』最後の歌に至る一連の詩情溢れる主題への出発点であった。
 
 このように、プロヴァンス地方ではこの伝説を芸術作品化するまでにいささか時間がかかったが、この点でプロヴァンスに一歩先んじたのは、実はブルゴーニュ地方であったことが今では分かっている。事実、われわれが今日知っているように、この伝説を作り上げたのはブルゴ-ニュ地方なのである。デュシェーヌ神父はその起源を明快に説明してくれた。それはこうである。十一世紀半ば以来、ヴェズレーの修道士たちは聖女マグダラのマリアの聖遺物を持っていることを自慢していたが、この貴重な宝物がどこからもたらされたのかを巡礼たちに説明するのに困っていた。そのために、彼らの一人がマグダラのマリアの生涯についてまったく新しい物語を創り出した。その中ではじめて、聖女がプロヴァンス地方に船でやって来て、そこで生活し、死を迎えたことが語られたのである。作者はさらに付け加えて、プロヴァンスを旅したヴェズレーの修道士が、サン・マクシマンの地下室で聖女が葬られている大理石の石棺を見つけ、ただちにこの聖なる遺体をひそかに運び出してブルゴーニュに持ち帰ったと語る。ヴェズレーを訪れる巡礼たちがそれ以来、修道士たちの口から聞くようになったのは以上のような物語であった。

 十一世紀末には、はやくもそこに新しいエピソードが加えられて伝説を彩ることになった。マルタ、ラザロ、マクシマン司教の三人がマグダラのマリアに結び付けられたのである。こうして、このいわば叙事詩ともいうべき伝説は、実はプロヴァンスではなく、ブルゴーニュ地方で有名になった。そればかりではない。聖女マグダラのマリアの聖遺物を手に入れたばかりのブルゴーニュ地方は、さらにまもなくラザロの聖遺物をも所有していると称するに至る。十二世紀に入るとすぐに、この聖遺物はオータンの大聖堂に安置されることになった。やがてこの聖遺物に惹かれて巡礼たちが群をなして訪れてくる。1120年頃に司教が新しい教会の建立を企てたのはそのためであったろう。それが今日われわれが見るオータンの美しい大聖堂である。

 ところで、十二世紀のブルゴーニュ芸術はこれらの伝説を反映しているであろうか。
 まずヴェズレーのサント・マドレーヌ教会にその跡を求めるのが自然であるが、そこには何も見出されない。扉口は後代の作品で、もとのタンパンの主題を不器用に気取って再現したものである。そこに見られれるのは、マグダラのマリアが描かれている新約聖書の諸場面とラザロの甦りであるが、例のプロヴァンスへの旅については何も示されていない。身廊の柱頭は実に数多く、また多様であるが、一つしてマグダラのマリアについて語ったものはない。内陣はたしかにゴシック期に修復されており、もしかしたらそこにあった聖女の墓のまわりにこの聖女の伝説が描かれていたのかもしれない。だが、この伝説が誕生し、あれほど多くの巡礼たちがこの伝説に耳を傾けたこの教会に、今日ではそれを思い起こさせる芸術作品は何一つ見られないのである。

 聖ラザロの教会であるオータンの大聖堂では、われわれはヴェズレーよりも恵まれているであろうか。柱頭とタンパンを調べてみると、やはりそうではないと思わざるを得ない。そこでもまた、いかなる作品もプロヴァンスへの旅を描いてはいない。しかし、昔はそうではなかった。十八世紀までは、「最後の審判」を描いた扉口の中央柱に三体の像を見ることができた。そこで巡礼たちが目にしたのは、マルタとマグダラのマリアにはさまれたラザロの姿であり、ラザロが司教服をまとっていたことを知れば、この三体の集まりが何を意味するかは完全に理解できるであろう。芸術家が表現したいと望んだのはプロヴァンスの使徒ラザロだったのである。彼がラザロのわきに二人の姉妹を置いたのは彼女たちが彼の使徒職を補佐したからなのである。

 ブルゴーニュ地方には、聖ラザロに捧げられたもう一つの教会、すなわちアヴァロンのサン・ラザール教会があった。以前は三つあった十二世紀の素晴らしい扉口から中に入ることができたが、今では二つの扉口しか残っておらず、いずれも像と浮彫彫刻は失われてしまっている。今日ではわれわれは、ドン・プランシュの「ブルゴーニュ史」に載せられた平板な二枚のデッサンによって元の姿をうかがい知ることができるに過ぎない。そこには扉口の中央柱に一人の司教像が描かれているが、それが教会の守護聖人ラザロである。アヴァロンでもオータンと同じように、司教の祭服によって聖ラザロがプロヴァンス地方の教会の最高の指導者であることが示されていたのだ。

 オータンとアヴァロンのこれらの興味深い彫像がわれわれに残されていないのは残念なことだ。残されていれば、ブルゴーニュ地方の初期の彫刻家たちが、二度死の扉を超えた謎めいたラザロをどのように思い描いていたかを知ることができただろう。

 オータンとヴェズレーの彫像は明らかに伝説に基づいたものであった。われわれに発見できたのはそれだけであり、しかもその痕跡にすぎない。プロヴァンスの一つの浮彫とブルゴーニュの二つの彫像、これだけがどうやらマグダラのマリア、マルタ、ラザロの伝説が十二世紀の芸術に残したすべてなのである。それはわずかなものにすぎないが、しかしそれが始まりであった。十二世紀には、ヴェズレーの修道士たちの物語がかろうじて人々の想像力を捉えはじめたばかりであったことを考えなくてはならない。それがすべての人々に受け入れられ、キリスト教芸術の生き生きとした源泉の一つとなるのはもっと後の時代になってからのことである。ただ、悔い改めたマグダラのマリアの評判が世間に広まったのはブルゴーニュ地方からであなく、プロヴァンス地方からだった。事実、1279年にプロヴァンスの人々がそれまでヴェズレーの修道士たちが仲間の一人の思い違いによって自分たちが所有していると信じていた聖女マグダラのマリアの遺骨が、サン・マクシマンで発見されたことをキリスト教世界に告げ知らせたのである。その発見は真正なものと見なされ、以後ブルゴーニュの聖地は忘れられ、それに代わってプロヴァンスのサン・マクシマンの墓とラ・サント・ポームの洞窟が巡礼たちの聖地となってゆくのである。歌を歌いながら高いところへ登る事を好んだ巡礼たちは、今度はヴェズレーの丘を捨ててラ・サント・ポームの高い岩山をめざす。ナポリ王を兼ねるプロヴァンス伯がこの伝説をイタリアに伝えたのはこの頃であり、ジョットがフィレンツェの政庁とアッシジの礼拝堂の一つに、プロヴァンス地方の荒野で聖マクシマンの手から聖体を拝領するマグダラのマリアを描いたのもこの頃である。
関連ブログ
マグダラのマリア 黄金伝説より直訳
「フランスにやって来たキリストの弟子たち」田辺 保 教文館
「図説 ロマネスクの教会堂」河出書房新社
「中世の奇蹟と幻想」渡辺 昌美 岩波書店
マグダラのマリア、映画で関心高まる
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posted by alice-room at 19:36| 埼玉 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 【備忘録B】 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
面白いですねえ。
それにしてもこういう資料を管理人さんがいろいろ手を煩わして提供してくださる。
つくづく有難いことだと思います。

ところで、ラザロはマグダラのマリアの弟でしたか?!
いや、無知丸出しで冷や汗もんですけれど初耳でした。
そうだったんだ、弟だったんだ。はぁ~。
で、これがサント・マリー・ド・ラ・メールの三人のマリア伝説につながっていく、と。
この場所ってプロヴァンス地方に含まれるのかな。
かなり南のほうですよね。
マリア・ヤコベとマリア・サロメはかの地で埋葬され、マグダラのマリアだけはさらに先へ。
それがブルゴーニュってことなんでしょうか。
Posted by OZ at 2007年11月01日 04:51
OZさん、こんばんは。喜んでもらえてなによりです。面白いことは共有したいですね♪ 

>ところで、ラザロはマグダラのマリアの弟でしたか?!

確か、黄金伝説の方でもそんな風に書かれていました。但し、中世の伝承であって、現在ではどのように扱われているかは、別物ですが・・・。

はい、そしてこれがおっしゃるような3人のマリア伝説に繋がっていくんでしょうね。たぶん。

いろいろな伝承や事実が繋がっていくのがなんとも興味深いですねぇ~。
Posted by alice-room at 2007年11月02日 01:01
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