神社の名称、所在地、祭神に留まらず、氏子についてや寺社の所持している奉納物や伝承等々を歴史的な文献資料のみならず、取材時に、現地で直接採取した生の情報を盛り込んでいて、非常に充実しており、多種多様な使い方ができる貴重な文献だと思われる。
図書館に先日籠もっていて発見したのですが、これが実に面白い!!
うちのブログ内の記事でも「埼玉散策シリーズ」と称して、幾つかの寺社仏閣等を巡り歩いているが、本書を読んでみると、知らなかった事があまりにも多く、自分の無知さに驚き呆れるばかりだった。
例えば、大昔から知っている月輪神社などは、創建が西暦700年代に遡り、約1300年の歴史を持っていたりした。京都でさえ1200年祭とかを祝っていたのがこないだの話だから、当然京都への遷都以前の奈良時代の話になる。
また、岩殿観音なども今でこそ往時の見る影も無いが、中世においては関東有数の伽藍が林立する一大宗教地であり、当時の文献には60を超える伽藍が集まっていたという・・・。そんなこと誰も歴史の授業で教えてくれなかったぞ!(何気に教師不信になるなあ~)
もっとも秀吉の全国統一の過程で松山城が焼かれた際に、岩殿観音近辺も全て劫火に焼き尽くされてしまい、その後、衰退したらしい。こういうこと知っていたら、歴史の授業ももっと面白かっただろうに・・・!
まあ、そんな感じで次々と知らなかったことが出てくるので、読んでいて全然飽きません。今後しばらくは暇を観て、拾い読みしていこうかと思います。間違っても読破できる量ではないですから。
せっかくなので興味深いところをメモ。
赤城神社あの、これって具体的に特定できそうだから、あまり書けませんが、文化人類学でしばしば出てくる『六部殺し』のアレっぽくないですか? 小松先生のご本に出てきた話を思い出しました。
所在地:東松山市野田455
賢悦金駄(けんえつきんだ)神(「野田の伝説と昔物語」昭和42年より)
宇前原には、賢悦金駄神という変わった名前の石塔がある。この石塔は、風邪を治してくれる神として信仰されており、次の話が伝わっている。
慶安の頃(1648-52年)、名主であった長谷部茂兵衛のもとに一人の六部が宿を求めてきた。茂兵衛は気の毒に思ってこの六部を家においてやり、六部も子供らに学問を教えたりして村人に慕われた。ところが3年ほど経つと六部に悪い病気の兆しが見え始めたため、村人は茂兵衛に申し入れ、六部に金を与えて村から出て行ってもらった。
しかし、何度追い出しても六部はいつのまにか村に戻ってきた。それを繰り返しているうち、ついに六部は思い出の多い長谷部家と共に昇天してしまおうと茂兵衛の家に火を放ったが、自分は火の中に飛び込むことができず、放火の下手人として捕らえられて火あぶりの刑に処せられた。
この時、「自分は村の皆さんへ恩返しをしたい。ついては、自分は学問を身に付け賢かったことが無上の悦びであり、金は有り難いものだが、駄物であり、人の心は金で買えない。自分もまた賢悦金駄であり。よって賢悦金駄神と称して自分を祀ってくれたなら、村の人々が最も苦しんでいる病気を治すことを約束しよう」と言った。
そこでその通りに石塔を立ててやった。ある時、風邪で苦しんでいる人が試しにお茶を上げて祈願したところ、不思議と全快した。以来、風邪や百日咳に霊験があるとして信仰されるようになった。また、かつてはこの石塔を削って飲めば、薬になるといわれ、随分石塔が削られてしまった。
それに「六部が一緒に昇天しようと・・・」という文脈は明らかに違和感がありません? 素直に考えたら、六部が逆恨みで復讐しようとして火をつけた、という文脈の方がすっきりする感じがしてならないんですが・・・勿論、事実は不明です。
また、殺される六部が村人に恩返しをしたいというのも私には解せないのですが・・・。むしろ、祟りを恐れて神に祀ったというよくあるパターンを踏襲している気がしてなりません。
非常に民俗学 or 文化人類学的に面白い話のような気がします。面白いのは、遠野物語だけじゃないんですね。至る所に、この手の話は転がっているんですね。ふむふむ。
利仁神社(としひとじんじゃ、しょうぐんさま)芥川龍之介の小説で有名なあの「芋粥」に関連する人物が、まさかこの地にゆかりの有る人だったとは。全くの架空の話だと思っていたんですが・・・今の今まで。
所在地:東松山市野本612
当社は将軍塚古墳の墳丘上に鎮座している。
延喜十五(915)年に鎮守府将軍となった利仁将軍こと藤原利仁は下野に赴いて数千の群盗を平定したことや「今昔物語」の「芋粥」の話で広く知られている。比企郡内には、この利仁将軍にちなんだ伝説が多く、比企能員に代表される大谷(現東松山大谷)の比企氏や当地の野本氏はこの利仁将軍の子孫であるという。
当社はこの藤原利仁の霊を祀る神社であり、内陣には藤原将軍像が安置されているほか、社宝と利仁愛用の弁当箱がある。その創建は、延喜元年(923)四月二十四日と伝えられ、元来は将軍塚古墳の北側に隣接する無量寿寺の鎮守で利仁将軍社と呼ばれていたが、神仏分離によって同寺から独立し、利仁神社と号するようになった。
関東地方の豪族・武士の中には、平将門の乱を平定し、「俵藤太」の異名で知られる藤原秀郷の流れをくむ人々があるが、その祖先の藤原魚名から分かれた藤原利仁の流れをくむ人々もいることが見落とされがちである。それが鎌倉時代に名を馳せた大谷の比企氏や当地の野本氏などである。当地に藤原利仁に関する伝説が語り継がれその霊が祀られているのはこうした系譜とかかわりが深いと思われる。
藤原利仁の名前ぐらいはさすがに聞いたことありますが、全然「芋粥」に結び付かなかったし、それが比企氏と繋がるなんて、まさに「えっー」って感じですよ。
しかし、何も知らなかった自分を棚に上げて学校の先生のことを言うのもアレですけど、国語や歴史の教師、小中高を通じて誰もそんなことを教えてくれた人いなかったなあ~。自分の身近な歴史も知らないで、英語しゃべって国際人とか言う人々の顔を拝んでみたくなります。私ももういい年ですが、つくづく教育らしい教育を受けてきていなかったんだなあ~と思いました。
当たり前ですが、やっぱり、自分で努力しないといけませんね。つくづく反省です。
東洋・西洋を問わず、こういう話って私大好きみたい! 西欧の「黄金伝説」も面白かったけど、今後はこちらの方の資料を調べてみようかな? うっ、なんか楽しみ♪
関連ブログ
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ぜひいろいろ探ってみてください。
しかし、歴史の授業ってこういう話を絡めてきちっと身の回りのことを教えてほしいものですね。
おっしゃられるように、身近な歴史とか基本的な日常のことをもっと教えて欲しいですね。わざわざ遠い観光地を周らなくてもいくらでも歴史は身近に埋もれていて気付かないだけであることを知りました。
「民俗学 or 文化人類学的」は私の苦手な分野です(爆笑?)。ヨーロッパ中世もイマイチ詳しくないのですが、alice-roomさんのブログには私の知らない分野が多くて、読んでいてとても楽しいです。ところで英語喋れるだけの人って移民なんかに多いらしく、多分自慢じゃなくて恥じらいかも知れません、ふと、思いました。埼玉散策シリーズ、ぽつぽつ拝見しています。興味深い話題が満載です。実は密かなファンです。
私自身も、民俗学 or 文化人類学的分野は少し本を読んだくらいで正直あまり詳しくはありません。ただ、大変興味がある分野の一つです。
少しでも楽しんでもらえたら幸いです。
http://blog.livedoor.jp/ken1ada/
確かに、何気に由来の古い神社仏閣が多いですね。
また、比企地方一帯も延喜式社等、いろいろ未だに残っていますね。ほとんど地元では、忘れ去られた存在ですが、ひっそりと静かに鎮座してる感じですね。
時間があれば、地元の図書館で郷土資料などを当たるのも面白いのですが、最近、忙しくてなかなか時間が取れません。
残念です・・・・。
コメント有り難うございました。