2005年09月23日

「修道院」朝倉文市 講談社

最近、多いのだが「中世」関連で手に取った一冊。修道院と通常の教会の区別とか、修道院って何しているんだろうというのが疑問にあったので読んで見たのですが…。

最初のうちは、な~んかパッとしない文章が続く。禁欲をもとめて荒地に独立して生活していたのが、やがて集住し、私有財産の放棄をうたって修道院を産み出していく。その辺は読んでいてもあまり面白くない。だけど、段々読み進めていくうちに何故か、ちょっと面白くなってくるのだから不思議です。

修道院が中世の教会同様、世俗の領主と変わらず、富と権力を求めて堕落していくのは我々には周知の事実だが、その理由がなんとも面白い。本来は清貧を求めてひたすら労働と観想に打ち込む彼らは浪費もせず、勤勉故に、結果として豊かな富と権力を産み出し、それが故に清貧への理想からドンドン離れていってしまうとはなんという皮肉であろうか? 修道院制度が本質的に内在する堕落への誘引が勤勉にあるとは思いもしませんでした。今まで、私は単なる貴族からの土地等の寄進によるものや、俗人の修道院長の就任とかが原因だと思っていたのですが、そういうのは複合要因の一つでしかなかったみたいです。

そういえば、マックス・ウェーバーの名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
にも通じるなあ~と思いました。勿論、この修道院はプロテスタントではないですが、勤労に対して正当な評価をし、無駄を省いて資本の再投下をして拡大再生産をしていくのはまさに資本主義的! 富も貯まるのも当然な訳です。まして労賃が生存ぎりぎりの食料だけで済み、個人財産の放棄とは、すべての資本が再投資に向けられるわけでこれほど効率的なのもないわけです。う~む、こんな視点は思いもつきませんでした。これだけでも読む価値あったかも。

また修道院の性格自体も時代時代によって、驚くほど変化していくのも興味深いです。当初は、学問研究よりもひたすら観想することに価値を置いていたのが、いつのまにやら、学問研究に比重が移っていくんですね。その背景には、清貧を求めて集まった隠修士が建てる修道院から、ローマ貴族が現実逃避の場所として修道院を建てるようになってきた時代的側面が大きいようです。

やがて修道院が俗人の手に帰し、教皇権が王権に従属する中で、本来のキリスト教の為の修道院を目指して、改革者として出てくるのがクリュニー修道院だったそうです。王権には服さず、教皇権にのみ従うという画期的なものだったらしい。ここでは新しい概念も打ち出され、死者の罪障を浄化するのは生者の代祷(代わって祈ってもらうこと)であり、ミサこそがそれに有効であり、豪勢なミサを一日中を行うクリュニー修道院が当時の人々の多大な帰依を受け、大躍進を果たした。

しかし、ここにも問題が内在したりする。一日中ミサを行うと修道士が労働することは事実上、できなくなる。それゆえ、助修士を認めて彼らに実際の労働を任せるようになっていく。これはその延長線上に大土地領主があり、堕落していくのは時間の問題であった。

それに対して、新たに生まれてくるのがシトー会だったそうです。クリュニーを反面教師にして手の労働を重んじたのが特徴で、最初はうまくいっていたのですが、やがてこれも行き詰まっていきます。修道院の歴史って、本当に大変ですね。清貧を求めていたのが堕落し、また清貧を求めて改革し、うまくいくとまた堕落して過ぎの改革を待つ。これが延々と続いていきます。

ドミニコ会やフランシスコ会になると更に、その改革には新しい意義が加わってきます。ドミニコ会の場合は、従来、土地に結びついて修道院がありましたが、彼らはあくまでも人の団体に結びついており、それ故に土地に縛られずにどこにおいても布教を行える点が全く新しい存在として生まれたそうです。それが後に異端審問の為にありとあらゆる場所でその正義を進めていく為の重要な基盤になったのが分かりました。

フランシスコ会の場合は、ある種の過激派かとみまごうばかりで、従来の個人財産の否定にとどまらず、団体としての共有財産の否定まで推し進めていたそうです。つまり、使徒的生活において共有財産がなかった以上、教皇に財産があるのはいかがなものかという所までいってしまい、大論争になったそうです。フランシスコ会の一部は、その急進性故に破門となり、フランシスコ会自体も後に二分されることになったのもすべてはこの論点の為でした。(そりゃそうですよね。持っている巨万の富を捨てろといわれて、すんなり従うような人は当時の教皇になったりしませんもん)

この本を読んでやっと、「薔薇の名前」のあの財産権を認めるか否かの争いが事実に即していたことを知りました(遅過ぎ~、無知で恥ずかしいかも)。なるほどねぇ~、ふむふむ。映画の中で切れ者のパスカヴィルも確かフランシスコ会に属していたと思いますが、そういう事実や時代背景が分かるとあの議論や行動にも納得がいくね。ギーは当然、ドミニコ会でどこにでも現われて異端を追求するのも、すべて合理的に説明がつくしね。

ごちゃごちゃしていて、私の要点整理的な文章では分かりにくいですが、それなりに知識として知っておくべき事柄がたくさんあって勉強になります。その点ではお薦めですね。でも、読んでていまいち面白くないところも多い。著者の後書きみると、当初はもっと分量があったものをむりやり削ったらしいのでそのせいでしょうか? 分かりづらいし、読んでてちょっとなあ~という部分も多々ありながら、でも、読んでおいていいかも。

結構、頑張り屋さんで勉強したい人向き。普通に読んだら面白いとは思いません。私の場合は、今まで読んだ本や関心のある事柄に関連付けながら読んだから、それなりに面白く読めたけど。これだけ単独で詠んでもなあ~? そんな感じでした。
【目次】
第1章 禁欲の起源
第2章 殉教から修道制へ
第3章 東方修道制の夜明け
第4章 西方修道制の始まり
第5章 『聖ベネディクトゥス戒律』の普及
第6章 改革修道院クリュニー
第7章 修道士の日常生活
第8章 源泉への回帰―十一世紀の修道院改革と聖堂参事会
第9章 シトー会の誕生
第10章 托鉢修道会の出現
第11章 中世末期の修道制

修道院―禁欲と観想の中世(amazonリンク)

関連サイト
薔薇の名前(映画)
「異端審問」 講談社現代新書
ブラザー・サン シスター・ムーン(1972年)フランコ・ゼフィレッリ監督
posted by alice-room at 01:10| 埼玉 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 【書評 宗教A】 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
↑>勤勉故に、結果として豊かな富と権力を産み出し、それが故に清貧への理想からドンドン離れていってしまうとはなんという皮肉であろうか?

全くですね。。でも興味深い話です。考えさせられます。
ちょっと話ずれますが、
修道院と言えば、お酒造ったりして儲けたりするところ多いですね。フランチェスカナーというビールなんか有名だし。フム
Posted by seedsbook at 2005年09月23日 17:35
クセジュの「錬金術」に引き続き、僕の積読本のご紹介、ありがとうございます。成る程そういう内容だったのですね。(笑)
この本は、出たときにすぐ買ったのですが、そのまま本箱の奥に埋もれています。最近は、この手の本を通して読むことを諦めていますので、必要な時に拾い読みすればよいと開き直っています。その点alice-roomさんは、このように精力的に一冊一冊読破されていますので、いつも感心しています。
Posted by lapis at 2005年09月23日 22:17
何年も前になりますが、『薔薇の名前』を観た後で修道院の生活についてもっと知りたいと思い、
この本を手に入れました。当時の私には(今も)難しかったです(笑)でも、基本的なことを教えてもらって良かったと思っています。
もう一度、読み直してみよっと。
Posted by 羽村 at 2005年09月24日 15:06
seedsbookさん>本当に、皮肉としか言いようがないですね。努力するほど、清貧からかけ離れていくなんて!
修道院が作っているビールって美味しいのが多いですよね。ベルギービールも時々買って飲んでますが、大好きだったりします(笑顔)。

lapisさん>思ったよりもいろいろと参考になる本かもしれません。必要な時に用いる資料本むきですよ、lapisさんの使い方が効率的ですね。
私の場合は、新しい本を買いたい時に読んでない本があると買いづらくて…。あと手元に置いておかなくていい本は整理したくてその判別の為に読んでるようなものです(苦笑)。邪道な読み方ですね。本の呪いだったりして…。

羽村さん>「薔薇の名前」お好きなんですね!お仲間です(笑顔)。私はあの映画から異端の本の方に関心がいってしまって、修道院の方は全然見過ごしていました。改めてあの映画が奥深かったことを再認識するいい機会になりました。珍しくDVDを購入した作品ですので、私も時々思い出しては、映像を見たりしています。特典映像のメイキングもなかなか素晴らしく、いかにプロデューサーが苦労して本物に拘ったのか、頭が下がる思いがしました。
私の拙い感想ですが、お持ちの本を読み返してみるきっかけになったなら、本当に嬉しいです。映画の内容とオーバーラップさせて読むと楽しいかもしれません♪
Posted by alice-room at 2005年09月25日 13:34
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