2008年01月26日

「富士講と富士詣 特別展図録」豊島区立郷土資料館

豊島区立郷土資料館で行った企画展の図録らしい。だから、厳密に言うと本ではないが、とりあえず書評してみた。

かなり薄くて写真はあるけど、正直めぼしいものはない。ただ、普段あちこちの神社や庭園を歩いていて富士塚をしばしば目にするので、その由来とかに関心があったので読んでみました。

私が読んで価値があったのは1章の歴史と教義のみ。5、6分で読み終わる程度。

でも、面白かったので抜き書きメモ。
富士講の基礎を築いた藤原角行。

 1541年、肥前国の長崎で生まれ、幼名を竹松、成人して長谷川左近藤原武邦となりました。十八歳の時に治国斉民祈願の修行のため諸国霊場巡拝の旅に出て、この修行中に富士に行けとお告げを受けます。

 角行は富士西麓の人穴に籠もり、四寸五分角(14センチ角)材木の切り口の上に立って、一千日の立行をおこないました。それ以後も各地を巡り、水行をおこないました。1620年江戸に”つきたをし”という奇病が流行しました。

 角行は人穴を出て江戸に行き、”おふせぎ”(呪符)人に授けて多くの病人を助けました。これによって角行は信者を大幅に拡大し、関東から東海の農村にかけて富士の登拝組織を編成し、富士講の基礎をつくっていきました。

 角行の布教は”おふせぎ”(除災)による治病という効験によるもので、その教義は富士の仙元大日が万物の根元であって、これを信仰することで天下の太平や無病息災が得られるというものでした。これは”お身抜”、”お伝え”として伝えられました。

 角業の教えは弟子に代々伝えられました。そして三代目の弟子の弟子である食行身禄によって富士講は教義・組織共に大きく発展をし、確立します。
ここで書かれている修行方法としての立行のこと、もっと詳しく知りたいですね。キリスト教などでもあったという柱頭行者と同様のものだと思いますが、それらの東西宗教文化の関連とかってどうなんでしょう?
食行身禄は伊勢国に1671年に生まれ、本名を伊勢伊兵衛といい、13歳の時江戸に出て油商を営んだと伝えられています。そして商人としてかなりの資産をつくったにもかかわらず、これを人にゆずり、自身は膏の行商と信心にはげみました。

 身禄によって確立された教義は角行とは大きく異なります。身禄はそれまでの富士講の行っていた修験的な呪術・祈祷を否定し、信仰を信者の主体的・内面的なものとしました。

 身禄によれば仙元大菩薩は米と農業を助ける万物の祖神で、人々はこれを信仰し、生業にはげむことによって幸福が得られるというのです。また、商業を積極的に肯定し、勤労を尊重し、職業倫理を展開しています。これは結局、富士講の中に通俗道徳を取り入れたことに他なりません。それだけに民衆の間に広く浸透していきました。

 また、身禄は禁制されていた女性の登山も認め、男も女も人間にとって大切なのは心の問題であるとして、事実上の男女平等を説きました。
本書では、道徳がどうとか書いてますが、そちらがポイントなのでしょうか? 専門家でないど素人の私の目には、どうみても違うように感じてなりません。これこそ、「プロテスタンティズムと資本主義の精神」の日本版じゃないの? 江戸の武家社会では、制度的に武士より一段劣るものとされた商人階級や農民階級に対して、自らの職業(特に商業)の正当性を担保したからこそ、支持されたと思いますが・・・。

この文章を書いている人に、直接尋ねたいところですね。最低限、マックス・ヴェーバーぐらい読んでるのかと。専門外で読んでない、とか言ったら、この無教養め、って叱っちゃいます(笑顔)。たまたま自分が読んだ事あると、こういう生意気なことを言う私です。

勿論、実際はどうなのか不明なのですけどね。

この記述を読んだら、普通そう思うけどなあ~。男女平等は当然、中心となるポイントではないでしょうし。

御師とは、富士信仰の神職であり、現地での案内者でもあった。
これは、どっかで聞いたことある単語でした。意味分からないままだったんで。
【目次】
1富士講の歴史と教義
2講の組織と祭具
3富士詣道中
4富士登山
5富士山御縁年と女人登山
6吉田御師
7富士塚
8区内先達の遺品
posted by alice-room at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 【書評 歴史A】 | 更新情報をチェックする
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