2005年11月02日

「神聖受胎」澁澤龍彦 現代思潮社

神聖受胎今回は、もうレビューになっていません。この本を読んだ結果、インスパイアされて私が思った独りごとです。おそらく全然本の紹介になっていないので興味ない方は、読まずに飛ばして下さい。


【※以下、良識ある一般人が読むには値しない内容です。他の記事をお読み下さい。】




もう、ほんと大昔に読んだ本。あの当時意味も解らないまま、読んだであろうことが窺われる。だって、今読んでも100%理解しているとは言い難いくらいですから。

おまけに今の私の目から読むと、正直言って文章も硬く、いささか自分よがりに書いているうえにさえ見える。また、当時の時代色がはっきりと色濃く出てきていて、まさに資本主義VS共産主義対決や1960年代の香りが匂い立つような文章であり、その後のソフィスケイトされ、スタイリッシュな観さえある澁澤氏独特の文章とは、未だ一線を画す頃のものである。

逆に言うと、昨今では全く状況が異なり、まだいろんな意味で社会的な不満(=階級的対立に由来する?)がストレートに社会で表出しており、それを人間が本来的に持つ権利の主張として理性的に捉えるべく苦悩している。そんな時代にも私には見えた。

今は不満があってもそれは『社会』という共同幻想が産み出した偽りにさえ表象できず、個々人が私的未消化物としか認識し得ていないのではないだろうか? 社会を問題視できる時代は過ぎ去り、社会の束縛からどう抜け出していくかの時代から、それ以前の社会をどう認識して個人との間に関係を築くか、もうそのレベルまで社会規範の象徴性が希薄化しているのであろう。そんなことをこの本を読みながら、強く感じた。勿論、これは今の私の感想でしかないのだが…。

各種の雑多なエッセイやら評論やらをまとめた作品であり、澁澤フリークか今の時代においては、ブームに乗り損なった古き時代のエセインテリの残党ぐらいにしかお薦めできなくなってしまっている。元(?)澁澤ファンとしては、自分で自分を貶めるような自虐的なレビューであるが、古くても素晴らしい澁澤氏の作品がたくさんあるし、率直な今回読んだ限りの感想(というより独りごと)として紹介しておきます。この作品は全体としてはあまりいいと思いませんでした。

でもね、かの有名なサド裁判に関するところは良かった!裁判自体についてはもっと詳しく書かれた本がありますのでそちらをお薦めしますが、やはりこの本に書かれている部分も本質を捉えていて胸に響きます。

「猥褻」という概念は、初めから存在するものではなく、官警等の権力側(=体制側)の人々が彼らの築き上げた秩序維持上、不都合なるもの又は将来的に不都合になりうるものを見出した瞬間に生まれるものであり、その概念が本来的に有する恣意性や一方向性を鋭く指摘されているのが興味深い。思春期に澁澤氏の本を読むことで知らず知らずのうちに薫陶を受け、陶冶されてきたこの理性を武器にありとあらゆるものと闘う姿勢は、未だに私の人生の根底のところで息づいていることを感じざるを得ない。

さすがに良識ある(=ああっ、なんと小市民的響きに満ちた恥知らずな大衆の唯一の知恵であろう?)私は無政府主義者にもテロリストにもならなかったが、常に体制側に身を寄せつつも、その姿を異なる自分が冷笑している二重生活に甘んじざるを得なかった。生活の為と言いながら、身過ぎ世過ぎの為に労働することは、果たして真の人間らしさと呼べるのであろうか? 労働自体は、自らを律していく素晴らしき”業”にはなり得ても、生きる為という目的故に本能に呪縛された人間の理性故の行動になり得ない。そんな恐れがかつての私を、今の私を締め付ける。

たとえどんな仕事であってもまず、問題なく適切に処理できてしまう如才なさが逆に、我と我が身を貶める。仕事ができない故の世俗的評価の低下を恐れて、頑張ってしまう自分の矮小さがむしろ目に見えて哀れとも言える。万物における無知(=他人の目を省みない、美点をも含む)は恥ずべきことではなく、一種のタレントであり、自分が自分らしくいられる才能であることを痛感する。

若かりし頃に、澁澤氏に触発された思いがこの本を読んで思い出した。アカデミズムの世界に耽溺できず、実社会においても無知を貫き通せない自分。小賢しい労働者ほど、滑稽なものもないであろう。悲劇ではなく、喜劇でしかない。

澁澤龍彦氏のサインまあ、澁澤氏の本の副作用ってところでしょうか? はるか昔に仕掛けたタイマーが突然鳴り出したかのようでした。やっぱり、危険な書かな?コレ?

こういった私のような人が生まれてこないように、お上が民衆の事まで心配してくれたのが「猥褻」事件だったようです。巷のマスコミは、当時も今も変わらずに誤解したまま、Hなことと勘違いしてるようですが、そんなものは社会にとって好ましくはないが「危険」ではなく、わざわざお忙しい検察官様が問題にするはずなのにね。

それらを含めて「猥褻」概念の話は興味深いです。学部生の時は、それを卒論のテーマにしようかと思って資料調べていたしね。まあ、懐かしい思い出です。『猥褻とは何か?』判例に見られる定義が凄い!! 裁判官が当時の社会状況や社会通念上、良識ある一般人を恥ずかしいと思わせるものなんだそうです。要は、おえらい裁判官様が決めて下さるんだって。水戸黄門か遠山の金さんの世界。凄い法治国家だこと(笑)。

ああっ、いけない。反体制主義者と思われてしまう。今日も真面目にスーツ来て商談してきたのに・・・本性が出てしまう(笑)。おとなしく働いて税金を天引きされ、たまの週末に大切な人と巨大資本の提供する規格化され、あてがわれた娯楽に興じなかれば…。決して掛けた以上に戻ってこない年金も支払ったりしながら。

とまあ、こんなふうに考えるようになってしまう危険な書です。んっ!? 冗談です&冗談。あまり、深刻に捉えないように、軽~い書きなぐり文ですので。なんかひねた中学生とかマセがきが書くような文章だなあ~。もしかしたら、後ほど削除するかも? 読み飛ばして下さい。

それでは口直しに、澁澤氏のサイン。どうでしょう? これ、本物? ご存知の方は、コメントか何かで教えてもらえると幸いです(御辞儀)。
【目次】 これも河出書房新社のもの、ここに入ってないものも現代新潮社のものにはあるが、「他」の部分に含まれているのかは不明?

ユートピアの恐怖と魅惑
狂帝ヘリオガパルスあるいはデカダンスの一考察
反社会性とは何か
ワイセツ妄想について
神聖受胎あるいはペシミストの精神
スリルの社会的効用についてあるいは偽強姦論
国語改革はエセ進歩主義である
前衛とスキャンダル
仮面について―現代ミステリー映画論
「好色」と「エロティシズム」―西鶴と西欧文学
知性の血痕―ブルトンとトロツキー
銅版画の天使・加納光於
燔祭の舞踊家・土方巽
「鉄の処女」―春日井建の歌
発禁よ、こんにちは―サドと私
第1回公判における意見陳述〔ほか〕

神聖受胎(amazonリンク) 残念ながら現代思潮社の本は絶版の為、河出書房新社のものを挙げておきます。
posted by alice-room at 21:22| 埼玉 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 【書評 美術】 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
alice-roomさん、こんばんは
専門家でないので、断言できませんが、サインは本物のような気がします。「彦」の字の形が、自筆原稿の写真の書名と似ています。
僕は、澁澤ファンですが、初期にものとサド関係は、あまり好きではありません。「神聖受胎」も一回文庫で読んだきりで、そのままになっています。
Posted by lapis at 2005年11月03日 00:27
すみません、lapisさん。変な感想を載せてしまいまして。しかもわざわざ読んで頂き、申し訳ありません。いろんな意味で個人的な思い入れが強過ぎたのとお酒のせいで、いつも以上に訳の分からない文章になってしまっています。

それよりも、サイン鑑定どうも有り難うございます。それでは本物かな? 嬉しいです(笑顔)。
Posted by alice-room at 2005年11月04日 04:38
lapisさんこんにちは。
当サイトをたまにのぞくと、本当に興味をそそられること、博学の海を泳いでいるそんな感想をいつも持ってしまいます。
当サイトをリンクさせていただきました。
ちなみに渋沢さんの本は僕も好きですよ。
Posted by マサキ at 2005年11月04日 20:35
マサキさん、博学とは恐れ多いようなお褒めの言葉を頂き恐縮です。リンクまでして頂き有り難うございます。
マサキさんも澁澤さんお好きなんですね。なんか嬉しいです。澁澤さんからの影響は、未だに私の中にも色濃く残っておりますので…(笑顔)。
Posted by alice-room at 2005年11月05日 17:28
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