2007年08月23日

ゴシックの芸術〜メモ

読了した「ゴシックの芸術」ハンス ヤンツェン 中央公論美術出版より、書き抜きメモ。
空間印象の全体性は、空間限界の構造によって規定される。(P3)
空間限界:(P4)
内陣頭部をも含んでその長さの全体にわたっての主廊の限界付けを意味する(=長堂)
空間限界の分析は「ディアファーンな構造」にかかわっており、(駆体的―彫塑的に形づくられた)壁とその背後にある空間部分との関係は、基本的に<駆体と地の関係>として現れる。即ち、長堂の駆体全体の限界付けとしての壁は、空間の地がなければ捉えられないのであって、空間の地によってその作用価値を保持している。(P7)
ゴシックの光空間はロマネスク建築の空間とは本質的に正反対である。ロマネスクの礼拝空間は闇そのものであるのに対し、ゴシックは「明るい」。(P11)
壁にうがたれた窓の面積とか、物理的な側面のみにあらず、ロマネスクがクリプト的な暗闇の中での幻想的な面を持つのに対して、ゴシックは相対的に合理的・開明的な明確さという面を持つという違いがあるらしい。
ディアファーンな壁の構造には空間効果に対して、どのような特別な表現的意味があるのか。

鋭く立ち上がるゴシックの空間の体験を特徴づけるところの、礼拝的に心を魅了するためのもっとも効果的な手段をあらわすのだ、と。
 確固としたものが、作用方法の非駆体性によって、自然な環境世界を奪い去られ、重さを取り去られて、上昇させられる。こうして、キリスト教的中世はこの空間によって、キリスト的出来事に対してまったく新しい象徴形態を創造したのであり、この象徴形態はその源がわれわれには隠されている敬虔性から成長したものなのである。(P21)
こればかりは自分で経験しない限り絶対に理解できない感覚である。しかし、体験をした人ならば、その超自然的な象徴空間の与える心理的影響について、無視する事はできないだろう。私が思いっきりはまったのが、まさに心理的影響だと思っている。
1144年モン・サン・ミッシェルのロベールの記述;
「この年はじめて、信仰篤い人達が自分自身を石や樹や穀物や、そのほか大聖堂の工事に必要なものを積んだ荷車につないだのが、シャルトルで見られた。魔的な力によって、その諸塔が天に向かって伸びた。そのことはここだけでなく、フランシア、ノルマンディその他の場所の、ほとんどいたるところで起った。いたるところで人々は謙虚になった。いたるところで彼らは悔い改めた。いたるところで彼らは敵を許した。男も女も沼地を通って重い荷物を引っ張って神が彼らの眼の前で行ったもうその奇蹟を歌を歌って讃えるのがみられた。」(P25)
しばしば引用される記述だが、ちょっと違う点がある。「いたるところで〜」とかいうフレーズは、他の本では見たことないような気がする。
古典的大聖堂:
シャルトル、ランス(「フランス教会堂の女王」)、アミアン(<すぐれてオジーブ式の教会堂>)(P30)
本文では触れられていないが、シャルトルだって「凍れる音楽」とか称号なら不足はない。おしなべて古典たるだけの格があるのだ。
シャルトルの新しい建築におけるトリビューンの放棄の理由:

礼拝上の諸行為を一空間にまとめておいて、それに共通なヴォールトをかけ、信徒達をトリビューンから降ろして、長堂において光り輝く内陣頭部という目標に視線を集めるという試み(P55)

←ロマネスクとゴシックの差異は礼拝式への参与の差異であり、ゴシックは救済の真理にもっと直接的に参与しようとする。
「信徒達それに向けて駆り立てた一つの宗教的な動きが彼らを捉えた。聖体を拝領することが、少なくとも肉体的な眼で見ることが、あえて試みられたのである。この<直視の要求>は、司祭がホスチアを手にとり、それを奉挙し、それを聖別し、そしてそれの聖変化を告げる、その瞬間に集中した。東方教会の典礼においてもっとはっきりと見られる奉献奉挙は、当時、ローマ教会のミサにおいても儀式として強調されるようになっていた。」
そうそう、この観点については、最近になってようやく私知るようになりました。ミサって日々奇蹟を行っているんですよね。その奇蹟を生じさせる舞台作りというか環境こそが、まさにこのゴシック建築で採用されたものなんですね。ふむふむ。
ゴシックの光

 第一に、ゴシックの光が自然な光ではないことを示しており、第二に「非自然な」光が建築のもつ魅惑する力とかかわって「超自然な」光として体験されるということを示している。ゴシックの空間は暗色で赤紫色の光で満たされており、その神秘性は記述しがたい。とりわけ、それが<一つの>光源から発するのでなく、自然の外界の天気に応じて、その輝くの価値があるときは増大し、あるときは減少し、またその色彩は薄明においては信じ難いほどの輝きに高まって、たえず変化するように見える。ヴォルフガング・シェーネは、そこでは透明な光のようなものではなく、現象的にいって窓が直接的に光源のように感じられるということなのだ、と強調している。そこで彼はガラス窓の像の光を、「(濃色、明色、暗色として)同じく最高度の能力にまで高められた色彩と結ばれて最高度の能力にまで高められて形成された固有の光」と記述している。(P100)
光の空間と像の世界

 シャルトル大聖堂の赤―紫色の光が、内部空間の協同のもとで、どれほどに「忘我状態」という印象を決定しているかについて既に言及した。しかしながら、この大聖堂を設計した工匠が空間限界として「壁」を整えたその高身廊の巨大な窓は、側廊及び周歩廊の窓と同じく建築を光の空間に変える手段を形成したに過ぎないのではなく、像世界がこの光に溶け込んでおり、この像世界は大聖堂の内部空間に作用してゴシックの建築空間の超地上的な力に決定的に関与している。
 人物像のない色ガラス板が窓に嵌め込まれていたいたとすれば、その効果が同じであるかどうかが問われよう。しかしながら、この問いはすでに答えられている。人物像がともに作用しあっているのである。その彫像柱において人物像が浮遊した姿勢で外部に向かっている彫刻より以上に、ステンドグラスの絵の形姿が直接的体験において超地上的なものの印象を与える。なぜなら、これらの形姿は呪術的に燃えるように輝くシンボルであるかのように空間限界の層の中へはめ込まれている非物質的なものとして、光を本性としたものとして存在しているからである。(P200)
窓が光を放つ、空間が光に包まれて同化する。世俗から、一気に神の世界へと近づくことを許されたような、あの感覚。私は他のゴシック聖堂では味わったことがないが、シャルトルにおいてだけ、一度味わった覚えがある。心の底から、この説明に同意する!
信仰の神秘は、ミサ聖祭のしきたりの歴史的に変化する異なった諸形態において受け取られる。まさに、初期中世の諸世紀におけるおける典礼構成の変遷における豊かな精神生活は、教会建築の変化が礼拝的出来事のための枠組みとして理解できるものとなることを示している。(P212)
13世紀のドゥランドスによる

「聖書において多様な意味、すなわち歴史的意味、アレゴリー(寓意)的意味、トロポロジー(比喩)的意味、ならびにアナゴジー(神秘)的意味を確認する。
 第一のものは事物と出来事を、報告されている文字通りに理解する。アレゴリーは語られていることがその語の通常の自然的な意味に従ってもっているのとはちがった他の意味を与える。それに対し、トロポロジーは道徳的な語りの仕方をいい、自然な意味において道徳的視点に従って、他の何かを述べる語についての解釈である。アナゴジー的意味はアレゴリーと密接に触れ合っており、超地上的なものとであれ、教会とであれ、形而上的なかかわりをテキストにおいて求める。」
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2007年08月17日

夏の古本まつり〜西武池袋本店

mokuroku.jpg

結論だけ言うと、毎年行ってるけど、正直たいしたことない。これは近年、どこの古書市に行っても言えることである。

私自身の趣味嗜好が年々マニアック化しているのと、古書がすべからくデータベース化されてネットで買えるご時勢の影響だろうが、その一方でいわゆるメジャーな流通ルートからもれている(地方のみ or 特定の関係者内向けの本etc.)と思しき変わった本もまれにあったりする。

また、タイトルだけでは内容が想像できず、実際に本の中身を見て初めて使える本であることに気付く場合もあったりする。

そういった偶然の出会いを求めて、ついつい古書市があると顔を出してしまったりするんだよねぇ〜。うんうん。

で、今回も一度は何も買わないで帰ってきたりする。それ、昨日のこと。そして今日も飽きずに顔出してみると、見逃していた本を見つけたりする。

「佐渡の順徳院と日蓮」ISBNもないし、発行所が新潟日報事業者だもん(新潟日報って新潟の人ならすぐ分かりますよね!)。どう考えてもトーハンとかの流通ルート通ってない本ですね。これがなかなか面白そうだったりする。書評は読み終わってから書くつもりですが、こういう本と出会えるから、古書市行っちゃうんだよなあ〜(って、最後に肯定しちゃう奴)。

そうそう、昭和2年に発行された小学生向けの本が実に興味深いです。「明治大帝」とか「世界一周旅行」あの当時の世界観、価値観が如実に出ていて結構そそったりする。値段も安いしね。買おうと思って、カゴに入れたけど、後で邪魔になるのが目に見えていて結局、戻してしまった。う〜ん、ちょっと心残り。

それと、ちくまの世界名著シリーズだったかな? 巷でも良く見るけど、非常に綺麗なものが一冊300円ぐらいで売っていた。普通だともっと汚れているのが600〜800円ぐらいで売っているから、これは「買い」でしょう! 個人的には「コーラン」と「ヘロドトス」に非常に心惹かれたけど、うちのすぐ近くの図書館にあるんだよなあ〜。

宗教改革のルターは、図書館で読んだ後、結局買って再読したけど、う〜ん、手元に置いておきたい一方で邪魔だったりする。これもカゴに入れた後、戻してしまった・・・・。

実はこの後、図書館に行ってエミール・マールの「ゴシックの図像学」(上下巻)を借りるので、バッグが重くなるのは極力避けたいんだよね。一冊5千円の2冊だと、異様に重いしね。なんとか休み中に読破しちゃうつもりなんで、そちらを優先です。

まあ、結局、今回は前述の一冊のみ。もう一度、古書市行けたら、「コーラン」買おうかと思ってますけど、残ってるだろうか???
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【こちらは古書市全般に関する独り言なんで、一応分けておきます】

確か先月も古書市の目録が来ていたが行き損なったのがあったなあ〜、浅草の松坂屋かなにかの古書市だったと思うんだけど・・・。

最近、欲しい本はネットで探して買ってしまうので古書市に出掛けるパワーが衰えている感じがします。行っても何も買わないで帰ることが増えているのも原因かな?

値段もさることながら、読みたい本はあるんだけど、滅多に古書市では出てこないというのも一因かもしれない。だったら、ネットで検索して買うか、あちこちの図書館のデータベースを検索して近場の図書館まで足を運ぶのも手だろう。

以前からの話ではあるが、切実な悩みは本当に本の置き場がないことに他ならない。買う時に一番ためらうのは、つまらない本だった時に手元においておくリスクだったりする。

昨日も友人からレアな本をもらって嬉しくて喜んでいたのだが、かなりの重さと厚みがあって、どこにしまおうか頭を悩ませている。いくら数ヶ月に一回は、ダンボール箱数箱分処分してもいっこうに減らないのは何故なのだろうか? いささか鬱である。

そんなこんなで交通費を費やしても図書館の本ならば、手元に残らないのがなんとも嬉しい♪ 最近、一冊5千円とか一万円の本などで読みたいものがあり、買って後悔するなら、交通費で千円から二千円かけてもいいだろうと思ったりするのだが・・・。その本が実に素晴らしい本だったりすると、悲しい結末になる。気に入った本は、私は手元に置きたい人なので、結局買ってしまうのだ。う〜ん、手間と時間とお金をかけた分、不毛の気がするけど、しかたがない。

上でも書いたが、図書館で借りてきたエミール・マールの「ゴシックの図像学」だが、これきっと後で買ってしまうと思う。内容がいいんだもんなあ〜。困った! 英語版もあるようだから、安ければそちらも検討するが、日本語の本の方がいいなあ〜。直接フランス語から訳されているしね。

でも、「ロマネスクの図像学」(上下)と「中世末期の図像学」(上下)も結局買ってしまいそうで、出費金額と占有する場所を思うと涙が出そうです。

おまけに、先週だったかな? 新宿区か文京区の図書館で前川道郎氏の訳による 「ゴシックの芸術―大聖堂の形と空間」を見つけてしまった!! これ一冊9千円だよ〜、高〜い。値付けは個人を対象にして欲しいと切に思うが、価値はそれぐらい十分にありそう。中身を見ると、読まずにはいられない内容です。速攻、カード作って借り出そうかと思ったもん、まじに。近いうちにこちらにもチャレンジする予定だけど、これも買いたい本だったりする。

あ〜あ、物欲だけは衰えませんね。俗物である我が身を思い知らされます、トホホ。今月、デジカメを買ったばかりだし、また旅に出るのに・・・ふう〜。
タグ:古書市
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2007年08月16日

8月夏祭り、イベント等メモ

今週初めに作成したんだけど、メモとして。
【8月夏祭り、イベント】
とげぬき地蔵 縁日 14日
深川八幡祭り 11日(土) 〜15日(水)
長瀞船玉まつり 15日(水)
西武リブロ古本まつり 15日(水) 〜21日(火)
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Red Brick Cafe with HEARTLAND in 横浜赤レンガ倉庫2007 4日(土) 〜19日(日)
下北沢名物阿波おどり 17日(金) 〜19日(日)
ヨコハマカーニバル ハマこい踊り炎舞2007 18日(土) 〜19日(日)
三茶フェスティバル2007 18日(土) 〜19日(日)
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麻布十番納涼祭り 24日(金)〜26日(日)
浅草サンバカーニバル 25日(土)
ひがしまつやま花火大会 25日(土)
大井どんたく  25日(土)〜26日(日)
東京高円寺阿波おどり 25日(土)〜26日(日)
円朝寄席  8月18日(土)18:00〜
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2007年07月22日

未読本、途中本リスト〜2007年7月22日

未読本をまた購入したりするリスクを軽減する為の自己用メモです。

未読:
キリストの遺骨(上下)
真紅の呪縛
女盗賊プーラン(上下)
影のオンブリア
カーマスートラ
房中秘記
ダ・ヴィンチ・コード・デ・コーデッド


読みかけ:
パルジファルの復活祭
EX-LIBLIS
MONT SAINT MICHAEL AND CHARTRES
MARY MAGDALENE
SEのためのネットワークの基本


やっばいなあ〜、やっぱり洋書が読めていない。ほとんど10数頁で挫折してんじゃん(欝)。しかも安いからと数百円で買った洋書ばかりじゃん・・・。電車内だとかさばって読めないからなあ〜。

寝る前に読むのは、美しい時祷書か黄金伝説にしてるんだけどなあ〜。
タグ:書籍
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2007年07月21日

池袋西武リブロで洋書セール

以前、読んだ本に「錬金術と神秘主義」という題名の本があります。頁が711頁もあって、めちゃくちゃ大部。ただ、非常に珍しい&貴重な図版がたくさん入っているので、気になってはいたものの、定価が4000円で高くてねぇ〜。買わないでいました(つ〜か、買えなかっただけ)。

先日、いつもうろついている池袋西武のリブロで洋書セールをやっていて、なんとそこで半額の2000円で売っていました。この手の本をいろいろ出していて有名な出版社であるTASCHENの25周年イベントの企画物らしい。

表紙カバーがイマイチっぽくなったが、中身は従来品と同じです。日本語だし、これで2千円なら、絶対に買っておいて損はないと思います。とにかく図版が素敵。発色は少し好みじゃないけど、これだけの図版はなかなか手に入りませんって! (買ってしまうと、結構愛着出てきたりしてゲンキンな私)

洋書セールは確か22日までだったので、もし、このブログを読んだ池袋近辺の方、買っておいた方がいいですよ〜。amazonとかでも安く売ってるのか、まだ未確認ですけど。

一応、いつもブログを読んでくれている方にご報告まで。

そうそう、あのナポレオンが作成させた本として非常に有名な「エジプト史」の本も半額の2千円でした。こっちは買わなかったけど、少し惹かれたなあ〜。

あとMOLISH ARTだったかな? スペインのアルハンブラ宮殿とかの写真が載っていて現在思案中。こちらは英語ですが、何冊か洋書で持っているんですけど、アルハンブラ宮殿って今でも大好きで綺麗な写真が載っているとつい買っちゃうんですよねぇ〜。う〜欲しい!!

さあ、今日はこれから文京区の朝顔市&ほおずき市でも行こうか。

関連ブログ
「錬金術と神秘主義」アレクサンダー・ローブ タッシェン・ジャパン
アルハンブラ宮殿の思い出(2002年8月) 
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2007年07月08日

PCのHD交換

hdchange.jpg

私のデスクトップPCは今年になってから購入したもので、一応デュアルコアだし、メモリーも1GB積んでいて普通に使うには問題がないのですが、ハードディスクはそれほど使わないだろうと80GBしかありませんでした。

USB外付けの250GBHDDをその後、購入し、まあ、問題ないかと思っていたのですが・・・、最近映画やらアニメやらの動画をよく見るので、いつのまにか250GBでも足りなくなり、大切なデータのBACKUP用にDVDに焼いて保存していたら、今100枚ぐらいあるのですが、かなり物理的に邪魔になり、頭を抱えていました。

そんなわけで根本的な対策をするべく、ハードディスクの増設を決意しました。と言っても、単純に秋葉をうろついていたら、バルクの内蔵型HDが320GBで8千円で売っていて飛びついた!、というのが真相だったりする。

まあ、それを購入したのは良かったですが、実はその後、いろいろなトラブルがあり、結局先週の購入から丸々一週間、その解決に時間をとられる羽目になりました(涙)。

SATA接続なのは、自分PCの仕様と覚えていましたが、まさかデスクトップなのにHD増設スペースが無いとは思わなかった。PCの説明書を見てもHDの交換は書いてあるのに、増設の項目が見つからなくておかしいなあ〜って思ってたんですが、実際にPCケースをあけてみていざ増設しようとしてハタと気付いたのでしたので、増設スペースないじゃん!(DELLのC521)

ショックで、よろめきつつもせっかく購入したHD320GBを生かすべく外付けにすることにしました。ネットでいろいろ調べて外付けケースとUSB接続用ケーブル&電源ケーブルがセットのもの(武蔵のGW3.5AI-SU2)を3千円で購入。デスクトップPCの80GBHDDを外してこれに接続する一方、購入したものを代わりにPC内部に置き換えてみると、見事に両方とも認識したのでした(笑顔)。

でもね、置き換えた320GBのHDからOS等起動させるには、OSやOFFICE他、たくさんのソフトを一からインストールし直すのも考えただけで憂鬱。今まで使ったことのないバックアップソフトを使って簡単にできないかと考えました。


まずは体験版がいろいろダウンロードできるので、Acronics社のTrue image10.0でやってみた。まずは外付けのHDにバックアップファイルを作成し、その後、起動ディスク(CD-ROM)を作成。実際に、バックアップファイルを作成するのもかなりの時間がかかあるのだけど、問題はもっと別なところにありました。

せっかくHD交換したのにバックアップを取る為に再度元に戻すことに。80GBのHDに戻してソフトをインストール後、バックアップ作成。改めてHDを320GBに交換してから、残りの外付けHDに保存していたファイルから、復元したのですが・・・。

よりによって、途中でフリーズしてしまった。使えねぇ〜。普通に復元しても一時間半以上かかるみたいですが、マジ参りました。一番定評のあるソフトなのですが、なんでだろう? 体験版のせいかな?

しかたないので、HDを80GBに再び戻してTrue imageをアンインストール。今度はSymantec社のbackup exec system recoeryの体験版で試してみた。体験版では実は起動用CD-ROM作れないんだけど、別途入手してROM作成。ソフトをインストールしてプログラムを起動すると・・・。

今度は起動もせず、エラーが出て途中で止まってしまう。これは相当へこんで嫌になりました。しかもそのエラーがメーカーのサポートサイトでも解説ないし、泥沼。でも、ネットが偉大だなあ〜と思ったのは、エラーコードを入れてgoogleで検索したら、2件ヒット! PCに関するフォーラムに私と同じような事例が挙がっていました。

英語で書かれていたので、ちょっと抵抗ありましたが、有益な情報がありました。エラー内容は「ファイルへのアクセス権限がない」というものでしたが、admini権限は当然与えています。そのサイトによるとイベントログのサービスが有効になっていないとそのエラーが出るようです。

私の場合、可能な限り使わないサービスは止めていたのですが、それが原因だったようです。実際、サービスを有効にしてソフトを起動したら、正常に動きました。で、やっとバックアップを取り、再・再・再度HDを交換して、romより起動したもので復元しました。

今回は約1時間20分程度で完了。CD-ROM起動から、HD起動に変えてからHDで起動。ネットも使えたし、ようやく通常環境にすることができました。

今回の作業の為に、15時間以上かかっているような・・・。先週末からだし。まあ、PCの良い勉強になりましたが、結構面倒なもんです。PC自体は、いろいろな作業の効率性を高めてくれますが、PC自体があることで増加するこうした作業量を考えると、う〜ん、どっちがいいのか悩んじゃいますね、本当。

今週はおかげで本読まなかったけど、まあ、そんな週があっても良いでしょう。でも、疲れた・・・ふう〜。

あっ、写真はHD交換の為、この状態でPCの設定とかやってました。

【補足】
実は、これで一段落したのですが、更に作業があったりしました。HDを入れ替えたら、カリカリとするシーク音がちょっとうるさかったりする。ネットで調べたらHDの作動音を静かにする方法があるので早速試してみました。

HDのメーカーサイト(hitachi)にFToolというのがあるのですが、これで設定を変更できるみたい。実際にやってみると、確かに音は小さくなった。へえ〜、面白いんだけど、PCって面倒。嫌いじゃないけど、もっとなんでも自動でできるといいんだけどなあ〜、家電並みの操作性を希望。

やっぱりあると便利なんでBACKUPソフトも改めて製品版を購入予定です。なに買おうかな?
タグ:PC HD交換
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2007年07月01日

amazon.comより洋書(時祷書)が届いた

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先週の水曜日辺りに届いた米国amazonから届いた洋書3冊のこと。実は、既に「The Hours of Catherine of Cleves」は初版を持っているのだが、アメリカのamazonを見ていたら、バーゲン価格(64%off)で新品が売られているので思わず購入してしまった。

初めから持っていた初版は、装丁がレザー仕様なんで保存版としておいて、普段眺める日常用にこちらを使うつもり。友人で時祷書好きな人がいるので一冊はプレゼント用で新品を2冊注文。

どうせなら、まとめた方が送料が安くなるだろうと装飾写本で日本で買うよりもはるかに安いものを探して更に一冊追加して計3冊の注文になりました。それぞれの価格は以下の通り。

"The Golden Age: Manuscript Painting at the Time of Jean, Duke of Berry"
Marcel Thomas; Hardcover; $18.96

"The Hours of Catherine of Cleves: Introduction and Commentaries"
John Plummer; Hardcover; $16.99・・・これを2冊ね!

ちなみに購入前、価格シミュレーションもしたのでここに書いておく。
米国amazonnの場合、本の重さに比例して送料も高くなるみたいです。

キャサリン・ド・クレイブ 1冊だと送料11.48ドルで計28.47ドル。
同じく2冊だと、送料15.97ドルで計49.95ドル。
これにゴールデン・エイジを加えると送料20.46ドルで計73.40ドル

送料がどうしても高いけど、日本の某洋書店さん(○善)とかだとキャサリン一冊で定価の5千円ぐらいしてたから、それに比べれば許せるかと思います。

そうそう、到着したものについて。確かに本の中身はまぎれもない新品ですが、カバーが汚れてる。背表紙の天地が少しつぶれかけてる。裏面の値段のところにデカデカとしたbargain preiceとかシール貼ってあるのは、ご愛嬌?(アメリカ故のおーざっぱさ?) 日本人の愛書家には、かなり抵抗感を覚えること間違いないでしょう。私は速攻でシール剥がして、消毒用アルコールで綺麗に汚れも含めてふき取りましたけどね。

実際のところ、シール以外の汚れ等は、発送時の問題か、shipping時の問題か不明なのですが、頼むならそれは覚悟しておきましょう。いろいろと言いたいことはあるものの、とにかく安いし、日本で手に入らないものが買えるなら、ヨシとすべきかもしれません。ハードカバーのアート系の洋書が三冊。日本だとめちゃくちゃ高くなりますからね!

なんだかんだ言いましたが、それなりに満足です。クレジットカードをお持ちの方、直接海外のamazonで買うのは使えますよ。海外の古書店だとちょっと信頼性に不安が残るけど・・・。

あと肝心の本の内容等について。
キャサリン・ド・クレイブは、既に書評があるのでそちらを見てもらうとして2002年版の紙質とかについて。初版の1966年とはちょっと違うかもしれない。経年劣化のせいかな? どちらにしても紙質は悪くないです、というか上質です。表紙部分ですが、タイトルの文字などが違う他、私の持っている初版のレザー・バインディングとは明確に異なり、2002年版は普通の厚紙にコーティングされています。

知らなければ、2002年版でも普通の本として全く問題ありませんが、比べるとちょっと不満があるかもしれません。

そしてゴールデンエイジの方。基本はベリー公の時祷書とかからの図版ですが、他の写本からも引用されています。図版の数は、数十枚とそれなりの量があり、見開きの片面が一枚の図版で対面がその解説になっています。かなり大判のハードカバーで紙質も印刷も相当良いです。印刷はスイスとなっています。とにかく写本好きなら、これも押さえておくべき一冊でしょう♪ 買っておいて損のない本です。

具体的な書評については、後で読了後に別途書くつもりです。とりあえず、自分の覚書として。

amazonからは、注文時の他に発送時にも以下のような案内がきます。基本は日本のamazonと一緒ですね。在庫のある状態で注文してアメリカから一週間から10日かからずに届きました。
The following items have been shipped to you by Amazon.com:
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Qty Item Price Shipped Subtotal
-------------------------------------------------
Amazon.com items (Sold by Amazon.com, LLC):
1 The Golden Age: Manuscript... $18.96 1 $18.96
2 The Hours of Catherine of ... $16.99 2 $33.98

Shipped via Standard Intl Shipping (estimated arrival date: 02-July-2007).
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Item Subtotal: $52.94
Shipping & Handling: $20.46

Total: $73.40

Paid by Visa: $73.40
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関連ブログ
「The Golden Age: Manuscript Painting at the Time of Jean, Duke of Berry」Marcel Thomas George Braziller
Hours of Catherine of Cleves 獲得までの経緯
「The Hours of Catherine of Cleves」John Plummer George Braziller
「Les Tres Riches Heures Du Duc De Berry」Jean Dufournet
「美しき時祷書の世界」木島 俊介 中央公論社
「ケルズの書」バーナード ミーハン 創元社
「中世の美術」アニー シェイヴァー・クランデル 岩波書店
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2007年05月15日

澁澤龍彦没後20年 「裏」美術史を極める 

澁澤龍彦 日経記事
【上記の画像をクリックすると、記事の内容が読めます】
 

日経新聞の2007年5月12日朝刊の記事に載ってた。

5月20日までの会期なのに、何を今頃のこのこと時代遅れに掲載しているのかと思ったりもしたが、一応、切り抜いておいたのでブログ上でメモ。

日本の経営者は、日経で読む芸術系の記事が好きで結構よく見ていたりする。これ見て、少しは展覧会の人出も増えたのだろうか? だといいのだけれどネ。

記事の内容は、たいしたことないので特にコメントしないが、別に澁澤さんは裏でも表でもないと思うのだけれど・・・。まあ、こういう切り口が記事としては扱い易いのだろうなあ〜と思ってしまう。

正直未だに、澁澤さんをサド裁判ごとき印象(アレはまさに予定調和の戯画でしかないだろう)で見ている人もいないだろうが、黙って本読んで合うか、合わないかだけのことのような気もするのだが・・・。

まあ、いろんな人がいて良いのでしょう♪

全然、関係ないけど、今日国立国会図書館でシステムがダウンしたようで、利用していて不便だった。既に登録してあるのだけれど、入場に際して紙に手書きだし、検索端末も全面的にダウン。資料請求も一つ一つ紙に書いてというのは、実に懐かしい経験だった。10年以上前の時も、確かこんな紙だったような? 

しかし、たかだか図書館内のシステムだと思うが、少なくとも日本を代表する図書館にしては、お粗末な感じがしないでもない。サブ・システムも使えなかったのだろうか? 職員全員に一切の端末処理を中止する場面まであり、なかなか興味深かった。自分の担当しているシステムだったら青ざめるけどね。

ただ、えらいなあ〜と思ったのは、たとえ紙を利用した手作業であっても、なんとか資料の提供という業務を果たしていたこと。本が出てくるまでの時間はかかったが、万が一に備えて、マニュアルがきちんとできていたんだろね。そこは逆にいうと大変立派だと思った。システムダウンして、顧客からのクレームの嵐でえらい目にあったことがあるからね(苦笑)。

まあ、いい経験しました。滅多にないことなんでこれもここにメモしておこうっと。
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2007年04月30日

東京古書会館〜書窓会

毎週末、神保町の古書会館で古書市をやっているわけですが、今回は亀戸天神の藤祭りを見に行く待ち合わせの時間で、さらっと古書をチェックしに行きました。

いろんな種類の本で、普通では見ないようなマニア度の高い本が時々見つかるので最近は古書店よりもこちらを覗くことが増えてきましたが、今回も何冊か発見!

未読の本がまた溜まりだしたので、手にとったうち2冊を残して元の棚に戻す。他でも買えそうな本は、できるだけ控えないと・・・。

で、厳選した2冊は以下の通り。
「ステンドグラス」小川国夫 平凡社 1977年 300円 
「エ”ニスの商人」坪内逍遥 中央公論社 昭和8年 200円

ステンドグラスの方は、だいぶ日に焼けていてボロボロなんですが(その割に300円は高いような?)、シャルトル大聖堂のこととか書かれていたので仕方ない購入しておきました。滅多に見ない本ですしね。

ベニスの商人

次は「エ”ニスの商人(ベニスの商人)」。昔は「エ」に濁点だったんですね。小さな版型の本ですが、装丁にも味があるし、このカラー印刷も楽しそうだったのでついつい購入。

ベニスの商人

舞台で使用されることも考えてト書きとかも注意して入れたと序文で書かれているのが興味深いです。

ブックオフなら、捨てられていたなあ〜と思いつつ、ちょっと手元に置いておきたくなる本です。

ベニスの商人 第4幕 第1場 法廷の場

他にもロミオとジュリエットとかシェークスピア全集がバラで売られていました。さすがにかさばるので一冊だけ綺麗なものを選んで購入。

他の現代語で訳されたものは、だいぶ前に読んだことがありますが、昔の訳で読むとまた違った味わいがありますね。なかなか面白いもんです。
タグ:古書
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2007年04月25日

Hours of Catherine of Cleves 獲得までの経緯

エリザベートとマリア、ヨハネとイエス

神田の古書店で偶然見つけて「おおっ!これだ!これっきゃない!」と思いました。それぐらい彩色写本好きには、堪らない一品です。値段は18,000円。革装丁(ベラム?)で手に持った時の感触がなんとも心地良く、160頁もの彩色図版が入っていて右が図版で左が図版の内容説明という見開き対面構成。たぶん初版の1966年の発行で40年以上経過しているのにもかかわらず、全然古くなっていない。紙もいいものを使っているし、印刷も極美ってな感じ。

Hours of Catherine of Cleves

その本を最初に見つけてくれた連れは、見るのは初めてだけど、以前にもメールでこの本のタイトルを送ってくれていて、大変有名な本であることを教えてくれました(英語圏のキリスト教徒でインテリなら、結構知っている本らしい)。う〜ん、メールで教えてもらった時はあまり意識していなかったので全然記憶に無い。まあ、私って非キリスト教徒だし、日本語圏の人だから・・・という言い逃れを別にして、こんな素敵な本に無知であったことは恥ずかしい限り。しかも教えてもらっていたのにね(赤面)。


東方の三博士

ただ、値が張っているのも事実。ご存知のように神田は、確かにいい本多いけど、通常の相場より高いからね。本自体の書誌的な情報や価格の相場を知ってから、買おうと思い、その日は買わないで我慢。どうせすぐには売れないだろうとタカをくくっていたのが甘かった!これが後の後悔に繋がるのだけれど・・・、神ならぬ私には分かりませんでした。

Hours of Catherine of Cleves

その後、自宅でいろいろ調べてみると、NYのモーガン・ライブラリーがオークションで購入し、そこから「Hours of Catherine of Cleves」という本が出版されたことが分かりました。あ〜あ、ミュージカルは良かったけど、想像よりも期待外れだったメトロポリタンのせいでもう二度とNYに行く気は無かったけど、また行く必要が生まれました。是非、本物の写本を見てみたいですね! 事前に知っていたら、無理してでも都合をつけてモーガン・ライブラリー行ってたと思いましたが、初めてNY行った時には中世の写本とかって興味無かったもんなあ〜。しかたないです。

それは置いといて。この「Hours of Catherine of Cleves」って何度か増刷されています。初版は1966年で次は1975年、2002年にも出てます。種類もハードカバーとペーパーバッグの他に革装丁のものがあったりします。ただ、この革装丁っていうのもちょっと複雑なんですけど・・・これは後で触れます。

2002年発行のものについては、新刊で買えます。国内なら、丸善や紀伊国屋書店で売っていたことを確認。確か5千円前後。古書だと異様に高くて8千円近かったけど、これは確か1975年の発行。みんなハードカバーの値段です。

で、私の欲しかった革装丁のものなんですけど、さきほどの古書店に2週間後にもう一度見に行ったら無かった!! 見て考えて、場合によってはその場で買ってしまうかと思ったんですけど・・・。「な、・・・ない!?」店の人に聞いても在庫無いって言われてショック!他にもあれこれ手を尽くしてみたのですが国内で探した限りでは、革装丁のものは見つかりませんでした。あ〜あ。

Hours of Catherine of Cleves

で、ベタな話、日本のamazonで見るとハードカバーの新刊が2200円だった。え〜って絶句!!しかも発行が1966年。40年前のものが新刊であると思います?売れ残り?どちらにしても有り得ない話だ。これ絶対に入力ミスだと思う。まだ2002年発行なら分かるけどね。お届けは4〜6週間後とあったが、即座に注文した。案の定、3月に注文して4月になっても届かず、amazonよりメールが来る。「商品が用意できないから、あと一ヶ月待て。待てないなら、金の請求してないからキャンセルしろ」って奴。以前、別な洋書を頼んだ時もこういうの来てたなあ〜。amazonは便利だけど、機械的に処理せざるを得ないせいか、この手のはかなりいい加減だったりする。でも、本当に用意できるのか興味があるので、今回はあえてキャンセルせず、待っている。そしてもうすぐその一ヶ月の期限が来るのだが、amazonがどう対応するのかが見物だろう。

その一方で、たぶんamazonから詫びのメールが来るだろうとの予測のもと、国内に無ければ海外ということで、海外の古書店などをあちこち探しまくってみました。英国、米国、カナダ等々。すると、結構あったりする。ただ、どれもこれもハードカバーならあるんだけど、革装丁ないんだよねぇ〜ふぅ〜(タメ息)。英語のサイトばかり見ていて、いささか参ってきた時にようやくそれらしいものを見つけ、本の状態も良さそうなので購入することにしました。(最悪amzonとダブっても知り合いにプレゼントしてもいいし、自分で2冊持っててもイイ)

貝やカニが枠を囲っている

しかし!・・・海外発送の送料ってやっぱりかなりするよね。昔に比べれば、それでも安いんだろうけどさ。ただ、届くまで時間がかかるかと思ったら、思ったよりも早かった。約1週間ちょっと。2週間もかからずに届きました。値段は送料込みで4千円ちょっと。や、安い〜。感激して涙が出るくらい!

届いた本を見ると、本の状態もメチャクチャにいい。経年劣化さえもほとんど見られないくらい。いい紙使ってるよ、やっぱ。中を良く見ると、写真のオフセットはオランダらしい。初版はロンドンとあるが、私の持っているのもロンドンでいいのかな? う〜ん、いろいろとゴチャゴちゃしてて分かりにくい。まあ、いいけどね。

ただ、装丁に問題あり? 私が他のところで見たハードカバー(1975年)の装丁は、本当に単なる厚紙みたいな感じで私の手元のものとは確かに違うのですが、18,000円の革装丁とも違う。私の本の装丁は、内側が厚紙で外側が革っぽい感じなのですが、売れてしまった本は内側が柔らかいんですよ。で、外側のものの手触りがずっと良かったりする。まあ、私のも悪くは無いけど、負けてる〜!

この点の疑問を元に海外の古書店サイトで調べてもはっきりしませんでした。1966年ものの状態として leatherette や leather、vellum 等々いろんな表現がされており、いっこうに要領を得ません。ISBNコード以前の話なので、なかなかユニークに特定できず、より一層状況は複雑だったりします。まあ、版数はsecond editionやthird edition と書かれているので分かりますが、それ以外は難しいようです。なんとも残念。

ワイン絞り器に挟まれたイエス様が血を流して、それが絞り口にあるカリス(聖杯)に集まっている図

ただ、今はようやく入手した宝物って感じで大切に&大切にカバーをして読んでいます。手触りも悪くないんだけど、汚れるのが嫌だから、カバーしてるんだけどね。でも、この本って本当に所有するだけで、読まなくても眺めるだけで嬉しくなる本です。単なる印刷本でこの気持ちですから、世界に唯一の一品物の手彩色写本だったら、殺人事件にでもなるだろうなあ〜。しかも、その本に書かれた内容に世界の秩序を根底から崩す価値があるならば。「薔薇の名前」を思い出してしました。この原本にも秘密があったりして・・・(笑顔)。

本書のレビューは改めて写真入りで書きますが、内容がとにかく素晴らしいので写本好きならば、どんなに無理してでも絶対に買いましょう♪

The Hours of Catherine of Cleves(amazonリンク)
Hours of Catherine of Cleves(amazonリンク)
なんかね、微妙に登録が違うんだよね。発行年や出版者も違うし、混乱が見られるような・・・?

関連サイト
The Morgan Library & Museum

関連ブログ
「The Hours of Catherine of Cleves」John Plummer George Braziller
本の内容についてはこちら。
タグ:古書 時祷書
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2007年04月23日

池袋西口公園古本まつり&新宿展

池袋西口公園古本まつりは21〜27日まで。東京古書会館新宿展は22〜24日まで。

池袋の古本祭りは何度か行ってるけど、あまり買うほどのものはない。もっとも最近は、どこの古書市行ってもイマイチなんだよねぇ〜。ネットによる古書検索が進んだおかげで、私が欲しいと思うようなマイナー系の本ってそちらで探した方が確実に見つかるし、効率が良かったりする。値段も比較的手頃。

ただ、まれに格安の掘り出し物やそもそもその存在さえも知らない素晴らしい本を現物を見ることで初めて気付くことがあるので、ついつい古書市や古本祭りに出掛けてしまう・・・。

今回もそんな感じで掘り出した物をメモ。
・「フローリアの告白」100円 以前読んだことがあるんだけど、結構面白かったし、安かったので。内容はアウグスティヌスのかつての愛人が書いた手紙(架空のもの)を翻訳したものという設定。
・「イスラム・スペイン建築の旅」300円。アルハンブラ宮殿とか出てくる。
・「西ゴート王国の遺産」150円。近代スペイン成立への歴史。
・「ロマネスクの園」1000円。これは写真が多いし、なんか当たりの予感が・・・!

そして古書ではなくて、池袋西武で洋書ア−トブックフェアのセール品で安くなっていたのをGETしたもの。
・「LES TRES RICHES HEURES DU DUC DE BERRY」1995円。
うわあ〜安い!!これって、そうベリー公の時祷書の奴。タイトルはフランス語だけど、中の文章は英語だからなんとか読めそう。印刷はイタリアのベローナだって。う〜ん、国際的ですね。

あっ、気がつくとお金がない・・・。他にもネットで買った古書の支払いも残っているのに・・・。それ以上に、部屋がまた狭くなる(涙)。好きな本に囲まれて嬉しいのか、悲しいのか、とっても微妙な気持ち。


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ついでに手元にある未読本リスト。
・世界の名著 ルター
・中国怪食紀行
・闇の超世界権力 スカル&ボーンズ
・フランシスカニズムの流れ
・秦の始皇帝
・闇の城
・半身
・モンサンミッシェルとシャルトル
・黒魔術の娘
・シバの女王

他にも山ほどあるけど、鬱になるから書き出すの中止。
図書館から借りてる本も3、4冊あるし、そちらを先に読もうか。漫画も溜まっていたりする。あ〜あ、PERLで途中の本もあった。ヤバイ・・・。
タグ:古書
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2007年04月07日

「凍れる音楽−シャルトル大聖堂」〜メモ

ちょっと前に読んだ「凍れる音楽−シャルトル大聖堂」 からのメモ。
ローマ時代には、アウトリクムと呼ばれたシャルトルは紀元前からケルト族の一支族カルヌーテースが住まいしてガリア人の宗教的中心であった。ドルイド教を信仰した彼らは、カエサルの「ガリア戦記」によれば(ガリアとはフランス一帯の古名)ガリア人は「一年間のある時期にガリアの中心の地と思われているカルヌーテース族の領地の神聖な場所に会合する」という。このカルヌーテース Carnutaes が Chartres という地名のもとになった。
実際にガリア戦記を読んだ時に、この記述は確認しました。その時は、あまり意識していなかったけど。
シャルトルに関する文献5個:
1)「聖母の奇蹟」
1190年から13世紀にかけての大聖堂建設についての物語。シャルトル大聖堂の建設資金を求めて聖王ルイ9世の時代1262年に著されたもの。

2)「フィリピッド」(1220年)
ギョーム・ル・ブルトンの詩

3)「意見書」(1316年)
建築技術者による修理に関するもの

4)「パルテニ、いとも荘厳なるシャルトルの御堂の歴史」(1609年)
セバスティアン・ルイアールによる1609年の記録

5)「シャルトルの荘厳にして崇敬すべき御堂」
ヴァンサン・サブロンにりょう1671年の記録。古代からの伝承を伝えて詳しい。
サブロンによると、イエスの死後まもなくこの地に福音が宣べられており、早くから聖母信仰が始まった。少なくとも4世紀末には、キリスト教がシャルトルに根付いていた。
伝承によると、

 この地の信仰の中心としたドルイド僧は「ウィルゴー・パリトゥーラ」(生むべき処女)に祭壇を捧げていた。イエスの受肉以前に彼らはイエスの生誕を予兆する処女を信仰していたというのであり、キリストの福音を受けたケルト人たちは彼らの処女信仰の洞窟を聖母マリア信仰の場「地下の聖母」に変えたのだという。

 中世以来、この地下の礼拝堂において木彫りの「黒い聖母」像が崇敬されてきた。サブロンは元の像を、ドルイド僧がその祭壇に捧げたものだと信じて「聖処女は腕にその子を抱いて玉座に座す。シャルトルの聖処女のあらゆる像と同じく、彼女は色が黒いかムーア色である。彼女は我らの国よりも、はるかに太陽の輝く国から来たのであるから、ドルイド僧は彼女にこの色を与えるべきだと考えた」という。

 彼はドルイド僧が聖像を崇拝したというが、それは誤解であり、12世紀に製作された像が近世まで崇められてきたのである。この像は大革命の際に燃やされてしまい、現在クリプト(地下祭室)の北廊に安置されている黒い聖母は、1857年に作り直された像である。
ドルイド教絡みだとむしろ、マリアの母である聖アンナ崇拝の方ではないでしょうか? それだったら、もともとのケルト人の神がそのままキリスト教にスライドしていくのでドルイド僧が崇拝する可能性もありそうな気がしますが・・・さてさて?
「柱の聖母」
ルアールによると、信者の口づけで石の柱に穴があいていると述べるほどに敬虔な人々の祈りを神にとりなしてきた。1510年の作といい、もとは内陣の祭壇に置かれていた。
現在は地下の聖母よりもこちらの方が古いんだよね。元々クリプトにあったのを、聖なる井戸の崇拝を止めさせようと無理して引き離した訳だし。
876年にフランス王シャルル1世(禿頭王)がこの大聖堂に「聖母の御衣」を寄進した。「聖母の奇蹟」によれば、「聖母が神の御子を産みたまいし時、着用しておられた」衣であるというが、一説には大天使ガブリエルがマリアに受胎を聖告した時に彼女が身につけていた衣であるともいう。
サブロンによれば、

 臨終の際に聖母は使徒たちに向かってイエスの死後ずっと彼女に仕えてきた正直な未亡人にそれを与えるよう命じたのであるが、それが人手を経たのち、ビザンチン皇帝ニケフォルス1世とその妻イレーネの手にわたっていたのを、シャルルマーニュ帝がコンスタンティノポリスを訪れた際に拝受してアーヘンに持ち帰っていた。そして彼の子孫で西フランクの王になったシャルル1世に譲られていたのである。
(この布はササン朝ペルシアの産と判断されている)

 シャルルV世(単純王)がフランス王位にあった911年にロロの率いるノルマン人がフランス各地を劫掠し、シャルトルを包囲した時、司教ゴスランは聖衣を御旗として敵を打ち破ることができたという。

 この衣は聖母マリアの処女懐胎にちなんで子宝の授与と安産の信仰の対象となり、16世紀にはフランス王アンリV世が往時ルイーズ・ド・ロレーヌとともに世継ぎを求めていくたびとなくここに巡礼し聖母に祈願している。
十字軍がコンスタンティノープルに侵略して以来、たくさん聖遺物が西欧に流入したきたけど、強奪する前に譲り受けたものなんですね。

大聖堂のクリプトの一隅に「サン・フォール」(強く聖者)と呼ばれる井戸がある。この場所はガロ・ロマン朝(前1世紀にガリアがローマの支配下に入って以来のローマ文化の時代)の市壁に近い位置にあってもとは「リュー・フォール」(強き場所)と呼ばれていたというが、のちにこの井戸がその名を得るに至った。

 クリプト自体はおおむね11世紀、司教フュルベールの時のものであるが、カロリング期の石積みの他、ガロ・ロマン期に遡る石積みも確認されている。深さ33mに達するというこの井戸はプレカロリング期のものであり、4世紀にまで遡るともみられているが、ここに古くからの泉信仰があったものと思われる。そのケルト起源を確認することはできないが、少なくともローマ時代にはここに井戸の存在したことが伝えられている。
サブロンによれば、

 シャルトルの地に定着したキリスト教が次第に盛んになって聖母マリアに捧げられた地下の洞窟で多数の信者が日々に祈りを捧げつつあったのを耳にしたこの町の為政者ローマ総督クィリヌス(クラウディウス帝時代:41〜54年)は、彼の娘モデスタまでも洗礼を受けて改宗したのを知って怒りに狂い、彼らがこの聖所集まっている時を狙って兵を遣わし、彼の娘ともども数多くのキリスト教徒を虐殺してこの井戸に投げ込んだという。

 「サン・フォールの井戸」という呼称はこれに由来する。殉教者たちの流した血からキリスト教が成長し、そこに聖母が花開くことになる。聖女モデスタは今日なお、北袖廊扉口の西面の台座に刻まれたサン・フォールの井戸の彫刻の上に立っている。

 この井戸は聖水の病を癒す力を信じる巡礼者たちによって久しくにぎわっていたが、聖水信仰を否定した17世紀の啓蒙的な聖職者たちは黒い聖母子ぞの像を地上の聖堂に持ち上げ、井戸を埋めてグロットを壁でふさいでしまった。今日クリプトの聖母子像の近くにみられる井戸は1905年に再発見されて修復されたものである。
以前に行った時には、この聖なる井戸を見学しそこなって惜しいことをしてしまいましたが、今も水あるのかな?さすがに枯れ井戸かな? 

聖なる泉を崇めるアミニズムは、ケルト由来の古い信仰ですし、ケルト人は聖なる湖や泉に貴金属などを奉納したそうですが、ここの井戸の底に何かありそうな気がするんですけどねぇ〜。

聖杯とか沈んでないのかな?(笑顔) 

関連ブログ
「凍れる音楽−シャルトル大聖堂」建築行脚シリーズ 6 磯崎新 六耀社
posted by alice−room at 20:59| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月17日

「世界の名著 67 ホイジンガ」中央公論新〜メモ

先日、読んだホイジンガの「中世の秋」からの覚書。
パリの牢獄で判決のおりる前に死んだテュルリュパン派異端の某説教師の遺体は、14日間、石灰の樽につめられて保存された。ある異端女と一緒に焚刑に処するためであったという。

 これは当時、一般に広まっていた風習であったが、その生地から遠く離れたところで貴人が死ぬと、その遺体はこまぎれにされ、肉が骨から分離するまで、気長に煮詰められる。そして、骨は綺麗に洗われて、箱につめられ、故郷に送られてておごそかに埋葬される。一方、内臓と煮出し汁とはその地に葬られるのである。

 このやり方は、12、13世紀に大流行し、国王は勿論、司教についてもしばしば行われた。

 1299年、さらに重ねてその翌年、ボニファティウス8世はこの風習に対し、厳しい禁令を発している。これは「少なからぬ数の信者によって無遠慮にも、恐るべきやりかたをもって実修されている、忌むべき野蛮の風習」である、と。だが、14世紀には、この禁令に関する法王特免がしばしば出されているし、15世紀に入ってもなお、イギリス、フランスにおいてはこの風習はいぜん重んじられていたのである。
貴人に限らず、聖人が亡くなるやいなや、聖人の遺体は霊験あらたかなる奇跡を期待する人々によって、もぎ取られ、引き千切られ、バラバラにされたうえで指一本、骨一本、髪の毛までもが聖遺物として珍重されたという話もよくいろんな本でみました。まさに狂気の沙汰でしかありませんね。もっとも現代でもアイドルの身に付けたものを高値で取引する人々がいるわけで、そういう意味では人間の普遍的な性向なのかもしれませんが・・・。いやはや、凄まじい限り。
ある未刊の15世紀の著作は、天の花婿、つまりキリストと魂との神秘の結婚を、まるで市民の結婚話のでもあるかのような言葉づかいで語っている。

イエスは父なる神にいう、「もしよろしかったら、わたしは結婚し、子供や身寄りをたくさん作りたいのですが」父なる神は、異議を唱えた。子なるイエスが、黒いエチオピア娘を花嫁に選んだからである。つまり、この話は、雅歌の一節「わたしは黒い、けれども美しい」を下敷きにしているのだ。

 父なる神はいう、これは不釣合いだ、家族にとっての不名誉だ、と。ここで、取り持ち役に天使が登場、花婿の為に弁ずる。「この娘は黒いことは黒いですけれど、にもかかわらず、彼女はしとやか、肢体はよく均整がとれ、たくさん子供を作る能力をもっています。」父なる神は答えていう、「わが息子は、彼女が黒く、ブルネットだ、といった。正直なところ、私は息子の嫁が若く、上品で、かわいらしく、しとやかで、美しく、整った肢体をもっていて欲しいのだ。」そこで、天使は彼女の顔つき、体つきを大いに褒め称え、魂の美徳のあらわれだ、といった。父なる神は、ついに折れ、子なるキリストに向かっていうには。
 
 その娘をとれ、彼女は美しく、
 いとしの夫を、よく愛するだろう。
 また、われらの財宝から豊かにとれ、
 とって、豊かに彼女に与えなさい。

 この作品のまじめで敬虔な意図については、いささかも疑念を差し込む余地はない。これは、つまりは野放しの状態に置かれた想像力というものが、どんなにつまらぬことを考えつくものであるかということを示す、一つの例証なのである。
これも冷静に考えると、かなり奇異な話なのですが・・・。だってイエスが独身者とは考えていないわけでカトリックの教会側がこの作品をおよそ認めるとは、考えられないでしょう。こんなのが刊行されたら、まさに禁書目録にでも載ってたところでしょう。
中世末期、舞台前面に華やかに登場した14人の救難聖者崇拝のケース。民衆のイメージの中では、この14人は神から特別の権能を与えられている、だからこのうちのだれかに祈願しさえすれば、さしさまった危険をさけることができるということになっていた。

・・・・・・

聖者は神より全権を委託され、その効験のほどはきわめてあらたかであったのだから、その聖者が単なるとりなし役でしかないという考えは民衆にとっては、とうてい受け入れがたいものであったに違いない。救難聖者たちは、神の全権代理人ということになっていたのだ。

 実際、14救難聖者の礼拝式文をふくむ、中世末期のミサ典書にしてからが、この聖者たちのとりなしというはたらきが、きわめて強い性格のものであることを、はっきり表明していたのである。例えば、15世紀末のバンベルクのミサ典書の一節はいう、「神よ、あなたはあなたの選ばれた聖者たち、グレゴリウスその他を、他の聖者にまさる特別の権能をもって、飾られました。かくて、すべて、難儀に際して、彼ら聖者に援助を求めるものは、あなたの恩寵の約束に従って、その請願の幸いなる成就に到達するのです」

 かくて、教会はトリエント公会議を機として、14救難聖者のミサを禁止するにいたったのである。それというのも民衆が、魔除けのお札の迷信よろしく、この信仰に執着する危険があったからだ。事実、既に不幸な最後を迎えないように守ってくれる魔除けとして、聖クリストフォロスの画像や彫像を毎日拝むことが行われていたのである。

・・・・・・

いまや災厄ということになれば、そこに必ず出てくる神の怒りという強烈な観念は、はっきりとしたイメージをもつ聖者たちの上に、いとも簡単に移植されたのであった。神のはかりしれぬ正義が疾病の原因なのではない。聖者の怒りが疾病をひきおこすのだ。そしてその怒りは、なだめられるまでやまないのだ。いったい聖者が病気をいやすならば、どうしてそれをひきおこさないはずがあろうか。
聖者崇拝が、行き過ぎを通り越して、いきつくところまで行ってしまっていますね。神への『とりなし』どころか、聖者教とでもいうべき別な信仰にすり替わってしまっているように感じます。もっとも、民衆にとってはおよそ抽象的で理解しにくいイエス像よりも、より身近な聖者の方がよりリアルな存在であったのかもしれません。

 この21世紀になっても聖人崇拝はなくなっていないし、プロテスタント、カトリックを問わず、聖者のメダイなどは人気有りますからね。かくいう私もマグダラのマリアやルルドの聖母、聖クリストファーとかのメダイを何十種類も持っていたりする。全然、信者でもないのに・・・。まあ、神社でキティちゃんのお守りを買うよりは、ご利益ありそうな気がするんだけど・・・? どっちもどっちかな?(苦笑)

関連ブログ
「世界の名著 67 ホイジンガ」中央公論新〜中世の秋
オタクの守護聖人
「聖遺物の世界」青山 吉信 山川出版社
「守護聖者」植田重雄 中央公論社
「中世の奇蹟と幻想」渡辺 昌美 岩波書店
黄金伝説 〜聖人伝〜 ヤコブス・デ・ウォラギネ著
黄金伝説 Golden Legend コロンビア百科事典による
タグ:中世 歴史 聖人
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2007年03月09日

「天国と地獄の事典」〜メモ

先日読んだ「天国と地獄の事典」の中で、とっても気になった箇所があったので抜書きメモ。
【アグリッパ】Agrippa

 アグリッパとは古代の秘密や儀式、魔法の呪文が記された魔術師のための本である。書名は16世紀の哲学者ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイムの名にちなんでつけられたもので、この哲学者は地獄の権力者たちと手を結び、暗黒世界の研究を行っていたと言われている。人の肉体は、「魂を運ぶ乗り物」であり、霊魂はその殻から遊離して自由に他の世界へ移動することができるというのが彼の信条であった。伝説によると、アグリッパは魂が地獄とこの世の世界を行き来する際に用いられ、「各々の頁には地獄の劫火の熱を怒りがこめられている」という。

 アグリッパは膨大な巻数に及び、全巻を積み上げると5フィートを超えた。各々の頁は人間の皮膚でできているという。各巻には、ありとあらゆる悪魔の名前が列挙され、悪霊を呼びだすための呪文が記されている。黒魔術の儀式でアグリッパを用いると「硫黄臭い息」と「地獄の煙」のにおいが祈祷者の髪の毛や衣服にしみつく。書物そのものが生きている悪鬼とみなされており、悪霊の怒りにふれないよう取り扱いには、慎重を期さねばならない。使わない時は鎖で縛り、悪霊が逃げ出さないよう、空き部屋の梁にぶら下げておく。

 素人魔術師が愚かにもこの悪霊の教科書に中途半端に手を出すと恐ろしい報いを受けることになる。各々の本は所有者との間に密接且つ親密な関係が結ばれており、無断でこれを用いた者に手酷い仕打ちを与えるのである。言い伝えによれば、アグリッパは人を狂気に陥らせたり、美貌を損なわせたり、場合によっては死をもたらすという。若い魔法使いの弟子が師匠の技を会得しようと練習し、手足をもがれてしまったという話は、魔術師の弟子達の間で何世紀にもわたって語り継がれている。

 アグリッパの持ち主が死ぬと、その本は主を失ったことを察知する。膨大な巻数にのぼる本たちは、主の死によってその恐ろしい力を解放され、大暴れする。このような場合しばしば死んだ持ち主の家族や友人たちが不可解な病に冒されたり、不慮の事故にあって死ぬことがある(主の死を嘆き悲しんだアグリッパが持ち主の家を自力で倒壊させ、家の中にいる妻と子供達を生き埋めにしたという話もある。崩れ落ちた建物はあっという間に炎に包まれ、誰も脱出することはできなかった。煙がおさまると、焼け焦げた骨や建物の焼け跡の間から、傷一つないアグリッパが発見されたという。)

 アグリッパの怒りを鎮める唯一の方法は、悪魔祓いをすることである。―本を全巻焼き払い、その灰を神聖な土地にまくのだ。
アグリッパという名前だけは聞いたことがありますが、初めて詳しい話を知りました。へえ〜、実に面白そうな話です。もっと詳しい文献ないかなあ〜。悪魔学とかかな?ジャンル的には。

う〜ん、プラハの図書館か、バチカンの禁書目録の中にでもありそうな本ですね(笑顔)。しかも本の素材がヴァラムでは無くて、人の皮膚とか言うし・・・表紙の装丁とかも気になるなあ〜。1巻あたりの頁数が666頁とかね(オイオイ)。

さて、この項目の元ネタが気になるところですね?
タグ:魔術書
posted by alice−room at 21:21| 埼玉 ☁| Comment(5) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「世界大百科事典」平凡社(1998年)〜メモ

一般的な記述として百科事典よりメモ。
【シャルトル大聖堂】
フランス北部シャルトルにある大聖堂。正称はノートル・ダム Notre-Dome。
建築、彫刻、ステンド・グラスなどのほとんどが12〜13世紀の面影をそのまま伝える貴重なゴシック建築で、彫刻家ロダンは<フランスのアクロポリス>と絶賛した。
 大聖堂の建つ場所には聖なる泉があり、キリスト教化される以前からガリア人の信仰を集めていた。クリプタ(地下祭室)には今なおその井戸が残る。
 876年カール禿頭王がシャルトル大聖堂に<聖母マリアの御衣>を寄進して以来、シャルトルは聖母マリア(ノートル・ダム)信仰の中心地となり、広く西欧全体に知られ、多くの巡礼を集めた。
 非対称の双塔が比類なき美を見せる西正面は、1134年の火災ののちに再建された12世紀の部分を残す。また、その晴朗な輝きから<シャルトルの青>との呼び名を生んだ西正面の三連窓のステンド・グラス、および西正面の三つの扉口側壁で稚拙な微笑を浮かべて並ぶ旧約聖書の王たちも12世紀初期ゴシック芸術の粋である。1194年の猛火がシャルトルの町を襲い、同大聖堂は民衆の情熱に支えられて再建され、わずか26年後の1220年にはほとんどが完成した。献堂式は1260年、聖王ルイ(9世)臨席のもとにおこなわれた。身廊はアーケード、トリフォリウム、高窓の3層構成で天井はリブ・ボールト(筋骨穹窿)に統一され、堂内は盛期ゴシック建築の到来を告げている。
 南北袖廊扉口を飾る彫刻群も盛期ゴシック時代(13世紀)の作で、北袖廊扉口にはキリスト生誕までの旧約聖書の世界、南袖廊扉口には新約聖書の世界が表現される。ステンド・グラスは12世紀のものを除き、三つの薔薇窓をはじめ大部分が1210−1240年の短い期間に完成されたため、均一な質を見せている。
 身廊の床には、直径12mの迷宮(ラビリントス)が彫られているが、これは一説には聖地エルサレムに至る苦難の道を表すと言われる。
【シャルトル学派】
シャルトルに形成された中世哲学の学統。シャルトルはパリの南西部にあり、6世紀に修道院がおかれ、司教フルベルトゥスFulbertus(960頃ー1028年)のときに付属学校が開かれて自由学芸の活発な展開を見、12世紀には当時のプラトン研究の中心をなすまでになった。
 シャルトルのベルナールはプラトンの<ティマイオス>に従って自然有機体説を唱え、ベルナルドゥス・シルウェストリスはこれに生命を与える<宇宙霊魂>を神的なものに高めて汎神論的傾向を帯びるに到った。
 このプラトン主義のゆえにイデアの実在が説かれ、ギルベルトゥス・ポレタヌスとソールズベリーのヨハネスはこれを主張したが、同時にアリストテレス主義に従って個体概念の成立にも関心を示した。
 ヨハネスはこの学派の中心人物で古典に基づく人文主義を掲げ、修辞学を盛んにしたほか、叙任権闘争においては自然法を実定法に優先させる考えを示して、これに反する君主を抹殺すべきことを説いた。
「十二世紀ルネサンス」伊東 俊太郎 講談社
こちらの方が説明分かり易いね。でも、個人的に関心があるのは、この学派の合理主義的思考方法がゴシック建築へどのように影響を与えたのか?・・・この一点に尽きる!
【シャルトル Chartres】
 ローマ時代にはケルト人カツテヌス族Carnutesの中心集落がここにあった。シャルトルという名称はこの部族名に由来。当時から交通の要地でパリとブルターニュ地方を結ぶ街道とオルレアンからルーアンにいたる街道の交点に位置した。
 シャルトルの名を世界的なものにしているのは、宗教の分野における歴史的重要性である。すなわち、同地の泉は古くより聖所としてガリア人の崇拝を集め、キリスト教化された後も同地はマリア信仰の中心地として多くの巡礼者が訪れた。シャルトル大聖堂はフランス有数のゴシック建築として知られ、現在は数多くの観光客を引きつけている。1146年には第2次十字軍を準備するための公会議が同地で開かれ、また1594年にはアンリ4世の戴冠式がシャルトルの司教の手で行われた。
カエサル著「ガリア戦記」の記述が大変有名。
【ベルナール(クレルボーの・・・)】Bernard 1090-1153年
 フランスのキリスト教思想家、聖人。その人柄の魅力、文体の美しさゆえに<甘蜜博士Doctor mellifleus>と称される。
 ディジョンに近いフォンテーヌの貴族の家に生まれ、1112年頃近親・兄弟ら30人とともにシトー会修道院に入る。3年後、自ら場所の選定をした新設のクレルボーclairvauxの修道院長となる。以後、シトー会は急速に発展し、彼の名声や影響力も広まる。
 1128年トロアの宗教会議で承認された神殿騎士団(テンプル騎士団)の会憲は彼の手になるものと言われ、彼が<神殿騎士への新たな軍役奉仕を讃う>で異教徒との戦いへの関心を失った世俗騎士を告発し、新しい修道騎士の理想を讃えたことは会員の増大に資するところ大きかった。
 クリュニー修道院(院長ペトルス・ウェネラビリス)との論争、教皇インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世の正閨問題への影響力、40年サンス会議におけるアベラール批判、およびギルベルトゥス・ポレタヌス批判、41−43年ルイ7世との対立、45年南仏伝道、46年第2回十字軍勧説も注目される。
 また教皇権における両剣論の主張や神の恩寵と人間の自由意志に関する論考などは彼の学識の深さをよく示している。1174年列聖。
※シャルトルのベルナールとは別人
ベルナールが十字軍勧説を行った場所が、火災に会う前のシャルトル大聖堂だったりする。当然、テンプル騎士団との関係を取り沙汰する本もあるが、まともな本では特にその相関性については触れていないのが普通。
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2007年03月07日

プランタン=モレトゥス博物館展カタログ〜メモ

印刷博物館で開催されたプランタン=モレトゥス博物館展のカタログ「印刷革命がはじまった:グーテンベルクからプランタンへ」を読んでいてビックリするような内容があったので早速メモ。
プランタンの生涯をめぐる謎として「愛の家族」(Huis der Liefde)という秘密結社の存在がある。恐らくは再洗礼派の流れを汲むであろう「愛の家族」はオランダの商人であるヘンリク・ニクラース(Henril Niclase)によって創始された宗教結社で、ニクラースは不寛容の時代にあって寛容の精神を説いた幻視的な神秘家であったようだ。「愛の家族」の運動は知識人や商人などのエリート集団によって担われていたが、参加者は表向きは既存の教会組織に所属しながら、ひそかな活動を行っていた。そこでプランタンが選び取ったのがカトリックであった。そして、カトリック王フェリペ2世公認の印刷・出版者としての地位を固めていたのである。

 出版史家エリザベス・アイゼンステインは、この間の事情を以下のように説明している。カトリックとプロテスタントの間で宗教戦争が闘われていた時代、独立の主体としての印刷業者たちは特定の教会あるいは国家と結びつきのない「第3勢力」をひそかに支持していたが、この第3勢力が近代初期の資本家の利益と結びついていた。さらには、商人印刷者の中には異端の教義を奉ずるものさえあったとして、クリストフ・プランタンをもっとも著名な例だとしている。

 そして、広範囲にわたる販売網と結びついた異端の事業家や印刷者のシンジケートが形成されたことから新しい精神が育まれたが、それは世界的な視野をもち、世界教会運動の立場に立つ寛容の精神でありながら世俗的でも懐疑的でもなく、必ずしもプロテスタントでもなかった、と述べている。

 さらに続けて、16世紀におけるこの新しい精神の擁護者の中で中心的な存在となったのは、アントワープのクリステフ・プランタンの印刷工房だった。ここでは、カトリックとの関係を維持しつつ、スペインのフェリペ2世の支持をとりつけながら、その一方でカルヴァン派の仕事も引き受けていた。プランタンのグループの中には、「愛の家族(愛の家)」と呼ばれる、組織の緩やかな秘密の異端一派と関わりをもっているものもいた。愛の家族のメンバーはおもてむき自分の住んでいる土地の宗教に従うよう勧められていたが、実はこの派の小冊子に書かれている神秘的な協議の忠実な信奉者だった。自分の工房からこの一派の文書を出版する一方で、プランタンはフェリペ2世に働きかけ、「代表印刷者」のお墨付きをもらった。これは北海沿岸低地帯全域の印刷業を監督し、この地の印刷者全員の能力と宗教の正当性をチェックする責任を負うものである。

プランタンはまた、フェリペ2世の顧問官で第1級の宮廷学者でもあったベニート・アリアス・モンターノの友情をも勝ち得た。モンターノはアントワープにおける『多言語対訳聖書』の仕事を監督するために、スペインから派遣されてきていたのだが、帰国後はフェリペ2世の新たな信頼を得る一方で、新しくできたオランダの友人グループとひそかに文通を続け、一時期スペインの書籍取引の通常パターンを変えてしまった人物である。プランタンのグループと「愛の家族」の物語は非常に興味深い。その理由の一つは、「著名な対抗宗教改革派の学者でもある優秀なカトリックの役人が、実際には、こともあろうにエスコリアル宮の地下深く破壊的な「細胞」を組織する仕事に携わっていたという事実が明らかになることで、妄想がかきたてられるからだろう」と述べている。
後でこの図録の感想は別に書きますが、この『秘密結社』というのには、いたく感銘を受けてしまいました。歴史の授業で今まで一度も聞いたことなかったですよ〜。一方でカトリック側公認の印刷業者の元締めをやりながら、裏で敵対勢力側のアジビラなどを印刷してるなんて、まるで二重スパイみたいとか、その手の類みたい。

第二次大戦中にナチスに協力しながら、レジスタンスを支援していたアレと同じようなもんでしょうか? 小説「天使と悪魔」のイルナミティも真っ青ですね。ホント、事実は小説以上に面白い。ダン・ブラウン氏にネタ提供したいぐらい(爆笑)。学校の歴史でそこまで話してくれたら、みんなの歴史に対する見方も変わるのにねぇ〜。

なお、プランタンというのは、16世紀にパリからネーデルラントに逃れて印刷業を開始した印刷業者で数々の素晴らしい初期印刷本を初め、大変有名な存在です。そこの作業場は現在、世界遺産にもなっています。

先日読んだ本「グーテンベルクの時代」で、宗教改革を促進した印刷技術発明の本当の意義を初めて知りましたが、本書ではそれを世界遺産にもなったプランタンという存在を通して再度教えてくれました。いやあ〜、知れば知るほど歴史や情報は面白い!!

関連ブログ
プランタン=モレトゥス博物館展カタログ
印刷革命がはじまった:印刷博物館企画展
「グーテンベルクの時代」ジョン マン 原書房
印刷革命がはじまった:印刷博物館企画展 2回目
タグ:印刷 図録 書評
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2007年02月26日

「岩波哲学・思想事典」岩波書店 〜メモ

中世のキリスト教に絡んで、なんどか他の事典でも調べているのだが、それぞれ面白いことが書かれているのでこちらもメモ。

岩波哲学・思想事典(amazonリンク)
ディオニュシオス・アレオパギテース Dionysios Areopagites:
(ディオニュシオス・アレオパギテス)

 「ディオニュシオス文書」の著者とされる人物。人物についてはほとんどわかっていない。ただ紀元500年頃のシリアの修道僧であろうと推測されている。しかし6世紀前半からこの文書が東方世界に広まり、9世紀に西方世界に流布されて以来、そして中世を通して16世紀くらいまで、この文書の著者は新約聖書の「使徒言行録」17章34節に出てくるパウロによって回心した、アテネの最高法院の議員アレオパゴスのディオニュシオスであると信じられてきた。それはこの文書の中で著者が自らをパウロに近いことを仄めかしていたり、キリストの死去の模様を記述していたり、使徒ヨハネに宛てた書簡が見られることからも当然であったろう。

 その為、この文書は中世を通して絶大な権威を持っていた。しかし、16世紀頃ルネサンスの時代にロレンツォ・ヴァッラやD.エラスムスはこの著者の信憑性に疑いをもったが、有効な証明はできなかった。

 しかし、19世紀の終わりにJ.スティグルマイルとH.コッホが別々に「神名論」の第4章18-33とプロクロスの「悪の実体について」の間に類似性があることを指摘し、かつプロクロスがその源泉であることが証明され、著者は少なくともプロクロスと同時代かそれ以降の人であることが判明した。以来、著者は<擬ディオニュシオス・アレオパギテース>と称されている。

 プロクロスの影響があるということから、新プラトン主義的色彩が濃いのは当然であるが、著者が新プラトン主義をキリスト教化しようとしたのか、それともその逆かは定かではない。いずれにしても著者は神・世界・人間の関係を神と人間との一致という視点から、キリスト教の伝統に立脚しつつ、新プラトン的用語・概念を駆使して解明したと言えよう。
ディオニュシオス文書 Corpus Dionysiacum :

 擬ディオニュシオス・アレオパギテースが著したとされる一群の文書。それらは「神名論」「天上位階論」「教会位階論」「神秘神学」および10の書簡を指す。著者によれば、この他に「神学概論」や「象徴神学」なるものを著したことになっているが伝承せず、虚構の可能性もある。

 東方世界では、6世紀前半から流布し、証聖者マクシモスの注解(偽書?)をウケ、一層権威を持つ。西方世界でも幾人かが翻訳を試み(ヒルドゥイヌス、エリウゲナなど)、東方同様揺るぎない権威を持ち、サン・ヴィクトールのユーゴー、グロステスト、アルベルトゥス・マグナス、トマス・アクィナスら多数が注解書を著した。西方世界に及ぼした影響は多大である。

 「神名論」においては、神はもともといかなる名をも持たないものであるが、しかし全ての名を持つということを巡って考察されている。例えば、「善」という名が根本的なものとして上げられ、それが考察された後、「光」「美」「愛」さらには「悪」が主題とされる。新プラトン的なTrias(三つの組概念)を用いて神名を様々に考察し、結局は隠れたる神がいかなる仕方で自己を現すかを明らかにする。

 「天上位階論」「教会位階論では、神を囲む天使たちのまどいを中心にした壮大な宇宙構造が、また教会での儀式の意味を通して地上における神の国の構造が示される。

 そして「神秘神学」では神認識の方途としての否定神学が肯定神学との対比の下に明らかにされ、否定と肯定の彼方に立ち現れる神との一致(人間神化)を説いている。以上より、この文書は一つの壮大な世界像構成の試みと言ってよかろう。

 ところでこの文書に見られる「浄化」「人間神化と照明」「神の闇」といった概念は否定神学を媒介として神との一致を目差す西洋の神秘主義の根底を形成した。
光の形而上学:

 新プラトン主義が擬ディオニュシオス・アレオパギテースによってキリスト教的表現を得たもの。
 光の根源である父なる神の、その光がイエスであり、イエスは天上界の多様なイデアを開示し、人々の魂を照明する。この光の発出は存在の賦与であり、照明は認識を与え、帰昇へと人を導くものとなる。
関連ブログ
「中世思想原典集成 (3) 」上智大学中世思想研究所 平凡社
「西洋古代・中世哲学史」クラウス リーゼンフーバー 平凡社
ゴシックということ〜資料メモ
ゴシックのガラス絵 柳宗玄〜「SD4」1965年4月より抜粋
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2007年02月04日

「現代カトリック事典」エンデルレ書店〜メモ

イエズス会士の著者によるカトリック事典ですし、出版社もキリスト教関係書籍で定評のあるエンデルレ書店のものですので実に勉強になることが多いです。関心のあるところだけ、ざっと抜書きしてメモ。

現代カトリック事典(amazonリンク)

聖遺物の移転(transfer):
 聖人の遺物を一つの聖堂から他の聖堂へ盛大な儀式をもって移し、そこへ永続的に安置すること。ロレトの聖なる家の祝日はかつて移転の祝日と呼ばれていた。
聖遺物箱(reliquary):
 遺物を納め、保管する容器。遺物が公の崇敬のために展示される場合には必ず遺物箱に納められる
聖痕(stigmata):
 十字架につけられたキリストの傷のすべて、あるいはそのうちのいくつかがある人の身体、すなわち手、足、脇腹、額に現れる現象。傷は外的な原因なしに自然に発生し、定期的に流血がある。
 
 聖痕を受けた人(stigmatic)の中で最もよく知られているのはアッシージの聖フランシスコである。1224年9月17日にアルヴェルニア山上での脱魂状態の間にフランシスコは天使(セラフィム)が十字架につけられたイエズスの姿を示し、自分の身体に聖痕を刻み付けるのを見た。この時から、二年後にフランシスコが死ぬまでこの聖痕から血が流れ出た。フランシスコはこの現象を隠そうとしたが隠し切れなかった。この時以来、聖痕を受けた約320人について、学者による調査が行われ、そのうちの60人以上が列聖された聖人である。

 真性の聖痕は脱魂状態に陥った人にだけ現れ、それに先立って鋭い感覚的苦しみと精神的苦しみが伴い、それによって聖痕保持者は苦しむキリストに似た者となる。苦しみを伴わない聖痕の場合には、聖痕の目的が十字架につけられたキリストとの象徴的一致とキリストの順境の一端を担うことにあることから、その真性について大きい疑いが持たれる。

何世紀にも渡る教会法上の手続きの後、教会は真性の聖痕と認めるためのある種の判断基準を定めた。キリストが受けたのと同じ場所に傷が現れているかどうかもその一つである。ヒステリーまたは催眠によって血の汗が流れる場合には、キリストの傷と同じ箇所に傷は現れない。一般に傷から鮮血が流れ、キリストの受難の日または受難と関連のある日、例えば聖金曜日またはキリストの祝日に痛みが生じる。傷は化膿することはなく、そこから流れ出る血はまじりけのないものである。これに反して、身体のほかの箇所にできたごくわずかの傷であってもそれは化膿する。

 さらに聖痕の傷は通常の医療行為によっては治らず、長い場合には30〜40年持続する。傷からは血が流れ出て、それは真性の出血であって聖痕を受けた最初だけでなく、何回も繰り返して出血がある。また、出血範囲も異常であって聖痕の傷は主要血管から離れて表層だけにとどまっている。それにもかかわらず真性の出血がある。

 最後に聖痕を受けるのは徳を英雄的程度にまで実行し、十字架に対する特別の愛をもつ人だけである。(語源はラテン語stgma、ギリシャ語の「いれずみ」を意味する語から)
これについては、映画「スティグマータ」以来関心がありましたし、是非アッシジにも行ってみたいので為になりました。

関連ブログ
スティグマータ 聖痕 <特別編>(1999年)
「日本の奇跡 聖母マリア像の涙」安田貞治 エンデルレ書店
聖人への祈願(invocation of saint):
 聖人達に物的・霊的必要に対する助けを祈り求めること。
 聖人への祈求の論拠になるのは、天国の聖人と地上の信者との間にある親密な交流である。聖人たちに祈求するののは、神にわれわれの祈りを取り次いでくれるように願いことであって、これは地上においてわれわれが他の人達に祈りを願うことに通じる。
 人の聖徳が高ければ高いほどその祈りは効果があるため、天国の聖人は特に強力に取り次ぐ人である。

 第二バチカン公会議は次のように教える。
「われわれが天上の住人の祈念を大切にするのは、単にその模範のためだけではない。・・・われわれがイエズス・キリストの友人であり、共同相続人であり、われわれの兄弟であり、すぐれた恩人でもある聖人たちを愛し、聖人たちを与えてくれたことを神に感謝し、謙虚に聖人たちを呼び求め、われわれの唯一のあがない主であり救い主であり、われわれの主である神のひとり子イエズス・ィリストを通して神からわれわれの必要とする恩恵を祈り求めるために、聖人達の祈りと力と助けを求めることは、非常に有益なことである。」(「教会憲章」50)
この聖人による神への取り次ぎって概念が、興味深いんだよねぇ〜。神学的な解釈では取り次ぎなんでしょうけど、どう見ても聖人自身の力にすがってご利益を願っているとしか思えません。願いごとを叶えてくれない聖人像や聖遺物を叩いたり、痛めつけたりする民衆の姿にはもっと実感がこもっているでしょう。
聖人列伝(ラテン語 Acta Sanctorum 英語 Acts of Saints):
 広範な調査に基づいてボランディスト(Bolandists:聖人伝を編集するイエズス会員)によって発表された聖人たちの伝記。これまでに多くの巻数が発行されてきたが、まだ完結していない。この列伝はカトリック教会の聖人伝の基本的出展である。
これは、いわゆる民間伝承を集めてベストセラーになった『黄金伝説』とは別物みたいです。きちんとした歴史的事実の認定が必要らしいです。黄金伝説と比較してみると面白そうかも。
アイオーン(Aeon):
 時間の長い連続。グノーシス派では神からの流出によって生じる精神的世界の一つであって、目に見えない精神的世界プレローマ(pleroma:充満)を形成する。これは目に見える物的世界ケノーマ(kenoma:混沌とした世界)と区別される。グノーシス派から派生した異端の間では、キリストを指す語としてこのアイオーンが使われた
これ、この単語の意味が分からなかったんですよね。マグダラのマリアの福音書やユダの福音書を訳していて一番意味が不明だった単語。いや、本当に勉強になりました。

関連ブログ
ユダの福音書(試訳)
マグダラのマリアの福音書(訳)
悪魔祓いの儀式(rite of exorcism):
 悪霊を追い出すための特別権能を用いる認可を受けて正式に任命された人物、一般に司祭が行う準秘跡。最近までこの特別権能は下位聖職階級である「祓魔師」に授けられてきた。しかし、この権能は教会権威者から特別且つ明示的な許可を得た司祭によらなかれば行使することはできなかった。

 教会は悪魔祓い師に対する指針の中で、あまり早急にある人物が悪魔に憑かれていると判断してはならないと警告している。その理由としては「悪魔つき」と思われていても、ヒステリーその他の情緒障害の場合が多いからである。そのうえ、明らかに悪魔に憑かれている者をどのように扱うかについての十分な指示が与えられている。とくに悪魔に欺かれたり、怯えたりすることのないよう十分に配慮することを指示している。

 何世紀にもわたって悪魔祓いの儀式は長く詳細にわたるものであった。すなわち、多くの儀式、多くの十字架のしるし、詩篇の朗読、アタナシウス信経、聖ミカエルへの祈り、聖水の使用、断続的厳命から成り立っている。多くの形式の中で、司祭は次のように宣告する。

「私は厳命する。昔からの蛇よ、生者と死者の審判者によって、おまえの創造主によって、宇宙の創造主によって、おまえを地獄へ追いやる力を持つ者によって厳命する。直ちに恐れつつ、おまえの恐怖の軍勢とともに離れ去れ。教会の懐に避難を求めるこの神のしもべ[名前]から離れ去れ。」

私的悪魔祓いはある人物を傷付けている悪魔に離れ去るように私的に厳命することであるが、どの司祭によってもまた信徒によっても行うことができる。例えば聖水などの準秘跡の利用によって、あるいはイエズスの名を呼び求めることによって行われる。
エクソシストの名称はよく聞くものの、その意味するところをよく知りませんでした。へえ〜、こういうことなんですね。権威者に許可をもらってやるのが正式なものなんだ。それに対して私的な悪魔祓いもあるんですね。ふむふむ。

関連ブログ
法王大学で開講したエクソシスト講座の詳細
悪魔祓いの全国集会をローマ法王が激励
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2006年12月24日

「バラの名前」百科(而立書房)〜メモ

「バラの名前」百科の書評はこちら。

異端審問官ベルナール・ギュイ(Inquisitor Bernard Gui):
 ジャック・フルニエ(「モンタイユー」に登場する)と並んでベルナール・ギュイは14世紀初頭では最も悪名高い異端審問官だった。ドミニコ会氏のベルナール・ギュイは自らの数十年間の異端審問の経験を1231年、著書「異端審問便覧」(Practica inquisitionis pravitatis )において要約した。
デュオニシウス・アレオパギタ(Dionysius Areopagtita,Dionysios ho Areopagites):
 ディオニシウス・アレオパギタは使途パウロの説教に動かされて改宗し、アテナイの初代司教になった。5世紀末頃、シシアの一週同士(偽ディオニシウス・アレオパギタ)によって数種の著作が書かれたが、それらにおいては彼は新プラトン主義者たちの思考形式や概念措置を用いてキリスト教の教義を表現した。
 サン=ドニの修道院長イルヴァン(Hilduinus)は9世紀にこの偽ディオニシウス・アレオパギタの著作を初めてラテン語に翻訳した。そして、彼はこの著作を自分の修道院の保護聖人で殉教者である、パリのディオニシウスと同定している。
 偽ディニシウス・アレオパギタの著作は西洋の神秘主義やスコラ哲学者の神学的・思弁的思想に決定的影響を及ぼした。
 ディオニシウスによれば神は一者であり、この一者から世界は段階的に下りながら生まれてくる。つまり、下からは全てのものが三つの段階―浄化・啓発・一者化―を経て上昇しながら、神へと戻るというのである。中世の”光の隠喩法”は偽ディオニススの著作に基づいている。

「だが、誰かが日光について対自的且つ即自的に考察して、いったい何を言おうとするだろうか。光は善に由来するし、善のイメージであるからだ。したがって、善も”光”の名をもって称賛されるのだ。原像が模写において啓示されるからだ。つまり、万物を超越する神の善意が至上かつ最も高貴な存在[神]から最下等のものにまで到達しながら、しかも万物の上に超然としている―なにしろ、上等の存在は同じ(善)の超越性の上に抜きん出ることはないし、また下等の存在はその囲いから飛び出すこともないからだ―のと同じように、また神の善意がまるで万物の尺度、そのアイオン[永遠の力]、数、秩序、囲い、原因、最終目的であるかのごとく、むしろ万物を啓発し、創造し、生気づけ、守護し、完成させるように、神の善意の光り輝く模写も、この大きな、燃えず燃え続ける、 耿々たる太陽を照らすのだ―善の多様な形態をした反響が、この善意に関与しうるすべての物体を振動させるように―、そして、上方からその光を拡散したのであり、しかもそれ固有の光線の輝きを、高・低を問わず可視界全体を超えて滔々と流れさせるのだ。」(偽ディオニシウス・アレオパギタ『神聖なる名称について』De divinibus nominibus ]V、4―K・フラッシュ『哲学史』)
アルベルトゥス・マグナス(Albertus Magnus,Albert le Grand):
シュヴァーベン(ドイツ南部)のラウインゲンに生まれたアルベルトゥス・マグナス(1193頃〜1280)は哲学者、神学者にして自然科学者だった。1223年パドヴァのドニミコ修道会に入会した。トマス・アクィナスとシュトラースブルクのウルリヒは後に彼の弟子となった。博学のゆえに彼は―先人のアラヌス・アブ・インスリスと同じく―”全科博士”とも呼ばれた。彼はキリスト教的アリストテレス主義を基礎づけ、最初のスコラ哲学者として自然科学・哲学・神学の思想を統合した。彼の自然科学に関する著作は精密な観察で際立っており、神学的観点から解放されている。
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「中世思想原典集成 (3) 」上智大学中世思想研究所 平凡社
ゴシックということ〜資料メモ
ステンドグラス(朝倉出版)〜メモ
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2006年12月17日

マグダラのマリアの福音書(訳)

先日、ナショナル・ジオグラフィック社から出た「イエスが愛した聖女 マグダラのマリア」を読んでもうちょっと詳しい説明を欲しいなあ〜と切に思った。マグダラのマリアの福音書をただ訳したり、他のグノーシス文書からの切り貼りだけではあまりにも・・・ヒドイ&手抜き。

ちょっと前に読んでいたこちら(The Gospel of Mary Magdalene:amazonへ)の方がはるかにマシ。本書の日本語訳を出してくれればいいのに・・・。

参考までに上記の本を元にして以下、訳出してみました。
マグダラのマリアの福音書の内容を大まかに知るならばこれで足りるかもしれません。

<1〜6頁欠け>

<7頁>
…「どうかしたのですか? それは永遠に続くのでしょうか?」

師は答えた:
「生まれたものは全て作られたものであり、あらゆる自然の要素は互いに混ぜ合わされ、一つになっている。構成されたあらゆる物は分解されるであろう。あらゆる物はその根源に戻る。即ち、物質はその起源に戻る。耳のある者は聞きなさい。」

ペトロは師に言った。「あなたは世界の要素や事象を解釈する人になられているので私達に話して下さい。世界の罪とは何ですか?」

師は答えた:
「罪というものはない。罪を存在させるのはあなた達である。あなた達が堕落した本性の習慣によって行動する時、ここに罪がある。こういうわけで、神はあなた達の中にある。罪はあなた達の本性の要素と一緒に行動し、その根源と共に罪を再び結合させる。」

それから続けられた:
「こういうわけで、あなた達が病気になったり、死んだりするのはあなた達の行動の結果です。即ち、あなた達の行った事があなた達を遠くへ連れていくのです。耳のある者は聞きなさい。


<8頁>
「物に対する執着が自然の状態に反する情熱を生み出す。だから悩み事は体中に生じる;
即ち、こういうわけであなた達に話そう。
’調和が取れている…’
’あなたの調和がとれていないと、本来の状態の現れるものから霊感を受け取ります。耳のある者は聞きなさい。」

こう言った後、祝福された一人が他の人達みんなに挨拶して言った:
「あなたと共に平安がありますように―私の平安が生まれ、あなたの中を満たすように!
用心して、何者も「ここにあります」あるいは「そこにあります」と言うことで、あなたを誤った方向へ導かせることがないように。

というのはキリストの住まう所はあなた達の中であり、彼を求める人々が彼を見つけるのもあなた達の中である。出発して、王国の福音を述べなさい。

<9頁>
「私が目撃した以外の法を押しつけてはいけない。法によってあなた達が傷付けられないように、律法の中で与えられたもの以上の法を加えてもいけない。」
これを全て言ってしまうと、彼は旅立っていった。

弟子達は悲しみ、たくさんの涙を流して言った:
「私達はどうやって不信人者達の中に入ってキリストの王国の福音を述べれば良いのだろうか?」

彼らはキリストの命を容赦しなかったのだから、一体彼らが私達を容赦するなんてあるだろうか?」

それからマグダラのマリアが立ち上がり、彼ら全員を抱擁して同士に語り始めた:
「悲しみと疑いのままでいてはいけません。神の恵みがあなた達を案内し、慰めるでしょう。イエスは私達にこれを準備していたのですから。彼は私達を完全な人にする為に、私達を訪れています。」

こうしてマグダラのマリアは彼らの心を神の方へ向けさせて、彼らは師の言葉の意味を議論し始めた。

<10頁>
パウロはマグダラのマリアに言った:
「シスター、私達は師が他の女性達と異なり、あなたを愛されていたのを知っています。あなたの覚えていることで、師があなたに言った言葉で私達がまだ聞いたことがないことは何であろうと私達に話して下さい。」

マグダラのマリアは言った:
「私は今皆さんに話しましょう。皆さんが聞かされないでいたことを。

私は師のビジョンを見て言いました:
「主よ、私は今あなたをこのビジョンの中で見ました。」
そして彼は答えた:
「あなたは祝福されています。というのは、私を見たことはあなたの妨げにはなりません。精神がある場所、そこに宝物があります。」

それから私はイエスに言った:
「主よ、誰かがあなたに会ったビジョンの瞬間に、それは彼らが見る精神を通してでしょうか?それとも精霊を通してでしょうか?」

師は答えた:
「それは精神を通してではなく、精霊を通してでもない。その二つの間の英知がビジョンを見て、それは…

<11〜14頁欠け>

<15頁>
「そして渇望は言った:
’私はあなたが落ちていくのを見なかったが、今私はあなたが上昇しているのを見ている。あなたは私に届いているので、何故嘘をつくのですか?’

魂は答えた:
’あなたは私をみなかったし、私を認めなかったが、私はあなたを見た。私は衣服のようにあなたと共にいたが、あなたは決して私のことを思わなかった。’
こう言った後、魂は大いに喜びながら出発した。それから無知として知られている、3番目の風潮(風土)へ入った。

無知は魂のことを尋ねた:
’私はどこに行くのですか?あなたは邪悪な性向に支配されている。実際、分別を欠き、従属している。’

魂は答えた:
’何故、私を判断するのですか?私は判断していないのに。私は支配されているが、自らを支配してこなかった。私は認識されていないが、認識してこなかった地上や天にあって構成されるものは全てが分解されることを。

<16頁>
「この3番目の風潮から解放されているならば、魂は上昇を続けるだろう。そして4番目の風潮の中にいることに気付くだろう。これは7つの現れがある:

最初の現れは、暗黒であり、
2晩目は渇望
3番目は無知
4番目は致命的な嫉妬心
5番目は肉体への隷属状態
6番目は舞い上がった英知
7番目は狡猾な英知

これらは激しい怒りの七つの現れであり、魂を疑問で押しつぶしただろう。
「殺人者よ、あなたはどこからきて、放浪者よ、どこへ行こうとしているのか?」

その人は答えた:
「私を悩ましたものは殺されてしまっている。即ち、私を取り囲むものは消えてしまった。私の渇望は消えていったし、私は無知からも解放されている」

<17頁>
「私はもう一つの世界の助けにより、世界に離れた。即ち、計画は消されたのだ、より高い計画によって。これ以後は、静寂へ向けて旅をし、そこでは時が時の永遠性の中にある。私はいまや沈黙の中へ行っている。」

これら全てを語った後、マグダラのマリアは黙った。というのは、師が彼女に話したのは、まさに沈黙の中においてだったからである。それから聖アンドレが話し始めて、同士に言った:
「私に話して下さい。彼女が私達に話したこれらの事についてどうお考えですか?
私はというと、師がこのようなことを言ったというのは信じられません。これらの考えは私達が知っているものとはあまりにも異なっている。」

そしてペトロは加えた:
師が私達が無知であるという最も大切なものを女性にこのようなやり方で語るというのは、どうやってありえるだろうか?私達は我々の習慣を変えて、この女性に耳を傾けねばならないのか? 師は本当に彼女を選び、私達よりも彼女を好ましく思ったのだろうか?

<18頁>
それでマグダラのマリアは泣いて彼に答えた:
「同士パウロよ、あなたは何をお考えでしょうか? これは全く私の想像で、私がこのビジョンを作ったと信じておられるのですか? それとも私が私たちの師にすいて嘘をついたりすると信じておられるのですか?」

ここで聖レビは大きな声で話した:
「ペトロよ、あなたはいつも短気で今も女性を否定しているのを見ている。まさに私達の敵対者達がするように。しかし、師が彼女を相応の人とされていたなら、彼女を拒否するというあなたは何者であろうか? 確かに師は彼女をよくご存知だった。私達より以上に彼女を愛されていたので。それ故、私達を償わせ、完全な人にした。そして師は私達の中に根を下ろすことができた。」

私達が求められるように私達を成長させ、福音を広める為、出発させた。復活の証明をされた以外、どのような規則も法も規定しようとすることなしに。

<19頁>
聖レビはこれらの言葉を言ってしまうと、彼らはみんな福音を広める為に出発した。

〜マグダラのマリアによる福音書〜
関連ブログ
マグダラのマリア 黄金伝説より直訳
「イエスが愛した聖女 マグダラのマリア」マービン・マイヤー 日経ナショナル ジオグラフィック社 
「トマスによる福音書」荒井 献 講談社
ユダの福音書(試訳)
「原典 ユダの福音書」日経ナショナルジオグラフィック社
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2006年11月30日

ステンドグラス(朝倉出版)〜メモ

「ステンドグラス」の書評は、こちらを参照。

中世時代におけるステンドグラス芸術の開花は、プラトンやネオプラトニムスの影響として跡づけることができる。ネオプラトニムスの”光の形而上学”は、5世紀にシリアの神秘的な神学思想家偽ディオニシウスによって広められ、その著作が7世紀ののち、ゴシック建築の父たる修道院長シュジェールに、パリ近郊のサン・ドニ修道会協会堂の「きわめて輝かしい窓」を作ることによって「人間の心を照らし、その光によって神の光へと思い至ることができる」ようにという理念を吹き込んだのである。(P6)

19世紀フランスの美術考古学者ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュック。彼は1868年刊行の『辞典』の「ステンドグラス」の項目の中で、中世時代のステンドグラスのすべてに渡って根底に横たわる法則・原理を体系づけようと試みた。
 デュックが主として関心を寄せたのは、光のにじみ(光滲)の現象であった。即ち、透明な色を透過してくる光の視覚的効果であり、この光滲の現象は色によって異なる―ある色では弱まり、ある色では強まり、拡大する―というものであった。
 この現象のもっとも一般的な例は、赤ガラスでは光のにじみが弱まり、青ガラスでは強まり、しばしば青色の占める面積以上の力を集めるという傾向があるという所説によって示されている。黄色は中立的であり、強まるとすれば、それは黄色が赤から青へスペクトルの配列に従って変化した時、即ち濃いオレンジ色から淡いレモン・イエローに色がずれた時だけに限られる。

←アメリカの美術史家ジェームズ・ローザー・ジョンソンはシャルトルのステンドグラスについて徹底した想像力を駆使した研究を行った。彼はヴィオレ・ル・デュックの「原理」を科学的に美学的に試してみて、これらの諸原理というものが、ある程度、事実が理論に辻褄をあわせられるという昔流の悪弊に染まっているということを明らかにした。(P18)

中世のステンドグラス画工のデザインの二つの主要な源泉は「貧しい人々の聖書」と「人間の救済の鏡」(P27)

ステンドグラスに描かれる図像に決定的な影響を与えたのは「黄金伝説」Legenda Aureaであった。これはドミニコ会の修道士でのちのジェノバの司教となったヤコブス・デ・ウォラギネによって1275年頃に編纂された膨大な聖者伝である。これには聖者や使徒の生涯のみならず、聖母マリアの伝説や教会の祝祭日に関する説話が収められていた。これによってデ・ウォラギネは名声を博した。ウィリアム・カクストンの助手の一人ウィンキン・デ・ワーデという名で呼ばれるのを喜んだ男はこれに関して「金が価値において他の金属に勝るがごとく、この伝説は他のあらゆる書物を凌駕する」といった。(P28)

使徒の表徴
・ペトロ…鍵、魚
・アンドレア…斜め十字
・大ヤコブ…巡礼の衣裳
・ヨハネ…蛇の巻きついた聖杯
・トマ…建築家の物差し、ほこ
・小ヤコブ…棍棒
・フィリッポ…司教杖、小さな十字架
・バルトロメウス…皮剥ぎナイフ
・マタイ…財布
・シモン…鋸
・ユダ…ほこ、槍
・マッテア…槍

大天使の表徴
・ミカエル…正義と魂を秤る表徴の剣と天秤
・ガブリエル…百合の花を持ち、救済を告げる
・ラファエル…巡礼の杖、トビトを引き連れて表される
・ウリエル…巻物と書物

黙示録の四つの生き物:福音書記者
・マタイ…有翼の人間の形
・マルコ…有翼の獅子
・ルカ…有翼の雄牛
・ヨハネ…鷲

マリア崇拝が最高潮に達した中世末でさえ、シャルトルほど聖母マリアを崇めたところはない。伝説によれば、最初の大聖堂の建物は紀元前100年頃のドルイド教の洞窟の上に建立され、virgo paritura(子を産んだ処女)に献堂された。聖母マリア自身、ヘブライ語でシャルトルに福音をもたらした殉教者たちに、教会の女王として戴冠することに同意すると書き与えたといわれている。
 シャルトルにおける聖母崇拝は876年シャルルマーニュの孫シャルル禿頭王がこの大聖堂に、キリストが降臨したときにマリアが身に着けていたといわれる上衣(パラディウム)を寄進した頃、9世紀に大きな力を与えられた。この神聖な遺物は「美しき絵ガラスの聖母」とともに、ロマネスクの大聖堂を破壊した1194年の火災を免れた。
 シャルトルの町の人々は、この奇跡を聖母マリアが大聖堂が崩壊するのを許すことによって、より大きく壮麗な大聖堂を建てることを望んでいることを表明し、しかも聖遺物を救うことによって信者たちへの愛を示したしるしと解釈したのであった。


大聖堂が壮麗なゴシック様式で再建されたとき、「美しき絵ガラスの聖母」は内陣周囲の放射状礼拝堂の一つに設置され、いまでは13世紀の天使に囲まれて、大きな窓の中央に収められている。これは7フィートの高さの、膝の上に右手を上げて祝福を与える御児キリストをのせた聖母の坐像である。
 御児は左手に本を持ち、開いた本のページにはイザヤ書からの引用「すべての谷は滅びん」と記されている。
 この中世のガラスの色の透明感は、それ以後には実現できなかったものであり、「美しき絵ガラスの聖母」をかくも傑出せしめているのはこのルビーやバラ色によって際立たせられた、信じがたいような輝く青である。(P64)

窓はシュジェールの計画の主要な要素であった。彼が膨大な記録の中で明らかにしているごとく、彼は光の象徴的精神的意義を深く思慮していたからである。「最も輝かしい窓の驚くべき妨げられることのない光によって満たされる」べき教会堂を立てるにあたって、彼の目的は「人間の心を照らしてその光を通じて神の光の理解へと導かれていかれるようにする」ことであった。
 これを成就せんがために、のちゴシック建築として知られる新しい建築様式の技術的改革に助けを求めた。この新しい技術は大部分の壁の空間にガラスをはめこむことを可能にしたのである。(P68)

『荷馬車の崇拝』:モン・サン・ミッシェルの修道院長の言葉
…「シャルトルの人々は、石材や木材や、小麦やその他新しい教会堂に必要な物資を積んだ荷車を、自分たちの肩に引き具をつけて引張りだした。」(P74)

聖アンナはシャルトルで崇拝されるもう1人の聖者となった。この聖者の頭蓋骨が、十字軍によってコンスタンティノープルから持ち帰られ、シャルトル大聖堂に贈呈されてまもなかったからである。(P74)
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2006年11月08日

トマスによる福音書〜メモ

トマスによる福音書の感想自体は、リンク先はこちらを参照。
ナグ・ハマディ文書に含まれていたコーデックスの一部がオクシリコン・パピルスのアグラファと一致。

 例)「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私を見出すであろう。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 コーデックス:パピルス古写本

 オクシリンコス・パピルス(OP):エジプトのオクシリンコスで発見されていた数多くのギリシア語パピルス
アグラファ:「書かれざる言葉」の意。専門語としては「新約聖書にかかれていないイエスの言葉」、「未知のイエスの言葉」の意に用いられる

 カートナージ(cartonnnarge): 各写本のカバーを補強するためにその裏側に張られている厚紙表装。これには日付のついた手紙や領収書などの反故紙が用いられており、写本作成の年代決定上重要なもの。


トマス福音書はマニ教徒間に流布していてギリシア教父からはマニ教徒による偽作として批判されたが、これは正しくない。元々、存在していたトマス福音書をグノーシス主義のマニ教が採用したということらしい。
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 マニ教:
三世紀中葉、マニによってペルシアで創始され、マニの殉教後、後継者たちによる布教活動によって西方では既に四世紀にシリア・小アジア・北アフリカさらにはローマ帝国西方のほぼ全域で最盛期を迎えた。
 他方、東方ではペルシアからシルクロードに沿って中国に伝播、七、八世紀には中国の皇帝にまで迎えられてかなりの隆盛を誇ったが、その後、歴代の皇帝によって弾圧され、ネストリウス派のキリスト教(景教)、仏教、さらには道教と習合しつつ、農民一揆のイデオロギーとして生き延びるが、十四、五世紀にはマニ教としての同一性を失っている。

 マニ教の教義:
宇宙は光と闇、善と悪、これら二領域の闘争の場であるが、終局的には光の使者が闇の悪魔に勝利する。 人間は光の本質を内に宿しつつも、闇に由来する物質に疎外されてその本質を忘却し、肉欲の虜となっているが、光の使者の「福音」により自らの本質を覚知し、物質への抗いとして禁欲に生きれば、終末の時に光の領域へと救出されるであろう。

【想定されるトマス福音書のシリア語原本(仮説)】

1)シリア語トマス福音書原本(場所:エデッサ)→OPを含むギリシア語トマス福音書(オクシリンコス)
2)シリア語トマス福音書原本(場所:エデッサ)→ギリシア語トマス福音書(場所:?)→コプト語トマス福音書(場所:ナグ・ハマディ)

【エデッサにおけるキリスト教受容の伝説】
〜3世紀にシリアで成立した「アッダイの教え」による〜

エデッサ王アブガル五世の廷臣の一人がイエスの奇蹟的医療事業を目撃してその旨を王に伝えると、持病の痛風を患う王はイエスの往診を乞う書状をつかわしたが、この世での生涯の終わりが近いことを意識していたイエスは、自分の死後弟子の一人を代わりに派遣することを約した。
 かくしてユダ・トマスによって遣わされた使徒アッダイ(十二使徒の一人「タダイ」)がエデッサに到着し、病を癒された王はイエスを信じ、廷臣をはじめとして市民の大多数がキリスト教に帰依したという。
 また、王の書状を携えてパレスチナを再訪した書記は画筆もよくしたので、イエスと会見した際にイエスの肖像画をも描きあげて詳細なイエス言行録とともにエデッサに持ち帰った。
マンディリヨン、聖骸布へつながる(小説:聖骸布血盟)
【正統的教会とユダヤ人キリスト教】

ペテロはヘロデによる迫害・投獄から救出後、エルサレム教会の指導権をイエスの弟ヤコブに譲渡して別の所へ向かう。
 ペトロの権威のもとに形成された正統的教会(初期カトリシズム)と並んで「傍系」に属する「ユダヤ人キリスト教」が存在した。
 ユダヤ人キリスト教徒は自らの伝承を「ペテロ」の名によってではなく、イエスの「ヤコブ」の名によって権威付けていた。このヤコブ伝承がユダヤ人キリスト教の「外典」を介してトマス福音書をはじめとするグノーシス諸文書にも部分的に認められる。
この対立がしばしば歴史的事実として採り上げられている。
【二資料仮説・・・共観福音書問題】

 マタイとルカは主としてイエスの業についてはマルコ福音書を、主としてイエスの言葉についてはQ(マタイとルカが共通して用いたイエスの伝承。―――「資料」を意味するドイツ語Quelleの頭文字をとってQとよぶ)をそれぞれ資料とし、これらの二資料にマタイの場合はマタイに特殊な資料(マタイ特殊資料)、ルカの場合はルカ特殊資料を併用して各々が「福音書」を著した。
 第二に重要な事柄は福音書の「編集史」的研究の成果である。即ち、福音書記者はイエスに関する伝承資料(マタイとルカの場合は主としてマルコ福音書とQ)を没個性的に収集して「福音書」を著したのではなく、これらの資料に、記者に固有な思想的視点と社会的立場から編集の手を加え、各々に独自なイエス・キリスト像を描き出した、ということである。従って、われわれは現在、各福音書本文の中において福音書記者が資料から採用した部分(伝承句)と、それに編集の手を加えた部分(編集句)とを、比較的容易に区別することができるのである。

グノーシス主義の立場:
人間の本来的自己と、宇宙を否定的に越えた究極的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという「認識」(ギシリア語の「グノーシス」)を救済とみなす宗教思想

無制限に「聖文書」を拡大するグノーシス派←正統的教会では、「聖書」諸文書の数を限定する必要に迫られた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
グノーシス派の場合、啓示内容(伝承)の伝え手は彼(または彼女)が啓示者によってその資質が認められ、選ばれれた者であるならば、十二使徒やパウロに限定されはせず、原則的には、彼(彼女)は無制限に拡大されたのである。だからこそ、秘教の伝え手はグノーシス諸派の創始者でもありえたのである。

(具体例)
 グノーシス派の場合、人間の「救わるべき」本質は女性と表現されていた。ここから当時正統的教会にあって「娼婦」とみなされていたマグダラのマリアにペテロを批判的に超える最高の地位が与えられ(「トマス福音書」「ピリポ福音書」など)、イエスから直接彼女に、しかも秘かに啓示された内容を伝える福音書(「ピスティス・ソフィア」)、あるいは彼女の名による福音書(「マリア福音書」)が著される。また、啓示の超越性と直接性を確保する為に、グノーシス派の福音書はしばしば、その内容が地上のイエスによってではなく、復活のキリストによって啓示されたという文学形式によって伝えられている(「ピスティス・ソフィア」「ヨハネのアポクリュフォン」など)。
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2006年11月05日

ゴシックということ〜資料メモ

先日読んだ「ゴシックということ」前川 道郎 学芸出版社から、今後の役に立つ情報をメモメモ。最近、本を一読しただけではなかなか記憶に残らないので、実は以下の部分をノートに手書きのうえ、更に備忘録用にブログにも載せておく。
建築の本質は空間にある。形態はそれ自体が建築造形の目的ではなく、空間構成の手段である。(P44)

最初のゴシック建築を生み出したサン・ドニ修道院のシュジェが<光の壁>(=ステンドグラス)を実現させた思想的背景にあったもの←「ディオニュシオス偽書」の光の形而上学(P36)
そもそもこの偽書がサン・ドニ修道院の書庫にあり、幼くして修道院に預けられていたシュジェは当然、その本を読んで成長したらしい。「三つ子の魂百まで」ではないが、小さい時に刷り込まれた記憶は、一生ついて回るものらしい。
教会堂は新約聖書の黙示録などに記された天のエルサレムを模造した芸術であるという。モデルは同一でも、そのモデルのいかなる特性を再現するかによって建築様式は変化したという。
初期キリスト教建築はローマの都市の内部空間化によって天の都の<都市性>を再現したが、ゴシック建築は天の都の<光性>を再現したのだという。〜ハンス・ゼードルマイアより〜(P37)
中世の写本で何度かエルサレムが出てくる写真を見たことがあるが、この事を意味していたのだと今更ながらに理解しました。ほお〜、こういうことだったんですね。ちなみに初期キリスト教建築とは、バシリカ式のやつです。
ゴシックの「聖堂は二重の空間的意味を持つことが明らかとなった。聖堂の正面が神の世界そのものの地上的顕現として、それ自身聖なる空間sacred space である聖堂への玄関であるとともに、また聖堂それ自身が神の国なる究極的に聖なる空間holy space に至る門、通路、すなわち地上の世界と天井の世界をつなぐきずなであるということである。
 しかも地上的顕現としての聖なる空間はそれが天井の究極的に聖なるものultimately holy に参与しているがゆえにそれが究極的に聖なるものの力にあずかることができて、みずから聖sacred(holyといってもよい)となるのであり、そのゆえに、この二重の空間的意味が合一するのである。
 換言すれば、聖堂に対する事務的な玄関としての西正面はまた、聖堂全体が天の門であることを象徴するところの天の門であるということである。」〜「ゴシックと建築空間」より〜(P44)
『西』という方角に対して特別な意義付けがあるのは、キリスト教でも仏教でも同じらしい。仏教に極楽浄土として『西方浄土』があるが、キリスト教でも西が天の門なんだね。ふむふむ。イスラム教ではどうなんだろう?
サン・ドニ修道院長シュジェ(シュジェール)の言葉:
汝が何者であれ、汝が扉の栄光を讃えんと望むならば、その黄金と費用とではなく、この作品の技巧に驚け。高貴なる作品は輝かしい。しかし高貴に輝くことによって、作品は人々の心を照らすのである。
 心がもろもろの光の中を通って旅するように、キリストがまことの扉なる<まことの光>に向かって。
 それがいかようにこの世に存在するかを、黄金の扉は規定する。愚鈍なる心は、物質的なものを通して真理に昇り、この光を見ることにおいて、これまでの転落状態から救われる。(P90)

パノフスキーによる『偽書』の光の形而上学の要約:
ディオニュシオス偽書によれば、宇宙はプロティノスが一者とよび、聖書が主とよび、そして彼が超本質的な光あるいは不可視の太陽とよぶところのものの永遠なる自己実現によって創造されたものあり、父なる神を<光の父>といい、キリストを父を世界に啓示した<最初の放射>という。
 そして知解可能な最高純粋な(叡智の)世界と最低のほとんど物質的ともいうべき世界との間には大きな距離があるが、そこには超えない裂け目はない。位階秩序(ヒエラルキー)はあるが、二分法はない。なぜなら、創造されたものはもっとも低いものでもなんらかの神の本質に参与しているからである。
 従って、人間は感覚的な知覚や感覚によって制御される想像力に頼ることを恥じる必要はない。物理的な世界に背を向けるのではなく、それを吸収するによってそれを超えることを望みうるのである。
 「人の心は物質的なものの手引きによってのみ、物質的でないところのものに上昇しうる」予言者にとってさえも、神と天使はなんらかの可視的形式においてのみ現れることができたのである。そしてあらゆる可視物は知解できる(叡智の)光、究極的には神性それ自身なる<まことの光>を映し出すところの物質的な光であるがゆえにこそ、このことが可能なのである。眼に見えるものあれ、見えないものであれ、あらゆる被造物は<光の父>によってもららされた一つの光である。こうして物質的宇宙自体は無数の小さな光からなる一つの大きな光になる。人工のものであれ、自然のものであれ、知覚可能な事物は知覚不能なもののシンボルになる、天の踏み石になる。人間の心は地上の美の規範である<調和と放射>に没頭して、神であるこの<調和と放射>なる超越的動因へ向かって導きあげられるのである。 (P44)
実に興味深いです。教会堂を光り輝かせることに熱心なのは、単なる俗物根性で美しくしているだけだとしか思っていなかった私には、結構衝撃が大きかったです。まさに目から鱗です、ホント!

勿論、ひたすら富や権力を求め、その結果として豪奢で華美に走っている場合も多々あるのでしょうが、中世の教会においてあれほどまでにゴシック聖堂が建てられた理由の一つとして、これは非常に大きいと思います。だからこそ、民衆のマリア崇拝の熱狂とともに、真摯な姿勢で聖職者もそれに拍車をかけた理由の一旦を初めてしったような気がしました。

本書の中には、スコラ哲学との絡みで説明もありますので、それはおいおいメモしていきます。いやあ〜実に興味深いです。ただ単にステンドグラスを観た際の感動もこういうことを知っていると何倍も感慨が増しそうです(笑顔)。

以下、追加メモ
#########################
ゴシック聖堂におけるラビリントそのものの本来の目的ははっきりしないが、一般には<エルサレムへの道>を描いたものであって信者が巡礼者に擬して、あるいはゴルゴタの丘に向かってイエスの受難の道の追体験としてひざまづいて迷路の道をたどったとする見解が広まっている。
 後年にこのように用いられたのは事実であろうが、その起源としてこの見解を支持する資料は見当たらないようである。むしろそれは、伝説的な建築家技術者ダイダロスの作とされているクレタ島のクノッスス宮殿の怪牛ミノタウロスを閉じ込めるべく建設されたといわれている<迷宮>にちなんで命名されたと考えられ、したがって大聖堂を建設した建築工匠たちを讃える記念碑的意義を読み取ることができるものである。(P107)
シャルトルのラビリンス上には椅子があって、写真では良く撮れず、ラビリンスの絵葉書を購入したが、ゴシック聖堂を生み出したMAGIとでも呼べるような建築家の権威を改めて感じさせます。ラビリンスの中央には、建築家の名前が残っているものもあるそうです。

ゴシックの古典:ハンス・ヤンツェンによる
シャルトル(1194年着工)、ランス(1211年着工)、アミアン(1220年着工) (P123)

ゼードルマイアはステンドグラスという素材を宝石と同価・同意であると解釈した。宝石類は「ヨハネの黙示録」に記述されているように、天上のエルサレムの聖なる建築材料であった。そして中世には、宝石は自らの内から光を発して輝く、と考えられたという。つまり、ゴシック聖堂は<自ら>光る壁によって囲まれた空間である、ということである。(P174)

スコラ学とは中世の学校(スコラ)で講じていた学者たちによって、ついには壮大な体系にまで建て挙げられた哲学的・神学的な学問体系であり、ギリシア哲学にのっとって、信仰と理性の、すなわち権威と理性の調和を求めて神学と哲学の和合を成就しようと試みた思索と論理である。
本書では、これを踏まえてスコラ学的視点からゴシック建築を解釈する種々の学説も紹介され、それら学説間の関係も説明されています。諸説入り乱れてなかなか理解が大変なのは事実ですが、本書を読むことで次にどの本を読むべきか大いに参考になります。

しかし、知れば知るほど本当に奥が深いゴシック建築です。直感的な体験と論理的思索の両方を存分に楽しめるのがなんといっても魅力ですね!
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2006年09月18日

読書予定メモ

今後、読もうと思っている本だけど、一応ざっと内容をチェックしたのでメモ。

「幻想の中世」ユルギス バルトルシャイティス 平凡社(元はリブロポートで出版されたもの)

中世の写本やゴシック建築の彫刻やステンドグラスに現れる図像に関する本。基本的なキリスト教に固有な図像解釈とは異なり、むしろ異質な図像の方に注目してそれらの解釈を行っている。

エミール・マールのような正統派的なものとは違う感じがします。こういったものへの理解も深めることでより多角的に中世の図像が見れるのかなあ〜という気もしますが、さてさてどんなもんでしょうか?

ある種、特殊な感じもしますが、著者の中世美術界における位置付けが知りたいものです。ちょっと見た感じでは、それほど面白そうな本ではなかったような・・・? きちんと読んでないので感想は後日。

幻想の中世〈1〉ゴシック美術における古代と異国趣味(amazonリンク)
幻想の中世〈2〉ゴシック美術における古代と異国趣味(amazonリンク)

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「イタリアの初期キリスト教聖堂」香山 寿夫 丸善

4世紀から6世紀にかけて立てられたのイタリアのキリスト教聖堂を取り上げたもの。写真は、まあ普通。文集もちょっと見た感じでは、普通。特に特徴もなく、正直あまり興味をそそられない。読者としてのターゲットとしてはどこを狙っているのか不明?

写真は綺麗なものもあるんだけど、全体としてはイマイチ感がぬぐえず、わざわざ文章を読むほどの価値があるのか、疑問に思っている段階。読めばすぐに読み終わる程度の本にしか思えないのだが・・・。

機会があれば、読んでみようかとも思うが他に読むべき本がたくさんあるので読まないで終わりそう。まあ、写真は全てチェックしたので一応メモ。
【目次】
サンタ・コンスタンツァ(ローマ)
サンタ・サビーナ(ローマ)
ラテラノ洗礼堂(ローマ)
サント・ステファノ・ロトンド(ローマ)
サンタ・マリア・マッジョーレ(ローマ)
サンタ・マリア・イン・トランステヴェレ(ローマ)
サン・クレメンテ(ローマ)
サンタ・マリア・イン・コスメディン(ローマ)
サン・パウロ・フォリ・レ・ムーラ(ローマ)
サン・ロレンツォ・マッジョーレ(ミラノ)〔ほか〕
イタリアの初期キリスト教聖堂―静かなる空間の輝き(amazonリンク)
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2006年09月11日

シュジェール ゴシック建築の誕生 森洋〜「SD4」1965年4月より抜粋

「SD4」1965年4月 特集・フランスのゴシック芸術より抜粋。 

###############################
シュジェール ゴシック建築の誕生 森洋

《もしも我らガリア(フランス)の教会のなかに、大いなる主(神)の大いなる家の、名誉の器たるものがあるとすれば、又もし主の帝国のために力をつくす忠実なタヴィデたるものがあるとすれば、私の判断ではそのものこそ尊ぷべきサン・ドニ修道院長シュジエールその人でありましょう。私はこの人物をよく知っていますが、俗世のことどもに忠実で慎重である一方、霊的なことどもにも熱心で謙虚であり、聖俗両面にかかわりあって−このことは誠に困難なことなのですが−何らの非難もうけずにすごしています。》

 これはシュジエール(1081−1151)について、聖ベルナール(1090−1153)が、その弟子である教皇エウゲニウス3世(1145−1153)宛に書いた推薦状の一節である。12世紀中葉のあらゆる教会事件に関係をもつとさえ言われる聖ベルナールのこの言葉から、われわれは当時のシュジュールの一般的な評価を汲みとることが出来よう。事実この時期のシュジエールの存在は極めて大きい。特に19世紀の歴史家たちが、ルイ6世(1108−1137)を、フランス統一の促進者、コンミューヌ都市の解放者としてきわ立たせようと努力した際に、この国の助言者であり、伝記《ルイ6世伝》の著者であるシュジュールに、殆んど超人的なイマージを与えてしまった.このことは、シュジュール自身が、その死後、伝記作者として、伝記よりはむしろ頌辞のみを書いた弟子ギヨームを有していたことにもよるが、19世紀の歴史家たちが描き出した像は、20世紀に入ってから、それに付け加えられた多少の修正はあっても、今日依然としてその基本線をくずしてはいない。それらを要約すると、シュジエールは、修道院長としては、破綻にひんしていた修道院財政を建てなおし、腐敗していた修道院の規律を正し、こうして生じた財源をもって、修道院付属教会堂をゴティック様式に改築した。彼はこの改築工事によって、ゴティック様式建築の祖であるのみならず、そのガラス絵によって、ゴティック・イコノグラフィーの祖である。サン・ドニのフランス大年代紀編纂事業が、彼の《ルイ6世》伝にさかのばる所より、フランス歴史学の祖であり、また修道院に残る写本類によって判断すれば、ゴティック書体の祖でもあり得る。多くの対立点があるにもかかわらず、彼は修道院改革を通じてエトー派の聖ベルナールと親しく、またクリュニー修道院長ピエール・ル・ヴェネラブル(1094−1156)とも疎遠ではなかった。彼は生れは卑しかったが、サン・ドニの分院レストレで、未来のルイ6世の学友となり、以後王の側近として、殆んどすべての重大事に参画した。特に叙任権闘争の結果、一時フランスに逃避した教皇パスカリス2世(1099−1118)に随行して以来、しばしば王の使節として各地の公会議やローマにおもむき、以後エウゲネス3世にいたるまで、8代の教皇の知遇を得た。彼はまた各地の司教、大司教、あるいはシャムパーニュ伯ティボー、アンジュー伯ノルマンディ侯にして、後に
イギリス王となったへンリー1世、シチリア王ロジェ2世等とも親しく、しばしば彼ら相互問あるいは王と彼らとの紛争を調停し、《平和の帯》と呼ばれた(ギヨーム)。またルイ6世はその子ルイ7世(1137−1180)の教育を彼にゆだねたが、後にルイ7世の十字軍出征中(1147ー1149)は、摂政に選ばれ、その間の功績の故に、《祖国の父と呼ばれた》(ギヨーム)。

 こうしたシュジュール像は、一見して明らかに偏平な印象を与える。このことは、この像を描く場合に、.その史料の大部分を、ギヨームの伝記と、シュジエール自身の手になる《ルイ6世伝》、更に彼が修道院長として行なった事柄を自らの手で記録した《その統治中になされた事どもに関する書》(以下《統治記》)及び《サン・ドニ教会の献堂に関する書》(以下《献堂記》)によらざるを得ないための偏りとも考えられる。12世紀前半に、これだけの史料によって裏付けられる人物はそう多くはなく、更にその所与を一層客観化する史料が極度に乏しいのも事実であるが、われわれはもう少し幅ひろく当時
の社会を視野にとり入れることによって、多少はこの像に奥行を与え得るのではないかと思う。

12世紀の前半は、一般に《王様の覚醒》の時期といわれている。このことは、987年に一種のクーデタによって《フランス》王位についたカベー家が、その優位が他の領邦諸侯にくらべて相対的なものでしかなかったこと、その時から12世紀にいたる間の《王権》が、当時唯一の知識階級であった教会人の間以外では、単なる理念でしかなかったことを示している。こうしたカペー王の存在が、12世紀前半にいたって、急速に実効性をもち始める筈がない。今日の研究段階からその実体を要約すれば、理念的には現在のフランス全領域の王であるフランス王は、実質的にはパリを中心とするイル・ド・フランスの領邦主であり、この狭義のフランスはその内部に多数の反抗的な小領邦主を含んでいた。ルイ6世が王位についた1108年頃の実状は、王直轄領の大部分が集中していたパリ =エタンプ=オルレアンの間を王が安全には通行出来ない程度であった。12世紀前半とは、こうした社会を規制する力として、封建法の秩序が、次第にドミナントなものになっていく時期である。

 こうした情勢は、程度の差こそあれ、シャムパーニュ、ブルゴーニュといった領邦にもあてはまることである。しかしそれらの領邦主と王との相違は、前者の領邦内の人的関係を封建法的にかため、あるいは婚姻その他の手段で領邦を拡張した場合にも、領邦主として優位に立つにすぎないが、後者の場合に同様の操作は、領邦主としての王の優越性を約束する点である。この倒錯した論理は、シュジュールによって現実に利用された論理であった。

 これに対して教会の世界は、ローマ帝国ゆずりの組織と法とを受けつぎ、さらにそれを現実に適応させる努力をおしまなかった。従って問題は、その組織を生かす人物であるが、9、10、11世紀を通じて聖職売買(シモニー)や聖職者婚姻(ニコライスム)が絶えず、特に高位聖職者には必ずしも適任者を得なかった.

 こうした現象は一面ではメロヴィィンガ朝以来累積されてきた莫大な教会財産の存在が招来したものでもある.財産管理は当然俗権的な才幹を要求するし、また中世を通じての各職務には必ず裁判権を伴なうと云う原則は、それが高級裁判権である場合に《教会は血を欲せず》という鉄則と衝突した。こうして教会領の多くは、聖職者の名によって裁判権を行使し得る俗人の管理にゆだねられざるを得ず、それらの俗人は社会一般の、いわゆる公権の私有化の風潮の下にそれぞれ事実上の独立をかちとっていき、併行して教会そのものにも席敗をもたらした.11世紀後半のグレゴリクス教皇の教会改革がしばしば凄惨な闘争に発展したのは、こうした歴史的背景によるものである.

 修道院については、サン・ドニニのごとく自主的な起源をもち、王の認可でさえも7世紀にさかのぽり得る存在は、ベネテイクトウス戒律が適用されているという理由のみで一応はベネディタト派と呼ばれてはいるが、それらは、グレゴリウスの改革の呼び水ともなったクリュニー修道会(10世紀に成立)や、更にクリュニー会に対抗する意味で11世紀に成立したシトー会のようなまとまりを持っていたわけではない。しかもクリュニー会もシト一会もともに、ベネディクトウス成律の厳格な適用を叫びながら成立したことこそ、当時の修道院一般の腐敗の程度を物語るものである。特にサン・ドニの場合、7世紀のタゴベルトゥス王以後、王の墓所の格式を誇り、同王の奉献をはじめ、歴代諸王の寄進が累積していたから、その財産は莫大なものであり、しかもその所領は、俗人代官(アドヴォカトウス)の管理に、ひいては彼らの私有化にゆだねられていたのである。

 教会の一般的な腐敗現象は、必ずしもグレゴリクスの改革で一掃されたとはいえず、特に聖職者の俗権移住の問題は、フランスの場合に12世紀を通じての課題になるが、しかも教会には、在俗教会であれ修道院であれ、一つの利点があった。12世紀の一般社会では、すでに生れによる階層がほぼ確立していて、下層から上層に上がる機会は絶無に近い。一方教会は、不自由・半自由身分のものはこれを峻拒したが、自由人である限り、能力に応じてその階層を上がらせるという原則を変えたことがない。司教や修道院長の職は、その地方の名門の子弟によって占められる傾向は著るしいが、しかも12世紀後半、ルイ7世の治世を通じて、来歴がつきとめられる高位聖職者は半数以下であり、その数の中には、パリのノートル・タムの建設者たる司教モーリス・ド・シュリー(1160−1196)等のように、生れが卑しいと記録されているものも2、3にとどまらない。下層の能力あるものにとって教会は当時の唯一の登竜門であること、また封建法によって高貴であるとみなされるものが、封をもつもの、即ちそれによって完全武装し、年間40日間の従軍に耐えるものに限られていた当時に、唯一の文官供給源は教会・修道院以外に存在し得なかった事実こそは、銘記さるべきである。

 シュジエールは自らも《ルイ6世伝》に記し、ギヨームもそれを裏書きしているように卑しい生れである。生地はパリとサン・ドニの中間にあたるアルジャントゥイユで、その父の名をユリナンといった.兄弟達の名も諸種の紀録に散見しているから、彼の生れは一部で云われていたような農奴身分ではなかったと思われる。彼がサン・ドニに入れられたのは10歳(1091)の時であるから、最初から自から悼むところがあったとは考えられないが、1094年から1104年の間未来のルイ6世の学友であった事実、更に1104年にはすでにその宮廷に招かれている事実等はその少青年期の資質を物語っている.彼は生涯を通じてやせており、背が低く、酒をのまず少食でしかも精力的であった。この外貌はある種の秀才のタイブを想起させる。彼は修道士たちの切なるすすめがあったとはいえ、自らの事績を相当の誇りをもって文字に書き残した。また彼は、後に教会堂の祭基部を改築した時に、教会長軸上の放射状祭室の受胎告知の図の中に、聖母の足下にひれふした姿でではあるが、自らの肖像と、《Sugerus abbas》(修道院長シュジュール)の銘を入れさせた(P.68写真参照)。これらは12世紀当時にあっては常識外のことともいえ、いずれも彼が相当の野心家または見栄坊であった事を物語っている。一言にしていえば彼は当時の下層生れの秀才の野心家が恐らくは誰でも考えたであろうように、最も手近かな修道院で典型的な出世コースを歩み出したのである.

 修道士としてのシュジュールは、多くの時間を修道院の文書庫で過ごした.そこには、修道院の、即ち聖者ドニの所有を証明する多くの文書や、不入権(インムニタス)文書があり、それらの所有の多くは、災厄のために事実の証明が困難になっていた(統治記)。彼はそれらの文書を整理しながら、一方では修道院の全財産を頭に入れ、一方では、慣習法しか一般に通用しなかった当時の法知識や法実務を学んだのであろう。他方彼は図書館でも時をすごし、聖書、教父やラテン古典文学一役は特にホラテイウスを愛した−を学んだが、その面での彼の教養は、その著書から判断して、当時といえども決して一流のものとは考えられない.

 法実務の面での彼の手腕は、修道院長アダムによって高く評価されたようである。シュジュールの最初の役職は、ノルマンディのベルヌヴァルの修道院荘園の代官(プレヴォ)であった。これは1107年、彼が27才の時である.この荘園は当時修道院からは永く放置されて荒廃し、しかもノルマンディ侯(イギリス王)へンリー1世の会計官(エシキエ)の手がのびて、ここから重税をとりたてていた。シュジュールの文書庫がよいは早速役に立ち、彼は文書にもとずいて、へンリー1世の巡回裁判官に訴訟をおこし、修道院の属する地域であるイル・ド・フランス慣習法と、ノルマンディ慣習法の相違という困難にうちかって、勝訴に導いた.ついで彼はその経営を改良し、修道院に多くの収入をもたらすようにした。

 この成功によって彼はついで1109年にトゥリー・アン・ボースの代官(プレヴォ)の地位を与えられた。この荘園はパリ王オルレアンの公道に接し、《サン・ドニの有名なしかも他の荘園の頭である》(統治記)所領であった。この公道ぞいの王の直領地と同じ災厄がこのトゥリーにもふりかかっていた。即ちピユイゼ城主ユーグの掠奪放火等々の行為である。この城主の行動はすでに1108年以来多数の訴えが王のもとに寄せられていたので、シュジュールは一種の聖戦の名目で、王の軍隊を動かすことに成功した.ビユイゼ城の包囲攻撃は困難をきわめ、その櫓(ドンジョン)が炎上して城がおちた時にはルイ6世はこれを奇蹟とまで呼んだ。ユーグが決定的に屈服したのは1118年のことである。シュジュールは1118年からこの荒廃した荘園の経営改善にのり出し、特に駐屯兵をおき、金曜日の市を新設し、この市は栄えた.

 修道院長に就任した後も、彼はこうした所領の回復とその経営改善の手をやすめず、ために修道院の収入は《2倍あるいは4倍した(統治記)》。所領の回復については、サン・ドニの所領がたまたま王領と併行して存在する場合が多いために、王の力を借りることが多かった。この事は容易そうにみえて、実は相当の外交的手腕を必要とする。何となれば、同じくパリ周辺に多くの修道院領を擁していたサン・ジェルマン・デ・プレ修道院は、その所領維持に、その手を借りることはできなかったからである。経営改良法は彼の場合に一つの典型的な様式をとる。第1に彼はそこにのびている他の俗権の手をたち切り、可能な限り 《不正な》慣習的貢納を廃止する。修道院長イヴ(1071−1094)が制定したといわれるマンモルト(主として農奴にかかる遺産相続税)の廃止が新規入植者の誘致を容易にした。第2に有輪犂を適当に配給し、穀倉を建てる。第3に城を建てるか、あるいは他の防衛施設をもうける。この方式は、この当時から次第に盛んになり、恐らくシュジュールがそれを行なった最初の1人であろう所の、新規開墾荘園(ヴィル・ヌーヴ、ヴオークレソン)において特に顕著である。穀倉中心の生産物管理、生産の合理化、そして生産物地代(サンス)に主力をそそぐ収入増、これらは必ずしもシュジュールにのみイニシアティヴを帰し得ないにせよ、フランスではその後次第に一般化していく経営法である。こうして得られた収入増は、169所領中
のあるものは10倍にも達し、平均すれば彼自身がいうように《2倍または4倍》 したであろう。その財源は、まず修道士の給養、病人の保養、貧者等へのほどこしにむけられ、ついで、新しい教会堂の建設資金となり、最後にルイ7世もそれに加わった第2回十字軍、その崩滅後の新十字軍(実現せず)の費用にあてられた。

 修道院長という名の聖職者として、彼がまず直面した問題は、修道院改革の問題である。1122年に彼が前任者アダムの後をついだ時のサン・ドニの腐敗は、特に聖ベルナールの目からみて、看過し得ないものがあった。《修道院内は、戦争屋と事件屋で一杯である。広間は子供たちが遊ぶ叫び声でがんがんしている.より悪いことには、婦人の出入すらも厳格にはとりしまられていない》と彼は1125年に書いた。その騒々しさは、当時ここの修道士であったアベラールを逃亡せしめたくらいであった。シュジエールは聖ベルナール等の要請によって、改革に着手した。しかしそれは、就任後5年目の1197年のことである。教皇イノケンティウス2世や聖ベルナールの衷心からの祝辞をうけたこの改革も、当時の《修道院改革》の常識からはいささか外れたものといえる。何となれば、それと併行して彼は、修道士の給養を良くし、祭室の石造の椅子を木製に改めた。《健康こそは修道士の第一の資格》(統治記)だからである。また彼は、時として徹夜で自分の見聞を修道士たちに語ってきかせた。これはシトー会等の沈黙や日課の厳律からは想像もできないことである。また彼は、その著書の引用からみて、聖アウグステイヌスの愛読者であったにもかかわらず、また当時の《改革》の風潮は、もしそれを彼が欲しさえすれば彼にそれを許したにもかかわらず、聖アウグステイヌスの戒律の適用を避けて、依然として聖ベネディタトクスの戒律にとどまった.こうした所に、彼の極度に実際的な性格が顔を出している。

 従って聖職者としての彼は、神学上の論争に一回も登場していない。このことは有名なアベラールの事件の場合にも同様である。アベラールが、サン・ドニ修道院は、修道院らが主張するごとくに、ガリアの初代殉教者にして使徒パウロの弟子、ディオニシウス(ドニ)・アレオバギータの創建によるものではないという捨てぜりふを残して修道院を去った際も、その後l122年に彼が異端問題を起こし、その身柄をサン・ドニが引きとるべきか杏かが問題になった際にも、彼が他の修道院に入らないという誓約を破って、サン・ジルダ修道院長になった時にも、彼がパリのサント・ジュヌヴィエーヴにまいもどって教鞭をとった際にも、最後に1140年にサンス公会議が彼の説を決定的に異端と断じた時にも、シュジュールはこの元サン・ドニ修道士に対して指一本動かさなかった。この点、アベラールに最後の隠れ家を与えた、ビエール・ル・ヴェネラブルの識見に、彼は及ぶべくもないのである。

 彼はしばしばローマに赴き、あるいは公会議に出席した。しかしこれは終始王の大使、王の代弁者としてであった。その間に彼は、フランス王と教皇との伝統的な同盟関係をより緊密なものとすることに成功した。しかし彼の立場は、王の宮廷に出入しながら、絶えず教会の利害を説き続けた聖ベルナールのそれとは反対に、こうすることが、ドイツ皇帝の轍をふまずに、王権の理念を理解する唯一の世界である教会を味方につける近道であると判断したからである。事実彼は、教会の俗権叙任の問題に関して、徹底的に王の側に立ち続けた。1122年、彼がローマに使節として赴いた帰途、前修道院長アダムの死と、彼が後任に当選したことが伝えられた際にも、彼はその選挙が、当時の慣習法に反して、王の許可なしに行なわれたために予想される、王の怒りをおそれ、教皇に仲裁を依頼した。同様に彼は当時の慣習法である、司教・修道院長空位期間中、王がその教会財産に対して行使する用益権(レガリア)を、一度も否認しなかったし、ルイ7世が十字軍に出征中の摂政としての彼は、積極的にシャルトル(1149)からこれを取り立てさえした。こうして彼は王が聖地で作った莫大な借金を返済し、しかも王の帰還の直前には、書面で《陛下の土地も人も、裁判収入も、封建的収入も、収入はすべて保全されています》と報告し得たのである。

 シュジエールの王に対する忠誠は、少年期以来サン・ドニ修道院でつちかわれてきたものともいえようが、それ以上に封建的義務感に支えられていたように思われる。封を媒介とする主君と封筐の関係は、当時にあっては多岐を極め、サン・ドニと王との間でも、ある封については後者が前者の主君であり、他の封については、後述するヴェクサンの場合のように、その反対である。この関係は封臣に、主君の宮廷で助言を義務づける。従って、もしシュジュールが法実務家として、より劣った能力の持主であったならば、その生涯は、彼の親友たるソアッソン司教ジョスラン(1126−1152)のように、宮廷の文書局長くらいで終わったかも知れない。彼はその有能さの故に、宮廷文官のフリーランサーとしての活躍を課せられ、その義務を裏切らなかったのである。後は更にこの封建関係を活用した。1124年、ドイツ皇帝やイギリス王の連合軍がフランスに侵入しようとした時、ルイ6世はサン・ドニに赴き、サン・ドニの封であり、《もし王でなかったならば、サン・ドニに臣従礼(オマージュ)を行なったであろう》 ヴェクサン伯領の旗を受けて、これによってフランス軍を導こうとした(ルイ6世伝、統治記)。この時から、王が出征に際して、ヴェクサンの旗をサン・ドニから受ける慣習と、王が封臣である場合には、如何なる封についても、彼が王である限りは臣従礼を行なわない慣習が生まれ、いずれも14世紀まで維持されたのである。封建法を極限まで利用して行なわれたこの演出は、次第に王とサン・ドニ修道院の地位を、封建法を越えて高めることになった。

 このエピソードは、シュジエールの基本的な性格を最もよく示すものではないかと思われる。彼は徹底的に実際家であった。従って与えられた現実を、ほとんど無条件に肯定し、これに変更を加えることを欲しかった。唯彼の実務家としての頭脳は、いくつかの現実を組み合わせて、最善の解決を導き出す演出法を心得ていためである。

 1137年から1143年までの間、彼は宮廷から遠ざかっていた。サン・ドニ教会堂の改築部分が完成したのは、正にこの期間中である。この改築が、各地のさまぎまな建築要素の総合を、しかもそのほとんど唯一の合理的解決法を示すものであることはあまりにも知られている。しかし彼は《献堂地》の中で、各部分につけた銘文(そのいずれにも自分の名が入っている)を書き残し、それらを通じて神学的な理由づけを行なおうとした.しかしその思想は、この修道院の創設者ディオニシウスのものと当時信ぜられていた《上昇の方法》と呼ばれる神秘主義や、アウグスティヌスの神都論や、光の形而上学等
の、彼なりの総合にすぎない。ガラス絵のイコノグラフィにもわれわれは同様な現象を指摘し得る。ここでも彼は、実際的な演出者であったのである.冒頭にかかげた聖ベルナールの言葉の中には、理想家であるがゆえに絶えず紛争をまきおこし、また紛争をおこすことによってしか事柄を解決し得なかった彼の、自分自身は神から与えられなかった資質に対する、羨望の念がこめられているのではないだろうか.  
 
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ゴシックと現代/吉川逸治〜「SD4」1965年4月より抜粋

「SD4」1965年4月 特集・フランスのゴシック芸術より抜粋。 

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ゴシックと現代/吉川逸治

19世紀に入って、イギリス、フランス、ドイツなど西ヨーロッパの国々で、ゴシック・リヴァイヴァルが叫ばれ、中世建築の価値を見なおして、古寺古城の修復や復原をさかんに興し、ケルンの大会堂が半ばまで出来上がったところで、中世の末に工事が中止され、そのまま2世紀余りも放置されていたのを、完成を目ざして国民的支持のもとに工事を起こし、半世紀余の後、1880年に完工式をあげるとか、さらにイギリスではロンドンの国会議事堂のように、新しい大建築にもゴシック様式を採用してみるという気運が生まれたのは、当時のロマン主義運動によってルネサンス以来久しく忘れられていた、自分らの国の中世文化への関心が呼びさまされたものだが、もうひとつ広く考えると、ナポレオン時代が終わって、各国に民族的自覚の上に国民主義の動きが高まってきた風潮が背後にあるので、社会的には前世紀の絶対王制治下に比べて新しい広い社会階層、新興の中産階級、さらに民衆の進出ということがこの国民的風潮を支持していたのだった。ゴシック美術は、12〜13世紀のパリを中心とするフランス王国で、都市の大会堂の建築によって明確に実現されたものだが、この建築様式の源泉はもっと広く、西ヨーロッパの北方全般に渉って人びとが前ゴシック時代の石造建築のうちに追求していたところが、15世紀のフランスのカテドラル建築に最も論理的な形態で解決されているというものだった。会堂の高い切妻屋根や鋭角的な破風形は、人びとに木造民家の面影との結びつきをもって、大規模な建造物にもかかわらず、周囲の民家町家と調和をもって親しさを感じさせ、会堂建築を飾る彫刻が表わす樹葉や花も彼らの見慣れた山野の植物である。会堂の扉ロに並ぶ神や聖母、使徒らの彫刻も、中世の民衆のように厚い毛衣に身をつつんで、親味深い顔貌に刻まれている。堂内に入れば、左右に林立する巨大な石柱の群は高い石天井のもとに、樹幹から分かれ広がる枝のように多数のアーチを広げて頭上を覆い、大森林に入るがごとき感銘を与える.さらに、この大空間が周囲の高大な窓という窓に繋りめぐらされたステンドグラスから射し入る光線が赤、青、黄、緑という強い単純な色に彩られて、いやが上にも神秘的な印象を高める。この天上的な空間にオルガンがミサの音楽を鳴り響き渡らせる。ルネサンス以来3世紀の間、人びとがこの大美術を閑却祝していたのは不思議な位である。

 ゴシック様式は、宗教建築から王侯の城や館の建築様式となり、さらに中世後期の都市の庁舎や民家の建築様式となって、人びとの住みなれた都市環境を形成していくとともに、周囲の自然と一体となって、西ヨーロッパの北方の風土を考えるときには、その景観を作る構成分子となってしまっている.橋も、町の城門も、鋪道も同じ技術の所産なのである。

 16世紀にイタリアのルネサンス古典様式がアルプスを越えて西ヨーロッパに広まっていくに際し、いろいろと抵抗をうけたのも無理からぬことで、長年の土地の風土と材料の上に訓練されてきたゴシック技術を身につけた建築家たちの、強力な組合に新様式を採用させるのは容易なことではなかった。住みなれ、見なれた人びとのゴシック愛着を排除するのもまた容易なことではなかった。フランスのルネサンス建築は、少数の学識ある建築家たちがウイトルウィウスやイタリア建築家たちの古典書を学びながら、知的に古典様式の秩序と高尚な理想装飾を理解して推進させられるのだが、これを強要した上からの政治力がなければ不可能であった。

 16世紀になって、新大陸を彼らの生活圏に併合したヨーロッパの列強は、古い中世封建社会の枠を破って、世界性のある新様式が必要だった。古代世界を風靡したギリシャ・ローマの古典様式をば、イタリア・ルネサンスはその卓越せる普遍的人間(ユニヴァサル・マン)の理想に相応しい建築様式として復興した。この古典様式が、16世紀からl7・18世紀のヨーロッパ絶対王制の宮廷文化の装いとして、こぞって諸国で採用されたのである。バロックもロココも古典様式のヴァリエーションに外ならない.それはまたルネサンスに始まるヨーロッパの人文主義の装いでもあった.印刷書籍の装飾デザ
インにまで古典様式は浸透していった。しかもなお、この古典様式はアルプス以北の国々では、人意的に上から課せられた文化的様式、輸入様式としての上塗り的な、よそゆき的な性格を払拭しきれなかったのである。18世紀末から19世紀に渉って試みられる、古代建築様式の厳正な復原をめぎした、新古典主義もまたかような知的な、権力的な、所産という性格を免かれえなかった。自分ら自からの生んだ民族的なものへのノスタルジーが新しい時代の風潮によって中世様式の復興を促すのは当然であろう。

 1840年、27 歳でバリのサント・シャベルの修復に携わってから、ノートル・ダム、サン・ドニ、アミアンの諸会堂の修復やカルカソンヌ城、ピエルフォン城の復原などを行なって中世建築篠興のために生涯を捧げたフランスのヴィオレ・ル・デュックは、はじめイタリア留学した頃、他の人びとがイタリア・ルネサンス建築の模倣に汲々たる有様で、フランスではまだ一般に自国の中世建築を軽んじていた状態だったのを嘆き、「自分らの過去を否定する民族は憐れだ、彼らに将来性はない、過去を研究することが将来の基礎を据える。民族の長い歴史の各時代を結びつけている絆こそ民族性に外ならないといい、またゴシック建築の形成発展の事情をば説明してその社会的背景として、封建領主らに対抗しながら形成されていく中世都市コンミューンの新勢力と、これを援助するフランス王と教会との役割を強調し、12、13世紀の北フランスの各都市が競って建立するゴシック式大会堂こそは、中世における民主的勢力興隆の象徴といって、共和主義者の情熱を燃やしている。彼は多年修復に携わった実地の経験に学究的考察を加えた結果を「中世フランス建築辞典」10巻に著わしているが、フランス人らしい明確さで、中世建築の精華であるゴシック建築を説明して、すペて全体も部分も、形態も表現も、その合理的な構造から必然的に生まれでたものであることを主張している。ゴシック建築には、古代ローマ建築が煉瓦とコンクリートのヴォールト構造の体駆を覆いかくして、大理石の円柱列や軒回り一式からなる古典様式をはりつけるという虚偽や矛盾はない。それはラスキンのいうように誠実な建築であって、道徳性の高いものである。また、そこには桂か日光かの論争を思わせるようなものがある。


ヴィオレ・ル・デュックは、多数の中世建築の修復事業を通じて、それらの作者たちの建築思考を洞察する。古代ローマの大穹窿が堅固なコンクリートの単一体をなしていたのに対し、中世建築家たちはまず単純な半円筒穹窿や交差穹窿に、太い肋骨(リブ)アーチを附加して補強するようになる点を注目し、穹窿架構において支えられる要素と支える要素を分け、また覆う面と力線に分けて考える痕を窺見する。この考え方の合理的な結論に達したものが、ゴシック式の肋骨附穹窿(リブト・ヴォールト)であり、ゴシック建築は、この肋骨附穹窿が単位構造であって、これを論理的に展開させ、多数の
単位を有機的に結合して、全体が作り上げられていることを指摘する。肋骨附穹窿の対角線に交わる肋骨アーチと、その四辺のアーチがすなわち支える要素であって、その上に穹窿の面が架構される。この架構工事に際しては、先に築かれたこれら6本のアーチは木枠を支える役目をする。こうして初期の肋骨附穹窿は実際的に合理的に工事を進めさせる。また、対角線に交わる肋骨アーチの頂点と矩形のプランの上に築かれる穹窿の長短両辺を結ぶアーチの頂点を揃えるために、長短のアーチには自由に任意の高さをえられるように、尖頭アーチの形を与えて解決する。こうしてゴシック式肋骨附穹窿と、尖頭アーチのプロフィルが合理的に結合される。この穹窿は、正方形のプランの上にも矩形のプランの上にも架構することができるし、肋骨の組合せと数を工夫すれば容易に三角形のプランにも多角形のプランの上にも適用できる。建築物のさまぎまな機能に応じて適用され、形態を整頓することができる。しかもつねにこの建築物の表現は構造を明示し、構造の論理の上に立つ。

高大な教会堂の中央身廊部を左右から支える飛扶壁(フライングバトレス)の列は、側廊の屋根の上に立ちならんで、会堂建築の構造を外部に表わしながら、生物体の骨格を見るような有機的な姿を全体に与えている。窓の尖頭アーチのプロフィルは、穹窿の側辺を縁どるアーチのそれと協和し、構造の線を示しながら、上昇的効果を与える。窓の上に鋭角的な大きな石の破風形(ゲーブル)が乗せられるが、これも穹窿に接する側面に十分な重量を上から与えて、穹窿の横圧力に対抗させる合理的な役割を荷なうし、破風形の先端や飛扶壁の上端に小尖塔状に石が積まれるのも同様に重量を加重して均衡の役割を与えるという。すべての要素はここでは、構造の要請から発し、附帯的な装飾と思われる小さな部分も、建築全体の均衡のためにそれぞれの任務を荷なっていると考える。

 大会堂の門に入って、立ちならぶ大石柱が地上40メートルもの高さに昇りゆく姿は、すばらしい構造美を発揮している。大石柱はそれぞれ、数条の細い、長い小円柱を表面に附着させた集合柱の形式で、小円柱坪のいくつかは、上にいくに従って途中のアーチに連絡して消え、残った数本は天井の穹窿のアーチ群へと連結し、樹枝状こ開く構造の力線網の終結点に到達する。多数の柱とアーチがかたどるこの力線網が、われわれに大建築体の有機的構造関係を明示している。実際の構造関係を正確に反映するというのではないが、理想的な穹窿建築の構造関係はかくあるべしと視覚的に明示して、われわれの知的亨受を促がし、大空間を秩序だてるこれらのカ線の流れに無限感へといざなわれる。こうして、ゴシック建築の表現が構造を基として放射してくるのを感じる。力線網はまた、この大空間を天上的空間の象徴たらしめようと意図した人びとの精神の弁証法的に展開する軌跡であり、また天井の摂理そのもののイメージと映ずる。構造から発して、ゴシック会堂建築は、最高の表現に到達しているのである.個々の石材という堅い重量ある物体がいかに精神化されているか。この厖大な石の構造体のなかに入って、物質的重圧感は少しも受けない.中世の人びとがいみじくも形容したように、これらは活ける石である。石が柱として、アーチとして築かれ、構造の力線に化せられて精神化される。ゴシック建築はこの材料たる物質が、精神化される過程や方法を、読みとらせる。この精神性こそ、建築に大きな価値を与え、芸術の最高たるものの地位を保証するものなのである。ゴシック会堂建築ほど如実に精神がいかに強靭であり、無限であり、いかなる堅牢鈍重な物質をも克服する威力をもつものかを教えているものはない。また歴然と精神が天上的な霊と交流し、融合しうるものであるということを感じさせるものはない。

 西洋中世の建築は、古代ローマ建築の量感ある充実した面の構成体から面と線の複合構成ヘと発展していった。ローマ建築のヴォリュームはいかにも雄大な古代人間主義文化の表現に相応しく、壁体や穹窿体の充実感は地上的な生存、肉体的な欲望の象徴であり、巨大な量塊の単純な構成は権力的な意志を思わせる。この量塊的な面の構成の建築から古典的外装をとりさった時、中世人は古典円柱とは違った簡潔な角柱や構造的な円柱、アーチ、扶壁といった抽象的な線をいれて、構造体とその包む空間に方向性を与え、リズムを与えて精神化へ踏みだしたのだった。この抽象的な線に支える要素を集中して、壁面を次第に減少させ、抽象的線構成に向かうのだった。この線的構成の思考は、中世建築の技術的発達と助け合いながら発展して、13世紀ゴシックに到達する。会堂建築は飛躍的に高大となって、穹窿の下に40メートルの大空間−その大部分は実用約には無用な大空間を実現するようになった.そして、その表現は構造に発する力線的構成によって得られるのである.このフランス・ゴシックの合理主義に対して、イギリスのゴシックはもっと大胆な、自由な線構成を駆使して、一種の宗教的情熱の表現に到達している.この場合も、線要素は、基柱やアーチ、筋骨(リブ)であって、それらが構造の役割に沿いながら、それに束縛されず、自己の力を強調しているのである。そこには中世初期のケルト・アングロサクソン系の複雑な抽象図様に見られるような線自体の動きが感じられ。

 イギリス・ゴシックは、木造建築と密接に連関ある側面でまた独得な表現をもつ。元来、西ヨーロッパ北方の中世建築では民族的な木造建築の占める地位は大きく、石造の会堂建築にもいろいろな影響を与えてきた。屋蓋が後代まで木造である外、南方で穹窿が採用されても会堂身廊の天井はしばしば遅くまで木造だった例が少なくない。イギリス・ゴシック建築では、穹窿の代りに、その練達な技術を示す木組みで屋根を支える例が少なくない。これら上部の木造架構が天井板でかくされることなく、下部の石造構造と協和している。元釆、これら木造建築はその簡単な力線構成を露呈しているもので、それがゴシック建築の線的構成の表現と協和するのは不思議はない。両者の間には何か親近な関係が早くから存在したのかも知れないと想像させるほどである。イギリス後期ゴシックの垂直様式(バーペンディキュラー・スタイル)建築は、明瞭に木造建築の直角に交わる木組、窓や扉の楯にならった垂直線と水平線の交差する枠形構成をライトモティーフとしている。ゴシック後期は垂直様式でも大陸のフランポワイヤン様式でも、13 紀の構造にもとづいた合理主義の建築に対して、理想を失った装飾主義と見なされがちだが、この時期は中世後期の町人文化の時代で、美術でも建築よりも絵画が興隆に向かう。しかし、この後期ゴシック建築も、人間の住む空間、環境に重点をおいて、人間的尺度を考慮して建築を作っていくので、生活機能によく順応した建築物を生んでいる。町家や館、庁舎、療養院の建築に興味あるものが生まれ、それら生活に応じたプランをもち、部屋の配置が実際的で、それに応じて外形も整えられるから、近世の大典様式の城館のようにシンメトリを強制され、外形によって内部の部屋割りが左右されることはない。従って、窓の配置、窓や戸口の大小、屋根窓の設置、階段塔の位置によって、内部のプランが推察できるほど、機能主義を発揮している.装飾も、木造建築を見るような構造線に従い、矩形の窓や戸口の枠形であり、フランポワイヤン様式の場合でも、窓や戸口の上縁には、以前の尖頭アーチを止めて、慎ましい偏平な大括弧形(アコラード)を?などの上に添えるのである。この実際的な機能主義の故に、後期ゴシック様式は、中世人の日常生活に親しくく食いこむような建築を残したのだった。

 ヴィオレ・ル・デュックは、13世紀ゴシックの理想様式を合理主義とて、構造からすペて説明しているが、彼の頭には当時ようやく起こりつつあった新しい鉄骨構造のイメージがあった。これの反映を無意識にも受けて、ゴシック建築を支える要素と支えられる要素に分けて説明していったのだか、現在のコンクリート建築の時代になると建築家のなかから、彼の説のゆきすぎを反省するような学説が現われてきた。ポール・アブラムはゴシック穹窿において、支える要素はむしろ穹窿の面全体で、その肋骨(リブ)アーチはむしろ附帯的な装飾要素であり、ゴシック建築もまた、ローマ建築のように、面構成の建築体に線構成の装飾組織を附加したものと新解釈を提出した。この新説で、ヴィオレ・ル・デュックの構造中心の合理主義説を緩和した折衷説が今日の通説となっている。


われわれは過去の事物を考える場合に、必ず現在の立場から考察しているので、歴史を求めるといっても、何らかの現代的関心が、心がそこに投射され、理解できるものが浮彫となって、歴史的イメージが作りあげられる。ゴシック美術が19世紀に入って、いわゆるゴシック・リヴァイヴァルとよばれるほど熱心に再検討されるようになったのは、いろいろな理由があった。それらには、今日のわれわれも、関心をよせうる問題が多々含まれている。古くから土地に育った建築伝統は、自然条件と戦いながら世代を重ねて獲得せられた数々の優れた解決を含んでいる。ゴシック建築には民族的木造建築の秘密が石造建築のうちに承けつがれている。よりよい構造をもって、よりよい建築を作りだそうという努力が技術的な誠実さをもって追求されてきた。その努力の核心に、理想の建築として、天国を地上に現出させようという会堂建築のイメージがあって、人びとを奮いたたせた。天国とは、宇宙であり、大会堂建築は中世の宇宙的構想を具体化しているので、宇宙像の芸術である建築の本姿をこれほどよく示しているものはない。ふたたび新しい宇宙像を求めてきた現代人は、新しい野心的課題を建築に要求している。そこでは当然、新しい構造体系が中心になって、それを偽らない誠実な表現が要求されよう.これと対象的に、地上における人間の慎ましい生活を保証する建築としてのゴシック住居建築とその機能主義は、近代建築がさまぎまな合理的解決を提出しているところと平行するものであろう。古典建築と対称的なゴシック建築に対する現代的関心は、かような理由にもとづいている。
            
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2006年08月21日

旅に出ています

いつもブログをご覧頂いている皆さん、どうも有り難うございます。

20日より京都・奈良方面へ旅に出ております。その間、TB&コメントへの返答などが遅れますが、ご容赦頂ければ幸いです。

こちらは非常に暑いですが、いかにも京都らしい行事に参加したりと夏の京都を楽しんでいます(笑顔)。詳しくは旅から戻ってきたら、ご報告します。

皆さんも素敵な夏休みをお過ごし下さい。
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2006年08月14日

ゴシック建築の成立/堀内清治〜「SD4」1965年4月より抜粋

「SD4」1965年4月 特集・フランスのゴシック芸術より抜粋。 

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ゴシック建築の成立/堀内清治

初期の教会堂建築

1世紀に発生したキリスト教はその後、年とともに信者を増し、5世紀には各地に彼ら自身の教会堂を持つに至っていた.しかしこれらの教会堂はごく特殊な例外を除き、4世紀初めの迫害によって取りこわされてしまった。従って具体的な遺溝による教会堂建築の歴史は、515年のキリスト教公認以後に始まると言ってよい.やがて526年にはキリスト教がローマ帝国の国教となり、教会堂建設はローマの政策的事業として、帝国の力を背景にして精力的に行なわれることになった。この頃には既に教会堂の形式は完全に出来上がっていたらしく、ローマ帝国内の大都市にはほぼ同じような教会堂が次ぎ次ぎに建てられている.これらの教会堂は、それぞれ少しづつニュアンスの違いをもって、「初期キリスト教建築」「バシリカ(式教会堂)」「へレニスティック・バシリカ」などと呼ばれている。その骨子は、中央部に高い身廊があり、その両側に一段低い側席があって、身廊と側廊は列柱で仕切られ、身廊の壁には高窓が開けられていて、そこから直接採光するものであった(挿図l、なおこのような形式をバシリカ形式と呼ぶ).身廊の奥は半円形の張り出しがあり、これをアブスapseと呼ぶ。身廊とアブスの聞にはしばしば袖廊transeptが設けられている。2段切妻形の正面には、前庇のようなナルテックス narthex があり、その前には柱廊でかこまれたアトリウム(前庭)atriumがある(挿図3、4)。

 このような教会堂はいわばオフィシャルな形式として、ローマ帝国の全域にわたって伝えられたのである。地方の小都市の教会堂は経済的、技術的な制約があって、これ程完備したものではなく、また大理石やモザイクで華やかに装飾されるというわけにはいかなかったことは勿論であるが、西ヨーロッパの教会堂もまた初期キリスト教のバシリカ形式をもとにして出発したのであった。しかしそれら古代の教会堂は、民族大移動、西ローマ帝国の滅亡に続く中世初期の暗黒の時代に、あらかた消失してしまった。5世紀以後、西ヨーロッパの建築界の状況は悪化の一途をたどることになる。

 一方コンスタンティヌス大帝は、330年に首都をローマから今のイスタンブール(コンスタンティノポリス)に移した。元来オリエントの地方は、2世紀以後のローマ帝国の一般的な衰退の中にあって、東西貿易を背景として繁栄を続けた地方であり、当時もなお活動的な芸術の中心であった.このような地方に首都建設の大工事が始まったことは、沈滞したローマ建築界に力強い新風を吹きこむことになった。それまでオリエントの各地で行なわれて
きたさまぎまな試みが、ローマの伝統や技術と結びついて、遂にはビザンチ
ン様式と呼ばれる新しい建築を創造するに至ったのである。殆んど専ら木骨天井に終始していた西ヨーロッパの初期キリスト教バシリカと違って、ドームやヴォールトを駆使したビザンチン建築は、ユスティニアヌス(483〜565)の時代にアヤ・ソフィアHagia Sophia(552〜557)やラヴェンナのサン・ヴィターレS.Vitale(526〜547)を造って、最初の、そして最大のマニフェストを示したのである。これらの建築の特質を今ここで論じるわけにはいかないけれども、それがアジアとヨーロッパの古代建築が究極的に融合した姿を示すものであり、古代世界の最後を飾る大傑作であったことは恐らく異論のない所であろう。

 こうしてコンスタンティノポリスは地中海世界の建築の最大の中心となった。その後ビザンチンの建築家は、煩項な官僚機構や職業世襲化などのため、われわれの眼から見ると非常に息苦しい状態に追いこまれていったようであるが、そのことは彼らの創造力を必ずしも枯渇させてしまわなかった。また7世紀以後、イスラム教徒の進出によって領土は大幅に縮小してしまったけれども、なおコンスタンティノポリスは約100万人という驚異的な人口を擁しており、芸術のメトロポリスとしての地位を長い間保ち続けたと考えられる。たとえばダマスクスの大モスク(707−715)、カイルワン(チュニジア)の大モスク(670創建)、コルドバの大モスク(785創建)などの回教寺院の形式や、ゴスラール(ドイツ)にある皇帝の宮殿(1150頃)などをラヴェンナのサン・タポリナーレ・ヌオヴォS・Apollinare Nuovoのモザイクに表わされたビザンチンの宮殿に比較すると、ビザンチンの影響力が国境や宗教宗派を越えてきわめて広く、長く続いたことが理解されるだろう。

 また、たとばえゴシック建築の歴史では極めて有名な人物であるサン・ドニの修道院長、シュジュールは、「エルサレムからの旅人が来る度に、コンスタンティノポリスの宝物や、アヤ・ソフィアの装飾にくらべて、ここ(サン・ドニ)のものが何らかの価値があると言えるかどうかを尋ねるのが常であった」という意味の言葉を残している。世界の首都とその大会堂の盛名は、遠く離れた12世紀の北フランスにおいても、決して地に落ちるどころではなかったのである。

 ローマ帝国の内に、もとから存在した東方と西方の相違は、東西ローマ帝国の分立という形で具体化された(395)。この傾向はキリスト時教代になっても改善されることなく、8世紀から11世紀にかけて、長い論争の末、オーソドックスとカトリックの二つの教会に分裂してしまった。西ヨーロッパは言うまでもなくローマ・カトリック教会に属し、聖ベテロの司教座を守るローマ法王の指導下にあった。中世の全期間を通じて、西ヨーロッパ人のローマに対する尊敬は失われなかった。なかんずく、サン・ピエトロ、サン・ジョヴァンニ、サン・パオロ等々の大教会堂は、教会堂建築の古典として高く評価されていた。しかし中世期におけるローマ市の衰退ぶりは想像以上であつて、人口約1万の小都市に転落してしまっていたと言われる.しかも上にあげた教会堂は、いずれも1万数千人の信徒を収容するに足る規模をもっていたのである。したがって中世のローマには、新しい教会堂を建設する現実的な必要性はなかった。彼らにとっては古い教会堂を維持していくことが精一杯の努力だったことだろう。こうしてローマでは、ルネサンス期まで、初期のバジリカ形式を忠実に守りつづけることになるのであった。このようなローマには、その時その時の教会堂建築の形成に指導的役割を果たす活力はなかったと言わねばならない。いっぽう西ヨーロッパに定着したゲルマン人がキリスト教を受け入れ、彼らの教会堂を造りはじめた時には、その社会的
条件も教会堂建築に対する要求もローマ末期とは勿論非常に違っていた。その新しい要求に応じる建築的方法に関して、何かの模範を求めようとすれば、それは主として東ローマの建築でなければならなかった。

 フランスにある現存最古の教会堂といわれるポワチエのサン・ジャン(6〜7世紀)、アーヘンにあるカール大帝の宮廷礼拝堂(792−805)あるいはジェルミニー・デ・プレGermigny des Presの教会堂(806)などにはいずれもビザンチンの影響が色濃く現われていて、むしろ田舎くさいビザンチン建築と言ってもよい。これらはどちらかと言えば特殊な例であるが、一般的に言っても中世ヨーロッパの教会建築では、その西正面の取りあつかい、内部の配置、壁面の装飾など、殆んどすべての細部にわたってオリエントの教会堂にその先例をみないものはないと言っても過言ではないのである。

 中世ヨーロッパの教会堂建築は、このようにローマやビザンチンの、言いかえれば地中海世界の建築の影響を受けて生まれ発展した。しかしアルプス以北のヨーロッパでは、地中海世界の華やかな建築伝統にあこがれ、これを学びながらも、遂にこれと同化されてしまうことはなかったのである。

 ゴシックの時代になっても、中北部ヨーロッパの建築は、地中海をめぐる建築界の動きと決して偶然とは考えられない併行現象でつながれている。しかし同時に、ゴシック建築の中には、言葉では表現することは難かしいけれども、ある非地中海的な性格が明瞭に感得されるのである。この非地中海的性格こそヨーロッパ建築の特質をなすものであった。そしてこの特質は萌芽約にはヨーロッパ中世建築のそもそもの発端から姿を現わしていたのであった。

 470年頃建てられたトウールのサン・マルタンSt.Martin,Toursは、正面と交差部に塔を持っていたらしい。塔と会堂という全く性格の違った建物をひとつに結びつけるというやり方は、古代のギリシャやローマでは見られなかつたし、へレニスティック・バジリカにもなかったことである。この意味からトゥールのようなやり方は非古代的であると感じられる。こういう異
質の要素を組み合わせて複合的な総合をなすことはヨーロッパの建築のひとつの特質だと説明されることがある。或る意味ではこの意見は恐らく正しいであろう。しかしここで述べている正面や交差部の塔に関してはオリエントに前例があるし、やはり複合的性格をもっていたヘレニズム建築を受けついでいる、4〜6世紀のシリアの教会堂では、正面に塔をつけることがむしろ常套手段であったと言ってもよい。従って教会堂に塔を組み合わせること自体は別にヨーロッパの独創とは言えない。トゥールのサン・マルタンの塔がどんな形をしていたか今では知るよしもないが、記録によってかなり具体的に知り得るアベヴィルのサン・リキエ St.Riquier,Abbeville(800)の六つの塔(挿図5)や、現有するアーへソの礼拝堂或いはジェルミニー・デ・プレの教会堂(挿図7)などに共通して見られる特徴は、高さへの指向という点であった.ことにサン・リキエのごとく、上にいくほど細くなり、はては尖塔となって空に溶けこんでいくようなシルエットは、それまで地中海世界には知られなかったものである.たしかに軽快さ、上方への指向ということは、ヨーロッパ建築だけにみられる性格ではなくヘレニズム後期以後地中海世界の建築全体の基本的傾向のひとつに考えることができるものであった。しかしビザンチンでは、それは幾何学的なコンポジションに従ってもっと抑制された形をとっているし、イスラムではもっとソフィスティケイトされた表現をもっている。比例を無視してまで上へ上へと立ち上がるダイナミックな力の表現はヨーロッパだけのものであった.

 ヨーロッパの建築の上方への指向というのは、あたかも植物の成長のように、明確な終りというものがなく、いつでも何かを上につけ加えることができるものであった。このような性格を最も明瞭に表わしているゴシック建築には、「その建物の芸術的価値をそこなわずにひとつの石を加えることも、減ずることもできない」という意味での完成というものはない.このようなコンポジションの欠如が地中海的教養に育った人びとからは冷笑を買うことになるのであるが(「ゴシック」には「ゴート人の」言いかえれば「野蛮人の」という軽薦の意味が含まれていた)、ブラッドフォード・オン・エイヴォンの教会堂(973頃?)平面やロマネスク教会堂の内陣部の発展を考えると、常に何かを加えることができる複合的性格もまたやはりヨーロッパの特質とみなすべきであるかも知れない。ブラッドフォードの教会堂は、内陣部とポーチをそれぞれつけ足して出来上がっているし(挿図2)、フランス・ロマネスクのシュヴェ(内陣部)はアブスのまわりに回廊と祭室をつけ加えて成立しているのである(挿図6).

 9世紀のヨーロッパは、カール大帝(742〜814)の宮廷を中心にして、古代文芸の研究が盛んにおこなわれた時代である。アーへンのドームやサン・リキエはこのカロリング王朝のルネサンスの大きな建築的成果であった。しかしその復古的努力を通じて、或いは復古的労力に反して、造られた作品には新しいヨーロッパ的性格が徐々に浮かび上がってくるのが見られることは興味深いことであった.

ロマネスク時代

紀元1000年頃から1200年頃にかけておこなわれた建築様式をロマネスクと呼んでいる。カロリング朝の建築が帝国的な画一的傾向をもっていたのに反して、ロマネスクの建築は極めて地方色豊かな建築であった。その主な流派を簡単に紹介するだけでここに与えられた紙数は優にこえてしまうだろう。ここではロマネスク建築全般を要約することが目的ではないので、次の4点だけについて考えてみたい。すなわち切石技術の復活、仰高的デザインの発展、ベイシステムの完成、ヴォールト架構の問題である。

 カロリング朝の建築は小割石をモルタルで固めて造られていた。当時は円柱を切り出す技術も失われていたから、円柱が必要な場合には古代の建築物から取ってくるのが例であった。アーへンの宮廷礼拝堂の円柱はわざわざローマから運んだものである。古代の建築がいかに豊富であったといえ、このような状態がいつまでも続くものでもないことは自明の理である。手軽に建築材料を取り出せる古代建築遺跡の枯渇と、各地方の採石場の開発、建設需要の増加があいまって、ロマネスクの時代には古材転用の習慣は殆んどなくなっていた。同時に採石技術、石材加工技術も大幅に改善され、小割石に代わって切石が主要な建築材になった。小割石をモルタルで固めるコンクリートは、切石で包まれた壁の芯部に限られるようになる。切石造の壁は小割石、煉瓦、コンクリートなどの璧と違ってそれ自体で充分美しい仕上面となるの
で、以前のように壁体に漆喰を塗ったり、壁画、モザイクで装飾する必要がなくなり、切石績みが内外壁面共に露出されることが普通になる。教会堂の内部は、厚いモルタルの目地をはさんで積まれた切石の厳しい構造的な美しさが支配するようになった。また切石技術の発達は石像彫刻技術とも関連があって、彫刻が教会堂装飾の主要な部分を占めることになった。

 建築壁面に仰高感を生み出す装飾的モチーフとして最も普通におこなわれたものは、壁面にバトレスをつけることであった。このテクニックは昔から ビザンチンにも(たとえばラヴェンナのサン・ヴィターレ)メロヴィング、カロリング朝時代の建築にも(たとえばジェルミニー・デ・プレやポーヴェのバス・ウーヴル)見られたが、バトレスの鋭い垂直線はもともと建物の規模に比較して丈の高い北ヨーロッパのロマネスク建築に、近づき難い程俊厳な仰高感を産み出している(挿図9)。バトレスはこのような仰高感情の荷ない手であるばかりでなく、長大な壁面を分割し、リズミカルな整備感を造り出すモメントとしても大いに活用された。従ってその断面形やプロフィルは使われ方によってさまぎまの変化に富んでいる。

 バトレスは、控壁としての構造的意味のあるものも、純然たる装飾のためのものも、独立して壁面についていることがあるが、その上端をアーチによって互に隣りのバトレスとつながれているものも多い。また連続アーチ形装飾帯(ロンバルディア帯)と一緒に使われることも多いのであって、この場合には装飾円柱とバトレスの区別がつかなくなってしまっている(挿図9)。

 連続小アーチ形装飾帯は、ロンバルディアのロマネスクの建築に最初に流行したので、ロンバルディア帯Lombardian bandと呼ばれている。しかしこのモチーフも御多聞にもれず起源はオリエントにあった。レヴァント地方ではこのモチーフは少なくとも2世紀まで潮ることは確実であり(ペトラの神殿に実例がある)、その後引き続いて教会堂の装飾に使われていた。挿図11はその1例であるが、ここではアーチ列を支えている円柱がまだ古代の彫塑的意義を失ってしまっていない点に注目される。このモチーフがイタリアをへてヨーロッパに輸入された時には、ヨーロッパ人は人体に基礎をおいた古代のオーダーの彫塑的意義には殆んど無縁の人びとであったから、彼らはこれを単にリズミカルな躍動感を壁面に与える華やかな装飾的モチーフとして受け取り、活用した。円柱は壁面に活気を与える垂直線として、古代的比例に制約されることなく、必要に応じて自由に伸縮して使われるようになった。このような円柱の使用法はイスラムに先例があり、ロマネスクの時代にはヨーロッパ人も必ずしもその重要性を完全に認識していたわけではないが、ともかく細い円柱やアーチの線で壁面を活気づけ、壁面にある表現力を与えることができるということを知ったことは、ゴシック〉建築の前提条件として極めて重要な点であった。

 教会堂の外壁面にみられたこのような動きは、内部の壁面にも直ちに反映している。ヴェロナのサン・ゼノS・Zeno(1123頃)の身廊の壁には太い附け柱がついている(挿図12)。この柱は床から天井まで達しているが、この教会堂は木造天井で覆われているので、せっかく天井まで伸び上がった柱は、その上に支えるべき特別のものが何もないことになる。合理主義的建築観の洗礼を受けたわれわれには、この柱は無用の長物にみえる。しかしこの教会堂は最も美しいロマネスク建築のひとつであって、この教会に入った時に受ける強い感動にこの柱の存在が関係していることも確かである。このような柱をもった建物はほかにもいろいろ実例がある。ジュミエージュの教会堂もそうだし、カーンのサン・テティエンヌ St・Etienneも後代ヴォールトが架けられて分かり難くなっているが、当初はやはり同様であった(挿図15)。これらの建物の建築家は長大な壁面を区切る垂直線が欲しかっただけで、これらの柱は構造的に何の意味もない。ただこのような何も支えるもののない柱は、われわれと同様、当時でもやはり奇異な感じは免れなかったことと思われる。従って、外壁と同様にこれらの柱の上部をアーチで連らね、そこに架構的意義を与える工夫が一般的になっていった。そのアーチは璧にそって設けられるものもあれば、身廊を横ぎって璧から壁にかけ渡されるもの(横断アーチ)もあった。このような架構的解決によって仰高的デザインとしての柱は一層強い表現を獲得することになった。その最も良い例はシュバイヤーの大会堂(1062)であろう。そこではそれまでの平板な壁面が背後に退がり、それに代わって力強い上昇感をもったピアと、それに続く附け柱の垂直線が堂内の主役を済じている(挿図14)。この建物はその年代の古さにもかかわらず、ゴシックに最も接近した教会堂のひとつということができる。

 サンクト・ガレン St.Gallen の修道院には820年頃書かれた修道院の計画図が保有されている。これは同修道院の要請に応じてカール大帝の側近が与えた修道院の理想的計画案であったと考えられ、カロリング朝の建築を知る上で貴重な資料である。ところでこの計画図に描かれた教会堂の外陣部は身廊、側廊共に四つの部分に区画され、全体が12の礼拝堂の集合のごとき観を呈している。これは広大な教会堂内部を単一空間としてみなれているわれわれには不思議に思われる。これらの結界は教会堂内部の空間的効果を阻害するように見えるからである。これは修道僧が毎日ミサを捧げるため、祭壇を多く設ける必要がある修道院教会堂としての実際的要求から考えられたことであろう。やがて教会堂の中に多くの祭壇を設けるという要求は、放射祭室(アプスの回りに回廊を設け、これに放射状に祭室=祭壇をならべること)(挿図6)の発明に至る別の方法で解決されていき、その後のロマネスクの教会堂では内・外陣の境の他には床の上にいくつも結界を造るという例は少ない。しかしロマネスク教会堂の身廊内部にも違った形で区画を設けることが行なわれた。その最も単純な方法は大アーケイドの円柱を1本おき(或る場合は2本、或いは5本おき)に積柱(ビア)に変えることである。こうすることによって柱列にそってスムースに奥に向かって導かれていく視線の流れを、異質なビアが引きとめることになる。言いかえると円柱の間にあるピアが心理的なブレーキの役を果たすことになるのである。この作用は、このビアに前述した天井まで達する付け柱が加われば一層効果的になるし、その附け柱の上に横断アーチが架けられれば更に完全になる(挿図17)。これらのピアや横断アーチは教会堂の中を歩く人にとって現実には何ら支障を与えないのであるが、心理的にはある抵抗を感じさせる。つまり横断アーチから次の横断アーチまでをそれぞれ半ば独立した単位と感じさせる。この単位をべイbayと名づけるのであるが、ロマネスクの教会堂はいくつかのベイをつなぎ合わせて構成されていることになる。このようなベイの独立性はドームや交差ヴォールトを架けるロマネスク建築ではことに重要な意義をもっている.(p.25 写真2)。

 ロマネスク時代は教会堂全体をヴォールトで覆うことが追求された時代でもあった。始めはスパンの小さな側廊だけに限られていたヴォールトが、ロマネスク後期にはスパンの大きな身廊にも可能になった。これはヨーロッパの教会建築史上特筆すべき技術的成果である.天井の高い教会堂全体をヴォールトで覆うという困難があえて克服されたのは、それが火災予防上必要であったからだということはしばしば指摘されるところである。しかしこれとならんで意匠上の必要も見逃がしてはならない。前に述べたような壁面の仰高的デザインが発展すればする程、壁面とその上にある水平な木造天井の違和感が強くなっていき、壁と同じ材料によって天井をかけることによって壁面のデザインを完結させたい造形的要求が強くなっていったに違いない。天井まで伸び上った附け柱は、その上にアーチやヴォールトを架ける以外にうまいまとめ方はないだろう。事実ロマネスクの教会堂には当初木造天井で建てられ、後にヴォールト天井に変えられた建物が沢山あるが、それらはいずれも最初からヴォールト天井を計画していたかのごとくうまくマッチしているのである(挿図18)。

 細長い教会堂の上に石で天井を造る、最も単純な方法は円筒ヴォールトである。このやり方は、中南部フランスを中心としてさまざまな方法が工夫された。ロマネスクの円筒ヴォールトにはその下面に横断アーチが加えられるのが普通である。横断アーチは、身廊壁面につけられた付け柱の上昇運動を更にひきのばし、頭の真上まで持ってくると同時に、各ペイの区画を明示する役目をも荷なっている。円筒ヴォールトや横断アーチの形は、半円形が普通であるから、ロマネスクの内部空間は、天井を以て完結されているのであるが、中にはオータンAutunの大会堂(1120頃〜1132)のように、ヴォー
ルトを尖頭形にして、柱とアーチの荷なう上昇運動を、天井の限界をこえて更に上方に引き伸ばそうと試みるものもあった。これもゴシックの原則のひとつである。

 北フランスやドイツでは、、ロンバルディアと同様に交差ヴォールトをかける努力が続けられた。円筒ヴォールトを二つ、直角に組み合わせた形の交差ヴォールトは、正方形平面の上に架ける場合が最も容易であるから、これらの地方では、身廊も側廊も共にいくつかの正方形の連続となるように柱位置が割りつけられ、スパンの大きい身廊のひとつのヴォールトに対し、側廊には二つの交差ヴォールトが架けられることが多い.この場合身廊のひとつのべイに対して、側廊の二つのべイが対応することになって、大アーケイドの柱は太い柱と細い柱が交互に配置されることになる。このようなダプル・べイのシステム(挿図15)が最初のゴシック建築の出発点となるのであった.

 古代ローマの交差ヴォールトと違って、ロマネスクの交差ヴォールトには、ヴォールトとヴォールト境に太い横断アーチがつけられていた.この意味は前に円筒ヴォールトについて述べたのと全く同じことである.ただ当時の交差ヴォールトには、中央部のふくれ上がったドーム状のヴォールトがみられることや、タフルべイシステムがとられることなどから、交差ヴォールトをかけた正方形のべイの独立性は、円筒ヴォールトの場合より強かったのである。

 北部ヨーロッパで交差ヴォールトが採用された理由はいろいろ考えられるが、ともかく身廊部の高窓を大きく明けるという点から考えれば、円筒ヴォールトより交差ヴォールトの方がはるかに有利であって、ゴシック建築が交差ヴォールーの伝統の上に出発したことは幸いなことであった。というのはこの頃発達し始めたステンド・グラスがゴシックの時代には不可欠的重要性をもつに至るのであって、窓の拡大、すなわちステンド・グラスの面積の拡大ということが、ゴシック建築の本質とつながりをもっているからである.

 ゴシックの本質をなす諸特徴は、このようにロマネスクの時代にはあらかた出揃ってきた。ゴシックは、ヨーロッパの各地で別々におこなわれてきた試みの根底にあった意図を、明確に表現する方法を示したのである。従ってひとたぴゴシック建築が創造されるや、たちまちにしてそれは単に北フランスの様式にとどまらず、ヨーロッパ全体に受け入れられる国際様式となったのである。

ゴシック建築の成立

ゴシック建築は1140年頃、バリを中心とする北フランス(当時の王領)で発生した。ゴシック建築は日本人にもすでになじみ深いものであって、その解説も多数出版されているので、ここではリブ・ヴォールトを中心とする仰高デザインの展開、飛梁を中心とする技術的問題、それにステンド・グラスなど、ゴシックの成立という主題に閑係の深い問題のいくつかに限って述べることにする。

 1136年から44年にかけて、修道院長シュジュール Suger の指揮のもとにおこなわれた、サン・ドニ St.Deni s修道院教会堂の改造工事を以ってゴシック建築の開始とみなすことほすでに定説になっている。シュジェ−ルの仕事は、現在サン・ドニの入口(ナルテックス)附近と、内陣回りの回廊及び放射祭室の部分に見られる。これらの建築はほぼ同時代のサンスの大会堂(1143以前)と共に、それまでのロマネスクの建築と比べると完全にゴシック風のリブ・ヴォールトを備え、軽快な律動感にあふれて、新しい時代の到来を物語っている(p.26 写真−6)。

 リブ・ヴォールトというのは、交差ヴォールトの稜線にアーチ(リブ)をつけたヴォールトのことであって、そのものの起源はやはりローマ時代に遡り、イスラム建築にもさまぎまな形で登場していた。ヨーロッパでは、ミラノのサン・タンプロジオS・Ambrogio(11〜12世紀)を代表とするロンバルディアの教会堂やイギリスのノルマン建築であるダラム大会堂(1093〜1113)などに先例があり、北フランスにも、12世紀前半にはモリアンヴァル(1122)その他に採用されていた。ヴィオレ・ル・デュクなど19世紀の学者は、リブ・ヴォールトは、あらかじめリブによって骨組みがつくられ(挿図16)ヴオールトはリブの間を埋めるパネルにすぎないから、ごく薄くてもかまわない。またヴォールトの安定はリブの安定に置き換えられ、尖頭アーチ形をとるリブは、面構造のヴォールトよりも弾力性に富むので、リブ・ヴォールト全体は交差ヴォールトより堅牢であると考えていた。しかし現代は、このようなリプ・ヴォールトの解釈をはじめとする、19世紀の合理主義的ゴシック観が反省しなおされる時期に釆ているようである。

 リブの実際の力学的役割りはどうであれ、それは形からいえばアーチである。そしてアーチは柱と同様、明らかに荷重を支えるための装置であることをわれわれは直観的に了解している。しかしゴシックのヴォールトを支えるアーチ(リブ)は、決して重い石のヴォールトを支えるに足る程頑丈な形は与えられていない。それらは巧みなモウルデイングによって、実際の断面積にくらべて極度に細い外観が与えられている(挿図19)。ここにリブがヴォールトを支えているという、殆んど本能的といってもよい論理的判断と、荷重を支えるなど思いもよらない細さという眼に見える事実との食い違いが見られるのである。この食い違いがゴシック建築の壮大なトリックの最大の秘密であると私には思われる。われわれの眼に感じられる、石のヴォールトの大きな重量と、それを支えていると見える、リブの信じられない細さ(の外観)が、われわれの合理的判断を狂わせ、あたかもヴォールト全体か超自然的な力で支え上げられているかのような、非物質的軽快さを印象づけるのである。このような効果をもったリブ・ヴォールトがゴシックのヴォールトであった(p.51写真−20)。

 ヴォールトに見られたと同じ方法が壁面にも現われている。リブは壁につけられた非常に細い円柱で支えられている。リアが実際にヴォールトを支えていたことが疑わしい以上に、これらの円柱がリブを支えているとは考えられない。リブやヴォールトの大きな荷重は実際には円柱の背後にある巨大な壁体で支えられている。しかしこの円柱はいかに細いとはいえ、柱頭やベースを備えた立派な柱の形をしている。そしてここでもまた、荷重を支える機能をもった円柱の形に、われわれの判断は狂わされてしまう。われわれはヴォールト支持の機構としてリブと細い円柱に気をとられ、背後の壁体から注意をそらされてしまうのである。壁体やヴォールトに、荷重と支持の関係を論理的に象徴する、リブや円柱の細い線を加えることによって、いわば石から重量をとり去ったような軽さを与え、ロマネスクの静かな仰高感を息づまる程の激しい上昇運動にかえたのであった。この上昇運動はリブの尖頭形によって、現実の天井面をこえて更に天空高く、目に見えない無限の高さに達しているかのごとく感じられ、物質に対する精神の勝利を象徴しているのであった。

 ふりかえってみると、後期のロマネスク建築、たとえばイギリスのダラム大会堂、ドイツのマインツやウォルムスの大会堂、中南仏のクリュニー等々の建築とゴシック建築の差は、意外に小さいのである。しかしリブや円柱に、このような価値を認め、それにふさわしい形を与え、遂にはそれらの力線によって教会堂の内部に精神的な別天地を創造するに至ったのは、サン・ドニやサンスを造った北フランス建築家の天才的な洞察力の功績であった。

 1140年頃発見されたゴシック建築の方法は、約50年の洗練を経て、シャルトル(1194〜)、ランス(1211〜)、アミアン(1220〜)の大会堂を創造するに至った。中でも天井高さ42・3メートルに達するアミアン大会堂は、さきにゴシックのトリックと呼んだリブと、附属円柱の効果が最大限に発揮された傑作であって、堂内に入った人は誰も、ゴシックの呪縛に圧倒され、精一ばいの精神的緊張を強要されるのを感じる。

 ゴシック建築の効果が最大限に発揮されるためには、40メートルに及ぶ天井高さが必要とされたわけであるが、この高さはフライイング・バトレスによって可能になった。フライインク・バトレスはヴォールトの水平力を建物の外側に設けられた控壁に伝えるアーチ(挿図20)のことである。この装置はゴシックでは12世紀後半に実用化された。この装置によって身廊の壁は、ヴォールトの水平カから解放され、いくらでも高い天井を造れることになると同時に、壁体を小さくし、窓面積を最大限に拡張することができたのである。また教会堂の内部からヴォールト支持機構の大きな部分をとり去ってしまったことは、ゴシックのあの軽さの表現に貢献するところが大きかった。従って外部にみられる巨大な控壁や、フライング・バトレスの列(挿図8)はいわばゴシック建築という手品の種明かしということができる。

 サン・ドニの放射祭室は回廊と融合してしまって、回廊自身が人間の歩行につれて広くなったり狭くなったりするように感じられ、これまでのように回廊に祭室をつけ加えたという印象はなくなっている(挿図21)。即ち回廊と祭室という別々の部分が一体として、総合的に計面されていることが分かる.ゴシックの初期(12世紀後半)には、ちょっと複雑なプロセスを経て、ロマネスクの特徴的なベイの独立性は再び克服され、教会堂内部はひとつの大きな空間にかえった。これと同時に、袖廊、アブス、回廊、祭室等々が、教会堂に加えられた加算的部分ではなく、これらがより集まって総合的な全体を構成する有機的な部分に変わった(挿図22)。単一空間にかえったゴシックの教会堂は透視の効果として、初期キリスト教のバシリカと同様に、内陣に向かう水平の方向性をも持っている。しかし内陣には、バシリカの半ドームと、厚いアプスの壁に代わって、ステンド・グラスの大窓が正面に見える。多彩な光に輝やくガラスの面は、バシリカの半ドームのようにがっちり
と人の視線を受けとめる代わりに、人びとの注意をガラス面をとおして、光りの源であるガラスの彼方、無限の遠方に導き去っていく.ゴシックの空間は、このように水平と垂直の二つの方向性によって規制されているのであるが、いずれの方向にも建物の壁や天井の限界をこえた無限の彼方に達しているのである。

 シュジュールがサン・ドニの装飾についてのべているところで、さまぎまな宝石の光りについて、これらの多彩な輝きはわれわれの冥想を、非物質約な事柄に導き、われわれをして現世から離れた高い世界にあるかのごとく思わせると言っている。この言葉は、ゴシックの窓にはめられたステンド・グラスの、多彩で強烈な色彩の効果にそのままあてはまる。ステンド・グラスは窓というよりも光る壁というペきであって、教会堂に独特の透明性(トランスパレンシー)を与えている。この透明性は前にのべたゴシックの無限的空間を形成する上で、大きな意味をもっている.それと同時にステンド・グラスは、ビザンチン建築において、モザイクの輝やく面が果たしたよりももっと徹底した壁の非物質化、精神化をなしとげているのである(カラーP.47〜50参照)。


以上ヨーロッパのゴシック建築の成立について、仰高的デザインの発展を中心とし、人体を美の基準とする観念の無視、あるいはデザインの論理性などという観点を加えながら述べてきた.そのおのおのの点について、ここでは充分には論じられなかったけれども、これらがゴシック建築の特質として、同時代のビザンチン建築や、イスラム建築と区別する重要な点であると考えられる。

 このような特質の由来について、コナント教授は、中北部ヨーロッパが昔は鬱蒼たる森林に覆われており、先史時代から中世全期間にわたって材木が建築の主要材料であったことを力説し、この木造建築の伝統がいわゆる background architecture としてヨーロッパの中世建築に反映したのだと説いていることを付記しておく.
 
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関連ブログ
「SD4」1965年4月 特集フランスのゴシック芸術 鹿島研究所出版会
ゴシック空間の象徴性/高階秀爾〜「SD4」1965年4月より抜粋
柳宗玄「ゴシックのガラス絵」〜「SD4」1965年4月より抜粋
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2006年08月13日

第15回東急東横店渋谷大古本市

8月12日(土) イマイチの天気の中、古書市に出掛ける。当初は、富岡八幡宮のお祭りに行くつもりでしたが、御神輿が出るのは日曜みたいなので出店はあえて見なくても・・・と思い、お出掛け先の代替案として決まった。

まだ10時台なのに、結構人がいるんだよね。初日でもないし、もうお盆なのにみんな暇なんだね。もともと古書市に来るのは年齢層が高いのだが、戦中物や戦前の黒系の本もあったのでより年齢層が高めだった。

まあ、先週池袋の西武の古書市の日程をうっかり忘れて行き損ねたので、ついつい来てしまったのだが、正直大した本はない。最近、毎日のように馬場の古書店を覗いているので下手したら、そちらの方が内容的にはイイかもしれない。本郷のところは、先日行ったが、全然駄目だった。やっぱり神田がベストかもしれない。

最近、思うのですが・・・どうも古書市に行っても欲しい本がなかったりする。夏になると、いろいろなところから、本を買え&買えと古書市の目録が送られてくるのだが、それをチェックしていても欲しいものが見つからないのだ。それでも、何か掘り出し物はないかと、ついつい出掛けてしまう私も私なのだが、案の定、時間の無駄で終わってしまうことが多い(涙)。

それもこれもネットの影響なのかな?って思う。興味があるテーマがあれば、それをググって関連するサイトを見つける。特に有用なのは、大学のシラバス等。講義内容の紹介と共に参考文献が挙げられていて何気にこれが有り難かったりする。

そしてそこで紹介されている書名を更にググれば、amazonや出版社の基本情報も分かり、さらに個人のブログなどで書評(うちのブログみたいなの)でおおよその感じを掴む。

あとは、amazonで買うか、図書館を検索して借りて読むかを選ぶだけ。絶版ものでもamazonのmarketplaceや古書店のサイトを検索すれば比較的楽に探せるので、ほとんどそれで買ってしまっていたりする。

便利な反面、欲しいものを入手することができてしまうのでお金は出る一方である。それ故、実に嬉しいが困った問題が生じるのである!そして、ついに机の上の本が崩れ、部屋には未読の本の山と既読の本の山がせめぎ合い、新しく購入した本の置き場に頭を痛めるのであった・・・。

誰か買ってくれないかなあ〜。また、来週にでも不要な本はブックオフにでも売るか。ハードカバーは気に行ったものが多くそれらは、結局手元に残してしまうので部屋は狭くなる一方なのである。黴臭くなり、環境的にも良くないんだけど・・・。

最近、増えてきた未読本をメモしておこう。
SD選書 西欧の芸術 ゴシック上、下 アンリ・フォション
SD選書 ゴシック建築の構造 ロバート・マーク
大聖堂の秘密 フルカネリ
ヴェネツィア人
三銃士
唐沢俊一のカルト王
陀吉尼の紡ぐ糸
芸術新潮 1999年10月 「黒い聖母」詣での旅

今回の渋谷の古書市でGETしたもの。
VICTORIA&ALBERT MUSEUM  Illuminatd Manuscripts
埼玉の伝説 早船ちよ・諸田森二
奈良の伝説 岩井宏美・花岡大学
posted by alice−room at 16:19| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月07日

アイルランドで8世紀の詩編発見

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アイルランドで8世紀の詩編発見
【世界キリスト教情報 第813信より転載】
米紙ニューヨーク・タイムズによると、アイルランド国立博物館は、8世紀の詩編写本がアイルランド中部の沼地で7月20日発見された、と発表した。建設作業員は、掘り当てたものが貴重品かも知れない、と即座に工事を中止したことで結果的に保存状況を大幅に破壊しないで済んだという。
 博物館のパトリック・ウォレス部長は「良く見つかったものだ。アイルランドで当時のキリスト教文化が想像以上に豊かだったことを示している」と語った。
なぜ沼地に写本があったのか、抗争の際の移動中に落とされた可能性もあるが、1200年間も原型をとどめていた謎は解けていない。ただ博物館側は偽造ではなく、「死海文書のアイルランド版」としても良いほどの発見だ、としている。
 博物館は綴じられたページがベラム(羊皮紙)か革で作られたカバーからはみ出ていたこと、詩編は羊皮紙に手書きされていること、発見されたページには詩編第83編がラテン語で書かれていたことなどを明らかにした。現在も発掘工事が続けられているので、正確な場所は明らかにされていない。
うわ〜い、これだから歴史って面白い♪ いつ・どこど・どんなモノが発見されてくるか分かりませんね!

8世紀と言うとアイルランドが「聖者と学僧の島」であった頃ですよね。まさに、どんなものが写本があってもおかしくない時代ですし、興味津々ですね!!

'Irish Dead Sea Scrolls' in bog
【BBCより以下転載】
The discovery of the Psalter, or Book of Psalms, in the south Midlands is said to be one of the most significant discoveries in archaeology for decades.

National Museum of Ireland specialists believe the manuscript may have been lost in transit or dumped after a raid - possibly up to 1,200 years ago.

Museum director Dr Pat Wallace said it was "remarkably well preserved".

"Nobody has found anything like this for centuries - we are going to find it very hard to find people who know about it," he said.

The manuscript was found by a eagle-eyed digger-driver, who acted quickly to ensure its preservation.

Dr Wallace said it was not in pristine condition but some of the writing was still legible.

"When we saw it in the bog, we were able to read one of the psalms in Latin," he said.

He said it was "not so much the fragments themselves, but what they represent, that is of such staggering importance".


"In my wildest hopes, I could only have dreamed of a discovery as fragile and rare as this.


"It testifies to the incredible richness of the Early Christian civilisation of this island and to the greatness of ancient Ireland."

It is believed the extensive fragments are of an Irish Early Christian Psalter, written on vellum.

They were recovered from the bog by a bulldozer last week, and transported to the National Museum's conservation laboratory for painstaking analysis.

Trinity College Dublin head of manuscripts Dr Bernard Meehan said it was the first discovery of an Irish Early Medieval manuscript in two centuries.

"Initial impressions place the composition date of the manuscript at about 800AD - but how soon after this date it was lost we may never know," he said.

Once the manuscript has been conserved, it will be displayed in the Early Christian gallery of the museum, alongside the Ardagh chalice and the Derrynaflan paten.
BBCを初め、ロイターやニューヨークタイムズにも記事がありました。全然知らなかったなあ〜私。ずいぶんと情報に遅れています。

そうそう最新の他の記事を見たら、発見された場所についても発表があったそうです。他にも何か出てこないかな(ワクワク)。

関連ブログ
「聖者と学僧の島」トマス カヒル 青土社
「ケルズの書」バーナード ミーハン 創元社
「図説 ケルトの歴史」鶴岡 真弓,村松 一男 河出書房新社
posted by alice−room at 01:03| 埼玉 ☁| Comment(5) | TrackBack(1) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月02日

ゴシック空間の象徴性/高階秀爾〜「SD4」1965年4月より抜粋

「SD4」1965年4月 特集・フランスのゴシック芸術より抜粋。


ゴシック空間の象徴性/高階秀爾

イタリアの建築史家ブルノー・ゼーヴィ教授は、ゴシック建築の空間の持つ特性を、ふたつの方向性の相剋から生まれるFラマチックな緊張感にあると指摘している。ふたつの方向性とは、言うまでもなく、水平性と垂直性ということである.

「‥・ゴシック建築においては、建物の軸に添った水平方向と天に向かう垂直方向とのふたつの方向性が、無言の、しかし力強い対立の中に共存し、せめぎ合っている。視線は、ふたつの空虚な広がり、ふたつの対立する主題に、同時に惹きつれられるのである….」(『建築の見方』1959年刊)。

 だが単にふたつの方向性の相剋ということであれば、すでにロマネスクの時代に、その萌芽を見てとることができる。いやさらに時代をさかのぼって、8世紀から10世紀にいたるいわゆる「前ロマネスク時代」に、きわめて素朴なかたちながら同じ問題が提出されていたといってよい。東ローマ帝国からバジリカ式のプランを受け継いだイタリアの建築家たちが、例えばプレシアのサン・サルヴァトーレ教会で、あるいはミラノのサン・ヴィンツェンツオ・イン・アラート教会で、合唱壇の天井を身廊部のそれよりもひときわ高く作ろうと試みたとき、ラヴェンナのサン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会に見られるような一貫した水平方向のリズムは、突如として切断されてしまった。ゴシック空間の持つふたつの方向性の相剋は、この時にすでに予告されていたのである。

 したがってゴシック空間の持つ特性は、単にふたつの方向性の共存対立のみにあるのではない。その共有対立が、人間の尺度を越えた次元でぎりぎりの均衡を実現している点にこそあるのである。

 ゼーヴィ教授は言う。「…建築の歴史においてはじめて、芸術家たちは人間の尺度と挑戦的な対立関係にある空間というものを構想した。それらの空間は見る者の心の中に観照的静謐さをもたらすのではなく、不安定さと、異様な情動効果と、矛盾する呼びかけを、すなわち葛藤状態を生み出すのである・‥」。(同上)
 ロマネスクの建築空間は、人間をそのまま受け入れ、包みこんでくれる。

どんな山奥にある修道院でも、ひとたびその中に足を踏み入れれば、われわれの心はその空間と共鳴し、同調して、充実した対応関係が生まれる。空間は人間を包みこむと同時に人間によって満たされ、人間は空間に取り囲まれながら空間を所有する。あえて言えば、そこには人間と建築とのひそかな共謀閑係が成立するのである。

 だがゴシックの大聖堂の空間は、町の真中にありながら冷たく人間を拒否しているように思われる。払はポーヴェの大聖堂の内陣に立って、その天井を支えるアーチを見上げた時の畏怖に似た感情を、はっきりと思い出すことができる。ほとんど丸ビルの2倍に近い高さの何もない空間が、私の頭上に傲然とのしかかっているのだ。もしそれが天に向かって開かれているものであったなら、私は感嘆はしても恐れはしなかったに違いない。無限の広がりと結びつくことによって空間は消滅し、空虚だけが残るからである。だがポーヴェのあの大聖堂の内陣は、天に向かって聳えながら、天に向かって閉ざされていた。閉ざされることによって、空間というものの重みをまざまざと感じさせてくれたのである.

 巨大な空間の前で人間が小さく感じられる――、そのような単純なものではない.人間が小さく感じられるのではなく、私自身が押しつぶされ、否定されてしまうのである。小さなものが大きなものを前にして感じる恐れではない。自己の仝存在が消されてしまうことに対する畏怖である。底知れぬ深淵というものがあるとすれば、その緑に立たされた時に覚える感情がそれに似たものであろう。かぎりない喪失感に捉えられながら、人間は天に向かって落ちて行くのである。

 だがもちろん、人間の尺度を越えたスケールというものも、ゴシック以前になかったわけではない。エジプトにおいても、巨大なものへの憧れは存在していた。超人間的な尺度ということだけでは、ゴシックをその他の建築空間から区別する指標にはならない。もしゼーヴィ教授の指摘するとおり、ふたつの方向性の対立葛藤と、超人間的なスケールというものがゴシック空間の特性であるとしても、それらのいずれかだけでは、ゴシック空間の真の独創性は理解し得ない。重要なのは、それらふたつの特性――それまで一度も同時に存在したことのないふたつの特性――が、ゴシックの大聖堂のなかにひとつに統一されて存在しているということである。その両者が同時に実現されているという点にこそ、ゴシックの建築家の偉大な創造を読みとることができるのである。

 ではそれら二つの特性はどのように結び合わされ、そしてその空間はどのような意味を持っているのだろうか。

 第一の問いに答える前に、われわれはまず建築の内部空間における方向性のあり方と意味を探らなければならない。すでに触れたように、方向性を持った内部空間は、キリスト教の教会堂とともに登場した。方向性というのは、単に動線が確立しているということだけではない。確立された動線が、たしかな意味づけを与えられているということである。別の言葉で言えば、空間が単なる物理的場ではなくて、精神的価値を与えられているということである.しかも、そのような「意味づけ」は、存在する空間と無関係に外から与えられたのではない.空間そのものが自己の意味づけに参与している。空間が自己自身を超えているのである。

 そのことは、初期キリスト教の時代の代表的バジリカ・プランの教会堂、例えばローマのサンタ・サビーナ教会、またはラヴェンナのサン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会と、その原型となったローマ時代のバジリカ建築、例えばバジリカ・ウルピア(2世紀初頭)またはボンベイのバジリカとを比較してみれば、明らかであろう。

 ローマのバジリカ建築というのは、さまざまなヴァリエーションはあるにせよ、基本的には、四面を壁で囲まれた長方形のプランの内部に天井を支える柱列を持ったものである。入口は普通の場合、ふたつの長辺のそれぞれ中央に設けられている。4辺を壁で囲うのは、外部から切り離された建築空間を作り出すためである。内部に柱列があるのは、むろんその内部空間をできるだけ広いものにするためであったろう。バジリカの起源については、取引場、裁判所、宮廷儀式場等、さまざまな説がなされているが、いずれにせよ大勢の人びとが集まって何かをするための集会場であったことはたしかである。初期キリスト教は集会場としてのこのバジリカの機能を巧みに利用して自己の教会堂の基本プランを定めた。言うまでもなく教会堂は大勢の信者が集まってさまざまな儀式を行なうための場所であり、それも俗世界からは切り離された、すなわち外部から遮断された神聖な場所であった。パジリカという形式がこの目的のためにまことに都合よかったことは言うまでもない.

 先ほど挙げたサン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会とボンベイのバジリカのプランを比べてみると、両者は(スケールはもちろん異なるとしても)いずれも基本的に同じ原理にもとづいて成立しているように思われる。しかし、それでいて両者のあいだには、ひとつの根本的な差異がある。

 バジリカ建築では、入口は長辺の中央にある。その入口から入ったとき、内部の空間は左右に均等に存在している。それは人間が一歩足を踏み入れた時から、中心点の左右に等しく分割された安定した不動の空間を見せる.このことは、入ロが4辺のそれぞれ中央に、合計四つある場合でも基本的には変わらない。四つの辺に囲まれた空間は、お互いに向かい合う2辺の中心を結んだ長短2本の軸線のそれぞれに対して相称であり、したがってそれら2本の対称軸の交わる点に1箇の中心を持つ.すなわちそれは、どんなに大きなスケールを持っていようと、本質的に安定した不動の空間なのである。

 これに対し、サン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会は、長方形の長辺はすっかりこれを閉ざし、短い辺の一方に半円形のアプスを、それと向かい合うもう一方の辺に入口を設けた、一見きわめてささやかな変化である。建物の構造は基本的にはいささかも変わっていない。しかも、そこには新しい空間が登場した。人はこの建物の内部に一歩足を踏み入れた時、自己の前に、一番奥の祭壇に向かって一直線にずっとのびて行く空間と直面する。事実そこには、もはや空間をその1点につなぎとめるような中心点はない。西側の入口と東側のアブスを結ぶ軸線だけが存在し得る唯一の対称軸であって、人間は現実においても心理的にも、その軸線に添って入口から祭壇へと進まざるを得ぬ。空間の持つ方向性とは、そういうことなのである。

 教会堂の入ロというのは、言うまでもなく、内部空間と俗世界との接触するところである。あるいは両者の分かれるところと言ってもよい。そして祭壇は神のための場所である。入口から祭壇に向かって人を導く動線は、同時に人間世界から神の世界へと向かう信仰の道でもある。教会堂の内部の空間は、その動線との関係において、より人間世界に近い部分から、より神の世界に近い部分へと「価値づけ」られる。空間の「意味づけ」というのは、まさにそのことにほかならない。

初期キリスト教がバジリカ建築に与えたこのような方向性は、その後のキリスト教建築の基本的テーマとなった。初期キリスト教建築から「前ロマネスク」へ、前ロマネスクからロマネスクヘ、そしてロマネスクからゴシックヘというその発展の歴史は、入口から祭壇へというこの基本的主題の上に組み立てられた壮麗な変奏曲と言ってもよい。いやあるいは、サンタ・サビーナ教会や、サン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会に見られるような、あまりにも単純な一直線の方向性に対して加えられたさまざまなチャレンジ(挑戦)とその解決の歴史と言った方がいっそう正確であるかもしれない。そしてひとつのチャレンジが解決されるごとに、空間はそれだけ豊かさを加えて行くのである。

 最初のチャレンジは、サン・タポリナーレ・ヌオーヴォ教会に見られるような純バジリカ式プランを、ラテン十字形のプランに変えた時になされた。

言うまでもなくラテン十字形のプランというのは、入口から祭壇へ向かう動線に添った身廊部に、祭壇に近いところで左右に袖廊を加えることによって成立する。すなわち、入口から祭壇へと向かう一直線の流れは、身廊と袖廊の交わる部分において、文字通り十字路に出会ってせき止められる。西から東へ向かう身廊の方向性に対して、南と北に向かう紬廊の方向性が待ったをかけるのである。それは、人間の世界から神の世界へと向かう基本的方向性が出会った最初の難問であった。

 しかもその難問は、当時の屋根の架構がカマボコ型の円筒穹窿に頼っていたことから、いっそう困難にさせられた。身廊から祭壇までをずっと覆う円筒穹窿と、抽廊を南から北へ覆う円筒穹窿との交差する場所をいかに解決するかという問題である。

 ラテン十字形のプランが提出したこのチャレンジを正面から受け止めて、さまざまの試行錯誤の後ついにこれを解決したのは、オットー朝の建築であった。その過程をこまかく跡づける余裕も必要も今はないが、詳細はルイ・グロデッキーの優れた研究『オットー朝建築』Louis Grodecki, Architecture ottonienne,Paris,195 を参照していただけばよい.ここではただ、その課題の最も優れた解決のひとつとして、例えばあのヒルデスハイムの聖ミハエル教会が挙げられることを指摘するにとどめる。

 ラテン十字形プランのチャレンジを解決したオットー朝建築は、その解決のゆえに今後はあらためて第2のチャレンジをもたらす結果となった。身廊と紳廊との交差部分を高くすることによって導入された垂直性のリズムの挑戦がそれである。ラテン十字形プランが先ずもたらした問題は、入口から祭壇へと向かう方向性を、同一水平面においてせきとめようとする袖廊の方向性であった。だが第2のチャレンジは、入口から祭壇へと向かう動きを同一垂直面でせきとめようとする。南北に走る袖廊の方向性が、西から東へという基本的な方向性を曲げてはしまわないまでも少なくともその流れに対するブレーキとなったように、垂直方向に向かう上昇のリズムも、基本的方向性を曲げてしまわないまでも、少なくともその流れに対するブレーキの役割は果たす。それにもかかわらず基本的方向性を保ち続けようとすれば、垂直方向のリズムを受け入れながら、そのリズムをも基本的方向性に参加させなければならない。すなわち、壁から天井までを含めて、内部空間全体を新しく有機的に組織しなおさなければならない。ロマネスクの建築家たちが行なったのは、まさにこのことにほかならなかったのである。

 サンタ・サビーナ教会にしても、サン・タポリナーレ・ヌオーヴォにしても、その内部空間はただ軸線の方向においてのみ組繊されている。入口から祭壇へと向かうアーケードの美しいリズムは、天井とは完全に切り離されている。だが例えばヴェズレーの聖マドレーヌ教会においては、入口から祭壇へと向かう身廊両側のアーケードを構成するアーチは、そのまま壁の上部から天井までを組織する基本単位となっている。ロマネスクの建築においてはじめて、内部空間はひとつの生きた有機体となるのである。

 水平面における第1のチャレンジ、垂直面における第2のチャレンジに続いて、ゴシックとともに第3の、そして最後のチャレンジが登場する。それがスケールのチャレンジである.

 ゴシックの壮大な大聖堂を生み出した技術は、原理的にはロマネスクの建築家にも知られていなかったわけではない。事実、アーチの出発点における水平力を弱めるための尖頭アーチの使用も、屋根の荷重を壁の一部に集中する技法も、時には筋骨穹窿まで、ロマネスクの建築に指摘することができる.

したがって、ゴシックはロマネスクが初歩的なかたちで試みたものを完成させ、徹底させただけであり、それゆえゴシックはロマネスクの延長線上にあるという見方も、技術的側面に関するかぎり、それほど見当違いとも言えないであろう。だが、その結果生まれてきたゴシックの空間は、決してロマネスクの空間の延長線上にあるわけではない。両者のあいだには、単なる「程度の差」以上に、本質的な「質の羞」があるのである。

 そのような「質の差」は、スケールの変化によってもたらされた。建築においては、単なる尺度の差が、時に決定的な次元の羞をもたらす。それは洋服のサイズのように、同じ型が大きくなったり小さくなったりするのではない.大きくなり、あるいは小さくなることによって、型そのものの意味が違ってきてしまうのである。ゼーヴィ教授の言菜を借りるなら、「ギリシャの神殿を半分に縮少すれば、それは単なる玩具になってしまう。また倍に拡大すれば、見るに堪えないネオ・ヘレニズムの産物となってしまう」のである。

 ロマネスク建築からゴシック建築への内部空間の拡大は、このような「質的変化」をともなうものであった。基本的には、ゴシックの建築においても、ロマネスクの場合と同じように、水平方向と垂直方向と、ふたつの方向性の統一が課題であった。だがその統一が人間の尺度を越えたスケールにおいて求められるところに、ゴシックの空間のドラマがある。

 初期キリスト教時代や、前ロマネスク時代においてはもちろんのこと、ロマネスク時代においても、建築の各部分はそのまま人間の尺度と結びついていた。西正面を入ってから祭壇の方へ進むにつれて、アーチも、壁も、窓も、人間の歩く動きをそのまま受け止めながら空間を展開して行く、人はロマネスク建築の内部においては、まさしく自分のために造られた空間の中に抱かれているという安心感を持つ。だがゴシックの建築においては、そのスケールは冷たく人間を拒否する.拒否された人間は、眼の前に広がる巨大な空間に暈惑されて、ほとんど不安に近い感情を覚える。

 もちろん、そのような不安感は、単にスケールの大きさだけからくるのではない。われわれはローマのパンテオンやコロセウムに対しては、決して不安も、めまいも感じないからである。また、エジプトのビラミッドを前にして不安を覚えるものもあるまい。ローマやエジプトの建築は、巨大ではあっても、それ自身で完結し、安定し、静止している。別の言い方をすれば、自己の中に中心点は持っていても、方向は持っていない。したがってわれわれは安心してその巨大さを嘆賞することができるのである。

 だがゴシックの内部空間は、それ以前の教会堂と同じようにはっきりした方向性を持っている。方向性を持っているということは、それ自身で完結したものではなく、人間の参加を要求するということである。われわれはロマネスクの建築の場合と同様に、ゴシック建築においても、建築空間が潜在的に持っている動きを、自から実現してみたいという衝動に駆られる。だがそのとき、空間はその超人間的なスケールによって人間の参加を拒否する。人間を誘いながら人間を拒否する、そのような不気味な冷たさがそこにはある。
人間の方から言えば、引きずりこまれたいという欲求と、しかしそこには人間を受けとめてくれる何ものもないという不安とを同時に、同じくらい強く感ずる。ゼーヴィ教授のいう「不安定さと、異様な情動効果と、矛盾する呼びかけ」とは、おそらくこのようなものに違いあるまい。

 ではゴシックの建築空間は、不安定と矛盾に満ちたものであるのか。むろんそうではない。それはお互いに相対立するふたつの方向を極度におし進めながら、最後のぎりぎりのところで見事な均衡を保っている。ロマネスク空間においては、軸線に添った水平の方向性も、上に向かう垂直の方向性も、ともに人間の尺度に結びついていた。ゴシック空間においては、水平性も垂直性も、いずれも人間の尺度を越えたスケールで実現されている。無限に天空に落ちて行くようなその垂直方向の動きを辛うじて支えているのは、同じようにかぎりなく奥に向かって進んで行く水平方向の動きだけである。そこではもはや人間的なものを媒介とするのではなくて、空間そのものが曲芸師のような微妙な均衡のアグロバットを演じているのである。

 とすれば、ゴシック空間は、お互いにバランスを保ち合っているこのふたつの方向のいずれかが欠けても、たちまち均衡を失してしまうであろう。今にして私は、あのポーヴェ大聖堂の内陣で私の感じた畏怖を、はっきりと理解することができる。その畏怖は、単にフランスで最も高いその内部空間の高さだけに由来するのではない。その高さの重みに対抗し得るだけの水平性を持たないということが、何よりも大きな理由なのだ。ポーヴェの大聖堂は、1247年に起工されて以釆、多くの困難を重ねて合唱壇とその周囲の部分だけを完成したのみで、今日にいたるまで身廊部は造られていない。人間離れのしたその「高さ」の重みを支えるに足るだけの水平性の力を、それはついに持ち得なかった。当然その中に入った者は、その「高さ」の重みを一人間の尺度ではとても支えきることのできない空虚な重みを一一身に引き受けねばならない。私の感じた無力感と畏怖とは、そのような努力の空しさに対する絶望感からきたものではなかったろうか。

ゴシック空間の持つ圧倒するような力が、実はふたつの相対立する方向性の葛藤と均衡の上に成り立っているものであることを、ゴシックの建築家たちはほとんど本能的に理解していた。事実、12世紀中頃からほぼ百年間にわたる探求の時期は、これらふたつの方向性を、いかにしてバランスを保たせるかというさまざまな可能性の追求をはっきりと示している。もちろんそのバランスというのは単なる妥協であってはならない。両者の力をそのぎりぎりまで発揮させながら、しかも最後の一点で均衡を保たせるような、そのような解決でなければならない。当然、探求期のゴシック大聖堂は、それぞれの方向性をできるだけ強調しようとする傾向を見せている.その結果、シュジュールのサン・ドニ教会から始まって、「古典的ゴシック」の最も完成されたかたちと言われるアミアン大聖堂にいたるまで、その間のゴシック大聖堂群は、そのプランにおいてすでに、軸線に添った水平性を強調するものと、逆に垂直性を強調するものと、はっきり二つのグループに分けることができる。 

ひとつは、西正面入口から祭壇まで一直線に向かう方向性を強調するあまり、裾廊すらなるべく目立たないように、時には完全に身廊部の中に取り込んでしまって、垂直方向のシンボルである尖塔は、入口両側のふたつだけにかぎろうとする傾向である。すでに、1140年頃から造営され始めたサンス大聖堂のプランが、ほとんど申訳程度の袖辟を持つだけで軸線方向を極度に強調しているし、1170年頃に起工されたマントのノートル・ダム教会も、1220年頃に起工されたパリのノートル・ダム大聖堂も、同じように「神廊拒杏」と「塔の制限」という傾向を見せている。そしてその流れは、バリのノートル・ダムに対する対抗意識から造られたプールジェの大聖堂にいたるまで、明白にあとを引いているのである。

 これに対し、ほぼ同じ頓に、東西の軸線の方向性を故意に切断しようとするプランが、一連の教会堂にはっきり認められる。西正面から東側の祭壇まで向かう水平の方向性を妨げるものは、すでに見たとおり、ひとつは南北に走る袖廊の強調であり、もうひとつは垂直性の強調である。事実、早くも1160年、サンス大聖堂よりわずかに遅れて着工されたラン大聖堂のプランが、その傾向を強く見せている。袖廊は思い切って南と北に突き出され、その上ご丁寧に、西正面入口の塔と同じ高さの塔がつけられている.もともとラン
の建築家の考えでは、このような塔を全部で七つ建てるつもりであったという。しかしそれと同時に、身廊両側の壁面櫓成を見てみると、プランにおいて水平性を強調しているサンス大聖堂では、主要な基柱が床から天井アーチの出発点まで途中で切れることなく1本に続いており、したがって壁面は2本目毎の基柱によって垂直に区切られるという、プランとは逆の垂直のリズムを見せており、またプランにおいて垂直性を強調しているラン大聖堂では、アーケードを支える基柱とその上の円柱がはっきり別になっており、その上、
アーケード、ギャラリー、トリフォリウム、窓と4層に分けられた壁面の各層の項目の帯が柱をまわってずっと水平に続いており、つまりプランとは逆に水平性を強調するという構成を見せている。ここにも、ゴシックの建築家たちの微妙なバランスの感覚を見てとることができるだろう.

 ランにおける垂直性強調の傾向は、ただちに、シャルトル、ランスによって受け継がれた.シャルトレ大聖堂(1194年頃起工)の最初のプランは、全体で9本の塔を考えているし、ランス(1211年起工)ですら、7本の塔が計画されていた。つまり12世紀後半から13世紀初頭にかけてのゴシック空間の探求は、軸線方向の水平性の強調か、あるいはそれに対する抵抗かというふたつの流れを持っていたのである。

 このようなふたつの流れが、ようやくひとつに統一されたのは、アミアンにおいてであった。事実1220年に起工されたアミアン大聖堂のプランは、塔は西正面の2本にかぎり軸線の一貫性はこれを保ちながら、身廊部は3廊形式、袖廊部より奥は5廊形式を採用し、その境目に階段をつけて袖廊の意味を強調するという巧みな解決方法を見せている。アミアン大聖堂のプランが、ゴシック建築の「古典的なるもの」と考えられるのも決して偶然ではない。

 同じような矛盾対立する要素の葛藤と均衡は、その他の部分にも数多く見られる。身廊両側の壁のエレヴェーション・プランがそうであり、それと関連して基柱の柱身の構成がそうである。だがここでは、もうひとつの例として、西正面都におけるバラ窓のコンポジションを挙げよう。

 天に向かって高く聳える尖塔と並んで、バラ窓はゴシック建築において最も人眼につくものであり、最も華やかな存在である。しかしながら、実はこのバラ窓は、ゴシック建築の本質と正面から対立するものであった。なぜならば、水平性、垂直性いずれにおいても、「方向性」を生命とするゴシック空間において、バラ窓のように自己完結的な円形は、それ自身「方向性」を拒否するからである。はたして、バラ窓の登場は、とくに西正面部のエレヴェーション構成において、大きな問題を提起した。

 もともと西正面部の窓は、少なくとも12世紀初頭までは、建築の内部空間をそのまま外に向かって翻訳するという形式をとるのが建前であった。バラ窓の登場は、この原則に対する真向うからの挑戦であった。

 バラ窓の壮麗な輝きを西正面部に取り入れようとしたのは、サン・ドニのシュジュールであった。1140年に献堂式の行なわれたこの記念すべき建物の正面には、身廊と側廊との境界を示す太い控壁の間、尖頭アーチを持った従来の3列窓の上に、ゴシック最初のバラ窓が見られる(現在のサン・ドニ西正面は、19世紀の修復)。それはまだ、正面部の中心となるほど大きくはないが、しかしその後の輝かしい発展を予想させるには充分のものであった。

 ところが、このバラ窓をできるだけ大きく、できるだけ輝かしいものにしようとする要求は正面部全体の構成にさまざまの問題をもたらす。第一にバラ窓をできるだけ大きくするとすれば、理論的には身廊の幅いっぱいまで広げることができるはずである。しかし、バラ窓をそこまで大きくすると当然その両側の控壁は左右におしやられて、ただでさえ狭い側廊部正面をいよいよ圧迫することとなる。その結果、正面部全体は中央のみ広くて左右が窮屈になるというアンバランスを生じる。といってもし、必要な控壁の幅だけバラ窓の直径を小さくするとすれば、窓が小さくなるという点は別としても、左右の狭くなった分だけ上下にも狭くなるので、バラ窓上下の空間がぶざまな空きを見せることになる。その空間を適当に埋めようとすれば、左右の側廊都正面とは無関係の構成にならざるを得ない。すでにサン・ドニの正面部がこのようなアンバランスの危険を暗示しているし、サンリスにおいては、その危険は現実のものとなっている。サン・ドニに続くゴシック教会堂建築家たちの努力は、この矛盾をいかに解決するかということに向けられた。

 その解決において、最も幸運であったのは、パリのノートル・ダムの建築家たちであった。この場合は、正面から見ると三つの入口があって3廊形式を暗示しているように見えながら、実は、プランから明らかなように、2重の側廊を持つ5廊形式の身廊部を持っているということが、問題を自然に解決してくれたのである。すなわち、中央バラ窓をいくら大きくしても、左右の側廊部は普通の2倍の幅を持っているので、決して狭められた印象を与えない。むしろ、全体は見事に3分された調和あるバランスを示すことになる。
しかしながら、本来5廊形式である建物に、3廊形式の建物のための正面部をつけるということ自体が、いわば誤魔化しであった。それは、フランスの建築家たちがつねに求めていた内部と外部の対応という合理性に背くことだからである。

 パリに対して、ランの建築家たちはもう少し正直であった。そして正直なだけに、いささか不器用な解決法を考え出した。彼らは、バラ窓は充分に広くして、しかも左右の側廊入口にも必要な幅を与えるため、身廊都と側廊部の境の 控壁を途中から切断して、上部のバラ窓の両側は左右に広く、逆に下部の門扉の部分はそれよりも狭くするという遣り方を採用したのである。ランの大聖堂西側正面部を飾るあの巨大な張出しポーチは、控壁が下から上まで1本に続いていないというみっともない状態を覆い隠すために無理につけ加えられたものにほかならない。

 マントにおいては、もっと短刀直入に、中央の部分を実際の身廊よりずっと狭くするという解決法をとっている.しかし、これは実は最も単純で、しかも最もまずい解決であった。なぜなら、バラ窓はずっと小さくさせられながら、それでもなお左右の側廊部門扉もやはり充分な幅を与えられておらず、結局どっちつかずの中途半端なものになってしまっているからである。

 この難問はアミアンにおいてすら完全には解決されていない。他のゴシック大聖堂に比べれば比較的幅の狭い身廊を持つこの大聖堂では、身廊部いっぱいにバラ窓をとってもなお正面部のエレヴェーションを充分に埋めることができず、結局バラ窓と入口門扉の間に普通単層で置かれる「ギャラリー」を人像のあるものとないものと2層に重ねて置かねばならなかったからである。

 このバラ窓と正面部の矛盾の最終的な解決は、こんどはランスにおいて果たされた。ランスの建築家たちは、内部の構造をそのまま反映する従来の尖頭アーチの窓をそのまま正面部に保ちながら、その尖頭アーチの窓の内部にバラ窓を内接させるという離れ業をやってのけたのである.これによって正面部は、内部の構造を正確に反映しながら、しかも完全なバラ窓を有し、その上、バラ窓と入口門扉の間の空間にも、色ガラスを配するという成果を得ることができた。この解決法は、現在破壊されて残っていないサン・ニケーズ教会(1230〜1263年頃)においても、大聖堂においても採用されている.

ゴシックの建築空間は、あらゆる部分でこのような矛盾対立とその克服とを見せている。プリンストン大学のパノフスキー教授は、そこに、相矛盾する命題を積み重ねながら一段と高い次元で解決を求めるスコラ哲学の思考法と同じ精神構造を見ている(『ゴシック建築とスコラ哲学』Erwin Panofsky,Gothic Architecture and Scholasticism,London,1957)。ゴシックの大聖堂が、トーマス・アクィナスの『神学大全』に見られるような整然と秩序づけられた体系の反映であることは、これまでにもしばしば指摘されたが、それ以上にゴシック空間は、当時の精神的風土をそのまま表現しているのである。

関連ブログ
「SD4」1965年4月 特集フランスのゴシック芸術 鹿島研究所出版会
「ゴシック建築とスコラ学」アーウィン パノフスキー 筑摩書房
「カテドラルを建てた人びと」ジャン・ジェンペル 鹿島出版会
「フランス ゴシックを仰ぐ旅」都築響一、木俣元一著 新潮社
「ゴシックとは何か」酒井健 著 講談社現代新書
「アミヤン大聖堂」柳宗玄 座右寶刊行会
「シャルトル大聖堂」馬杉 宗夫 八坂書房
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2006年08月01日

ゴシックのガラス絵 柳宗玄〜「SD4」1965年4月より抜粋

著作権が切れていないので、厳密にいうと問題があるのですが、あくまでも個人的なメモとして以下、「SD4」1965年4月 特集フランスのゴシック芸術より抜粋。

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【ゴシックの絵ガラス/柳 宗玄】絵ガラスの美
 
15世紀の大思想家である聖トマス・アクィナスが、「美とは眼を喜ばせるもの」(「神学大全」1)と定義づけたとき、彼は、具体的には何を考えていたのだろうか。彼の世紀は、ゴシックの大聖堂の世紀であり、それを飾る壮麗な絵ガラスの世紀であった。この世の何にも増して美しきものとして、彼は同時代のすべての人びとと共に、絵ガラス窓を考えていたに違いない。しかし、この絵ガラスを、「眼を喜ばせるもの」という程度に評したとすれば、それは、われわれには甚だ物足りないように思われる。

 今日、パリのサント・シャペルやシャルトル大聖堂の絵ガラス窓を前にして、われわれの受ける感動は、たんに喜びというようなものではない。およそ色彩芸術にして、これほどの強烈な印象を人間の視覚に与えるものがあろうか。色彩画家といわれるいかなる巨匠の大作とても、このゴシックの絵ガラスを前にしては、たちまち色褪せるであろう。金銀宝石(少なくともカロリング朝時代までは、これが第一芸術の素材であった)の輝きをもってしても、この色ガラスの絢爛たる輝には、比すべくもないであろう。それはまことに、色彩芸術の極致である。たんに芸術といわず、人間のなせる美の極致である、それを前にして、身のしびれるような強い感動を覚えない者はいまい。それは同時に驚愕であり、讃歎である。ともかくそれは、喜びというような程度の感情を遥かに超えたものである。この対象は、われわれがそれを手のうちにとってその美を味わい喜ぶには、あまりにも壮大である。ゴシックの絵ガラスは、むしろその巨大な掌の中にわれわれを掴みとり、それわれを圧し潰してしまう。その大いなる力の前にあって、われわれはほとんど自らの存在の意識をも失ってしまう。

 このとき、対象を感受するのは、もはやわれわれの眼ではない、心である。われわれの心情は地を離れ、遠く無限の天界に飛翔する。それは、同時に聖なるものの直観である。

 かくて絵ガラスは、本質的に宗教芸術なのである。それは、聖母子を表わしているからというのではなく、キリストの説話を描いているからというのでもなく、まさに色彩の歌い上げる絢爛たる叙情詩によって、宗教芸術なのである。神と無縁な者も、ゴシックの絵ガラスを前にしては、その宗教性を認めざるを得ないだろう。

 いったい、何故に、この絵ガラス芸術は、見る者の心をかくもゆさぶるのか。そこには、いかなる芸術の、そして技術の秘密があるのか。そしていかなる情熱が、この芸術を生み出したのか.

光と色彩の神学

ここでわれわれは、まずこの絵ガラスが作られた時代の人びとの言葉に耳を傾けよう。

 シャルトルの神学校長であったロワッスィのベテルスは、1200年頃こう書いている。「教会にあるガラス窓、太陽の明るさを透過させるガラス窓は、聖なる書を意味する。それは、われわれを照明することによって、われわれから悪を追い払ってくれる。」またほぼ同時代の著名な典礼学者、ドゥランドゥスは言う。「ガラス窓は聖なる書である。それは、真の太陽なる神の光を教会の中に注ぎ込む。つまり、それを民衆の心の中へ注ぎこんで、これを明るくするのである。

 これらの言葉をまとめると、絵ガラスは、たんに人間の感覚を楽しませる芸術品なのではなく、さらに深く、人間の心の奥深くまでに作用して、それを道徳的宗教的に浄化する力をもつ「聖なる書」である、ということになる。

ここで「聖なる書」というのは何か。「聖書」とは旧約新約の書をいうのであろうか。絵ガラス窓が「聖なる書」として、人びとの心を浄化するとすれば、それは絵ガラス窓に表現された聖書の主題の意味ゆえにであるか。それは、聖書の文字を読むのと同じ効果をもつものなのか。

 前述の神学者たちは、明らかに教会の絵ガラス窓一般について語っているのだ。その窓は、今日残るものを見ても、かならずしも聖書の場面だけを表わしているのではない。シャルトル大聖堂の例を見ると、聖人伝の場面も数多い。暦を示す十二宮の図像もある。さらに窓を寄進した組合の人びとの働く姿も、ほとんどすべての窓の一部に見られる。それらすべてが、「聖なる書」であるとすれば、その「聖なる」所以は、その主題にあるのではなく、その輝く色彩の効果にあるといわねばならない。ここでは、美が同時に聖であるのだ。当時の人びとが、主題の意味はともかく、給ガラス窓の美しい色彩の輝きを、そのまま神の光として見たことは、明らかである。

 神が光であるという考えは、なにもゴシック時代特有のものではない。東西両洋を問わず、たいていの宗教にこの種の考えが認められるが、西洋でもオリエント・ギリシャ各文明を通じて神=光(太陽あるいは月)の信仰が見出される。そういった異教の痕跡は、キリスト教の中にも明瞭に認められる。

 聖ヨハネ福音書にも、神は「すべての人を照らす真の光(1の9)という文章が見られ、聖アウグステイヌスも、神は「光のうちの光」という。光についての神学的解釈は、とくに12−13世紀に大いに進み、イギリスの神学者ロバート・グロステスト(1253年死、「光についてDe Luce」の著者)、イタリヤ生れの聖ボナヴェントゥーラ(1221−1274)、「理性論 De Intelligentis」(13世紀中葉)の未詳著者など、その他多数の学者が活動し、また東方のユダヤ・アラビヤ系の思想家達の影響も著しかった。
13世紀のキリスト教神学者達の光についての見解を総合すると、次のようになる。光には、まず「増加 mulplicatio」という特性がある。つまり瞬間的にあらゆる方向へ増加しながら伝播して行く力をもっている。次に、光はすべての行動力、運動の源である。ところで、神は、万物を増加させ、あらゆる運動を起こす力をもつもの、創造能力の根源であり、従って純粋な状態における光にほかならない。

 ひとつの物体においては、その完全性は、その物体に含まれる光の度合に依拠する。物体が輝かしければ輝かしいほど、それは美しく、貴く、そして聖なるものとなる。物体の輝きは、神の輝きへの参与である。

 宇宙にあって最も美しく、最も完全かつ高貴なものは天である。天は最も光に満ちた存在だからである。天は、いわば霊界と感覚界の仲介をなすものである。

 地はこれに対して、最も不透明でかつ重く、最も賎しいものである。しかし、地とても、光のエネルギーと美とを保有しているのである。なぜならば、地中のものを擦り磨くことによって、それに輝きを与えることができるからである。砂や灰からガラスを作ることができるし、また地中から輝く大理石や貴金属、さらには宝石類を取り出すことができるではないか。

 ところで、光がある物体にぶつかって跳ね返るとき、それは「輝き」あるいは「色彩」と呼ばれる。すべての色彩は、多かれ少なかれ輝かしく、またすべての輝きには、多かれ少なかれ、色をもっている。しかし厳密にいえば、輝きは、とくに光る物体がもつものであって、その物体は輝きによって可視的になるのであるし、色彩は、とくに地界の物体を認知できるようにさせるものである。そこで、眼に見える色彩というものは、2種の光の出会いから生まれるものである。そのひとつは、不透明な物体の中に閉じ込められているものであり、他は透明な空間を通って射してくるものである。後者が前者を現実化し可視化するのだが、色彩は、それらの相互的限定から生まれるのである。色彩は、光の量、強さ、純粋さの度合によって、白へ、あるいは黒へと接近する……。

 以上が、ゴシック時代の神学者達の光および色彩に関する理論の要旨であるが、ここから、重要なポイントの幾つかを抽き出そう。まず、光がたんに物理学的だけでなく、形而上学的、さらに神学的に解釈されている点が注目される。光は、物理学的な意味での輝きであると同時に、美であり聖である.

それは、最も純粋な形においては、神そのものである、物体すべても光を含み、その度合に応じて、美しく、貴く、聖なるものとなる。色彩もまた、光の作用によって生まれ、その含む光の度合によって変化する.

 こうして、美しきものとは、輝くもの、輝く色彩をもつものであり、それはまた聖なるものであり、神的なものである。逆にいえば神あるいは聖なるものは、輝くもの、輝く色彩によって可視化され、表現される。つまり、図像学的主題ではなくて、まず素材の性質が問題となるわけである。メロヴイング朝からカロリング朝にかけて、あるいはまた、東方キリスト教社会において、神ないし聖なるものの表現(十字架、聖遺物器、さらには聖杯と聖盆その他)のために、常に金(ときには鍍金された銀)、宝石、ガラス、エマーユなど、色が美しく同時に強い輝きを帯びた素材がもっぱら利用されたのは、そのような素材が、ア・ブリオリに聖なる性格をもつものと解されたからに他ならぬ。

色彩美の探求

こうして、光と色彩が形而上学的、神学的に論じられている限り、芸術は本質的に宗教芸術であった。光と色彩の探求は同時に聖なるものの探求であり、芸術の素材としては輝く色彩をもつものが第一とされたわけである。これは直ちに芸術表現の様式に関連する。つまり素材を扱う場合、作者は、素材における輝きや色彩の効果をいかにして最大限度に発揮させるか、ということに営々その努力を集中する。メロヴイング期からカロリング朝にかけての第一芸術である金宝石細工を見るとよい。それは具象的な主題の表現のためには殆んど利用されず、もっぱら色彩と輝きの効果を最大限度発揮するように工夫されている。それゆえにその形は抽象的なのであり、文様的なのである。

いな、抽象的一具象的、文様的一写形的などという形態の問題は、ほとんどそこでは意識されていない。すべてが色彩の問題であり、光の問題なのである。われわれの時代でさえ、たとえば指輪や首飾りのごとき、宝石をもって人間や自然物を表現するというのではなく、宝石を、ただその輝く色彩の効果を最大限度発揮させるために、美しく磨き上げる。これは、メロヴィング朝以降の中世色彩美術の理念をそのまま今日に伝えているものとして興味深い。

 さて絵ガラス芸術の場合、輝く色彩の美しさが、どのような技法によって探求されているか。まずガラスそのものである。着色以前のガラスである。いかなるガラスが美しいか。われわれの時代のある人びとは、透明な物体としてのガラスの純度を問題にするであろう。しかし科学的に純度の高いものは、美的には無意味である。光線の透過度が高ければ高いほど、ガラスは無に近くなる.これに反して、爽雑物や気泡を含む不純なガラスは、その不純さが、光線に抵抗し、これに強弱を与え、その方向を乱す。その不純性ゆえに、ガラスはその存在性を獲得し、神学的な言い方をすれば、自然光を超自然光に変質させる能力を獲得するのである。

 具体的なガラスの製法に関しては、かのテオフィルスの著なる「諸技芸大要」の第2の書に詳しい。この書はおそらく1100年頃、ドイツのベネディクト派修道士へルマルスハオゼンの、ロゲルスの手になるものと推測されており、われわれの知る絵ガラスの時代(おおむね12世紀中葉以降)とは多少のずれがある。しかしおそらく、技法的には両者はさして隔りがないと思われる。それによると、ぶなと羊歯の灰、および川砂を2対1で混合して用いるという。この種のカリ性のガラスは12世紀に一般的であるが、13世紀に入って、ソーダ性のガラスが次第に使用されるようになった。これによってガラスの純度は増し、厚みも減り、製法は容易になり、14世紀には、前者をほとんど駆逐してしまったが、それによって、ガラスは無性格的なものへと堕してしまった。しかしこの場合、絵ガラス作家が、ガラス製法の科学的な進歩に盲目的に追従して行ったかどうかには、疑問がある。製造の容易なソーダ・ガラスを知っていたにかかわらず、美的効果のゆえに、製法のもっと原始的なカリ性ガラスを選び用いたのだと推測する人もいる。われわれの時代の絵ガラス作家が、故意に不純な分厚いガラスを用いる傾向にあることを思い、また当時の美的理念が輝く色彩の効果という点にまず置かれていたことを考えれば、これは大いにありうることである。

 着色に関しても、非常な配慮がなされたに違いない。たとえば、サファイアを混用したとサン・ドニ修道院長シュジュールが伝えている青ガラスについていえば、とくに12世紀のものが明るく輝き、13世紀に入るとそれがかなり暗くなってくる。良質の着色剤である材料が欠乏したゆえか、製造の秘法が何等かの理由で忘れられてしまったせいか、あるいはまた、色彩の輝きを求める熱情の薄れたゆえか。

 しかし一般に青ガラスは光線の透過度がよい。これに対して透過度の悪い赤ガラスをどのように処理すべきか。そこで当時の人は、特殊な赤ガラスの製法を案出した。簡単に説明すると、赤銅の細片を着色剤に用いて得た赤ガラスの薄層を自ガラスの表面に付着させるのである。こうして色の重い本来の赤ガラスに代わって、光の透過度の高い、美しい赤ガラスを得たのである。

 以上は各々の色ガラス自体の問題であるが、これらのガラスをいかに組み合わせるかとなると、問題は更に複雑である。その複雑さは、タブロー画などの場合の比ではない.なぜならば、それぞれのガラスはその材質からいって、透過する光をさまぎまの異なった仕方で放散させるからである。これについて、19世紀の建築家にして、中世美術史家なるヴィオレ・ル・デュックが、その「建築学辞典」第9巻の絵ガラス(vitrail)の項で、明快な説明を試みている(第1図参照)。つまり、黒い幕に正方形の穴をあけ、そこにさまざまの色ガラスを俵め込んでみると、その輪廓はかならずしも正方形でなくなるのである。とくに青ガラスは青い輝きを輪廓外に放散させる力が強い。光の屈折率の度合いのしからしめるところである。

 実際の絵ガラス窓は、適宜に切った色ガラスの断片を、工字型の断面をもつ鉛の枠を用いて組み合わせるのだが、この場合、鉛枠は、色彩の輪廓を描く黒い線の役割を演ずる。それは、前述のような、色彩の輝きの放散による色彩の混合をある程度防ぐ役割を演ずるわけである。しかし、色彩の放散は、鉛の項界線を超えてなお強烈に四方に作用する場合が多い。ことに太陽光線が強いと、この現象はなお著しくなる。

 およそ相互に隣り合った色彩は、相互に種々の作用を及ぼす。赤一緑、橙一青など、いわゆる補色的関係にある色彩は、静的な状態においては、お互いの色彩価値を強め合う。しかし、それが境界を破ってお互いに侵食し合うとき、そこに色彩の混乱が起こる。

 混乱といったが、それは必ずしも美的にマイナスなのではない。赤と黄とが並び合って、お互いに影響しあうとき(それぞれの色ガラスに放散性がなくても、一定の距離をおいてこれを見るとき、人間の眼の網膜において色彩の相互侵略がなされる)、赤は朱となり、黄は橙色に変じ、それぞれが温かみを帯びてくる。これは、美的効果からいえば、プラスの例であろう。

 赤と青の場合はどうか。青の側は、紫色に変ずるであろう。赤の側は、とくに青ガラスの放散性が態いから、かなり深くその侵食を受け、暗く重い1種の茶色に変ずるだろう。こうして、境界線からかなり離れた部分はともかく、境界線の附近は、混乱した重い色彩によって占められるだろう。

 色彩効果について驚くべく敏感であった中世の給ガラス師たち(おそらくわれわれの時代の画家よりも遥かに敏感であったろう)は、この問題について、極めて巧妙な対策を講じている。ヴィオレ・ル・デエッグの観察によると、色彩の混乱を防ぐ手段として、グリザーユが巧みに利用されている。グリザーユという語はフランス語のグリ(灰色)から派生した言葉で、一般には灰色の濃淡だけを利用して描かれた単色画(中世末紀にかなり現われている)を指すが、絵ガラスの場合、色ガラスにあとから焼きつけられた黒褐色の描線を意味する。つまり、個々の色ガラスの断片を組み合わせて何等かの形象や文様を表現する場合、境界をなす鉛枠は黒く太い線の役割をなすが、人間の目鼻ロ、毛髪、衣の襞など、細部をこれで表現することは、よほどスケールが大きくないと、できない。そこで銅の酸化物などの粉末を液体に溶かしてガラス面に塗りつけ(テオフィルスによれば、銅、ギリシャのサファイア、および緑色ガラスを紫斑岩の板の上で等量に砕き混ぜ、これを葡萄酒あるいは尿で溶いて用いるという)火に入れてこれを焼きつけるのである。

12〜13世紀の作品を見ると、とくに青ガラスの上にグリザーユが多用されているが、これは造光性のよい青ガラスの造光度を抑えて、赤その他の色ガラスとの明るさの均衡を保たせるためと、青ガラスの放散性を抑えて、他の色ガラス(とくに赤)との色彩の混乱を抑えるためなのである。しかしある場合には(第2図)、逆に青に接近する部分に、ある方法によってグリザーユを施し(その方法については第2図の説明参照)、それによって赤の純粋性を保とうとするのである。

 これは色彩の混乱を防ぐためにとられた巧妙な方法のひとつの例であるが、絵ガラス窓に、どのような主題が表現されようと、その色彩の輝きを美しくするために、絵ガラス師たちは、あらゆる工夫をこらしたようである。その工夫の中には、われわれになお解読されぬものが、なお数多く残っているに違いない。

ゴシック建築と絵ガラス

ゴシック時代になぜ絵ガラスが発達したかということは、一般に建築構造の変化によって説明される。建築が支壁構造から骨組構造に移ったため、従来ロマネスク建築に重要な意味をもった壁が次第に消えて、窓と柱との建築に変わったこと、従って壁面に展開される色彩芸術である壁画に代わって絵ガラス窓が発達したのだと説明される。

 しかし、ロマネスク建築の窓にも、絵ガラスが用いられていたことは、古い例としては南ドイツのアウグスブルク大聖堂のもの(1130年頃)を見てもわかる。1140年代以降より、12世紀の遺例はことにフランスに多く、サン・ドニ修道院聖堂(祭室小聖堂)、シャルトル大聖堂(とくに西窓)、ル・マン大聖堂、ポワティエ大聖堂、シャロン・スュール・マルヌ大聖堂などのものがある。それらは、建物の方は、交差穹窿を頂くゴシック建築の性格を強めていったにもかかわらず、絵ガラス芸術の様式としては、ロマネスク的性格が極めて強い。13世紀のもの(シャルトル大聖堂、パリのサント・シャペルおよびノートル・ダーム、サンス大聖堂、ブルジュ大聖堂、イギリスのカンタベリ大聖堂など)は、一般にゴシックと呼ぶに人びとは蹄躇しない。 そして絵ガラス芸術を、ゴシック時代の芸術と考える人は多い。絵ガラス窓が最も発達したのは、量的にいってこの時代だからである。

 しかし質的にみるとき、おそらく何人も12世紀のものを上位に置くだろう.

スケールの大きさこそ13世紀のものに及ばないが、ガラスそのものの明度、色彩効果など、総合的に見て、ロマネスク的な性格の強い12世紀のものは、いかなる他の時代の作品よりも、上位にある。

 思うに、12世紀には窓がまだそれほど大きくなく、人びとは心をこめて色彩効果を探求することができたのだろう。窓が極めて大型化し、また巨大な大聖堂が数多く建造されて、厖大なる数の絵ガラスが要求されたとき(今日残るシャルトル大聖堂の絵ガラスだけでも面積3000平方米を越えるという)、人びとは次第に量産に力を奪われるようになったのだろう。それでも、同時代の神学者達の理論に見られるように、光と色彩の探究に対する誠実な態度は、なお失われなかったのである。この時代には、彫刻の方面では、シャルトル南北両ファサード、アミアン大聖堂、ランス大聖堂などに見られるように、自然主義様式が極度に進んでいたのだった。それにもかかわらず、絵ガラス窓においては、自然主義ないし写実主義はなお全く省みられず、人びとは依然として輝く色彩の芸術の探求へとその誠実な努力を傾けていたのだった。建築はますますこの色彩芸術のために、その舞台を広げて行った。窓を極度に発達させたゴシック建築は、絵ガラス芸術のために生まれ、絵ガラス芸術のために存在したといっても、過言ではあるまい。何故なら、当時の人びとにとっては力は、聖なる光を求めることが、最高の務めであったからである。

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関連ブログ
「SD4」1965年4月 特集フランスのゴシック芸術 鹿島研究所出版会
「ステンドグラスの絵解き」志田政人 日貿出版社
「ステンドグラスによる聖書物語」志田 政人 朝日新聞社
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2006年07月27日

夏の予定表

古書市
・2006/07/27〜2006/08/02 第56回 東西老舗大古書市 京王百貨店新宿店7階大催場 →初日は混んでて失敗。たいした本が無かったが、レジで30人以上並んでいて購入を断念した
・2006/08/01〜2006/08/06 西武池袋本店 夏の古本まつり 西武池袋本店イルムス館2階 西武ギャラリー
・2006/08/11〜2006/08/16 第15回東急東横店渋谷大古本市 渋谷東急東横店西館8F催物場

花火・祭り
・7月28日(金)〜29日(土) 第35回神楽坂まつり 阿波踊り 9:00〜21:00
・7月28日(金)〜29日(土) 地蔵尊盆踊り 増上寺
   17:30 地蔵尊法要、18:00〜21:30 盆踊り※雨天時は7月30日(日)まで順延
・7月28日(金)〜29日(土) 全恵比寿納涼盆踊大会 恵比寿駅西口公園広(アトレ前)
   7:30〜21:30 ※雨天順延 
・7月27日(木)〜2006年7月30日(日) 第25回川越百万灯夏まつり
・2006年7月28日(金)〜8月1日(火)  第22回巣鴨納涼盆踊り大会
・7月29日(土) 隅田川花火大会 → 都内に宿確保済み
・7月29日(土) 新宿エイサーまつり
・7月17日(月)〜2006年8月6日(日) 第55回江戸趣味納涼大会 うえの夏祭り
   江戸風情大道芸(弁天堂)
・8月5日(土) 水天宮 縁日
・8月4日(金)〜2006年8月5日(土) みたま祭り・盆踊り 池上本門寺
・8月12日(土) 東京湾大華火祭 → これはたぶん行かない
・8月22日(火)〜23日(水) 京都 六地蔵めぐり
   伏見六地蔵(大善寺)・上鳥羽(浄禅寺)・鞍馬口(上善寺)・山科(徳林庵)・桂(地蔵寺)・常盤(源光寺)
・8月23日(水) 京都 地蔵盆 京丹後市丹後町成願寺
・8月20日(日)〜23日(水) 京都 西光寺六斎念仏踊り JR嵯峨野線「吉富」駅
・7月15日(土)〜8月27日(日) 国宝「風神雷神図屏風」 京都国立博物館
・8月23日(水)〜24日(木) 京都 千灯供養 化野念仏寺 → 予約してないし、駄目か
・8月23日(水)〜24日(木) 奈良 元興寺地蔵会万燈供養 元興寺 17:30〜21:00

とりあえず、途中までっと。後はまた時間がある時に追加しようっと。
夏はイベントが多くて、本当に忙しいなあ〜。18切符もあるし、他にも行きたいことあるんだよなあ〜たくさん。
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未読本、読みかけ本 メモ

やばい!とってもヤバイ! ここんとこ本を買いまくっていたから、未読本と読みかけ本が溜まってきて、同じ本を買ってしまう危険性が増してきた。

夏は古書市もあるし、お祭りや花火などで忙しいので自分用のメモとして列挙しておかねば。

これから届く本
・プランタン=モレトゥス博物館展「印刷革命がはじまった」図録
・SDフランスのゴシック芸術 鹿島出版会

今日買ってきた本
・フランス中世美術の旅 新潮選書
・三大陸周遊記 角川文庫
・色で読む中世 講談社選書

この一週間内に買った本
・低俗霊DAYDREAM2 角川書店
・フラワーズ1 ソニーマガジン
・十字軍 岩波選書 
・STAND BY み〜ちぇ 講談社
・妖魅変成夜話 平凡社
・神祭 角川文庫


読みかけ本
・京都の祭り暦 小学館
・日本密教 NHKブックス
・キリン伝来考 博品社
・失われたQ文書 青土社
・The Gospel of Mary Magdalene

未読本
・三銃士 上下 岩波文庫
・瘤とり晴明 文芸春秋
・名園の話 同邦社
・お父さんの会社 早川書房
・パリのノートルダム 八坂書房
・ヴェネチア人 河出書房
・日本の蛇信仰 法政大学出版会
・河鍋暁斎 新潮社
・平安建都 集英社
・黄金伝説 角川書店
・皇帝怪奇事件帳 新人物往来社
・ジャンヌダルク処刑裁判 現代思想社
・インドの美術
・鬼の風土誌
・京の四季花ごよみ
・狼男伝説 朝日新聞社
・Mary Magdalene

うわあ〜部屋の中を探せば探すほど、次から次へと出てくる。これらはここ数ヶ月内に購入して読まれないままに埋もれつつある本達。やばいなあ〜。古書市しばらく行くの止めたほうがいいのだろうか???

でも、本当は買いたい本がまだまだいっぱいあるんだけどなあ・・・。

これ以上は、しばらく止めておこうっと。ホコリまみれで体に悪い(ゲホゲホッ)。いくら掃除しても、この本では・・・。部屋の床が抜けないか本当に&本当に心配なんだよねぇ。う〜ん。
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2006年07月23日

川崎大師 略縁起

〜川崎大師でGETしたパンフより抜粋〜
 平安時代、第七十五代崇徳天皇の御代(1123から1141年)、平間兼豊・平間兼乗(ひらまかねのり)という武士の親子が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、 ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。

 兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、 日夜厄除けの祈願をつづけていました。

 ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。

 兼乗は翌朝直ちに海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。この地は「夜光町(やこうちょう)」と名づけられ、大師の浜の古い歴史を今に伝えています。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。

 その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途中、たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、 ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。 これが、今日の大本山川崎大師平間寺の由来(おこり)であります。

 兼乗は、この信仰のおかげで、晴天白日の身となり晴れてふたたび尾張の国に帰任しました。平間寺の開基である尊賢上人は保延二年(1136)弘法大師を篤く信仰されておられた鳥羽上皇の后・美福門院に平間寺開山の縁起を申し上げ、災厄消除と皇子降誕の祈祷を修行されました。その霊験たちまちに現われ、まもなく皇子(のちの第七十六代・近衛天皇)がお生まれになりました。これ、まったく厄除弘法大師のご霊徳と美福門院も殊のほかお喜びになりました。

このことを上皇にご奉告申し上げ、永治元年(1141)近衛天皇のお名によって、平間寺に、勅願寺のご宣旨が下されました。

爾来、皇室のご尊信も深く、以降、徳川将軍家の帰依も篤く厄除弘法大師のご霊徳はいよいよ天下にあまねく関東厄除・第一霊場として善男善女の参詣、あいついで跡をたたず、現在に至っております。
しかし、これを読む限りでは本来的には弘法大師さんと直接関連があったわけではないんですよねぇ〜。前もちょっと触れたけど、時代は中世でしょ。世の東西を問わず、やってることは一緒なんだよねぇ〜。

ヴェズレーでマグダラのマリアの聖遺物をここ掘れワンワンよろしく、発見して大聖堂を作ったのもそうだし、星が指し示した所を掘ったら、出てきた聖ヤコブの骨を祀ったサンチャゴ・デ・コンポステーラも右に同じ。日本の場合は、夢を見て海の光っているところに網をかけたら、大師様の像だもんね。

そしてそれらを祀った教会や寺では、次々と奇跡やらご利益やらが生じるのもまさに一緒。民衆は集まり、熱狂し、さらにその影響は広がっていく。

う〜ん、この類似性は非常に面白いですね。しかも発端の時代は崇徳天皇の時代だもの。未だに日本を、そして天皇家を呪い続けている禍々しい祟り神にまでなられた方だし、まさに御霊会の主役じゃん! 先日の祇園祭のま・さ・に・・・・対象者だし(笑)。

他にも何か面白い縁起ないのかな? 川崎大師。これだけでは、ちょっとインパクト弱いよなあ〜。それなのに、何故あれだけ大きな建物を作れたのか? また、大した来歴もないのによく勅願寺にまで出世したなあ〜。これぐらいの歴史なら、日本中にははいて捨てるほどあるのに、そこの表に出ていないものの方が興味湧くなあ〜。

そもそも血生臭い、崇徳天皇や鳥羽上皇が絡んでいた時の厄除けだからね。それなりに裏がありそうなんだけど・・・。結構、ヤバメの祈祷とかしてたりして・・・ダキニとかさ(ニヤリ)。

関連ブログ
神奈川散策シリーズ〜川崎大師 風鈴市
蒲田温泉・池上本門寺・川崎大師
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2006年06月14日

「ユダの福音書の謎を追う」セミナー

いつもうちのブログを見ていて下さる方に耳寄りな情報をご提供!!

あのナショナルジオグラフィックが「ユダの福音書」についてのセミナーを開催。無料で先着順だから、プラチナもんでしょう♪ 興味がある方、すぐ申し込んだ方がいいと思いますよ。

わざわざ翻訳していた学者を読んでまでやるんだ、えらい力の入れようです。また、本が売れそうです(ニヤリ)。

ちなみに・・・勿論、私も予約しました。友人と一緒に。まあ、詳しくは以下をご覧下さい。

「ユダの福音書の謎を追う」ナショナルジオグラフィックセミナー
【以下、抜粋】
「エジプトの砂漠は、これまで数々の財宝や驚くべき考古学上の発見を私たちにもたらしてきた。そしていま、新たな大発見の知らせがこの砂漠から届いた」
(「原典 ユダの福音書」マービン・マイヤー氏による前文より)

1700年もの歳月、砂漠に隠されたパピルス文書。1970年代に発見された後も数奇な運命をたどり、2001年にようやく我々の手元にやって来た。米国ナショナル ジオグラフィック協会が支援するマービン・マイヤー氏らのプロジェクトチームは一部、こなごなになってしまったパピルス文書の復元・解読に挑戦。この古文書が初期キリスト教会から禁断の書とされた『ユダの福音書』であることがわかった。
復元・解読までにどのような困難が待ち受けていたのか?またこの発見により福音書に残されたいくつかの謎が解明される可能性などについて、当初からプロジェクトに関わってきたマービン・マイヤー氏自ら語っていただきます。

セミナー1
開催日時:2006年7月13日(木) 18:30開演(18:00開場/20:30終了予定)
会  場:日経ホール(千代田区大手町1-9-5日本経済新聞社ビル8階)
定  員:600人

セミナー2
開催日時:2006年7月15日(土) 17:30開演(17:10開場/19:30終了予定)
会  場:中央大学駿河台記念館(千代田区神田駿河台3-11-5)
定  員:360人

※セミナーの内容はどちらも同一です。

● DVD「ユダの福音書」のダイジェストを上映後、マイヤー氏の講演となります。

● 入場無料、事前登録制
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2006年05月21日

ユダの福音書の内容(英文)

アメリカのナショナルジオグラフィックより、メモメモ。
nationalgeographic, Gospel of Judas
ここの英語版をダウンロードすればOK。テキスト付きpdfです。

試訳はこちら。
ユダの福音書(試訳)
THE GOSPEL OF JUDAS

INTRODUCTION: INCIPIT

The secret account of the revelation that Jesus spoke in onversation with Judas Iscariot during a week three days before he celebrated Passover.

THE EARTHLY MINISTRY OF JESUS

When Jesus appeared on earth, he performed miracles and great wonders for the salvation of humanity. And since some [walked] in the way of righteousness while others walked in their transgressions, the twelve disciples were called.

He began to speak with them about the mysteries beyond the world and what would take place at the end. Often he did not appear to his disciples as himself, but he was found among them as a child.

SCENE 1: Jesus dialogues with his disciples: The prayer of thanksgiving or the eucharist

One day he was with his disciples in Judea, and he found them gathered together and seated in pious observance. When he [approached] his disciples, [34] gathered together and seated and offering a prayer of thanksgiving over the bread, [he] laughed.
The disciples said to [him], “Master, why are you laughing at [our] prayer of thanksgiving? We have done what is right.”
He answered and said to them, “I am not laughing at you. are not doing this because of your own will but because it is through this that your god [will be] praised.”
They said, “Master, you are […] the son of our god.”
Jesus said to them, “How do you know me? Truly [I] say to you, no generation of the people that are among you will know me.”

THE DISCIPLES BECOME ANGRY

When his disciples heard this, they started getting angry and infuriated and began blaspheming against him in their hearts.

When Jesus observed their lack of [understanding, he said] to them, “Why has this agitation led you to anger? Your god who is within you and […] [35] have provoked you to anger [within] your souls. [Let] any one of you who is [strong enough] among human beings bring out the perfect human and stand before my face.”
They all said, “We have the strength.”
But their spirits did not dare to stand before [him], except for Judas Iscariot. He was able to stand before him, but he could not look him in the eyes, and he turned his face away.
Judas [said] to him, “I know who you are and where you have come from. You are from the immortal realm of Barbelo. And I am not worthy to utter the name of the one who has sent you.”

JESUS SPEAKS TO JUDAS PRIVATELY

Knowing that Judas was reflecting upon something that was exalted, Jesus said to him,
“Step away from the others and I shall tell you the mysteries of the kingdom. It is possible for you to reach it, but you will grieve a great deal. [36] For someone else will replace you, in order that the twelve [disciples] may again come to completion with their god.”
Judas said to him, “When will you tell me these things, and [when] will the great day of light dawn for the generation?”
But when he said this, Jesus left him.

SCENE 2: Jesus appears to the disciples again

The next morning, after this happened, Jesus [appeared] to his disciples again.
They said to him, “Master, where did you go and what did you do when you left us?”
Jesus said to them, “I went to another great and holy generation.”
His disciples said to him, “Lord, what is the great generation that is superior to us and holier than us, that is not now in these realms?”
When Jesus heard this, he laughed and said to them, “Why are you thinking in your hearts about the strong and holy generation? [37] Truly [I] say to you, no one born [of] this aeon will see that [generation], and no host of angels of the stars will rule over that
generation, and no person of mortal birth can associate with it, because that generation does not come from […] which has become […]. The generation of people among [you] is from the generation of humanity […] power, which [… the] other powers […] by [which] you rule.”
When [his] disciples heard this, they each were troubled in spirit. They could not say a word.
Another day Jesus came up to [them]. They said to [him], “Master, we have seen you in a [vision], for we have had great [dreams …] night […].”
[He said], “Why have [you … when] have gone into hiding?” [38]

THE DISCIPLES SEE THE TEMPLE AND DISCUSS IT
 
They [said, “We have seen] a great [house with a large] altar [in it, and] twelve men—they are the priests, we would say—and a name; and a crowd of people is waiting at that altar, [until] the priests [… and receive] the offerings. [But] we kept waiting.”
[Jesus said], “What are [the priests] like?”
They [said, “Some …] two weeks; [some] sacrifice their own children, others their wives, in praise [and] humility with each other; some sleep with men; some are involved in [slaughter]; some commit a multitude of sins and deeds of lawlessness. And the men
who stand [before] the altar invoke your [name], [39] and in all the deeds of their deficiency, the sacrifices are brought to completion […].”
After they said this, they were quiet, for they were troubled.

JESUS OFFERS AN ALLEGORICAL INTERPRETATION OF THE VISION OF THE TEMPLE

Jesus said to them, “Why are you troubled? Truly I say to you, all the priests who stand before that altar invoke my name. Again I say to you, my name has been written on this […] of the generations of the stars through the human generations. [And they] have planted trees without fruit, in my name, in a shameful manner.”
Jesus said to them, “Those you have seen receiving the offerings at the altar—that is who you are. That is the god you serve, and you are those twelve men you have seen. The cattle you have seen brought for sacrifice are the many people you lead astray [40] before that altar. […] will stand and make use of my name in this way, and generations of the pious will remain loyal to him. After hi another man will stand there from [the fornicators], and another [will] stand there from the slayers of children, and another from those who sleep with men, and those who abstain, and the rest of the people of pollution and lawlessness and error, and those who say, ‘We are like angels’; they are the stars that bring everything to its conclusion. For to the human generations it has been said, ‘Look,
God has received your sacrifice from the hands of a priest’—that is, a minister of error.
But it is the Lord, the Lord of the universe, who commands, ‘On the last day they will be put to shame.’” [41]
Jesus said [to them], “Stop sac[rificing …] which you have […] over the altar, since they are over your stars and your angels and have already come to their conclusion there.
So let them be [ensnared] before you, and let them go [—about 15 lines missing—] generations […]. A baker cannot feed all creation [42] under [heaven]. And […] to them […] and […] to us and […].
Jesus said to them, “Stop struggling with me. Each of you has his own star, and every[body—about 17 lines missing—] [43] in […] who has come [… spring] for the tree […] of this aeon […] for a time […] but he has come to water God’s paradise, and the [generation] that will last, because [he] will not defile the [walk of life of] that generation, but […] for all eternity.”

JUDAS ASKS JESUS ABOUT THAT GENERATION AND HUMAN GENERATIONS
]
Judas said to [him, “Rabb]i, what kind of fruit does this generation produce?”
Jesus said, “The souls of every human generation will die. When these people,however, have completed the time of the kingdom and the spirit leaves them, their bodies will die but their souls will be alive, and they will be taken up.”

Judas said, “And what will the rest of the human generations do?”
Jesus said, “It is impossible [44] to sow seed on [rock] and harvest its fruit. [This] is also the way […] the [defiled] generation […] and corruptible Sophia […] the hand that
has created mortal people, so that their souls go up to the eternal realms above. [Truly] I say to you, […] angel […] power will be able to see that […] these to whom […] holy generations […].”
After Jesus said this, he departed.

SCENE 3: Judas recounts a vision and Jesus responds

Judas said, “Master, as you have listened to all of them, now also listen to me. For I have seen a great vision.”
When Jesus heard this, he laughed and said to him, “You thirteenth spirit, why do you try so hard? But speak up, and I shall bear with you.”
Judas said to him, “In the vision I saw myself as the twelve disciples were stoning me and [45] persecuting [me severely]. And I also came to the place where […] after you. I
saw [a house …], and my eyes could not [comprehend] its size. Great people were surrounding it, and that house a roof of greenery, and in the middle of the house was [a crowd—two lines missing—], saying, ‘Master, take me in along with these people.’”
[Jesus] answered and said, “Judas, your star has led you astray.” He continued, “No person of mortal birth is worthy to enter the house you have seen, for that place is reserved for the holy. Neither the sun nor the moon will rule there, nor the day, but the
holy will abide there always, in the eternal realm with the holy angels. Look, I have explained to you the mysteries of the kingdom [46] and I have taught you about the error of the stars; and […] send it […] on the twelve aeons.”

JUDAS ASKS ABOUT HIS OWN FATE

Judas said, “Master, could it be that my seed is under the control of the rulers?”
Jesus answered and said to him, “Come, that I [—two lines missing—], but that you will grieve much when you see the kingdom and all its generation.”
When he heard this, Judas said to him, “What good is it that I have received it? For you have set me apart for that generation.”
Jesus answered and said, “You will become the thirteenth, and you will be cursed by the other generations—and you will come to rule over them. In the last days they will curse your ascent [47] to the holy [generation].”

JESUS TEACHES JUDAS ABOUT COSMOLOGY: THE SPIRIT AND THE SELF-GENERATED

Jesus said, “[Come], that I may teach you about [secrets] no person [has] ever seen. For there exists a great and boundless realm, whose extent no generation of angels has seen, [in which] there is [a] great invisible [Spirit], which no eye of an angel has ever seen,
no thought of the heart has ever comprehended, and it was never called by any name.
“And a luminous cloud appeared there. He said, ‘Let an angel come into being as my attendant.’
“A great angel, the enlightened divine Self-Generated, emerged from the cloud.
Because of him, four other angels came into being from another cloud, and they became attendants for the angelic Self-Generated. The Self-Generated said, [48] ‘Let […] come into being […],’ and it came into being […]. And he [created] the first luminary to reign
over him. He said, ‘Let angels come into being to serve [him],’ and myriads without number came into being. He said, ‘[Let] an enlightened aeon come into being,’ and he came into being. He created the second luminary [to] reign over him, together with
myriads of angels without number, to offer service. That is how he created the rest of the enlightened aeons. He made them reign over them, and he created for them myriads of angels without number, to assist them.

ADAMAS AND THE LUMINARIES

“Adamas was in the first luminous cloud that no angel has ever seen among all those called ‘God.’ He [49] […] that […] the image […] and after the likeness of [this] angel.
He made the incorruptible [generation] of Seth appear […] the welve […] the twentyfour […]. He made seventy-two luminaries appear in the incorruptible generation, in accordance with the will of the Spirit. The seventy-two luminaries themselves made three hundred sixty luminaries appear in the incorruptible generation, in accordance with the will of the Spirit, that their number should be five for each.
“The twelve aeons of the twelve luminaries constitute their father, with six heavens for each aeon, so that there are seventy-two heavens for the seventy-two luminaries, and for each [50] [of them five] firmaments, [for a total of] three hundred sixty [firmaments …].
They were given authority and a [great] host of angels [without number], for glory and adoration, [and after that also] virgin spirits, for glory and [adoration] of all the aeons and the heavens and their firmaments.

THE COSMOS, CHAOS, AND THE UNDERWORLD

“The multitude of those immortals is called the cosmos— that is, perdition—by the Father and the seventy-two luminaries who are with the Self-Generated and his seventytwo aeons. In him the first human appeared with his incorruptible powers. And the aeon that appeared with his generation, the aeon in whom are the cloud of knowledge and the angel, is called [51] El. […] aeon […] after that […] said, ‘Let twelve angels come into being [to] rule over chaos and the [underworld].’ And look, from the cloud there appeared an [angel] whose face flashed with fire and whose appearance was defiled with
blood. His name was Nebro, which means ‘rebel’; others call him Yaldabaoth. Another angel, Saklas, also came from the cloud. So Nebro created six angels—as well as Saklas—to be assistants, and these produced twelve angels in the heavens, with each one receiving a portion in the heavens.

THE RULERS AND ANGELS

“The twelve rulers spoke with the twelve angels: ‘Let each of you [52] […] and let them […] generation [—one line lost—] angels’:
The first is [S]eth, who is called Christ.
The [second] is Harmathoth, who is […].
The [third] is Galila.
The fourth is Yobel.
The fifth [is] Adonaios.
These are the five who ruled over the underworld, and first of all over chaos.

THE CREATION OF HUMANITY

“Then Saklas said to his angels, ‘Let us create a human being after the likeness and after the image.’ They fashioned Adam and his wife Eve, who is called, in the cloud, Zoe. For by this name all the generations seek the man, and each of them calls the woman by these names. Now, Sakla did not [53] com[mand …] except […] the gene[rations …] this […].
And the [ruler] said to Adam, ‘You shall live long, with your children.’”

JUDAS ASKS ABOUT THE DESTINY OF ADAM AND HUMANITY

Judas said to Jesus, “[What] is the long duration of time that the human being will live?”
Jesus said, “Why are you wondering about this, that Adam, with his generation, has lived his span of life in the place where he has received his kingdom, with longevity with his ruler?”
Judas said to Jesus, “Does the human spirit die?”
Jesus said, “This is why God ordered Michael to give the spirits of people to them as a loan, so that they might offer service, but the Great One ordered Gabriel to grant spirits to the great generation with no ruler over it—that is, the spirit and the soul. Therefore, the [rest] of the souls [54] [—one line missing—].
JESUS DISCUSSES THE DESTRUCTION OF THE WICKED WITH JUDAS AND OTHERS
“[…] light [—nearly two lines missing—] around […] let […] spirit [that is] within you dwell in this [flesh] among the generations of angels. But God caused knowledge to be [given] to Adam and those with him, so that the kings of chaos and the underworld might not lord it over them.”
Judas said to Jesus, “So what will those generations do?”
Jesus said, “Truly I say to you, for all of them the stars bring matters to completion.
When Saklas completes the span of time assigned for him, their first star will appear with the generations, and they will finish what they said they would do. Then they will fornicate in my name and slay their children [55] and they will […] and [—about six and
a half lines missing—] my name, and he will […] your star over the [thir]teenth aeon.”
After that Jesus [laughed].
[Judas said], “Master, [why are you laughing at us]?”

[Jesus] answered [and said], “I am not laughing [at you] but at the error of the stars, because these six stars wander about with these five combatants, and they all will be destroyed along with their creatures.”

JESUS SPEAKS OF THOSE WHO ARE BAPTIZED, AND JUDAS’S BETRAYAL

Judas said to Jesus, “Look, what will those who have been baptized in your name do?”
Jesus said, “Truly I say [to you], this baptism [56] […] my name [—about nine lines missing—] to me. Truly [I] say to you, Judas, [those who] offer sacrifices to Saklas […]
God [—three lines missing—] everything that is evil.
“But you will exceed all of them. For you will sacrifice the man that clothes me.
Already your horn has been raised, your wrath has been kindled, your star has shown brightly, and your heart has […]. [57]
“Truly […] your last […] become [—about two and a half lines missing—], grieve [—about two lines missing—] the ruler, since he will be destroyed. And then the image of the great generation of Adam will be exalted, for prior to heaven, earth, and the angels,
that generation, which is from the eternal realms, exists. Look, you have been told everything. Lift up your eyes and look at the cloud and the light within it and the stars surrounding it. The star that leads the way is your star.”
Judas lifted up his eyes and saw the luminous cloud, and he entered it. Those standing on the ground heard a voice coming from the cloud, saying, [58] […] great generation […] … image […] [—about five lines missing—].

CONCLUSION: JUDAS BETRAYS JESUS

[…] Their high priests murmured because [he] had gone into the guest room for his prayer. But some scribes were there watching carefully in order to arrest him during the prayer, for they were afraid of the people, since he was regarded by all as a prophet.
They approached Judas and said to him, “What are you doing here? You are Jesus’disciple.”
Judas answered them as they wished. And he received some money and handed him over to them.
posted by alice−room at 22:46| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月20日

映画ダビィンチコードの感想(速報)

いろんな感想があるみたいですが、たったいま映画を見た感想だとエンターテイメントとして十分面白いです。
但し、原作を知ってる人を基本的に対象にしていると感じました。
見ていい映画だと思います。

感想をあらためてまとめてみました。宜しければどうぞ。
映画ダ・ヴィンチ・コードの感想(まとめ)
posted by alice−room at 13:35| 埼玉 🌁| Comment(3) | TrackBack(1) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月30日

しばらく旅に出ます。

いつもブログを見て下さる皆様、ありがとうございますm(_ _)m。
今日から北海道をぶらぶらしてきますので3日まで更新できません。4日以降からま
たよろしくお願いします。携帯からの書き込みですが、成功したかな?
皆様も楽しいGWを♪
posted by alice−room at 02:01| 埼玉 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月31日

今週の本と私〜池袋西武百貨店古書市

今週の火曜日28日からだったかな? 池袋の西武百貨店で古書市をやっています。仕事帰りに寄ってみましたが、たいしたもんはありませんでした。もう何回も行っているし、慣れたもんです。それでも見ていると楽しいんですけどね♪ 

まあ、メモ代わりに書くと値段の手頃さで2冊購入
  「中世の星の下で」阿部謹也 ちくま書房
  「中世の説話」松原秀一 東京書籍

昨日は昼にも高田馬場の古書店街で本を2冊購入
  「日本史における地獄と極楽」笠原一男 NHKブックス
  「魔の世界」那谷敏郎 新潮選書

今日も3冊買ったけど、書名忘れた(ボケボケの私)。

今週電車の中で読んだり、枕元において読んでる本。
  「中世の美術」クランデル 岩波書店 
  「カンビュセス王 上・下」角川書店
  
積読本
  「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」高山一彦 現代思潮社
  「風俗の歴史 3」フックス
  「民俗宗教2 タタリと民俗社会」 東京堂出版
  「抹殺された古代民族の謎」 日本文芸社
  「世界の神話がわかる」 日本文芸社
  「国民経済」大塚久雄 講談社学術文庫
  「京の雪」 光村推古書院
  「京の桜」 光村推古書院
  「京の夜景色」 光村推古書院
  「西遊記の秘密」中野美代子 福武書店
  「保存版 オペラ座の怪人」角川書店
  「早坂茂三の田中角栄 回想録」小学館
  「我が青春」岸信介 廣済堂
  「江戸諸藩怪奇ふしぎ事件簿」 新人物往来社
  「失われた福音書」バートン・マック 青土社
  「共産党宣言」マルクス エンゲレス 大月書店
  「空想から科学へ」エンゲレス 大月書店
  「家族、私有財産及び国家の起源」エンゲレス 大月書店
  「賃金、価格、利潤」マルクス 大月書店
 
うわあ〜もう読まなさそうな本があるなあ。50円の値段でついつい買ってしまった大月書店関係とか。数理経済をやっていた私は、マルクス経済学って全然知らなかったりするんだけど・・・。あれって宗教?

そうそう今日家に届いた本
  「大伽藍」ユイスマンス 桃源社
どうしても読みたくて買っちゃった。たぶん・・・きっと・・・持っていないはず・・・。部屋の奥の方にしまってあったら、きっと探し出せないのでしょうがないね、買っても。と自己弁護しつつ・・・早く読みたいな。毎日1冊、最低でも2日で1冊読んでも本を買うペースが速くて追いつけないよ〜(号泣)。

ここ数ヶ月でまた部屋が狭くなった気がするなあ〜。要らない本を処分しないと。花見が終わらないと暇がないのに。
posted by alice−room at 00:12| 埼玉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月21日

『ユダの福音書』4月末に公刊

以前にも出版のニュースがありましたが、いよいよ出てくるもようです。うわあ〜ワクワク♪ これまでの常識がまた一つ崩れていくのでしょうか? あのユダが英雄なんて!! ダ・ヴィンチ・コード便乗のお話という批判もあるようですが・・・さてさて、なにはともあれ実際に読んでみたいですね。電子出版という話もあるようです。それだったら即、買いですね。出所もまるで死海文書のノリでしねぇ〜。なんか思わず笑みがこぼれます(ニコニコ)
【以下、世界キリスト教情報 第794信より転載】
【CJC=東京】現代最高の発見とも言われる『ユダの福音書』調査報告を4月末に公刊する、と米ナショナル・ジオグラフィック・ソサエティが3月2日明らかにした。ただ雑誌に掲載するか、単行本や電子媒体にするかなどの詳細は不明。

 調査や訳出に協力したのは現所有者スイス・バーゼルの古代美術マリオ・ロベルティズ・メケナスフウンデーション、カリフォルニア州ラジョーラの歴史的発見ウェイト研究所、ロドルフェ・カッセル氏(前ジュネーブ大学教授)。

 イエスの最後の日々をイスカリオテのユダから描いたぼろぼろのコプト語パピルス文献26ページを学者たちが訳出したもの。2000年にわたって裏切り者とされていたユダが書き記したものとなると、その中身に関心が寄せられるのも当然。

 文献はユダを悪者としてではなく、英雄としてそしてキリストのお気に入りの弟子として描かれている。文献は2人の間の会話を繰り返しており、キリストを密告したことでユダは神から与えられた使命を果たしたのだ、という。

 英紙メール・オン・サンデーが関係した学者とインタビューし、『ユダの福音書』では、キリストは自分を密告するようユダに指示し、「あなたは他全部から呪われる使徒となる。ユダよ、あなたは私を覆っている肉体を犠牲にするのだ」と語った、と結論づけた。

 他には、イエスがユダに「あなたは13番目となり、各世代に呪われるが、やがてはあなたが彼らを支配するようになる」という個所が注目される。

 パピルス文献は4世紀のものと推定されるが、中身は紀元187年に書かれたギリシャ語文献からの翻訳と信じられている。福音書の多くはキリストの十字架上での死後50年から80年の間に書かれたとされている。

 キリスト教各派の中には、キリスト教信仰の根幹を覆しかねない、と危険視する動きも出ており、『ダヴィンチ・コード』映画化をにらんだ儲け仕事と見る向きもある。

 文献は1970年代にエジプトのある墓から発見されたが、さまざまな古物商の手にわたり、16年間はニューヨーク州ロングアイランドの銀行倉庫に埋もれていた。テストの結果、古代の文献であることは疑いない、という。

 ただ米国の著名なコプト語文献学者で1945年にエジプトで発見されたナグハマディ文書にも詳しいジェームズ・M・ロビンソン氏は、真正な『ユダの福音書』ではないと見ている。古いものではあるが、ユダにまでさかのぼれるものではない、と言う。同氏は4月1日にハーパー・サンフランシス社から「ユダの秘密」という著書を出版するが、これには同文献をめぐる表裏についても触れている、という。
関連ブログ
ユダの福音書(試訳)
イスカリオテのユダ、名誉回復進む!
ユダの福音書の内容は、確実にじらされることを約束する
NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2006年 05月号&「ユダの福音書を追え」
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2006年03月20日

マグダラのマリア〜「中世の巡礼者たち」より抜粋

マグダラのマリアに関する聖遺物の真贋論争は、うちのブログでも何度か記述してきたが、またちょっと違った内容が含まれているのでここにメモしておく。
出典は昨日読んだ「中世の巡礼者たち」
エクスからフレジェスへ向かうローマ街道沿いに横たわったこのかなり大きい町においてずいぶん以前から、ボーム――この南側地平線を突出した山脈が閉ざし、入り日に赤く燃えるところ――の洞窟から下りてきたマグダラのマリアは、この地の地下聖堂にねむっているのだという言い伝えがひろまっていた。フ・フレネの巣窟を出てうろつきまわっていたサラセン人の驚異も、この言い伝えを一時抑えはしたものの、消し去ることはなかった。

1279年、聖ルイの甥、シャルル・ド・サレルヌが急に、プロヴァンス伯領へ呼ばれ、地下聖堂の石棺を開くことになった。一体の死体が発見され、聖女の遺体であることは疑いないとされた。ただ、悪口を言う連中だけが、これは故意に持ち込まれたものであった、ヴェズレーの名声をおとして、北方のこの聖なる丘に押し寄せていた巡礼者の大波をプロヴァンスの方へ向けかえようとはかった陰謀なのだと言い張った。

作戦は、完全な成功をおさめた。1458年、教皇ピウス2世は聖地ヴェズレーの衰退と、献金額の減少とを認めねばならなくなる。これに反し、サン=マクシマンでは、ことは首尾良く運び、1280年には厳かに聖女の遺体の移葬も行われた。そして15年後、教皇ボニファティウス8世は、重大な決定を下し、ドミニコ会修道士たちに、マグダラの聖マリア崇拝の組織化を委ねた。サン=マクシマンとサント=ポームとは、かくして今日に至るまで、ドミニコ会の活動の中心地となってきた。

同じ1295年に聖堂の最初の礎石が置かれ、14、15世紀を費やして建設が進められたが、当初のプランを逸脱することはなかった。内陣の完成は1316年頃である。身廊東側の各支間の建造は、されに14世紀いっぱいつづけられた。そのうち最初の三支間が出来上がったのはやっと16世紀初め(1530年頃)に過ぎなかった。

関連ブログ・・・マグダラのマリア及びヴェズレー関連
「中世の巡礼者たち」レーモン ウルセル みすず書房
「フランスにやって来たキリストの弟子たち」田辺 保 教文館
「図説 ロマネスクの教会堂」河出書房新社
マグダラのマリア 黄金伝説より直訳
posted by alice−room at 23:43| 埼玉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月14日

ジャンヌ・ダルクの遺骨がテストされる

ジャンヌダルクの骨と灰ちょっと前にAP通信の記事を読んで知ったいたが、もっと詳しいものを探していました。海外で全然ニュースが見つからなくておかしいなあ〜と思っていたら、フランス語で探していたのでしたからでした(jannne d'arc)。英語で調べるならJoan of arcじゃないと駄目みたい。というわけでいささかタイムリーさに欠けるが面白そうなニュース。(写真はジャンヌダルクの骨と灰)
【日本語訳】
テストされるジャンヌダルク『遺物』:

科学者のチームは、フランスの博物館で陳列してある焦げた人骨が15世紀のヒロイン・ジャンヌダルクのものであるかどうかを決定することを期待しています。

法医学専門家のフィリップ・シャリエと彼のチームは、肋骨と多少の皮膚を含む遺骨をテストすることに6ヵ月を費やします。

遺物は、1431年にジャンヌが焼かれたルーアンのノルマンディータウンにおける火刑場で見つかったと言われています。

フランスの国民的なヒロイン ― 1920年に聖者の列に加えられる ― は、異教と妖術の有罪判決を受けて、19歳で生きたまま燃かれました。

シャリエ博士はテストが遺骨がジャンヌダルクのものであるかどうか、確実であると決定はしないだろうと言いました−しかし、それらはその遺骨がどれくらい本物らしいかを理解するのに役立つだろう。

シャリエ博士によると、肋骨(トールの大司教の管区によって所有されるシノンの博物館に現在収納されている)は、非常に良く保存されているそうです。

パリの近くのガルシェにあるレイモンド-ポアンカレ病院の研究者は骨が女性(その正確な年齢と同じく)のものだったかどうか決定するためにDNA鑑定と放射性炭素年代測定法を使用するつもりです。と、シャリエ博士が言っていました。

複雑な事例

彼は、ジャンヌダルクの系図がおそらく間違っているので、考えられる子孫とのDNA比較は行われないだろうと言いました。

シャリエ博士はジャンヌダルクがルーアンのノルマンディータウンで彼女の裁判に続いて、1431年に5月30日に3度焼かれたと言いました。

彼女は、煙を吸って死にました。

灰以外は三度目の火葬後、何も残っていなかったそうです。その灰もパリのセーヌ川に投げ込まれたと伝えられています。

シャリエ博士には、法医学史の業績があります。

昨年、彼は、A・ソレル(15世紀のフランス王チャールズ7世の愛人)の死因を水銀中毒として特定しました。しかし、それが殺人であったかどうかを決定することができませんでした。
個人的には、かなり興味あるんですけど・・・。3回も焼いたのって、骨の状態で分かるんでしょうか?性別と年齢が分かるとより本物っぽいですよね。こんなことを言うと、フランスの方に怒られるかもしれないけど、要は聖遺物でしょう。黄金伝説を読むと、信者を集める為の客寄せパンダとして、偽物の聖遺物が多かったらしいしなあ〜。あまり期待しない方がいいのかも?でも、ロマンがありますよねぇ〜。結構、こういうのスキ(満面の笑み)。

Joan of Arc 'relics' to be tested
【BBCより原文転載】
A team of scientists is hoping to determine whether charred human remains on display in a French museum are those of 15th Century heroine Joan of Arc.
Forensic expert Philippe Charlier and his team will spend six months testing remains including a rib and some skin.

The relics are said to have been found at the stake in the Normandy town of Rouen where Joan was burned in 1431.

France's national heroine - canonised in 1920 - was convicted of heresy and witchcraft and burned alive aged 19.

Dr Charlier said the tests would not determine with certainty whether the remains are Joan of Arc's - but they would help to work out how likely they are to be genuine.

The rib, currently housed at a museum in Chinon owned by the Archdiocese of Tours, is "remarkably well preserved" according to Dr Charlier.

Researchers at the Raymond-Poincare Hospital in Garches near Paris will use DNA testing and carbon dating to determine whether the bone belonged to a woman, as well as its exact age, Dr Charlier said.

Complex case

He said no DNA comparison with possible descendants will be carried out because Joan of Arc's family tree is probably false.

Dr Charlier said Joan of Arc was burned three times on 30 May in 1431, following her trial in the Normandy town of Rouen. She died of smoke inhalation.

Nothing was said to remain after the third cremation except her ashes - which were reportedly thrown in the River Seine in Paris.

Dr Charlier has a track record in forensic history.

Last year he identified the cause of death of Agnes Sorel, mistress of the 15th Century French king Charles VII, as mercury poisoning, but was unable to determine whether it was murder.
posted by alice−room at 00:45| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月10日

新世紀エヴァンゲリオン特集(Yahoo)

赤木リツコ博士これまであまり触れないようにしてきたのだが・・・、ここ数日間どうにも気になって仕方が無かったことがある。Yahooでやっているエヴァンゲリオン特集だ。何を今更そんな古めかしいものを・・・と大人ぶってみようかと思ったが、やはり無理だったようだ。

仕事の合間の昼休みに、ちょっと見ていたらもう知らないふりなんてできないよ〜。エヴァを見ていた当時、会社を辞めて大学院に入り、朝から晩まで英語で説明された数式やら統計やらに追いまくられていた頃である。ファイナンス理論の合理性に魅せられていた時でもある。

と同時に、現実に発生している失業者は均衡に至るまでのタイムラグの過渡的なものと説明されてもねぇ〜。理論的には納得できても、所詮は机上の空論と学問的な興味を失いつつある頃でもあった。

途中からたまたま見たアニメで「ああ、ロボットアニメね。」ちゃちなデザインから思いっきりなめて見ていたら、いつのまにか心理ドラマになっていたのには驚いた!! むしろ背景的な近未来や終末論的な世界観、ロボットは道具立てで当時の病んだ(鬱屈した)自分を見出したのだとも言える(こんなこと言うのも、もう恥ずかしいけどね)。

理論にも、生身の現実にも、希望を見出せずに手探り状態であった時にこれは非常に衝撃が大きかった。微妙なところでリアル過ぎる心理描写と人間関係、謎が謎をよぶ陰の国際秘密組織、明確さを欠いたまま着実に襲いかかる神秘的な『敵』の存在。

これだよねぇ〜、いきなり「死海文書」がどうとか、リリスがどうとか言われてもさあ〜。この巧みな仕掛けに見事にやられたことを思い出します。当時勉強でやることはいくらでもあったが、学生ゆえの時間的余裕から、国会図書館まで通って「エヴァンゲリオン用語集」なるものを作っていたりする。もっともこの手の用語集は後にあちこちで出版されたものもあったがどれも大して調べていなくて、私がネット上で配布していた用語集があちこちで引用されていたのを思い出しました。

ロンギヌスの槍とか、マルドゥークとか調べていたのもこの頃のこと。改めて考えてみると、今のこのブログのルーツってエヴァなんだね! 何も知らないまま死海文書や聖遺物調べていた予備知識がダ・ヴィンチ・コードで再度掘り起こされた訳です。だから、ダ・ヴィンチ・コードでも用語集めいたもの作ったり、やってること同じ。ロンギヌスの槍が、黄金伝説にまでつながるとは思いませんでしたけどね(笑)。我ながら成長してないなあ〜。

あの頃はパソコン通信で、その後は2ちゃんでそこそこ知られていたが、堅気になるべく仕事にいそしんでいたのですが・・・結局、今はブログだもんなあ〜。本当にやっていることは同じ(苦笑)。

まあ、そんなこんなもありましたしたが、綾波には騙されずに、あくまでも赤木リツコ一筋に当時は頑張ってました(何を?)。その頃はもっぱら、リツコ博士とかりっちゃんと呼ばれておりましたし…(笑)。

今でも好みは変わりません。理知的で感情を表面に出さない一見すると冷ややかなタイプがたまらなくイイ。うっかり冗談を言おうものなら、呆れ顔でどんなふうに冷笑されるやら?
大人びて計算高く、社会生活ではドライな現実主義者のくせにその内情は、感情でグズグズに引っ張られて未練たらしいくせいに、唯一自分を支えるプライドだけに頼ってようやく生きているか弱い存在。これでしょう、これ!!

頭が良くて冷ややかなタイプの女性は何人かいたが、しばらく一緒に遊んでいたりすると、どうしてもその人が知識はあっても世界観が狭すぎたり、共感できない点が多く、友達以上にはなりたいと思わなかったことを思い出す。あと、何故かその当時はいささか精神を病んだ子が知り合いに多く、それらに振り回されて、こちらも精神的に疲れてしまったことを思い出した。どうしてもエヴァにはまっている女性にはその手のタイプが多かった。

まあ、エヴァに出てくるキャラで精神が病んでいないものはほとんどいないのだが…(決めつけないように)。考えてみると、結構ヒドイアニメだ(ニヤリ)。主役級の登場人物がバタバタ死んだり、不幸になっていくのも救いようがなく、TV版のラストに至っては別な意味で救いようがなかったことを思い出す。最終話の後に、私は放浪の旅に出た覚えがある(そこまではまる私もバカだったのだけれど・・・)。

エヴァに関しては今でも良い思い出、そうでない思い出等、たくさんあるが一つの過去ではあった。未だに私の中には、それが影響を及ぼしている点もあったりする。

とにかくYahooの特集がいけない。忘れていた過去の亡霊を引きずり出すようなことはしなくてもいいのに。無料だったから、ついつい先ほどもエヴァンゲリオンの動画第一話を見てしまった。週末にもっとみよっと(オイオイ)。

新世紀エヴァンゲリオン 電脳補完計画 by Yahoo
壁紙もあったので、一応GETしてしまった(笑)

rituko1.jpg

ちなみに赤木リツコ博士は、りっちゃんのママが作った自律分散型情報処理システム「MAGI」の管理運用責任者でもある。実はこの時にマギや東方の三博士のことを知ったのであった、私ってば。私も会社のサーバの管理を担当していたことがあったが、こっそりMAGIと何度名付けようと思ったことか…。結局、良識に負けてそれは断念したのだが。

個人的には、しんちゃんよりもゲンドウでしょう。ユイとナホコとリツコにレイ、よりどりみどりのハーレムかい?ユイの実家から金出してもらって好きなことしてさあ〜、う〜パトロン欲しい♪ 

というよりもどっかにリツコ博士はいないのかなあ〜。知識があるのではなく、頭の切れるりっちゃん求む!! 私の秘書にでもいかが?
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2006年03月01日

祝「黄金伝説」全4巻 獲得(大威張り)

実は、先週(先々週)の話になってしまうのだが、昨年1年間を通じて古書店や古書市、ネットを通じて探しまくっていた全集を獲得した。うちのブログの常連さんには、まだ探していたの?と飽きられるかもしれないが、珍しく執念深く探していたりする。

書名は「黄金伝説」。キリスト教の聖人に関する伝説や伝承、奇跡譚などを集めたものでこれがとっても面白かったりする。最初はダ・ヴィンチ・コードのマグダラのマリアを調べていて関心を持ったのですが、それを抜きにしても面白いです。人文書院から出ているのですが、既に絶版でこれの入手にどれほど苦労したことか…涙・涙・涙でしょう(おおげさですね)。

まあ、冗談はさておき、それなりに苦労したのも事実。もっとも既に英語版で揃いの2巻本で持っているし、邦訳の全4巻のうち1、2巻は持っていてこのブログにもレビューを書いているのだが、やっぱりどうしても残りの3、4巻が欲しくて気にはなっていたのだ。

書名はちらほら噂されるものの、揃いで出ることがあまりなく、出てもすぐ売り切れの時が多くて悲しい思いをしていたのだが…。やっぱり普段の行いのがいいのでしょうか?(自我自尊)
たまたま忘れていた頃に、ふとした機会に捜し求めていた幻の全4巻が売りに出されていることを知ったのでした(その辺の詳しい事情は内緒)。値段は1万6千円、安くはないが買おうと思うと今しかないですからね。速攻で買いました。ケチな私も。

ただ、手元にある1、2巻は重複しているのでこれだけは売って一部の代金を回収しないと。まあ、購入資金の足しにしないときついでしょう。既に洋書も買ってるんだから。幸い、先週ですがそれも自分が買った値段ぐらいで売れてひとまずほっとしたところです。マグダラのマリアについて書かれた第2巻が含まれていたので、結構思い入れも深いんですが、私の分まで買った方が楽しんでくれると嬉しいですね、ほんと。

とまあ、らちのあかないことを書き連ねてますが、手にしてしまうと今度は違う悩みが生まれてしまったりする。それは、やっと入手した3、4巻をいつ読むのか?ということ。

皆さん、何を言ってるんだ、すぐ読めばいいだろうと思うでしょうが、そうはいかなかったりする。実は、去年買ったもののまだ読破していない英語の黄金伝説(GOLDEN LEGEND)があるのだから…。つまり、日本語のものを先に読んでしまったら、英語のものは面倒で読む気がなくなりそうなのが怖かったりする。一方で英訳は単語が分からないという欠点はあるものの、必ずしも邦訳が上手で適切な訳とも限らず、あらためて原文の意味を比較しつつ理解するにはとっても勉強になりそうなのだが、怠け者の私にはそれをする自信がないのだ。実に困った!

それに邦訳の文章だとブログで内容を紹介する際に、一部の抜粋はまだしも、過度の抜粋はあまり好ましくないが、自分で英文を訳したものならば、まだマシかな?っていう計算もあったりする。以前、訳したマグダラのマリアなどはその苦肉の策だが、下手なわりに実は結構大変だったしなあ…。

寝る前に英語の黄金伝説を少しづつ読むという計画があったのだが、いつしかもっと読み易い小説にとって代わられてしまっている。これを戻せばいいのだが、枕元や机の上に積み重なる本の山を減らしたい(読みたいという気持ちよりもそっちが大きくなりつつある、昨今)と思うと早く読める日本語の本になってしまうのだ。さてさて、悩み多き日々である。

ブログ書く時間を削って本を読めばいいのだが、早く感想を書かないと次の本を読んでいるうちに感想を忘れてしまう、空っぽの頭がなんともいまいましい。と、とりとめもないことを書き連ねつつ、手元にある「黄金伝説」全4巻を嬉しいような、プレッシャーなような複雑な気持ちで眺める毎日を過ごしている。

その為に、本当ならば喜びのあまりすぐに書きたいこの記事もなかなか書けないでいたりした。だって、本買ったというと、感想書いてね!と誰か悪魔のようなお声が頭上より聞こえてきそうで怖くてしかたがなかったりする…。あっ、プレッシャーは止めましょう。軟弱な読書家は、その一声でつぶれてしまいます(笑)。

長々と、失礼致しました。読んで頂いた方、どうも有り難うございます。皆さんも欲しい本を頑張ってGETして下さいね。実は私も、今狙っている本がもう一冊あったりする。競争相手が増えると嫌だから、内緒ですけどね(微笑)。結構、自分だけ良ければいいという、自分勝手な奴だったりします(自爆)。

黄金伝説 1 (amazonリンク)

関連ブログ
The Golden Legend: Readings on the Saints 「黄金伝説」 獲得までの経緯
資料集め・・・別名、無駄使いと言う人も
黄金伝説 Golden Legend コロンビア百科事典による
黄金伝説 〜聖人伝〜 ヤコブス・デ・ウォラギネ著
マグダラのマリア 黄金伝説より直訳
「黄金伝説1」ヤコブス・デ・ウォラギネ著 前田敬作訳 人文書院
「黄金伝説2」ヤコブス・デ・ウォラギネ 人文書院
「黄金伝説抄」ヤコブス・ア・ウォラギネ 新泉社
posted by alice−room at 00:33| 埼玉 ☔| Comment(3) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月22日

P・マルチンクス氏死去/元バチカン銀行総裁

P・マルチンクス氏死去/元バチカン銀行総裁、の記事
【四国新聞社より以下転載】
ポール・マルチンクス氏(元バチカン銀行総裁)AP通信などによると、20日、米アリゾナ州の自宅で死去、84歳。

 米シカゴ郊外の生まれ。カトリック大司教に任じられた後、71年から89年まで、バチカン市国の財政を握るバチカン銀行総裁。82年、同銀と関係の深いイタリアの銀行家が変死、この銀行は不正融資事件への関与が疑われた。事件は小説や映画にもなり、大スキャンダルになった。(ローマ共同)

知りませんでした。あのイタリア最大の銀行の倒産に絡み、2代前の法王死去の際にも疑惑の渦中であったマルチンスク氏がお亡くなりになったとは…。タックス・ヘブンの国で作ったペーパーカンパニー経由で、問題の多き会社に投資をしていて物議を醸し出したり、マフィアとの関係も取沙汰され、バチカンから一歩でも出たら即拘束。と聞いていたのに、いつのまにかアメリカに戻られていたとは。これでまた、闇が一つ闇のままで終わってしまったんでしょうね。

関連ブログ
「法王暗殺」デイヴィッド・ヤロップ 文芸春秋
「バチカン・ミステリー」ジョン コーンウェル 徳間書店
「法王の銀行家」殺害で4人起訴 CNN
「教皇の銀行家」殺害で4人を起訴
法王の銀行家 2002年の映画
「世界を支配する秘密結社 謎と真相」 新人物往来社
posted by alice−room at 22:48| 埼玉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

節分にちなんで鬼鎮神社のメモ

鬼鎮神社

実は、一番最初に作ったサイトがこの「鬼鎮神社(きじんじんじゃ)」に関するものだったりする。もう何年前か分からないほど昔のことだけど…。地方新聞社から取材の申込みを受けたことがあったり、稚拙な割に思い出もあったのだが、パスワードも忘れ、メールアドレスも解約し、いじれなくなっている。それにもかかわらず未だに表示されていてなんか嫌だったりもする。

節分が過ぎてしまったけど、たまたま思い出したのでそこからデータを移しておこう(パクってません。自分のだもん…笑)。本当は、どこかの節分に行ってブログに書きたかっただが、仕事が忙しくて帰宅が夜の11時ではさすがにどこにも行けない(涙)。

鬼鎮神社 由緒

<祭神について>〜「埼玉大百科事典 第2巻」埼玉新聞社刊〜
創建は鎌倉時代寿永元年(1182)10月。

畠山重忠が菅谷館を築造したときに、城門大手の東北、すなわち艮(うしとら)の方角に厄除け守護として祭ったものと伝えられ、古くは鬼神社と呼ばれた。

祭神は衝立船戸神(つきたつくなどのかみ=道祖神の発展したもの、イザナギノミコトが悪魔を打ち払った杖の事)と八街比古命(やちまたのひこのみこと)。

戦時中は武運長久を祈る人々で賑わい、念願がかなった人の奉納した金棒が奉納されている。戦時中、金棒は大量に供出された。当社に祈願すると必ず勝つということで多数の金棒が奉納された為。

鬼鎮神社 鬼の金棒

鬼鎮神社 額

<由緒>〜「嵐山町史」嵐山町刊〜
鬼鎮様

むかし、川島に刀をつくる鍛冶屋さんが住んでいた。朝から晩までトンテンカン、トンテンカンと、一心につくっていた。ある日、若い男が鍛冶屋を尋ねて来た。「わし、刀が作りたい。教えてください。」と頼んだ。鍛冶屋も忙しかったので「よし、よし」と許した。

若い男は、とても熱心で、休みの時間も、また夜もろくに寝ないで、刀造りに精を出すようになった。鍛冶屋の家には、美しい女の子がいた。若い男は、主人に娘を嫁にくださいと頼んだ。主人は、少し考えて「それでは、刀を一晩に100本作れたら、嫁にやろう。」と答えた。

若い男は、喜んで種々準備し、約束の夜を待った。夜になったので、若者は槌を振り上げ、トンテンカン、トンテンカンと刀をうちはじめた。みるみるうちに、三本五本と出来てくる。夜も遅くなった。主人は心配して、そっと刀を作るところを覗いた。出来た。出来た。今うったばかりの刀が山と積まれた。

しかし、その時、主人は刀をつくっている若い男をじっくり見た。何と、その男はいつもの男ではない。まるで鬼だ。トンテンカン、トンテンカンとうつ様も、火花を散らしてあたり一面が火の海だ。鋭い目、頭には角まで生えている。手は次々に出来た刀を積んでいく。

主人はアッと驚いて飛び出した。あの男に、可愛い娘をくれられるものか。それには鶏を鳴かせて、早く夜が明けなくては、と考え、大急ぎで鶏小屋へ走った。コケコッコー、コケコッコーと鶏が鳴いた。

主人は、また覗きに行った。鬼になった男は。まだまだ刀をうっている。けれども、そのうちに東の空が明るくなって夜が明けた。刀は99本出来ていた。鬼の男は槌を握ったまま倒れ、死んでしまった。主人は、なくなった男を哀れに思い抱き上げて外へ出た。男の亡き骸は神主を頼んで庭の隅へ埋め、そこに鬼鎮様というお宮をつくっておまつりした。

鬼鎮神社 鬼瓦

<節分祭について>〜「埼玉ふるさとシリーズ3」〜
節分は本来、四季の変わり目の前日を指す名称でこの夜はトシコシとかトシノヨと呼ばれ、正月の年越しと同様。

年越祭り(節分祭)2月3日午後3時頃 社殿と特設舞台で行う。定刻になると赤鬼と青鬼の面をつけた二人の者が参道から社殿に向かって入って来る。二人とも白装束で右手で金棒をついている。その後に町内の功労者や世話人、氏子代表など30人余りが続く。これらの人々が年男役をつとめる。以前には芸能人、力士などを招き華やかな豆まきを行っていた。

社殿から続く特設舞台には紅白の綱のかかった桶や籠が用意され、いよいよ豆まきとなり、参道を渡ってきた年男たちは鬼を中心として舞台に登る。

最初に赤鬼、青鬼装束の氏子(年男)が「福は内、鬼は内、悪魔は外」と叫びながら、舞台から福豆を参拝者にぶつける。ここでは鬼は神の使者であり、参拝者の悪魔を追い払うとされているからで、昔から諸国の鬼たちが鬼鎮様の祭神の許しを得て逃げて来るとさえ伝えられるので、決して「鬼は外」とはいわない。

年男によって舞台から投げられるのは福豆だけでなく、用意された桶・籠のなかから丸い小餅・みかん・菓子や紙袋にいれた福銭なども子供たちのため投げられる。豆まきは最高潮に達し、参拝者は押し合いながら、これらのものを競って拾い合う。

夕方まで境内で賑やかに展開された豆まきが終ると、参拝者は社務所から赤鬼、青鬼が金棒を持った絵がかかっている絵馬を受け、家路へ急ぐ。

家に帰ると、絵馬は盗難除けに家の門口につるし、神社で拾ってきた福豆と自宅で用意した豆をいっしょにし、家内安全、無病息災を祈って再び豆まきをする。この時にも「福は内、鬼は内、悪魔は外」と唱える。

鬼鎮神社 絵馬

<資料1>〜「埼玉大百科事典 第2巻」埼玉新聞社刊〜
「新篇武蔵風土記稿」広野村の項では  「鬼神明神社」
埼玉叢書巻六 「鬼神宮別当に関する訴訟」
鬼鎮神社と呼んだのは明治三十年代以後の事
薬師堂 広野広正寺持、本尊は薬師を安置す。一時荒廃したが昭和五十四年(1979)再興。

鬼鎮神社 参道

<資料2>〜「日本民族大辞典 上」吉川弘文館〜
節分の夜には、豆占が行われる
豆を囲炉裏の灰に12粒並べ、その焼け具合で1年の各月の天候を予想す
る。新しい年のことを予想することから。節分の夜は年末とするという考えが
うかがえる。豆は神に供える供物であったためと考えられる。

<資料3>
追難:
12月晦日の大祓いについで行われ、悪鬼を祓い、悪霊を退け、疫病を除く儀式。オニヤライ、ナヤライともいう。
平安時代初期の儀式は、群臣が中庭に立ち、大舎人の中から身体の大きな者が方相氏(ほうそうし)に扮し、方相氏は熊の皮をかぶり、四ツ目の黄金の目の仮面をつけ、黒衣に朱の裳を着て鉾と盾を持ち、紺の衣に朱の鉢巻き姿の童子二十人を引き連れて鉾で盾を三度うち、群臣は桃弓・葦矢で鬼を追いやるものであった。本来鬼は登場しないが、平安末期になると方相氏が
悪鬼と考えられるようになり、群臣が方相氏を射るようになった。

鬼鎮沼

鬼鎮神社のすぐ近くにある鬼鎮沼。ここは放生池(仏教でよくある魚を放して、自由にしてあげることで功徳を積む)みたいになっており、50cmを越える鯉もたくさんいるが釣ったら逃がしてあげなかればならないと聞いたことがある。子供の頃から何度と無く釣りに行き、沼海老をとったり、ザリガニや鮒や鯉を釣ったが逃がした記憶はなかったりする(オイオイ)。見つかると怒られると噂だけは聞いていたが、事実はどうだったのだろうか? 未だに謎である。

余談ではあるがここは鬼を祀った珍しい神社であると共に文字通り、鬼門封じが本来の役目である。そして、その鬼門封じは菅谷城の鬼門であったりする。この辺りには、旧鎌倉街道もあり、木曽義仲が産湯をつかったとされる鎌形八幡の清水もある。また、この神社のある埼玉県比企郡の「比企」とは鎌倉幕府の有力御家人であった比企能員からきていたりする。

しかも創建は安徳天皇の時代である。察しのいい方にはピンとくるだろうが、檀ノ浦の闘いで平家一門が破れ、当時3歳であった幼子の安徳天皇が抱きかかえられて海に飛び込むことになった時である(この時に三種の神器が失われたのはご存知の通り)。単なる鬼門封じであるのか? 源氏による平氏の封じ込めとまでみるのは、考え過ぎであろうか??? 個人的には、結構興味を持っていたりもする。

この辺りには、他にも面白い地名が多々残っている。滑川という川が流れているが、これは鎌倉にも流れている川と同名である。教科書に載っていて、覚えのある方もいるかもしれないが、男衾三郎も実はこの神社からさほど遠くは無いところにいたようで、男衾という地名と駅もある。

更に、歴史を遡ると坂上田村磨(最初の征夷大将軍)が蝦夷征伐にこの地を通り、それにちなんで将軍沢という地名も残されている。まさに「まつろわぬ民」に関わってきそうな話だ。

また「まつろわぬ民(中央政府に従わぬ地方の独自勢力)」に土蜘蛛が有名であるが、彼らの棲家にふさわしいような洞窟遺跡が吉見百穴として残されてもいる。暇つぶしに散策するだけでも歴史を踏みしめる実感を覚えることができるだろう。実は他にも面白いことがあるのだが、余りにも長いので今回はこの辺で止めておこう。
っていうか、もう夜中の3時だし、眠いし本も読まなきゃだし…。

関連サイト
特集 鬼に願いを
Yahoo地域情報 鬼鎮神社 節分祭
観光スポット案内(鬼鎮神社の節分祭)
Wikipedia 節分 ここにも鬼鎮神社が出てます
比企能員 wikipedia
吉見百穴
鎌形八幡
posted by alice−room at 02:13| 埼玉 ☁| Comment(7) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月22日

シャルトル大聖堂の案内パンフ

昨日、今日と少し時間があったので自分の部屋の中で少し本を探してみた。ある、ある、ある…実際に書名を見ると買った覚えがあるのだが、読むことをすっかり忘れていた本の数々が…。あまり読みたいとも思わない本ならまだしも、ちょっと面白そうなものがいくつも出て来て正直、かなり焦ったりもする(アセアセ)。

こ、怖い…このままだと絶対に知らないままで同じ本を買ってしまう恐れを抱いてしばし、愕然とする私。安い本じゃないんだから、もう〜と自分にしか当たれない怒りを持ちつつ、ホコリとカビの匂いに困ったなと思う私。本の値段を見ると、2500円とかしてるしなあ〜。重複したら泣いても泣き切れないので、しばらく本の購入を自粛しよっと!!

さてさて、何日ぐらい持つのだろう、この決心は…。

シャルトル大聖堂のパンフ

前置きが長くなって恐縮ですが、本の整理をしていて出たものの一つ(これ以外には、何故か祇園祭のパンフも出てきた)。去年シャルトル大聖堂に行った時に、tourist informationとかでもらったパンフが出てきた。ご親切にフランス語・英語以外にも中国語や日本語まであってなかなか親切。

シャルトル大聖堂のパンフ シャルトル大聖堂のパンフ

(小さな画像は、クリックして下さい。大きくなります)
一人旅で行く人には何かの役に立つかもしてないので、ここで紹介しておきます。なお、日本語で書かれているのは一部分で、実際に地下のクリプトとかを案内してもらって回るツアーみたいなのは、英語でしか書かれていません。時間と料金なども書かれてますので行かれる方は参考にどうぞ。

せっかく資料をもらいながら、どこか抜けてる私はステンドグラスの美しさに圧倒されてパンフをほとんど読まず、クリプトを見学しそこなってしまったので今も悔やむことしきり。お時間がある方は、是非、塔に登ってその後で地下のクリプトも見学下さい。

せっかくのパンフだけど、すぐに無くしてしまいそうなんでブログに載せて自分用のメモだったりもする(笑顔)。

関連ブログ
「シャルトル大聖堂」馬杉 宗夫 八坂書房
シャルトル大聖堂 〜パリ(7月5日)〜
posted by alice−room at 23:25| 埼玉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月19日

聖ブレンダンの航海譚 抜粋

こないださんざん酷評した「聖パトリック祭の夜」 の中で、ここだけは大切!と思ったところです。この話だけ知りたかったので後は全部(私的には)不要でした。う〜ん高い買い物だった(涙)。そのまま、抜き書きするには、ちょっと文章が長過ぎて抵抗感があるんですけど。英文があれば自分で訳してメモするんだけど・・・。仕方ない、そのまま本より引用してしまいます。だって、この話は知っておかないといろいろと困るし…。でも、本はもう要らない。

聖パトリック祭の夜―ケルト航海譚とジョイス変幻(amazonリンク)

関連サイト
聖ブレンダンの航海
curragh様の大変詳しいサイトです。聖ブレンダンのことをたくさん知ることができますので御興味のある方は是非、どうぞ!

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聖ブレンダン航海譚

1バーリンドの物語
聖ブレンダンが、ゴールウェイ地方のクロンファートで、三千人の修道士を擁する修道院共同体の長を務めていた頃、あるときバーリンドという修道士の訪問を受ける。バーリンドは、聖メノックを訪問してきたことを話した。
聖メノックは荒野で修行の後、現在の沖の島の修道院長になっている。その聖メノックがバーリンドを招いたのは、彼を伴って聖人達の「約束の地」へ船出するためであった。
船は西に向けて出発し、厚い靄を通り抜けると大きな陸地に着いた。そこにはたわわに果実がなり、花が咲き乱れていた。十五日の間二人はその陸地を歩き回り、ついに西へ流れる川に着いた。そこに男がおり、男は二人にもっと船で先へ行きなさい、家に帰ってはならない、先には世界の初めの時からあった島がある、あなたがたはそこに一年で着くだろう。食べ物も飲み物も要らずに、と言うのであった。
男は二人を船まで送り、二人が乗り込むと消えてしまった。二人は祖国の方へと漕ぎ出し、厚い靄を抜けて聖メノックの修道院に帰って来た。そして、バーリンドは修道士たちにこう教えられたのだった。聖メノックはときどきあなたが行った「約束の地」に船で行くのです。そしてそこに長く留まるのです、と。

2弟子の選抜
バーリンドが彼の庵に帰った後、聖ブレンダンは自分の修道院から十四人の修道僧と選び、聖人達の「約束の地」へ行く決心があるか、と訪ねる。ただちに弟子達は聖ブレンダンの供をすることを申し出た。

3エンダ訪問
お祈りのあと、聖ブレンダンと修道士達は航海の安全を祈ってもらうため、聖エンダの島(アラン島のイニシモア)を訪ねて、三日間滞在した。

4船をつくる
それから聖ブレンダンと修道士達は、「ブレンダンの座」と呼ばれる山の麓の狭い川岸に天幕を張り、木枠の船を造り、その上に樫の樹皮でなめした牛皮をはり、脂肪を皮の合わせ目になすりつけた。帆柱と帆と櫂をつくり、四十日間をしのぐ食物を用意し、予備の皮と脂肪も蓄えた。

5遅れてきた三人
彼らが出帆しようとした時、三人の僧が浜に来て一緒に連れていってくれるよう懇願するのだった。聖ブレンダンは承知するが、三人のうち二人はひどい目にあうだろう、三人目も航海から戻れないだろうと警告した。

6不在の館
西に向けて十五日間航海を続けた時、凪の後、方向を見失い、崖をつたって滝がしぶきをあげる峻厳な巌の島に吹き寄せられてしまった。上陸すると野犬がいて、その犬が館へ彼らを案内した。その館の広間に入ると、彼らのために食べ物が用意されている。そこに三日間滞在したが、その間誰も姿を現さない。しかし、食べ物だけはいつも用意されていたのだった。

7修道士の死
その館での滞在も終わり近くなった折、あとから加わった修道士の一人が銀の刀剣をみつけてそれを盗もうとしたので、聖ブレンダンはその僧を叱った。そのとき小さな邪鬼が修道士の懐中から飛び出したかと思うと、その修道士はしんでしまったのだった。

8若い“給仕”
彼らが船に乗ろうとしていると、若い男がやって来て航海のためにと籠一杯のパンと水差し一杯の水をくれ、今度の航海は長いものになるだろうと告げた。

9羊の島
次なる上陸地は、魚のたくさん泳ぐ大きな河の流れる島だった。その島は「羊の島」と呼ばれていた。一年中、羊の群が走りまわっているからだ。彼らはそこに洗足木曜日から聖土曜日までいた。島の人が食べ物を運んでくれ、次のように予言した。あなたがたは復活祭の日に近くの島に着くだろう。それからさほど遠からぬ「鳥の楽園」という西方の三番目の島に行くだろう。あなたがたはそこに聖霊降誕節(復活祭語七回目の日曜日)まで留まるであろう、と。

10ヤコニウス
そこからいちばん近い島は、石だらけで草も生えていなかった。船を網で浜に引き上げて、火を起こし、「羊の島」からもってきた肉を料理した。ところが鍋が沸騰すると、なんと島が揺れ動きはじめたのだ。一同は仰天して大混乱となって船に戻った。彼らがおこした火を乗せたまま、その“島”が海の方へ動いていくのを見送るばかりだった。聖ブレンダンは、その“島”は「ヤコニウス」と呼ばれる、海でいちばん大きな魚である、と皆に語った。

11島の楽園
さて修道士達は「羊の島」の西方の狭い海峡に横たわる「鳥の楽園」へと帆を進めた。船を引いて約1マイルほどその島の河を水源に向かってのぼると巨木があり、たくさんの白鳥がとまっているのを見た。なかの一羽は人に飼い慣らされているようにおとなしく、船に飛来して聖ブレンダンに話しかけ、鳥は人間の霊魂であると言った。また聖ブレンダンは「約束の地」を七年間捜しつづけることになるだろうと告げるのであった。夕祷や他のお祈りの時間に鳥達は賛美歌を歌い、お祈りの文句を唱えた。
修道士達はこの「鳥の楽園」にしばらく留まり、“給仕”はなんと「羊の島」で彼らに食べ物を用意してくれた男であった。男は新鮮な水も運んで来てくれ、島の泉に湧く水を飲んではならない、それを飲むと眠りにおちるだろうと警告した。

12アルプの修道院
聖ブレンダン達は三ヶ月航海をつづけた。まわりには海と空しかなかった。皆はかなり疲れ果て、次の島が見えて来ても向かい風に向かって櫂を漕ぐ気力もないのであった。しかし、彼らは何とか上陸できる場所をみつけた。その島の二つの井戸で水桶に水を汲んだが、その一つの井戸水は清く、もう一つの井戸水は泥臭かった。
一行は墓のそばで白髪の老人に出会った。その老人は、彼らを上陸した場所から200ヤード離れた修道院に連れて行った。入口で、聖遺物と十字架を祈祷書を持った11人の修道士が黙して聖ブレンダン達を向かえて抱擁し、修道院長が一同の足を洗った。11人の修道士達と共に彼らは座り、イモと白パンの食事を供された。すると修道院長は沈黙の規則を破って、それらのパンが食料貯蔵庫に奇跡的にもたらせたものであり、彼らの礼拝堂の蝋燭は決して燃えつきないのだと、聖ブレンダンに話すのであった。その修道院では料理された食べ物を誰一人とらず、総勢24人の修道士達は齢をとることもないようにみえた。
食事の後、聖ブレンダンは円形になった二十四の席のある教会と、四角い切り子の水晶でできた教会の器を見せられた。教会そのものが四角形であった。
祈祷の後、修道士達はそれぞれの小室に退いたが、院長と聖ブレンダンとは、ランプの火の奇跡をこの目で確かめようとその場に残った。待つ間、院長は八年間というものこの島で一度たりと人間の声を聴いたためしのないこと、身振りだけで意思を伝えてきたこと、そして誰一人病んだ者もいなかれば、心を蝕まれた者もいなかったこと、などを語った。と、突然、火の矢が窓から飛び込み、ランプに触れて火をつけ外に出ていったのだった。

13眠りの井戸
聖ブレンダンと弟子達は聖アルプの修道院でクリスマスを過ごし、八日目の「顕現」の日に海に出て、四旬節まで航海をした。食べ物も底をつき、憔悴しきってしまったが、三日後にまた別の島に着いた。
その島には清らかな井戸水があり、その井戸は植物や根に覆われていた。海に注ぐ河では河底に泳ぐ魚が見えた。彼らは植物と根を採って食べ、井戸水を飲むと深い眠りに誘われ、ある者は一日、ある者は二日、ある者は三日の間眠り続けたのだった。
聖ブレンダンが祈ると、弟子達は目覚めて、この島を離れなくてはならないと言った。少々の水と捕った魚だけを積んで、彼らは船に乗り、北に向かった。

14固まった海
三日後、風は止み海面は固まったかのように滑らかになった。そこで聖ブレンダンは皆に櫂をあげて神のお導きに任せるように指示したのである。二日間彼らはあてどもなく漂流したが、まもなく西風が吹いて船を東へと運んだ。

15羊の島、ヤコニウス、島の楽園再訪
風は「羊の島」へと船を引き戻した。着いた場所は去年と同じで、あの“給仕”が嬉しそうに彼らを迎えた。彼は天幕を張り、風呂を用意し、真新しい衣まで用意してくれた。聖土曜日を祝い晩餐を済ませると、給仕は「復活の日曜日」を祝う為、聖ブレンダン達が以前出会った“鯨”のところに戻るよう、そして「鳥たちの楽園」の方角へ船を進めるよう告げた。聖ブレンダン達が留まっている間、給仕は渡し船でパンと飲み物を運んだのだった。
給仕の言ったとおり聖ブレンダン達は“鯨”に上陸し、それから「鳥の楽園」に渡り鳥達の歌を聴いた。給仕は聖ブレンダンにこう言ったのである――七年間同じ周期を繰り返せ、と。すなわち、荒足木曜日を「羊の島」で、復活祭を“鯨”で、復活祭から精霊降臨祭までを「鳥の楽園」で、そしてクリスマスを聖アルプの修道院で過ごせ、と。
そのように行いはじめると、給仕は彼らが「羊の島」から持って来た蓄えを積んで船で再び出帆するまで、食べ物を用意してくれるのであった。

16むさぼり喰う獣
四十日間海を漂った後、巨大な怪物が船を追ってくるのが見えた。怪物は鼻から泡を吹き出し、彼らに食いつかんばかりに猛烈な速さで波をかき分けてくるのである。修道士達は恐れおののき神に助けを請うのであったが、聖ブレンダンは彼らを鎮めた。巨大な怪物はなおも近づき、聖ブレンダンの目の前で船の上に達する大波をたてると、修道士達はいっそう震え上がった。その瞬間、反対の方向から、つまり西の方からまた別の荒々しい怪物が現われた。その怪物は船の近くを泳いでいったかと思うと、別の怪物に体当たりして火を噴いた。と、修道士達の目の前で最初の怪物のからだが散り散りに破れ、後から来た怪物はそのまま泳いで、やって来た方向へ去ってしまったのである。
後日、彼らは樹の繁る大きな島を見た。上陸すると死んだ怪獣の尾が落ちていた。聖ブレンダンはその尾は食べられると言った。天幕を張り、彼らは尾の肉を手に持てる限りたくさん切り刻んだ。
島の南の方に清らかな井戸があり、そこにはたくさんの植物と根が絡まっていた。夜、姿の見えない動物が怪獣の死骸をむさぼり食って、朝になって見てみると、骨のほか何も残っていなかった。嵐、強風、霰に雹、雨が三ヶ月も続いたために、修道士達はその島に足止めされた。ある日、死んだ魚が渚に打ち上げられていたので、それを取ってその一部を食べ、残りは塩漬けにしてとっておくようにと聖ブレンダンは言った。天候が回復してきており、水嵩も減り始め、波もおさまり、出帆できるようになったからである。
水と食べ物と、集めた植物と根を載せて、彼らは北へ向かって船を出した。

17三人の聖歌隊の島
ある日、海面のかなり上まで盛り上がっている異常に平坦な島に着いた。木は一本もないのに、紫と白の果実が島を覆っている。島のまわりを三人の聖歌隊が歩き回っていた。ひとりは少年で白い衣、ひとりは青年で青い衣、ひとりは壮年で紫の衣を着ており、歩きながら賛美歌を歌っていた。聖ブレンダン達の船が島に着いたのは朝の10時だったけれども、聖歌隊は午後三時に誤りなく「詩篇」を歌い、夕祷もきちんと行った。彼らが歌い終わると神々しい光が島の上空に湧き出、聖歌隊の姿は雲とともに見えなくなったのである。
翌朝、夜明けは雲ひとつなく、例の聖歌隊がまた聖餐を祝福し、そのあと隊の少年と青年が紫と白の果物を船に運んできた。

18ブドウの島
数日後。巨大な怪鳥が船の上を飛ぶ。嘴に見たこともない木の枝を加えていて、鳥はその枝を聖ブレンダンの膝に落とした。枝の先にリンゴほどの大きさの、輝く赤色のブドウがなっていた。修道士達はブドウを食べて、八日の間をそれだけでしのぐことができたのだった。
その後の三日間を食べる物なしで過ごした後、またもや同じ果物のなる木で覆われた島を見つけた。空気はザクロの香りがした。そこに四十日間留まった。天幕を張り、果物ばかりか、泉のそばに生えているあらゆる種類の植物と根とを採ったのだった。

19グリフォン
一杯の果実を載せて、あてどもなく航海していると、空飛ぶグリフォンの急襲にあった。しかしグリフォンが鉤爪で襲いかかろうとした瞬間、先日ブドウの枝を運んで来たあの鳥が現われてグリフォンを追いはらおうと、その眼を攻撃した。グリフォンは空高く舞い上がり、息絶えて、皆の眼の前で海に落ちていった。救ってくれたあの鳥は飛び去った。

20アルブの修道院再訪
聖ブレンダン達は聖アルブの修道院を訪れて、クリスマスを共に過ごした。それから長い間、大海原を航海しつづけた。前と同じように、洗足木曜日と聖霊降臨祭までの間で寄ったのは、「羊の島」と「鳥の楽園」だけである。

21澄んだ海
航海中、一度、聖ペテロの祭日に一行は、とても済みきった水の上を進んでいることに気づいた。その水の透きとおっていることといったら、前に渚に打ち上げられていたのとは別種の魚が、まるで牧場の羊のように泳ぎ回っているのを透かしてみられるほどであった。魚達は頭から尾まで環のようにつながり、聖ブレンダンが祈りの歌を歌うと船まで浮き上がってきたり、見渡す限りの巨大な群となって泳ぎまわったりした。礼拝が済むと魚達は仕事が終わったかのように泳ぎ去った。このとても澄んだ水の海を渡るのに、たっぷり八日間かかった。

22水晶の柱
またある日、海から突き出ている柱を見た。はじめは近くにあるように見えたのだが、そこへたどり着くまでに三日もかかった。聖ブレンダンが頂きを見ることができないほどに、とてつもなく高い柱であった。柱には大きな網がかけられていて、網の穴を船は通り抜けた。網は銀色で、大理石より堅かった。帆を降ろして櫂で漕いで、修道士達は網の穴から抜け出た。海水が澄んでいたので網がずっと底の柱の根元の方まで広がっているのがわかった。海水はガラスのように透きとおり、水の下でも陽の光が天と同じように輝いていたのだった。
聖ブレンダンがその網を測ってみると幅が6−7フィートあった。それから彼らは四角い柱の片側に沿って船を進め、聖ブレンダンが柱の両側を測ってみると700ヤードあった。柱の陰にいても太陽の熱を感じた。四日目に彼らは柱の横に開いている窓の中に、水晶の聖杯と聖杯皿を見つけた。
柱の測量が終わると聖ブレンダンは弟子達に食事にするように言った。それから一同は網を持ち上げて彼らの船をそこから抜け出させ、帆柱を立て帆を張って、八日の間北へと航海したのだった。

23鍛治の島
八日目に岩だらけの荒れた島に着いた。鉱滓と炉がいっぱいで草も木も生えていなかった。聖ブレンダンは不安になったが、風がその島へまっすぐに彼らを吹き寄せた。鉄床を打つハンマーのとてつもない音が聞こえた。島の人間が炉から出て来たが船をみとめると、また中に入ってしまった。聖ブレンダンは弟子達に遠く漕いで上陸するように言った。だが、聖ブレンダンが語ると、島の人間はまた出て来て大きな鉱滓のかたまりを聖ブレンダン達に投げつけた。そのかたまりは、彼の頭上を飛び越し200ヤードも飛び、海中に落ちるや、海は煮えたぎり、まるで窯から吹き上げるように煙を立ち昇らせた。
船が島から1マイルも離れても、さらに大勢の島民が渚を駆けて来て彼らに鉱滓のかたまりを投げつけ始めたのだった。まるで島全体が火のようであった。海は煮えたぎり、風は唸り声をあげた。聖ブレンダン達の船から島が見えなくなっても、鼻をつく匂いがした。私達は「地獄」の縁に行ったのだ、と聖ブレンダンは言った。

24炎の山
またある日のこと、北の方の雲間に煙を吹く高山を見た。風は船をそちらへと迅く吹き寄せ、彼らは島を少し遠巻きにして周りをまわってみた。彼らの前に壁のような真っ黒の崖が立ちはだかった。崖はあまりに高く頂上が見えない。遅れて乗船した、あの三人目の修道士が船から島へ飛び移り、崖の下を歩き始めたが戻る力がないと泣き叫んだ。恐るべきことに、修道士達は悪魔が彼を連れ去り、火の中へ投げ込むのを見た。
追い風が彼らをそこから逃れさせた。振り返ってみると煙を噴いていた山が炎に包まれ、山が火を噴き、火を呑み込み、山はまるごと積み薪のようになるのを見たのである。

25不幸なユダ
南へ向けて七日間、航海を続けると、岩の上に奇妙な男が座っていた。男の衣服は、眼の前の鉄の器具に吊り下げられている。岩に波が砕け、男の頭に降りかかった。風が男の衣を翻して、眼や額に触れるのである。聖ブレンダンが男に何者かとたずねると、自分はユダであると答え、神聖な火には神が火の山にある「地獄」の責め苦から自由にして、岩の上に座らせるのだと言った。夜、数知れない悪魔が海を覆うほどに現われ、岩のまわりをまわって金切り声をあげ、聖ブレンダンを追い払うのであった。聖ブレンダンが承知すると、悪魔は立ち去る聖ブレンダン達の船を追って来、それから島へ戻って、唸り声をあげながら、とてつもない力でユダを担ぎあげたのである。

26隠者の島
三日間南へ進めと、小さな島に着いた。島は円周200ヤードの円の形をしていた。崖が海に迫り、上陸できる所がない。火打ち石のような岩がむき出しになっている。ようやく上陸できそうな場所が見つかったが、岩棚がとても狭く船の舳先を着けるのがやっとだった。聖ブレンダンは自ら岩壁に飛び移り、島の頂上まで攀じ上がった。
するとそこには、島の東側に入口をもつ二つの洞窟があり、ひとつの洞窟の入口にはこんこんと泉が湧いていた。この洞窟の中に老いた隠者がいた。老人のからだは長く伸びた白い髪の毛と髯で覆われているのだった。隠者はその昔聖パトリックの修道院にいた。聖パトリックが死んだとき、その亡霊に船で海に出よと告げられたと言うのだった。隠者の船は行く先を知っているかのように島に漂着したという。隠者は30年の間、三日ごとにカワウソが運んでくる魚を食べて暮らした。カワウソは薪も持って来た。隠者は二つ並んだこの洞窟と泉を見つけ、さらに60年を生きてきた、自分は140歳になると言った。それから聖ブレンダンに泉の水を持っていくように促し、聖ブレンダン達は「羊の島」と「鳥の楽園」に戻る前に四十日間航海をするであろうからと言った。
聖ブレンダンは四十日の航海のち聖人達の「約束の地」に着き、四十日そこに留まり、そして神は聖ブレンダンをアイルランドへ安全に帰還させることになるのだった。

27羊の島、ヤコニウス、鳥の楽園三度
聖ブレンダンと弟子達は、老いた隠者の祝福を受けて南へと船を進めた。一行は海に翻弄されながら、隠者の島から持って来た泉の水だけで生き延びた。
ついに、聖土曜日、再び「羊の島」に着いた。例の“給仕”が上陸地点で迎え、皆が船から下りるのを助け、晩餐をふるまった。
“給仕”は一同と共に出帆して“鯨のヤコニウス”に漂着した。ヤコニウスは皆を背に乗せて「鳥の楽園」へと泳ぎ進んだのだった。“給仕”は水桶を一杯にせよ、今から自分は皆の水先案内人になるのだからと告げた。自分が行かなければ聖人達の「約束の地」に到着できはしないと言うのである。

28聖人の「約束の地」
聖ブレンダンと“給仕”と弟子達は四十日の船旅の貯えを調達するため、「羊の島」へ戻った。それから四十日間東へ航海した。“給仕”は舳先に乗って皆に行く手を示した。四十日後の夕刻、大きな靄が彼らを呑み込み、互いがみえなくなってしまうほどだった。“給仕”は、この靄は永劫に島を取り巻いているのだと言った。その島とは、聖ブレンダンが七年の間ずっと捜し続けてきた島であった。
一時間ほどたつと大きな大きな光が輝き、船は渚に着くことができた。修道士達は下船した。そこは果実をたわわにつけた木で一杯の大きな陸地だった。一行は陸地のまわりをぐるりとまわった。彼らは果物を食べ水を飲み四十日間その陸地を探検したけれども陸地が尽きることはなかった。
しかしある日、大河の岸に出た。聖ブレンダンはこの河は渡れまいし、陸地の大きさもつかめはしない、と言った。
そうしているうちに若い人が現われ、ひとりひとりの名を呼びながら抱擁した。そして聖ブレンダンに向かって言うのであった。神はあなたがたをこの島にお導きになるのに、時間をかけました。この大洋の神秘をあなたがたにお見せになる為に、と。
そして若い人は果物と宝石を集めるよう促し、聖ブレンダンの最後の日々は近いから故郷に戻られよ、と言うのだった。若い人は告げた、キリスト教徒が迫害されるとき、この島では河が地をわかち、聖ブレンダンの後継者達に知られるようになるだろう、と。
聖ブレンダン達はいろいろな果実と宝石を集め、“給仕”に別れを告げて靄の中を航海した。彼らは「歓びの島」に着いた。そこの修道院長の元に三日間留まり、そうして聖ブレンダン達はアイルランドに帰り、元の修道院に戻ったのであった。

29帰還と聖ブレンダンの死
修道院の皆が聖ブレンダンの帰還を歓呼して迎えた。聖ブレンダンは彼らに船旅で体験したあらゆる出来事を語った。そして最後に聖ブレンダンは、死が近づいている事を皆に告げた。「約束の地」の若い人が言ったとおりだ。預言者は正しかったのである。きちんと身支度し、お祈りをすると、やがて聖ブレンダンは弟子達に見守られながら、主のもとへと旅立ったのである。アーメン。
posted by alice−room at 01:24| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月15日

澁澤龍彦氏の書斎を紹介するサイト

昨晩ネットを徘徊して(怪しい?)おりまして、すごい物を発見しましたので皆様にも御紹介します。

古書の町、神保町が最近やっているネットのサイトでなんと澁澤氏の書斎を紹介しています。
神保町.com 澁澤龍彦氏の書斎

画像420枚に動画5本だって、かなり感動ものです。是非、澁澤ファンの方はご覧下さい。私なんてここのHPを丸ごとダウンロードして永久保存版にしてしまいました(Vサイン!)。

しかし、神保町も憎いことやってくれますね。こんなの見たら、私なんてもっと&もっと本を買って読まなければ、全然知識が足らないのは当たり前と思ってしまいます。で、益々古書店から本を買う羽目に…。積読なんてなんのその、また本を買って読むか…うっ、完全に古書店関係者の狙った通りに。並行して新刊でも面白いのが出ると、買っちゃうし…(号泣)。

それでも、もっと&もっとたくさんの本を読んで行きたいですね♪ しかし、私の部屋にこれ以上は本置けないんだけど、どうすればいいのやら??? 読んでもつまらなかった本はドンドン売らないと。それでも狭い私の部屋には本を置くスペースは一体どこに? ダンボール箱に入りきらない本を積み重ねていくと、段々崩れそうで怖い…(涙)。机の上や、寝床の周りには本が散乱しているし、掃除の度に山にぶつかって崩れそうになるし…ああ、無情。

私のグチなんかおいてといて。そうそう、江戸川乱歩氏の書斎も是非&是非見たかった!!
神保町.com  江戸川乱歩氏の書斎

ここも凄いので、忘れぜにチェックして下さいませ。ここの土蔵は立教大学とかの敷地内になかったっけ? 先日のイベントで公開していて見に行こうと思いつつ、忘れていたんだよね。しまった&失敗した! 見ておけば良かった!! 今度やる時には、絶対に見に行くぞ〜。

あった、あった。ここのサイトに情報がありました。
旧江戸川乱歩邸
うん、やっぱりいいね。ここもお好きな方には堪らないかも(笑)
posted by alice−room at 15:29| 埼玉 ☔| Comment(10) | TrackBack(6) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月23日

聖ニコラウス伝承(巷にいうサンタクロースさん)

クリスマス・イブももうすぐなので季節柄便乗して慌てて採り上げてみることにする。もっともお知り合いのブログ(seedsbookさんlapisさん)で既にサンタさんの記事を読み、せっかく黄金伝説を持っているなら、その辺のお話を書いたらとのお薦めもあって、ようやく怠け者の私も書いていたりもする。しかもギリギリだし(苦笑)。

先行するお二人のブログで紹介されている内容も黄金伝説で出ていましたが、あまりにも分量が多いので私の独断と偏見で、ここでは抜き書きしています。世界中の人気者サンタクロース。その元々の守護聖人ニコラウスってどんな人? 少しでも参考になると嬉しいです。

サンタクロースが何故、泥棒の守護聖人なのか? 処女の守護聖人なのか? それなりに理由があるのが分かります。子供だけの聖人ではなく、夜中に金の塊を投げ込んでくれるなら、私の守護聖人になって欲しい!! 貧乏な人に金をばらまく所なんて、まるで義賊ねずみ小僧みたいです(笑顔)。おもちゃより、はるかに嬉しいかも? 

こんなことばかり言っていて、風邪にやられている私です。とりあえず、健康のプレゼントをお願いしたいですね。

聖ニコラウス 【黄金伝説より抜粋】

ニコラウス(Nicolaus)は<勝利>を意味するnicosと<民衆を意味するlaosに由来し、民衆の、即ち通俗にして低劣な悪徳の、克服者を意味する。あるいは多くの民衆にその訓戒と実例とよって悪徳と罪とをどのように克服すべきかを教えたのであるから、民衆の勝利を意味する。あるいは、nicos<勝利>と<称賛>を意味するlausとから来ていて、勝利に輝く称賛を意味する。

ニコラウスはパトラス市の敬虔で富裕な両親のもとに生まれた。父はエピパニオスといい、母はヨハンナと言った。神は両親の若い盛りにこの子供をお与えになった。以後、両親は情欲を慎み、神を愛して生きた。聖ニコラウスは生まれたその日、産湯をつかわせようとすると、たらいの中にすっくと立った。また水曜日と金曜日には母の乳房を一度しか吸わなかった。幼年時代には他の少年達が喜ぶ楽しみごとや遊びには仲間入りしないで熱心に教会に通った。教会で聖書から覚えたことはいつも真剣に心に留めていた。父と母が死んだ時、莫大な遺産を人間の名誉の為で無く、神をたたえる為に使うにはどうしたら良いかと考え始めた。

生まれは貴族だが貧乏な隣人がいた。その人は娘が三人あって困窮のあげくに三人に春をひさがせ、娘達の恥辱で得た金で暮らそうと考えた。聖ニコラウスはこれを聞いてその罪深さに驚いた。彼は金塊を布に包むと夜密かに貧しい隣人の家に窓から投げ込んでそっとまた帰ってきた。隣人は朝になって金に気付き、神に感謝し、その金で長女の結婚式を挙げた。それからしばらくして聖ニコラウスはもう一度同じことをした。貧しい隣人は再びたくさんの金を見つけると心から神を誉め称え、困っている自分にこんな援助の手を差し伸べてくださる奇特な神のしもべをはだれであろうかと思って、これからは見張りをしていることにした。

その後まもなく、聖ニコラウスは以前の二倍の金塊を隣家に投げ込んだ。隣人は金塊が投げ落とされた音で目を覚まし、後を追いかけて「どうかお顔を見せて下さい」と叫んだ。そして彼に追いついて聖ニコラウスであることを知った。隣人は彼の前にひざまづき、足に接吻をしようとした。ニコラウスはそれを押し留めて自分が生きている間はこのことを誰にも言わないで欲しいと頼んだ。

ミュラの司教が死に後任を選ぶ為に多くの司教が集まってきた。一人の権勢と声望の高い司教がいて後任の選出はこの人の判断一つにかかっていた。彼は一同に断食とお祈りを続けるようにと言った。と、その夜、ある声が届いて「朝課の時刻に教会の入口を見張っていなさい。教会に最初にやってくるニコラウスという名前の者を司教に任じなさい」と告げた。司教はこのことを他の人々に知らせ、心を込めてお祈りを続けるようにと言いつけて、自分は入口のところで待っていた。さて、主がお定めになったとおり、朝課の時刻に聖ニコラウスが誰よりも先に教会にやってきた。くだんの司教はニコラウスを呼び止めて「あなたはなんというお名前ですか」と尋ねた。何も知らないニコラウスはうやうやしく頭を下げて「私はニコラウスと申しまして神父様のしもべでございます」と答えた。そこで、一同はニコラウスを教会の中に案内して、どうしてもいやがる彼を司教の財につけてしまった。

ある時、水夫達が海上で大嵐にあった。彼らは聖ニコラウスの名を呼んで「主のしもべでいらっしゃるニコラウス様、私達が耳にしましたあなたのお噂がほんとうなのでしたら、私達にも助けの手をお差し伸べ下さい」と祈った。すると、ニコラウスらしい人が現われ、「あなた方が呼んだのでやって来ましたよ」と言って、帆や索やその他の船具を操るのを手伝いはじめた。と、たちまち海は静かになった。水夫達は陸地に着くと、その足でニコラウスの教会を訪れた。彼らはそれまで一度もニコラウスを見たことがなかったにもかかわらず、誰にも教えてもらうまでもなく、すぐにこの人だとわかった。彼らは主とニコラウスに助けてもらったことを感謝した。しかし、ニコラウスはこう述べた。「私ではなく、あなた方の信心と天主の聖寵があなた方を助けたのです」

その後、聖ニコラウスが司教をしている地方に大飢饉が生じ、あたり一帯どこにも食料がなくなってしまった。その時、ニコラウスは小麦を満載した数隻の船がここの港に立ち寄ったという話を耳に挟んだ。そこで出掛けて行って船員達に飢えている人々を救う為にどの船からも十斗ずつでもよいから小麦を分けて欲しいと頼んだ。船員達は「神父さん、そいつはできない相談ですな。アレクサンドリアでちゃんと量目を計って受け取ってきた小麦でしてね、皇帝様の倉庫に引き渡さなくちゃならんのですよ」と答えた。聖ニコラウスは「私の言うとおりにしなさい。天主のおん力にかけて誓います。皇帝の役人達が小麦の計量をする時、量目は少しも減っていないでしょう」と言った。船員達はニコラウスに言われたとおりにした。そして、小麦を皇帝の計量官に引き渡した時、その量目はアレクサンドリアで積み込んだ時と少しも違わなかった。船員達はこの奇跡を人々に語り、主とそのしもべとを誉め称えた。そしてその少量の小麦は、その地方の全ての人々に二年間にわたって分け与えたにもかかわらず、底をつくこともなく、種まきにする分もたっぷり残った。


我らが主が聖人をこの世から永遠の喜びの国にお召しになろうとされた時、ニコラウスは御使いをお送り下さいと主に願った。頭をたれていると、主の御使いがたちがこちらへ降りてくるのが見えた。彼は賛美歌『主よ、私はみもとに帰ることを望みました』を「私の霊をあなたのおん手に委ねます」ということまでうたった。そして、ここで昇天した。主の紀元343年のことである。すると、甘美な天上の歌声が聞こえた。遺体は大理石の墓に埋葬された。すると、その頭部から油の泉が湧き出し、脚部から水の泉が湧き出た。彼の聖骨から湧くその聖なる油は今日でも流れ出ていて万病に効験あらたかである。

聖ニコラウスの死後、ある敬虔な神父がミュラの司教になったが、嫉妬した人達にその地位を追われた。すると、油の泉が涸れてしまった。その神父がミュラに呼び戻されると泉は元通りに湧きあふれた。それから長い年月が経って、ミュラの町はトルコ人達に破壊された。しかし、バーリ市から四十七人の騎士達が訪れてきた。四人の司祭達は彼らに聖人の墓を見せた。墓を開けて見るとニコラウスの聖骨は油の中に浮かんでいた。騎士達は丁重に聖骨をバーリ市に持ち帰った。主の御誕生後、1087年のことである。

あるキリスト教徒がユダヤ人から多額の金を借りた。保証人がなかったので聖ニコラウスの祭壇にかけてできるだけ早く返済することを誓約した。長い間借りっぱなしにしたあと、ユダヤ人から金の返済を迫られた。すると、キリスト教徒はその金は既に返したと言った。そこでユダヤ人は法廷に持ち出した。法廷はキリスト教徒に返済したのならそう誓言することを命じた。彼はなかが空洞の杖に金貨をいっぱい詰めて杖がなくては歩けないと言わんばかりの格好で法廷に出頭した。そして、誓言をを求められると杖をユダヤ人に預けて借りた以上の額を返済したと誓言した。誓言が済むと、ユダヤ人に杖を返してもらいたいと言った。悪巧みをされているとはつゆ気付かないユダヤ人は正直に杖を返した。

まんまとだまいおおせたキリスト教徒は帰り道で急に疲労をおべえ、十字路の所で眠り込んでしまった。その時、一台の馬車が猛スピードで走ってきて彼をひき殺した。金貨を詰めた杖も割れて中から金貨が転がり出てきた。ユダヤ人はこれを聞くと、急いで現場へ駆けつけ、悪だくみに気付いた。人々はその金貨をもらっておくようにすすめた。しかし、ユダヤ人は言った。「いや、そんなことはできません。もっともこのキリスト教徒が聖ニコラウスのお慈悲とやらで生き返りでもすれば、話は別ですが。しかし、そんなことが本当におこった日にや、私も洗礼を受けてキリスト信者になってごらんに入れますよ」と、そのとき、死者がいきなり立ち上がって生き返った。ユダヤ人は洗礼を受け、キリスト信者になった。


あるとき、一人のユダヤ人がいて聖ニコラウスが偉大な奇跡を行うのをその目で見た。そこで彼は聖ニコラウスの像を作らせて家に置き、遠方に出掛ける時にはいつもその像に全財産を預けてこう言うのがくせであった。「ニコラウス様、私の全財産をあなたの御加護に委ねます。ちゃんと留守番をして下さらなければ、仕返しに鞭をたっぷりお見舞いしますよ」

ある日、ユダヤ人は外出し、聖ニコラウスに留守番をさせた。すると、泥棒達が押し入って家にあったものを根こそぎかっぱらい、聖人の像だけ残しておいた。ユダヤ人は帰宅してなにもかも盗み去られたことを知ると、像に向かってこう言った。「ニコラウス様、私は家の見張りをして頂く為にあなたを我が家に置いたのではありませんか。なぜちゃんと留守をまもり、泥棒どもを撃退して下さらなかったのですか。よろしいですか、泥棒に入られた罰と痛い目をしのんでいただかなくちゃなりません。私がこうむった損害の仕返しをあなたにし、あなたを鞭でたたきのめして鬱憤晴らしをしようとう訳です」こう言って聖人の像に手をかけ、激しく鞭で打って折檻した。

その時、大きな奇跡が起こった。泥棒達が盗品の山分けをしているところへ、聖ニコラウスがユダヤ人の折檻を生身に受けたかのような凄まじい形相であらわれ、こう言ったのである。「見なさい。私はあなた達のおかげでこんなに殴られたり打たれてありしてひどい仕打ちにあいました。全身血まみれでみみずばれになっています。だから急いで行って盗んだものをみんな返してきなさい。そうでないと、天主があなたがたに復讐をし、あなたがたの犯罪をばらしておしまいになるでしょう。そうなったら、天主があなたがたに復讐し、あなたがたの犯罪をばらしておしまいになるでしょう。そうなったら、みんな間違いなくつるし首です」彼らは言った。「俺達にそんなとんでもないことを言うあんたは、いったいだれかね」聖人は答えた。「私は主のしもべニコラウスという者で、あなた達に家財を盗まれたユダヤ人にめった打ちにあわされたのです」泥棒達は大いに驚き、ユダヤ人のところに行ってその奇跡を話し、盗み出した家財を返した。すると、ユダヤ人も自分が聖人の像にどのような仕打ちをしたか話して聞かせた。こうして泥棒達は真人間にかえり、ユダヤ人はキリスト教徒に改宗した。

【補足1】
バーリはイタリア南部、アドリア海に臨む都市。サン・ニコーラ(聖ニコラウス)聖堂には今もその墓があり、聖遺骨の移居記念日(5月8日)には海陸にわたる盛大な行事が催される。ミュラには、このときトルコ人によって破壊されたままの石棺が現存する。聖ニコラウス崇拝はミュラ及びコンスタンティノポリスを中心としていたが、9世紀にギリシアからイタリアに広まり、特に聖遺骨がバーリに移居してからは船乗りたちの熱心さもあいまってヨーロッパ全般に及び彼の名を冠した教会のない町がないくらいになった。

【補足2】
四世紀前半のミュラ(現トルコのデムレ)の司教。あらゆる聖人の中で古来民衆的人気と言う点で抜群の聖人。船乗り、パン職人、仕立て屋、織り工、肉屋、公証人、弁護士、学生、処女、子供などの守護聖人とされているのも人気の高さがうかがわれる。人気者だけに逸話も多く、ほとんどの場面が絵画に描かれる。単独で描かれる場合は司教の服装をし、本の上に金の珠(金塊)を三つのせている。パンを三個持っていることもある。
彼にちなむ<サンタ・クローズ>(語尾が濁るのが正しい発音)はオランダ語のシント・クラウスを訛ったものと言われ、彼の祝日12月6日の前夜に訪問と贈り物をかわす習慣に北欧の伝説が加わり、八頭のトナカイが引くソリに子供のおもちゃを積んで北極から訪れてくることになり、これがニュー・アムステルダム(後のニューヨーク)のオランダ系移民からアメリカ中に広まり、クリスマス・プレゼントの風習と結びついて赤服赤帽に長靴を履いたサンタさんが贈り物をいっぱいつめた大きな袋をかついでくるようになった。


黄金伝説 1 (amazonリンク)

関連ブログ
黄金伝説 Golden Legend コロンビア百科事典による
The Golden Legend: Readings on the Saints 「黄金伝説」 獲得までの経緯
「黄金伝説抄」ヤコブス・ア・ウォラギネ 新泉社
「守護聖者」植田重雄 中央公論社
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2005年11月20日

米Google,著作権を問われない書籍を「Google Print」で全文検索・閲覧可能に

米Google,著作権を問われない書籍を「Google Print」で全文検索・閲覧可能に 、の記事
【以下、転載】
米Googleは,書籍本文検索プロジェクト「Google Print Library Project」の一環として,著作権を問われない書籍を「Google Print」(ベータ版)で検索および閲覧可能にしたことを米国時間11月3日に発表した。米南北戦争の歴史書や,政府関連の書類,ヘンリー・ジェームスの作品などが含まれる。

  同プロジェクトは,世界の大規模図書館の蔵書をスキャンしてデジタル化し,インターネットで全文検索ができるデータベースを作成するというもの。スタンフォード大学,ハーバード大学,ミシガン大学,ニューヨーク公立図書館,オックスフォード大学などが参加している。これら大学や図書館との取り組みでは,主に著作権が消滅した作品,絶版本や希少本を対象にする。

 ただし,これまでに作家団体のAuthors Guildや米国出版者協会(AAP:Association of American Publishers)が,同プロジェクトは著作権侵害に当たるとして訴訟を起こしている(関連記事)。同社は,さまざまな懸念に対処すべく8月に同プロジェクトを一時中断していたが,10月31日にプロジェクト再開を宣言。すでに出版社との提携に動いていることも明らかにした。

 今回Google Printのインデックスに加えた書籍は,「著作権を保有しない,または著作権が消滅しているため,全文を検索および閲覧可能。各ページの画像をダウンロードすることもできる」(同社)。ちなみに著作権付き書籍の場合,Google Printの検索結果で閲覧できる範囲は検索キーワードを含む数行に制限される。

その後の記事によると、「Google print」だと誤解を招くということで「Google search」に代わるそうだが、名称なんかよりも根本的に凄い情報化が進んでいっていることを痛感します。amazonとgooleのサービス競争は、末恐ろしいですね。そのうちに各人の遺伝子情報なんかも全てデータベースで管理されそう…。SF的な世界は、もうかなり近いのかもしれません。

しかし、便利過ぎて怖いけど、是非&是非使いた〜い!!

関連ブログ
事前に本の中身をチェック Amazon.co.jp、書籍全文検索を開始
読みたいページだけを購入、Amazon.comが新サービスを計画
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2005年10月17日

法王大学で開講したエクソシスト講座の詳細

法王大学で開講したエクソシスト講座の詳細
【以下、転載】
その日は学校の初日で、当然のことながら神経質になっている学生もいた。彼らはヴァチカン大学でたった1つの講座を取っている。悪魔学とエクソシスト(悪魔祓い)の講座だ。

学生たちは主に、悪魔に出会ったときに、立ち向かう術を学ぼうという聖職者たちで、彼らに向かいパオロ・スカラフォニ司祭は「最近、ますます悪魔が人間の生活に介入していることには疑いがありません」と語った。

「みなさん全員がエクソシストになるわけではないでしょうが、あらゆる聖職者にとって悪魔が取り憑いた状態と心理的問題を識別する方法を知ることは必須なのです」

「エクソシズムと解放の祈り」という4カ月講座がローマ郊外の法王レギナ・アポストロラム大学で開設されるのは、今年で2年目。

悪魔主義と悪魔の憑依に関する神学的、礼拝学的、医学的、法的、犯罪学的側面に関する講義を聞くのは世界中から集まった約120人の学生だ。

講義の1つには「エクソシズムおよび関連事項に関する諸問題」と題されてる。

匿名希望のある聖職者は、教区の若い女性の告解を聞いている時に、「極めて奇異な体験」をして、この講座を取ることにしたという。

「彼女の声が変わり、表情がゆがみ、彼女が知るはずのない言葉で話し始めました。ほかにもこうした問題に苦しむ人々に会ったことがあります。こうしたケースは想像以上に多いのです」

で、告解室で彼女に取り憑いたような悪魔と対峙する決意は固まっているのだろうか?

「もし、この講座を受けた後、上司が、わたしがエクソシストになることが人々のためになると判断するのであれば、そういたします」

悪魔やオカルトにたいする興味は今年の映画「エクソシズム・オブ・エミリー・ローズ」や昨年「エクソシスト ビギニング」、1973年の「エクソシスト」などによって煽られてきた。

しかし映画のことは忘れよう。生徒たちは、本物の有名なエクソシストを講師に講義を受けるのだ。

そのひとりがガブリエレ・ナンニ司祭で、13日の開講に出席し、休みの間にロイターの取材に答えてくれた。

「聖職者がまず知らなければならないのは、その人間に悪魔が取り憑いているのか、それとも別の原因なのかを識別することです」

同司祭によると、心理的問題ではなく悪魔が憑依していることを示す4つの兆候があるという。

「その人間が、普段は理解できず話せない言葉をしゃべる場合、肉体的な力が身体の大きさや年齢を遙かに上回る場合、突然、オカルト実践の知識を持った場合、聖なるものに生理的嫌悪を感じている場合は悪魔に憑依されています」

統計によると、イタリアで悪魔カルトのメンバーは5000人ほどで、その4分の3が17〜25歳の若者だ。

1999年にバチカンはエクソシズムの儀式を改正した。

儀式は祈祷と祝福と聖水の散布で始まり。悪魔に憑依された被害者に手を置き、十字を切る。

悪魔払のセリフは「汝、サタンに命ずる……」と始まり、サタンを「現世の王子」「人類救済の敵」と非難する。そして最後に「戻れ、サタン」と呼びかける。
おっと、いよいよ始まったんですね、エクソシスト講座。悪魔カルトが5000人もいるって結構、病んでますねイタリアも。日本も危ない国になりつつありますが、本場イタリアだけにとりわけ怖そう・・・。

でも、必要だからそういう講座があるんでしょうし、実際に悪魔祓いをするって大変だと思うなあ〜。もっとも、そもそも悪魔というのが、日本人の私には概念以上に理解できないんだけどね。実感がないからなあ。西洋の人には、もっとリアルに感じられるのだろうか???

関連ブログ
悪魔祓いの全国集会をローマ法王が激励
エクソシスト養成講座 記事各種
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2005年10月07日

『トリノの聖骸布』の印影は復活の時のものか

[SKJ]■世界キリスト教情報■第770信より以下、転載
 【CJC=東京】米ロサンゼルスの典礼芸術家イサベル・ピチェクさんが、『トリノの聖骸布』の印影はキリスト復活の時のものという革新的な説を展開している。テキサス州ダラスで9月8〜11日に行われた『国際トリノの聖骸布会議』で発表したもの。会場では称賛の声が上がったという。
 『トリノの聖骸布』は、十字架にはりつけにされたキリストをくるんだ際に像が写し出されたとされる布で、何世紀にもわたってその真偽をめぐり論争が絶えない。ダラスでの会議には、世界各地から学者、芸術家、医師など160人が参加した。
 ピチェクさんは、実際の3分の1の像を作成、それを使って布の印影には「隠れた浅浮彫り」があることを説明した。
 像は、ちょうど浮揚している男性の肉体の上下にぴんと引き伸ばされた布の上に写し出されているが、それが平面的に描かれたものではなく「準立体的で、浅浮彫りに酷似している」と、ピチェクさんは説明している。
 これまで像は描かれたものだという意見が支配的だったが、カトリック信者で理論物理学者のピチェクさんは、像はキリストが復活した時のもので、像がなぜこのように写し出されたかは、今後の科学の進展を待たなければならない、と言う。□
たぶん真剣に会議されているんだろうけど、どうしても非キリスト教徒の私には違和感を感じるなあ〜。昨日、「トリノの聖骸布」読んだばかりで私的にはメチャクチャ、タイムリーなんだけどさ。あれはあくまでも科学的にはどう説明できるかという客観的な姿勢があったけど、復活自体が、客観的に立証できない現在、それを前提にして仮説を立てるっておかしくない???

もっともらしいこと言ってるけど、前提がキリスト教徒(狭義だとカトリック?)だけの会議なのかな? それとも一部がそういう説を出したってだけのことかな? もう少し詳しい内容知りたいですね。検索で探してみようと思います。

それはともかく、トリノ聖骸布ってやっぱり面白〜い!! 他の関連本も読んでみたくなってしまいました(笑顔)。

関連ブログ
「トリノの聖骸布―最後の奇蹟」イアン・ウィルソン 文芸春秋
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2005年09月16日

悪魔祓いの全国集会をローマ法王が激励

羽村さんから教えて頂いたエキサイトの記事です(情報有り難うございます)。興味深いのでうちのブログでもメモメモ。
【以下、転載】
[バチカンシティ 15日 ロイター] 歯科矯正医だって、弁護士やコンピュータ販売員と同じように全国集会を開く。じゃあ、悪魔祓いの祈祷師(エクソシスト)だって全国集会を開いてもいいじゃないか。

今週水曜日に行われた一般接見で、ローマ法王ベネディクト16世は、イタリア人のエクソシストたちに謁見した。彼らは法王に、近く全国集会を開く予定です、と報告した。

法王はエクソシストたちに「教会の活動の重要な任務を果たして下さい」と激励した。

問題は、法王が話すまで、側近グループ以外の人々がほとんど、悪魔退治の集会がおそらくローマで開かれることを知らなかったことだ。

連中はどこで集会をやるんだ?教会かホテルか墓場か?

エクソシストと交流があるカトリックの宗教学者は「彼らはすべてを地味にやろうとしています」と説明する。

ローマ・カトリック教会はこれまで、イタリアにおける悪魔祓いに深い関心を示してきた。1999年、バチカンは1614年以来初めて悪魔祓いの儀式を改正し、悪魔はまだ存在している、と警告した。

公式のローマ・カトリックの悪魔祓いは、祈祷と祝福と聖水で始まり、悪魔に取り憑かれた者に両手を置き、十字を切る。そして、悪魔に取り憑いた者から立ち去るように命じる決まり文句で終わる。

決まり文句は「汝、サタンに命ずる……」という台詞で始まる。そしてサタンは「苦しみの世の支配者」「人間の救済の敵」と告発し「サタンよ、戻れ」と命じて終わる。

バチカン大学は8日、2年連続で聖職者のための悪魔祓いと悪魔崇拝に関する課程を行うと発表した。この課程はローマの最も有名な神学校、法王レギーナ・アポストロルム大学で来月から始まる。今年はローマのこの大学の学生だけでなく、他のイタリアの都市からもビデオ会議システムで受講できる。

大学によると昨年、この課程に130人ちかくの受講者が集まる人気コースとなったため、拡大措置を執ったそうだ。

10月に始まる課程は4カ月。大学はこれを総合学問だと言っている。課程は悪魔崇拝と悪魔祓いにおける医学的・精神医学的・宗教的な側面が含まれる。

ある統計によると、イタリアで悪魔崇拝のカルトに属するのは約5000人、うち4分の3が17〜25歳の青年層だ。

悪魔やオカルトに対する興味は、1973年の映画「エクソシスト」や昨年の「エクソシスト ビギニング」などで増幅されてきた。

昨年、イタリアでは、「ビースツ・オブ・サタン(サタンの野獣たち)」というヘビーメタルバンドの10代のメンバー2人が、他のメンバーによって生け贄として殺害されるという事件が発生、大騒ぎになった。

この事件はイタリアのカトリック社会を震撼させ、新聞は犠牲者の1人に部屋に黒いろうそくや山羊の骸骨が飾られていたこと、性的暴行に関する目撃者の証言などを詳細に報じた。
うわあ〜、以前バチカンの大学でエクソシストの講義を開かれる記事を読みましたが、全国集会もあるんだ。しかもビデオ講座とは・・・。IT戦略に長けていると定評のあるバチカンですから、更にもう一歩進めてE-learningまで是非やって欲しいですね! それでなくても最近は世界中の大学で講義録をネットで無料公開してる御時世ですし、シラバスとかを英語版で公開して欲しいなあ〜。

但し、間違ってもラテン語で公開とかだけは、止めて欲しいかも(笑顔)。無料が駄目なら、アマゾンで売って欲しいですね(満面の笑み)!!

ところで集会場所って・・・? 
地味なところだとすると、どっかのカタコンベ(地下墳墓)とかなんかじゃ駄目かなあ〜? アッピア街道沿いにいくつもあるし、英語だとベルゼブブ・バスターにはうってつけの感じもしますけど???

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そうそう元ネタはロイターの記事Pssst. Where the devil is the exorcists convention?だそうです。
【以下、原文転載】
VATICAN CITY (Reuters) - Orthodontists have national conventions, as do lawyers and computer salespeople. So, some might say, why not exorcists?

At the end of his weekly general audience on Wednesday Pope Benedict greeted Italian exorcists who, he disclosed, are currently having their national convention, presumably in Rome.

The Pope encouraged them to "carry on their important work in the service of the Church."

Problem was, that until the Pope spoke, few people outside the inner circle knew that a convention of Beelzebub busters was going on, presumably in Rome.

And where are they holding it? A church, a hotel, a graveyard?

"They try to keep these things quiet," said a Catholic professor who has dealings with exorcists.

The Roman Catholic Church has shown growing interest in exorcism in Italy.

In 1999, the Vatican issued its first updated ritual for exorcism since 1614 and warned that the devil is still at work.

The official Roman Catholic exorcism starts with prayers, a blessing and sprinkling of holy water, the laying on of hands on the possessed, and the making of the sign of the cross.

It ends with an "imperative formula" in which the devil is ordered to leave the possessed.

The formula begins: "I order you, Satan..." It goes on to denounce Satan as "prince of the world" and "enemy of human salvation". It ends: "Go back, Satan."

A Vatican university announced last Thursday that for the second year running it will hold a course on exorcism and Satanism for Roman Catholic priests.

The course starts next month at the Regina Apostolorum, one of Rome's most prestigious pontifical universities, and this year participants can take it not only in person at the Rome campus but via videoconference from other Italian cities.

This, a university statement said, was because of great interest after last year's course, which was attended by nearly 130 people.

The four-month course, which begins in October, is what the university calls inter-disciplinary. It includes medical, psychological and religious aspects of Satanism and exorcism.

According to some estimates, as many as 5,000 people are thought to be members of Satanic cults in Italy with 17-to 25-year-olds making up three quarters of them.

Interest in the devil and the occult has been boosted by films such as "The Exorcist" in 1973 and last year's "Exorcist: The Beginning".

Last year, Italy was gripped by the story of two teenage members of a heavy metal rock band called the "Beasts of Satan" who were killed by other band members in a human sacrifice.

The deaths horrified Catholic Italy, with pages of newspapers given over to descriptions of the black candles and goats' skulls decorating one victim's bedroom and witness statements of sexual violence.
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2005年08月11日

キリスト教ゲームが集結したカンファレンス

キリスト教ゲームが集結したカンファレンス、の記事
 【以下、転載】
オレゴン州ポートランド発――『Grand Theft Auto』のようなセックスや暴力シーンに満ちたビデオゲームに代わるものを世に送ろうと考えたキリスト教徒たちが、より健全な作品で『プレイステーション』世代を引きつけようとしている。

 先月28日から30日(米国時間)にかけて開かれた『クリスチャンズ・ゲーム・デベロッパーズ・カンファレンス』では、世界中から創業間もない企業が集まり、旧約聖書や新約聖書から引用した道徳観や物語をテーマとする、未就園児や青少年向けの新作ゲームを披露した。

 会場に集まった新興企業各社は、聖書のメッセージを伝えるゲームが、最近人気のクリスチャン音楽やキリスト教を扱った映画と同様にヒットすることを期待している。だが、これらの作品によってマルチプレイヤーモードの懲らしめ合いや荒れ狂う神罰を期待してはいけない。クリスマスシーズンに合わせて売り出される予定のゲームでは、アクションよりもストーリーや学習に重点が置かれている。

 たとえば、オーストラリアの新興企業、ホワイト・ナイト・ゲームズ社が開発したアドベンチャーゲーム『Timothy and Titus』(スクリーンショット)では、プレイヤーはかつて地中海沿岸地域にキリスト教の教えを広めた使徒パウロの2人の弟子、テモテとテトスを演じる。

 他のロールプレイング・ゲームで使われるヒットポイント(生命力)や武器ポイントの代わりに、プレイヤーは伝道を遂行するための愛や希望、信仰心のポイントを収集する。敵に遭遇したときも、『Halo 2』(ヘイロー2)のように手榴弾で殺傷するのではなく、相手のために祈ったり、「神の御手」を使って邪悪な心を追い出すなどして栄光(halo)を獲得する。

 このゲームのプロットを考案したホワイト・ナイト社の責任者、ローレンス・エスカランテ氏によると、今後のバージョンでは、プレイヤーは敵に対して武力を行使することができるようになるかもしれないという。「人々が自分の行動を決められるようにしたい。たとえそれが間違いだったとしてもだ」とエスカランテ氏は述べ、さらに暴力に頼ってもこのゲームでは勝てないと付け加えた。

 エスカランテ氏は、『Timothy and Titus』では、ゲームの構成上の都合から聖書の物語を脚色していることを認めている。本来の物語では、テモテは異教徒によって殉教させられるが、11月に発売予定のコンピューターゲームでは、2人の聖者はすべてのレベルで生き延びる。

 また、米レベル・プラネット・クリエーションズ社の『The Rebel Planet』(スクリーンショット)は、ティーンエージャーや青年向けで、暴力的な部分もいくらか含まれていると、同社の創立者、ピーター・チャーネス氏は説明する。プレイヤーが恐竜や巨大グモ、敵役の人類と戦うこのゲームは、「天地創造」の後から「ノアの箱舟」の前までの時期を舞台としている。

 ルター派教会の牧師でもあるチャーネス氏は、このゲーム(2006年夏リリース予定)で人の死を扱うかどうかをまだ決めかねているが、暴力シーンはそれほど血なまぐさくならないはずだ。チャーネス氏によると、アダムが(イブの死後に)キャラクターとして登場し、聖書の登場人物、エノクは「オリオン」と名前を変えられているが、聖書からの引用はないという。

 ビデオゲームは子供たちに影響をおよぼす媒体としては映画以上の存在だとチャーネス氏は述べ、神の言葉を広める前向きなメッセージの必要性を訴えた。「コンピューター・グラフィックスは物語を伝えるツールとして最適だ。この世で最も偉大な物語を語るのに、これ以上よい方法があるだろうか?」

 チャーネス氏は、キリスト教を扱ったゲームの市場が、クリスチャン音楽(同氏によると音楽の総売上の7%を占めるという)や『パッション』のような映画と同様、成功を収めることを期待している。

 いっぽう、米デジタル・プレーズ社は、『ダンスダンスレボリューション』と同じように画面の指示に従い、音楽のビートに合わせてダンスパッドを踏むアーケードゲーム『Dance Praise』のデモを行なった。同社のビル・ビーン副社長(マーケティングおよび販売担当)によると、メジャーなクリスチャン音楽アーティストによる楽曲が30曲収録されているという。

 ビーン副社長によると、ゲームには3段階の難易度があり、プレイヤーの実力によって自動的に設定されるという。発売予定日は10月25日だ。デジタル・プレーズ社は他にも、全米で放送されたラジオ番組のキャラクターが登場する『Adventures in Odyssey』と『The Great Escape』を披露した。

 『The Great Escape』では、コンピューターの中に閉じ込めらたプレイヤーは、ウイルスやスパムに打ち勝って、破壊された電子メールを解読し、家に帰る道を見つけ出さなくてはならない。アニメーションを担当するのは、『ムーラン』など数本のディズニー映画を手がけたトニー・バンクロフト氏だ。

 デジタル・プレーズ社の新作ゲームには、他にもビデオシリーズの『ハーミーと友だち』(Hermie and Friends)やアニメ『ライト・レンジャー:メンディング・ザ・マニアック・マッドネス』(Light Rangers: Mending the Maniac Madness)のキャラクターを使ったものがある。いずれも子供たちに嘘をついたり、盗んだり、ずるをしたりしてはいけないと教えるもので、あらゆる宗教の信者を対象に作られている。「信仰心を持つ人々は生き方からして違うのだ」とビーン副社長は述べた。

 デジタル・プレイズ社はこれまで、ウィンドウズ用とマッキントッシュ用のゲームソフトをオンラインおよびキリスト教系の小売業者を通じて販売してきたが、最近、再販業者の米SOSネットワーク社と販売契約を締結した。これにより、米フライズ・エレクトロニクス社の店舗やアップルストア、アマゾン・コムといった小売拠点を通じてゲームを広く販売できるようになった。

 ただし、米ジュピターメディア社のアナリスト、ジェイ・ホーウィッツ氏は、巨額の予算をかけて制作される、ゲーム専用機向けの悪徳に満ちたゲームと競い合うことは新興企業にとって厳しい挑戦だと語っている。同氏は、小売店で陳列棚のスペースを確保することも難しいと指摘する。「かなりの大手でなければ、ウォルマートに商品を置いてもらえない」のだ。

 それでもホーウィッツ氏は、最近になって米ゲイロード・エンタテインメント社のような企業がキリスト教をテーマにしたメディアで成功していることをみると、このようなゲームを受け入れる層もあると考えている。「キリスト教的なコンテンツの威力はあなどれない」とホーウィッツ氏は語った。
戦略シミュレーションゲームもいいけど、こういったゲームも面白いかも? たくさん伝道して信仰ポイントが貯まると「福者」に成長し、さらにポイントが貯まると奇蹟をおこして「聖人」になるとかって楽しくない? 罪深い魂を救うほど、ポイントは高くなるシステムで当然、場面の途中で悪魔が誘惑して堕落させようとするんだよね。うんうん。

信者が一定数以上に増えると、教会が建てられてボーナスポイントGET! 伝道途中に他の聖人の遺骨とか聖遺物を発見すると、信者の増加が加速されたりね。特殊アイテムとしても仕えそう。うわあ〜本当に面白くなってきた。どっかのゲーム会社で作る気無いかな? ドンドン妄想が拡大して行くのは夏だからかな???
posted by alice−room at 03:10| 埼玉 🌁| Comment(9) | TrackBack(2) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高田馬場古書市 購入本リスト

BIG BOXの9Fでやっている。いつもの1Fのとはちょっと違うのかな? その前に千駄木のBOOKオフと古書店を回っているので本が重くてしかたがなかった。仕事の帰りにはついつい寄ってしまう、困ったもんだ。今、部屋には読みかけの本が3,4冊あり、図書館から借りた本は4,5冊。今年購入して未読の本が溜っていく…。今月過ぎたら、購入を控えないとなあ〜、本当に&本当に部屋に住めなくなりそう。さっきも本が崩れたしぃ…(鬱)。

ルーブル コネサンス・デ・ザール特別号(おそらくフランス発売のもの)
源氏物語 
バンコクの天使たち
図解 通信販売のしくみ
吉川英治歴史時代文庫 黒田如水
アグネス
江戸入浴百姿
シャルトル大聖堂
世界の都市の物語 ローマ 
中公新書 ジャンヌ・ダルク 

ルーブルのは写真が多いんだよね、ルーブルで直接売っていたものだと思うんだけど、100円だったのでついつい買ってしまった。写真多数。ジャンヌ・ダルクも150円で安くて関心があるとつい!

シャルトルは高かったけど、何しろ綺麗。しかもあちこちでチェックした範囲内では、一番写真も多いし、説明も私には分かり易くかったのでずっと欲しかった一冊。定価じゃ高くてね。ずっと手頃な値段で探していてようやく発見して、購入。たぶん、これ掘り出し物だと思うんだけど。(あとは1万円をはるかに越えるものしかないんだもん)

ローマは、目次を見てたらマグダラのマリアについて2章分も紙面をさいていたので資料用に。江戸入浴百姿は安くてねぇ〜。今すぐ読みたいわけでもなかったのだが、中見ると面白くって…絶対に買っていて損はないのが分かっていたけど、今回買うか一番悩んだ一冊。他の時にも買えそうだったし…但し、高くね。誘惑にまけて買ってしまった。ううっ、どこに本を置けばいいやら、まずは図書館に早く返してこようっと。

で、不要な本を売ってなんとかしないと部屋がカビ臭くなってしまう…健康に良くないって!
あっ、それよりも買って読んでない本が山積みであちこちに散らばっているのを処理したいのだが…。仕事もあるし…。ふう〜。
posted by alice−room at 02:29| 埼玉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月08日

[衆議院解散を受けて]小泉内閣総理大臣記者会見 8月8日

TVで記者会見をしていて、感銘を受けたのでメモ。首相官邸のHPより転載
【小泉総理冒頭発言】

 本日、衆議院を解散いたしました。それは、私が改革の本丸と位置づけてきました、郵政民営化法案が参議院で否決されました。言わば、国会は郵政民営化は必要ないという判断を下したわけであります。

 私は、今年の通常国会冒頭におきましても、施政方針演説で郵政民営化の必要性を説いてまいりました。そして、今国会でこの郵政民営化法案を成立させると言ってまいりました。しかし、残念ながらこの法案は否決され廃案となりました。国会の結論が、郵政民営化は必要ないという判断を下された。私は本当に国民の皆さんが、この郵政民営化は必要ないのか、国民の皆さんに聞いてみたいと思います。言わば、今回の解散は郵政解散であります。郵政民営化に賛成してくれるのか、反対するのか、これをはっきりと国民の皆様に問いたいと思います。

 私は、4年前の自民党総裁選挙において、自民党を変える、変わらなければぶっ壊すと言ったんです。その変えるという趣旨は、今まで全政党が郵政民営化に反対してまいりました。なぜ民間にできることは民間にと言いながら、この郵政三事業だけは民営化してはならないと、私はこれが不思議でなりませんでした。郵便局の仕事は本当に公務員でなければできないのか、役人でなければできないのか、私はそうは思いませんでした。郵便局の仕事は、民間の経営者に任せても十分できると。むしろ民間人によってこの郵便局のサービスを展開していただければ、今よりももっと多様なサービスが展開できる。国民の利便を向上させる。国民の必要とする商品なりサービスを展開してくれると思っております。いまだにその主張、考え方に変わりはありません。

 だれでも民間にできることは民間にと主張していながら、なぜこの郵政三事業だけは公務員でなければだめだと、大事な仕事だから公務員でなければだめだというんでしょうか。私は改革を推進しようという民主党は、民営化の対案ぐらいは出してくれるのかと思っていました。残念ながら民主党までが民営化反対、民営化の対案も出してくれない。そして自民党の郵政民営化反対、抵抗勢力と一緒になってこの法案を廃案にした。本当にこのままで行政改革できるのか、財政改革できるのか、理解に苦しんでおります。

 私は、この郵政民営化よりももっと大事なことがあると言う人がたくさんいるのも知っています。しかし、この郵政事業を民営化できないでどんな大改革ができるんですか。役人でなければできない、公務員でなければ公共的な大事なサービスは維持できない、それこそまさに官尊民卑の思想です。私は民間人に失礼だと思います。民間の企業、民間の経営者は国がこうやりなさい、こういう商品を出しなさい、こういうサービスをやりなさいと義務づけなくても、国民に必要な商品やサービスを展開してくれております。なぜ今までの自民党も含めて、野党の皆さんも含めて、この郵政三事業だけは国家公務員でなければだめだというんでしょうか。これは率直に言って、選挙のときに確かに自民党も民主党も、この郵政三事業に携わる国家公務員の支援を受けている、大事な選挙支援者だと、応援してくれる人の言うことを聞かなければいけないという気持ちはわかります。しかし、これは一部の特定団体の言うことを聞くのも大事でありますけれども、国民全体のことを考えれば、民間にできることは民間に、官業は民間の補完であると。役所の仕事は民間にできないことをやるべきだということから、今は公共的な仕事でも民間人にできるものは民間人に任せなさいという時代ではないでしょうか。民間人は公共的な仕事はできない。大事な仕事は公務員がやるんだと、そういう考えはもう古いと思います。

 だから、私は前々から言っているんです。郵政三事業の民営化に反対するということは、手足を縛って泳げというようなものだと。本当に行政改革、財政改革をやるんだったらば、この民営化に賛成するべきだと言っていたんですけれども、これは暴論と言われておりました。しかし、私は4年前の自民党の総裁選挙に出たときからこの民営化の主張を展開して、自民党の嫌がる、野党の嫌がるこの民営化の必要性を訴えて自民党の総裁になり、総理大臣になり、総理大臣になってからも郵政民営化が嫌だったらば私を替えてくれと言っていながら、なおかつ自由民主党は私を総裁選で総裁に選出したんです。

 総理になって、衆議院選挙においても、参議院選挙においても、この郵政民営化は自民党の公約だと言って闘ったんです。にもかかわらず、いまだにそもそも民営化に反対だと。民間にできることは民間にと言った民主党までが公社のままがいいと言い出した。公務員じゃなければ、この大事な公共的な仕事はできないと言い出した。おかしいじゃないですか。

 私は、そういう意味において、本当に行財政改革をやるんだったらば、公務員を減らしなさいということはみんな賛成でしょう。郵政事業に携わる国家公務員、約二十六万人、短時間の公務員を入れると約十二万人、併せて約三十八万人が郵政事業に携わっている。郵便局の仕事に携わっている。これは本当に公務員じゃなければできないんでしょうか。私は民間人に開放するべきだと思って民営化を主張してまいりました。なぜ、三十八万人の公務員じゃなければ、この郵便局のサービスは展開できないんでしょうか。私は郵便局は国民の資産だと思っている、過疎地でもなくなりませんよと、今の三事業のサービスは過疎地においても、地方においても維持されつつ、民間人に任せても十分できますよということを言っているんです。 そういうことから、今回、私は本当に国民に聞いてみたいと思います。本当に郵政民営化は必要ないのかと。公務員の方が民間人よりも公共的な大事な仕事をするのかと。私はそうじゃないと思います。民間人でもどんどん公共的な仕事をできるものならやってもらいたいと思っております。

 今、確かに残念ながら、参議院で今日はこのまま否決され、廃案になりました。言わば国会は郵政民営化は必要はないという結論を下したわけですが、私はいまだに郵政民営化は、本当に行財政改革をするんだったらば、将来、簡素で効率的な、余り政府が関与しない、役所の仕事を民間に開放しようという主張を展開するならば、この郵政民営化はしなければならないものだと思っております。

 約四百年前、ガリレオ・ガリレイは、天動説の中で地球は動くという地動説を発表して有罪判決を受けました。そのときガリレオは、それでも地球は動くと言ったそうです。

 私は、今、国会で、郵政民営化は必要ないという結論を出されましたけれども、もう一度国民に聞いてみたいと思います。本当に郵便局の仕事は国家公務員でなければできないのかと。民間人ではやってはいけないのか。これができないで、どんな公務員削減ができるんでしょうか。どういう行政改革ができるんでしょうか。

 これができなくて、もっと大事なこと、最も大事なこと、公務員の特権を守ろうとしているんじゃないですか、国家公務員の身分を守ろうとしているんじゃないですか、反対勢力は。そういう既得権を守る、現状維持がいい、そういう勢力と闘って、本当に改革政党になる、自民党はなったんだということから、この選挙で国民に聞いてみたいと思います。自由民主党は郵政民営化に賛成する候補者しか公認しません。

 言わば、はっきりと改革政党になった自民党が、民営化に反対の民主党と闘って、国民はどういう審判を下すか聞いてみたいと思います。だから解散をしました。

 そして、この郵政民営化に賛成する、自由民主党、公明党が国民の支持を得て、過半数の勢力を得ることができれば、再度、選挙終了後国会を開いて、これを成立させるよう努力していきたいと思います。

 以上であります。

【質疑応答】

【質問】 今回、郵政法案が参院で17票差という大差で否決廃案されたことの総理の率直な感想等をお聞かせください。

 それと、法案が参院で否決されたことを受けて、衆院を解散することに対して、与党内からも筋が通らないという批判が出ているようですけれども、総理はどう説明されるか併せてお聞かせください。

【小泉総理】 昨日まで、この郵政民営化が参議院で可決されるという状況は厳しいということは多くの方々から、その状況を聞いて承知しておりました。

 しかし、まだ可能性はあるということで、今日あの参議院での採決をかたずをのんで見守っていましたけれども、残念ながら否決されました。

 衆議院で通過して、参議院で否決されて解散するのはおかしいのではないかというお尋ねだと思いますけれども、私は前から申し上げていますとおり、これは小泉内閣が発足してから、構造改革の本丸と位置づけていたんです。私にとっては、郵政民営化は当たり前だと思っているんです。なぜこれだけ反対するのか理解できないんです。民間にできることは民間にと言いながら、この郵便局の仕事は国家公務員でなければできないという理由がわからないんです。

 そういうことから、この郵政民営化法案の否決は、小泉不信任である、小泉内閣の進めていた構造改革に対する不信任だと受け止めるということをはっきり申し上げておりました。

 せっかく今まで賛否両論ある中、特に反対論が強い中、改革を進めて、ようやく芽が出てきていました。その矢先にこれからできるだけ役所の仕事の無駄を省いて、行政改革へも財政改革へも寄与する民営化の法案が否決されたということは、小泉内閣の構造改革、それを否定されたものと受け止めております。

 言わば、国会がそう判断されたわけです。しかし、いまだに信じられません。本当に私の進めてきた、小泉内閣の進めてきた今までの改革路線。国民はノーと言うのかイエスと言うのか。これを聞いてみたいと思いまして、衆議院を解散いたしました。

【質問】 総理は衆議院の本会議で、反対した議員については公認をしないというお考えですけれども、実際それで自民党は本当に選挙になるんだろうかという疑問があります。そして、その場合、自民党は分裂選挙と事実上なると思うんですけれども、その結果によっては小泉政権だけではなくて、郵政民営化も含めて、あるいは自民党そのものが政権を失うという可能性もあると思うんですけれども、総理は選挙を打って出て勝つ自信がおありなんでしょうか。

【小泉総理】 それは多くの自民党の皆さんから、よく言われたことであります。自民党が分裂して選挙に勝てるわけがないじゃないかと。だから、否決されても解散するなと。そこでもう一回継続審議にして臨時国会を開いて成立させればいいじゃないかという話も伺っておりました。

 しかし、私は今国会で成立させると。衆議院に100時間、参議院で80時間、しかも整然と委員会で可決され、本会議で上程されて、円滑に審議が行われてきたんです。でも、結果は廃案になりましたけれども、これで自民党が分裂して選挙に勝てるかどうか。それは勝てないと思っている方もいるでしょう。私も率直に言って、選挙はやってみなければわからないと思います。

 しかし、この選挙を、私は郵政民営化賛成の勢力と協力していかなければならないと思っています。郵政民営化反対の勢力と協力することはありません。だからこそ、この郵政民営化に賛成の自民党と公明党が衆議院の議席で過半数を得ることができるように全力を尽くします。

 自民党、公明党、両議席を併せても過半数を取ることができなかった、と言って、郵政民営化に反対の勢力と協力することはありません。自民党と公明党が国民の審判によって過半数の議席を獲得することができなったら、私は退陣します。

【質問】 総理、衆議院を解散されて、仮に政権を維持したとしても、参議院の構成あるいは顔ぶれというのは変わらないわけです。そうした中で郵政民営化法案を出し直して、どうやって参議院を通すおつもりなんですか。

【小泉総理】 その話も、たびたび自民党の多くの議員からお話を伺いましたけれども、これは国民の皆さんが郵政民営化は必要だという、この私の主張に支持を与えてくれれば、今、反対なり棄権した参議院の方々も必ず応えてくれると思います。協力してくれると思います。

 国民は、郵政民営化を支持していないと思っている方が、今、反対しているわけです。そこが私と全く違います。郵便局をつぶすと、反対派は言っています。私はつぶさない、郵便局は国民の資産だ、このネットワークを守っていく、今の郵便局の仕事は、国家公務員が経営するよりも民間人に任せた方がよりよいサービスが国民に提供できるということを言っているんです。しかし、反対論者と私の考え方は変わらなかった。どっちが正しいのか。だから、国民に聞いてみる。国民の皆さんが、やはり郵政民営化は必要だと。自民党、公明党、両勢力に過半数の議席を与えてくれれば、参議院の皆さん、気を変えて、考え方を変えて協力してくれると確信しております。

【質問】 民主党の中にも、本来であれば郵政民営化に賛成する勢力があったはずですが、選挙後、そういった勢力と連携する可能性はありますでしょうか。

【小泉総理】 私は選挙後、自由民主党、公明党が過半数の議席を得ることができれば、どの政党であれ、郵政民営化に賛成である勢力とは喜んで協力していきたいと思っております。

【質問】 総理、郵政を争点にされたいというのはわかったんですが、もう一つ靖国神社についてお伺いしたいんですけれども、今回8月15日もめぐってまいりますし、投票日までの間に参拝をされるお考えがあるかということと、靖国の参拝問題を争点とされるお考えはあるかどうか。この点についてお尋ねします。

【小泉総理】 まず靖国参拝を争点にする気は全くありません。

 これは本来、私がかねがね申し上げていますように、戦没者に追悼の念を持って、敬意と感謝の誠をささげる。今の日本の平和と繁栄というのは、現在生きている人だけで成り立っているものではないんだと。心ならずも、戦場に行って、家族や多くの愛する人たちと別れなくてはならなかった。命を落さなければならなかった。そういう人たちの尊い犠牲の上に、今日の平和と繁栄があるんだと。そういう方々に対して、心からなる敬意と感謝をささげたいという気持ちで参拝しております。

 そういうことから、これは人間の自然な感情だと思っております。よく中国との関係がありますが、私は日中友好論者です。今、いまだかつてなく、経済においても、文化においても、スポーツにおいても交流は深まっております。中国の観光ビザも全国に広げました。草の根の交流は、かつてないほど高まっております。

 そういう意味において、私は一靖国の問題が日本と中国との全体の関係であるとは思っておりません。これからも日中、日韓友好関係を維持、発展させることは、極めて重要だと認識しております。

 靖国参拝を争点にする気は全くありません。

【質問】 選挙はやってみないとわからないと今おっしゃいましたけれども、内外に多くの懸案を抱える中で、言わば一か八かで政治的空白をつくるということに対する批判には、どのようにお答えするのでしょうか。

【小泉総理】 これは、私は空白をつくるかどうか。政治に小休止なしです。休み中でも国務大臣として、総理大臣として、やるべき仕事は山積しております。内政外交。それに遅滞なく全力を投球してやっていかなければならない。

 今、多くの方々は夏休みをとっておられると思います。解散がなければ政治家の皆さんも夏休みだったでしょう。記者の皆さんも夏休みだったと思います。しかしながら、この夏休み期間中、候補者にとっては大変な重労働ですけれども、できるだけ早く、選挙を9月11日に終えて、混乱のないような政局を収拾していかなければならないと思っております。

【質問】 欠席された議員の方は、公認されないんですか。

【小泉総理】 欠席の方、棄権の方はよく聞いて、郵政民営化に賛成すると言えば、公認も考えられます。
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2005年07月29日

「ビッグフットの体毛」、DNA鑑定に

 「ビッグフットの体毛」、DNA鑑定に、の記事
(エキサイトニュースより転載)
[バンクーバー 26日 ロイター] カナダ西部の荒野に出没するといわれる猿人ビッグフット(別名サスクアッチ)。その存在の真偽が現代のDNA検査の世界で検証されることになった。

カナダ・ユーコン州テズリンに住む複数の住民が7月はじめ、深夜、村にやってきたビッグフットが残したと主張する体毛のサンプルをある研究所が検査する。ビッグフットは大きな獣人と言われるが、これまでのところまだ神話的な存在だ。

検査をするのはアルバータ大学の野生動物遺伝子学者のデビッド・コルトマン氏。同氏が25日、明らかにしたところによると、科学者たちはクマやバイソンなどユーコンに生息するほぼすべての巨大動物のDNAの一覧リストを作成した。

「こうすれば、比較検証できるでしょう。どれともマッチしなければ、非常におもしろいことになりますがね」とコルトマン氏。同氏自身は毛はユーコン・バイソンのものではないかと見ている。

「もしビッグフットが霊長類なら、サンプルは人、チンパンジー、ゴリラに近いはずです」

カナダ西部と米国の山奥に密かに生息している巨大で体毛の長い二足歩行の生物の伝説は、この大陸にヨーロッパ人が住みつく以前に遡る。テズリン近辺でのビッグフットの目撃情報はこの1年で2度目だ。

最新の目撃情報は、テズリンの住民のグループがCBC(カナダ放送協会)に語ったもの。小枝が折れる音がして、家の近くを巨人のような生き物が走るのを目撃したという。その巨人は大きな足跡を残し、一房の毛を落としていった。それを野生動物局の関係者に渡したのだ。

コルトマン氏によると、28日には結果が出るという。検査の結果、体毛がビッグフットのものでなくても、検証過程は、学生たちにDNA検査の分野に興味を持たせるいいきっかけになるのではないかと期待している。

「野生動物版『CSI:科学捜査班』ってとこだね」
やっぱり、この手のニュース大好き。なんか成果が出ると面白いんだけど…。昔だったら、ビッグフットの想像図がついたかわら版とかが刷られて、路上で売られたんだろうけどなあ〜。現代は、写真や動画が自由に使える半面、想像力の働く余地が少なくなって、少し残念かもしれない。
posted by alice−room at 04:32| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

巡礼者がネイプルの動く聖母像を見に集まっている

先ほどのエキサイト・ニュースのおおもとじゃないかな? ロイターの記事は見つからなかったけど、BBCの記事の元を辿ったらここのサイトでした。
巡礼者がネイプルの動く聖母像を見に集まっている、の記事
インディペンダントより以下、転載
Pilgrims flock to see Naples' 'moving' Madonna statue
Thousands of Roman Catholic faithful queued outside a church near Naples yesterday after the congregation reported watching a statue of the Madonna "miraculously" moving in front of them.

Dozens of parishioners at the modern church of San Pietro in the town of Acerra, on the northern outskirts of Naples, recounted seeing the simple plaster and marble statue of the Virgin Mary "become flesh" and move her legs "as if she wanted to approach us". The first sighting of the apparition was made two weeks ago by a group of elderly women reciting the rosary prayer.

The parish priest of San Pietro, Father Oreste Santoro, reacted cautiously to the claim, saying: "I wasn't present at what they saw and therefore am unable to judge."

One group of pilgrims to the church claim to have made a video of the Madonna's movements and will show the footage to the Bishop of Acerra, Monsignor Giovanni Rinaldi, who will decide whether the celluloid "proof", together with photographs purportedly taken with mobile telephones, warrant examination by a special church commission that investigates reports of apparitions.

Some parishioners speculated the apparitions might be a sign of the Madonna's displeasure at the recent terrorist attacks around the world. Whatever the case, local ecclesiastical authorities are not excluding that the apparitions may be authentic.

"You certainly can't stop the Madonna from doing anything she wants," said Don Antonio Riboldi, the Bishop Emeritus of Acerra. "However it is very early to talk of a miracle. I ask myself what it can mean that the Madonna has moved. The Madonna speaks to us wherever she goes. Her message is always the same - convert and believe in the Gospel. The aim of the Madonna is to lead men to God.

"If it is a true miracle it will be the Madonna herself to show it. But we must be careful. One must not give in to the temptation of easy popular religiosity.

"It will be up to the commissions specialised in this kind of event to show whether the Madonna really moved or if there really was a phenomenon that could lead one to think of a miracle."

Volunteers from Italy's civil protection department erected barriers in front of the 160cm (5ft 9in) statue.

"I saw her legs that were moving the dress and her knees that were bending, as if she wanted to walk toward the faithful," the newspaper, Il Messaggero, of Rome quoted a witness as saying.

News of the apparition quickly spread and as many as 2,000 people, many of them children, flocked to pray at the statue, many of them on their knees for several hours despite the intense summer heat.

Holy visions

* A statue of the Madonna was seen crying "tears of blood" at a church in Civitavecchia, in central Italy. The apparition was reported 13 times, most recently in March 1995. Pope John Paul II sent a golden rosary bead to the parish.

* Visions of the Virgin Mary appeared to a group of Portuguese shepherd children in Fatima in 1917. The Madonna spoke to the children, apparently predicting the rise of communism after the end of the First World War.

* Apparitions have been reported persistently since 1981 at the church of Medjugorje in Bosnia-Herzegovina, credited with miraculous healing.

エキサイトの記事では触れられていないが、この記事の中には、この聖母像を祭っている教区の信者が聖母の行動の解釈として「世界中で起こっているテロに対する不快」を示しているのではと述べている。いささか、出来過ぎの解釈のような気もするけどなあ〜? あと有志の人が聖母像の前に囲いをつけたって、そんなことしなればならないほどなのかな?

携帯で動いてる姿を撮った人がいるくらいだし、ネット上に出回ってないかな? どなたか、その動画をご存知だったら教えて下さ〜い。

関連ブログ
動く聖母像の奇跡を録画しようと信者が集結
posted by alice−room at 04:09| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

動く聖母像の奇跡を録画しようと信者が集結

ugoku.jpg動く聖母像の奇跡を録画しようと信者が集結、の記事
(以下、転載)
ローマ 26日 ロイター] ナポリ郊外の小さな街に、携帯電話を手にしたイタリア人数千人が集まっている。聖母マリア像が足を動かすという奇跡が起きたとウワサされ、その奇跡の瞬間を録画するためだ。

アチェラにあるサンピエトロ教会の教区民たちは、石膏の像の足が肌色に変化し、「私たちのほうに歩いてくるように」動くのを目撃した。先週、ある男性は報道陣に携帯電話で《奇跡》を録画した、と話した。

それ以来、数百人の巡礼者たちが毎日、《奇跡》を自分たちも録画しようとビデオカメラや携帯電話を持って、イタリア南部の人口4万人の街に集まっているのだ。

地区司教の広報担当によると、教会の専門家チームが「我々に説明できない自然現象が存在するのか、それとも異常現象を目撃したのか」と特定するために調査を行っているという。

アチェラの名誉司祭、アントニオ・リボルディ猊下は懐疑的だ。「過去に聖母が荒野や洞窟に出現したことがあります。しかし、携帯電話やビデオカメラで撮影されたことはないのです。聖母は自分を見せ物したりはしないのです」
すご〜い、さすがは聖遺物が至るところに転がっていそうなイタリア。これぐらいの奇蹟は、今だって起こるんだね(納得)。まあ、日本でさえ奇蹟が起こるくらいだし、当然か。でも、それを携帯で録画しようというのは現代だねぇ〜。

しかし、実際に見てみたいなあ〜。近くだったら、絶対に私も見に行くな!きっと!教会の専門家チームが調査って書かれてるけど、教理聖省の人達でしょう、うっお会いしたいかも。映画「スティグマータ」 みたいなことないのかなあ〜(ワクワク)。思いっきり、この手の話題に惹かれてしまう私でした(ニヤニヤ)。

関連ブログ
巡礼者がネイプルの動く聖母像を見に集まっている
「中世の奇蹟と幻想」渡辺 昌美 岩波書店
「日本の奇跡 聖母マリア像の涙」安田貞治 エンデルレ書店
「聖母マリア」 竹下節子著 講談社選書メチエ 
「聖母の日」(上・下)ポール ウィルスン 扶桑社
posted by alice−room at 03:25| 埼玉 ☔| Comment(1) | TrackBack(1) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月26日

教皇「ハリー・ポッター」には批判的見解

[SKJ]■世界キリスト教情報■第760信より抜粋
教皇「ハリー・ポッター」には批判的見解

 【CJC=東京】発売時間を一方的に決めるなど、版権高騰を理由に高めの頒価設定したり書店に高姿勢で臨んだりしながらも、それらを逆手に大部数を売り上げる「ハリー・ポッター」シリーズ。キリスト教世界では、日本では想像出来ない現象も起き、売り上げを左右しかねないことにまでなっている。

 今回の話題は教皇べネディクト十六世がシリーズについて批判的見解を持っていることが7月13日改めて浮上したこと。

 同シリーズを批判した『ハリー・ポッター=神か悪魔か』(仮題)の著者が2003年に教皇(当時はバチカン=ローマ教皇庁=教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿)から受け取った書簡2通の抜粋を自身のウェブサイトで公開して明らかになった。

 教皇はシリーズが「若い信者を迷わす」との著者の考えに同調し「ハリー・ポッターについて人々を啓発することは良い行いだ。同作品は、気づかぬうちに作用する巧妙な誘惑であり、それ故に、魂に宿るキリスト教精神が正しく育まれる前に大いに歪められてしまう」と述べている。

 教皇のハリー・ポッター批判は、早くも英国では小学校に影響を与えている。在京のスポーツ紙『日刊スポーツ』によると、リンカーンシャーの小学校で企画されていた魔法使いや魔女の格好で登校する「ハリポタデー」について、保護者や地元の聖職者から「子供を悪の道に導く」とクレームが相次ぎ、中止になったという。
この記事自体は、他のニュースソースでもあちこちで見たので特に採り上げるつもりもなかったんですが、これに続く記事が気になったので…
米国中に魔法まかり通る 

【CJC=東京】著作と講演で知られるスティーブ・ウオールバーグが『デス
ティニー出版社』から『魔女の時』を刊行した。その彼が「ご存じでしたか」と尋ねたのは「ウィッカ(非キリスト教神秘主義)魔法」が今米国では最も成長している宗教であり、特に十代の間で急速に伸びている、という。宗教組織として見ると、米国では7番目に大きい。

 魔法が売り物にもなっている。巨大小売業『ウオルマート』は呪文や薬などを扱った魔法関係の本一式を取り揃えている。

 ハリー・ポッターのシリーズが売り出されてからというもの、『ウイッカ』関係の物品売り上げは急増している。テレビのシリーズ番組と映画が十代の少女に『ウイッカ』を広めている。 インターネットのウェブサイト(ホームページ)でも占いやまじないなどをティーンエイジャーに魅力的に売り込んでいる。

 世界的に有名な「魔法使い」オベロン・ゼル=レイヴンハートの著書『見習い魔法使いのための呪文書』(New Page Books, 2004)はインターネット書店『アマゾン』でも購入出来る。

 同書は、急増するハリー・ポッターの読者を対象としている。本物の魔法使いのことを知りたがっている、という。物語はまさに『ウイッカ』や魔法を描いている。
日本でもパワーストーン屋とかエスニック雑貨屋とかが最近、とっても多いし、陰陽道ブームなんかがあったのも似たような現象か? しかし、そんなにたくさん売っているだあ〜。そういえば、日本の子供にアンケートした結果で今の小学生を天動説を信じてる方が多いそうだし、どうなるんでしょうね? 社会的不安がスピリチュアルな方向に向かうのは歴史的にもありがちだけど、今のご時勢に携帯で占いサイトをチェックして服装やラッキーアイテムを気にする人々が多いというのもちょっと理解できないのだが…? 流行っているんだよね、実際。方違えで物忌みしていた平安貴族と精神的には進歩ないのかも、深刻さは違うにせよ、人間は変わらないものなのでしょうか??? 単なる遊びならば、いいのですが…。

アメリカが魔法で戦略兵器でも発見してくれればいいが…某イラクにて(勿論、皮肉です)。なんか怖いねぇ〜、その魔法のノリで現代の電子戦を闘うんでしょうか。BBCか何かで報道してたけど、米軍では新米兵士が初めての戦場で緊張して引き金が引けなくなるのを防ぐ為、シューティング・シミュレーションを体感型でやらせるそうです。これを何度もやることで、初戦でもためらわずに人を狙って銃を撃てるそうです。データ的にも新米兵士の死亡率が低下したとか。

非常に合理的で軍としては素晴らしい成果でしょうけど、それを操る人は魔法好き…。う〜ん、現代は怖い時代なのかもしれない。人それぞれ、個人としてはいい人がいっぱいいるんだけど、○○の国民とかなると…憎しみが生まれるのが悲しい。
posted by alice−room at 00:16| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(2) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月25日

ルーマニア正教会が見習い修道女虐待で司祭追放

ルーマニア正教会が見習い修道女虐待で司祭追放 〜 [SKJ]■世界キリスト教情報■第758信より抜粋
【ジュネーブ=ENI・CJC】ルーマニア正教会は、修道女見習いのマリチカ・イリーナ・コルニチさん(23)を、悪魔払いの儀式の中で十字架に磔にしたダニエル・ペトル・コロゲアヌ司祭(29)を追放した。また「殺人」が行われた修道院を閉鎖した。

 「教会は、十分な教育を受けていないこの奇妙な人物による異常な行為を非難する。今回の事件は、正教会の教義とは無関係で、ルーマニアの修道院の歴史でかつて起きたことがない」と、ブカレスト総主教座のコステル・ストイカ報道担当が6月22日述べた。

 コロゲアヌ司祭は、ルーマニア北東部ブコヴィナ地方のヴァスルイ聖トリニティ修道院の霊的指導者。

 ストイカ司祭は、コロゲアヌ司祭の犯行が明らかになった翌日に同司祭は修道会から追放された、と語った。

 事件はルーマニア国内に衝撃を与えている。正教会フシ教区は、問題の司祭の精神鑑定を警察に要求している。「この不幸な司祭、修道院ではなく彼自身の行為に従事していたことははっきりしている。正教会ではとても認められないことだ、とメディアに説明するのに苦心している。ただルーマニア正教会のイメージを損なったことは確かだ」と、ストイカ司祭は語った。

 国営ロムプレス通信は、6月15日に救急車が修道院に到着した際、見習い修道女が脱水症状にあり窒息死していた、と報じている。見習い修道女は3日間、地下倉庫に食物も水も与えられず十字架に鎖でつながれており、悲鳴を上げさせないようタオルが口に詰められていた。問題の司祭と修道女4人が、この3月に入会したばかりの見習い修道女から悪霊を追い出そうとしていたという。

 地元当局は6月22日、司祭と修道女を拘留、捜査の間、修道院に活動停止を求めた。5人は殺害容疑で起訴されている
これはさすがに特殊な事例で本来の教会の姿とは、全く異なるのだろうと思うが。現代だからいいものの、これが中世だったら、何でもないことだったのではと、つい思ってしまう。

実際の悪魔祓いを知らないし、興味本位で関わりたいと思うべきではないのだろうが、先日ネット上のニュースサイトでエクソシストを実行している動画を配布しているのには驚いた。一応、ダウンロードしたものの、怖くて最初の部分しか見ていない。

時代はどこに行くんだろう。自分はしっかりと歩いていきたい。

関連ブログ
エクソシスト養成講座 記事各種
教皇庁立大学で「エクソシズム」コース開講
posted by alice−room at 23:44| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月19日

教皇が公布「カトリック教会のカテキズム綱要」

compendium.jpg

カトリック新聞より
【以下、転載】
205ページの「綱要」は、598の問答から成り、保護者や教員、カテキスタ(要理教師)、聖職者、一般信徒、「善意の人々」を対象に、信仰と倫理についてのカトリック教会の教えの要約を提示する。

 「綱要」は、「教会の信仰の必要不可欠で基本的な要素のすべて」を網羅している、と教皇は、同文書の発行を承認する「自発教令」で書いている。また、故教皇ヨハネ・パウロ2世が望んだように、「信者も信者でない人も、同じようにカトリックの信仰の全容を把握できるための、いわば『要覧』となるものです」としている。

 「綱要」は、1992年に発行された『カトリック教会のカテキズム』の縮約版。巻末の補遺には、教会の基本的な祈りの多くがイタリア語とラテン語で掲載され、「対神徳」や「七つの罪源」などの伝統的な定式も収録されている。「綱要」の各国語への翻訳は、各司教協議会に委ねられる。日本での出版時期などは近く検討される予定
私はよく知らないから、値段が高くなかれば、購入して勉強してもいいかなあ〜。日本語訳も出るのかな?最悪、英語版だったら何とか読めるかな。
posted by alice−room at 23:39| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月17日

読書計画

実質、積読なんですが今年に入ってから購入した本でまだ読んでないものを列挙。プライオリティーつけて読んでいかないと!(かなり必死な決意) 新しいのを買わなければいいのだけど、欲しいモノがいくつもあるので現状を把握してから、冷静に判断して読書計画を立てよう。でも、実際は思いつくまま読むのだろうけど・・・。既に何の本があるのか分からなくなりつつあって怖い・・・。

○読みかけ
守護聖者 中公新書、化物屋敷 中公新書、辻潤全集5(天才論)五月書房、

○積読
狼男伝説 朝日選書、季刊銀花 絵双六、季刊銀花 祈りの版画、妖異百物語 出版芸術社、ルールドの奇跡 学研、イグナチオをイエズス会 講談社学術文庫、失われた福音書 青土社、キリン伝来考 博品館、スキタイの子羊 博品館、MARY MAGDALENE CARROL&GRAF、キョッソーネと近世日本画里帰り展、(完全保存版)オペラ座の怪人 角川書店、アレキサンドリア 晶文社

クスリ奇談、小説聖書(旧約編)徳間書店、小説聖書(新約編)徳間書店、異貌の中世 弘文堂、黄泉津比良坂暗夜行路 徳間書店、黄泉津比良坂血祭りの館 徳間書店、黒蜘蛛棟島 光文社、踏み絵 NHKブックス、インド聖地巡礼 新潮新書、古書街を歩く 新潮新書、怪奇幻想文学Y 新人物往来社、悪魔礼拝 青土社、山海経 平凡社・・・

今年買った本で未読というとこの辺りか・・・。それ以前は知らないっと。う〜む。冷静になると、しばらく本が買えなくなりそう。手元にはさらに図書館で借りている本が4、5冊あるが、これはそのまま読まずに帰そうかな? 

しばらく購入を控えて、未読の本を読んでおこうか。で、手元に置く価値がないと思えば、古書店に売れるし、本を置く場所確保と購入代金の足しになるでしょう。おお〜なんて合理的(私って天才かも?)。日々、本が増殖し、部屋の中の居場所がなくなりそうで困ってます。しかも古書ってホコリやカビがあるので、私の体的には好ましくないんだよねぇ〜。なんとも因果な話です。

と、言いつつネットで日々購入候補の本を探しているのって・・・私ってやはり馬鹿かも?そうそう明日は仕事で新宿野村ビルに行くけど、新宿は古書市やってるんだよね。まあ、ついでだから、見ちゃったりして・・・で、気がつくと買ってたりして・・・(オイオイ)。
posted by alice−room at 03:49| 埼玉 ☔| Comment(3) | TrackBack(2) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月04日

ヨハネを崇めるマンダ教徒(グノーシス派) 

「世界キリスト教百科事典」教文館を眺めてておやぁ〜っと思った箇所があったのでメモ。

ちょっと前に「マグダラとヨハネのミステリー」を読んで初めて知った宗派。バスラとか、ちょうどイラク戦争の場所だけど、大丈夫なのかな? 迫害とか受けていないのだろうか? 

マンダ教徒:
 マンダイア(グノーシス派)と自称し、2世紀のユダヤ・キリスト教グノーシス派の子孫であるという。聖ヨハネ・キリスト教徒、洗礼者、ヨハネの信奉者、サービア教徒(アラビア語)、ナゾリー教徒などとも呼ばれている。マンダ教徒がいるのはイラクとイラン(南西部のクージスタン)のみである。

マンダ教:
 この宗教の中心は、豊穣儀式である。中心となるの聖典はキンザー大宝典(占星・教義などを盛り込んだ聖歌の集大成)、ヨハネ書(パブテスマのヨハネの生涯についての後代の通俗的解説書)、コーラスター(賛美歌集)の3書である。マンダ教徒はメソポタミア南部のバスラ、クート、スール・アル・シュユーフを中心とする地域に住み、聖職者組織を持ち、簡単な形式の寺院において日曜日に礼拝を行う。
関連ブログ
イエスを偽預言者、嘘つきとみなす「マンダ教徒」
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2005年05月13日

NHK世界遺産100 高原の巡礼者 〜ラリベラの岩窟教会群〜

とっても短い番組ですが、非常に印象に残ったので。

あまり知られていませんが、エチオピアは4世紀頃からのキリスト教国でたくさんの古いキリスト教遺跡が残っているそうです。もっとも私も先日「エチオピア王国誌」という本を読んで初めて知ったんですけどね。

で、今回の世界遺産は、12・13世紀に王がこの地を第2のエルサレムにすることを目指して作らせて岩窟の教会遺跡です。これ、すごいですよ〜。だって大きな岩を削ってどんどん下に掘り下げて作っているんです、しかも一枚岩。あの敦煌のばっこう窟とかを彷彿とさせます。

エチオピアの人は一生に一度でいいから、このラリベラの聖地に巡礼に行きたいと考えているそうです。あまりの凄さに、その気持ちが伝わってくるかのようです。しかし、エチオピアに世界遺産があるとは知らなかったなあ〜。しかも中世期のキリスト教遺跡。世界にはまだまだいろんなものやいろんな事があるんですね。ちょっと嬉しくなる番組でした。

関連リンク
NHK ラリベラの岩窟教会群
遺跡大好き ラリベラ すごいところにたくさん行かれてます。私も行いたいけど、高い!
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2005年05月11日

マグダラのマリア 黄金伝説より直訳

(後ほど、もう少しこなれた訳に直すつもりですが、とりあえず参考までに英語版「黄金伝説」よりの直訳です)

マリーあるいはマリアという名前は苦い海、又は蒙(もう)を啓(ひら)く者、蒙をひらかれたとして解釈される。これら三つの意味は次の三つの部分、主に懺悔、瞑想、神の栄光の部分でマリアが最善の選択を為したものを現すとして受け取られいてる。この三部分から成るものは、マリアが最善の部分を選び、それは彼女から取り上げられることはないだろうと主がおっしゃった時、主が意図したものである。最初の部分は聖性の到達したものであり、その行き着く所と目的故に採り上げられることは無いだろう。二番目の部分は現世を生きる間の瞑想は天の瞑想にも続いており、その継続性故に取り上げられることはないだろう。三番目の部分はその永続性故にそのまま残るでしょう。そういうことで、マリアは最善の部分、主に懺悔を選んで以来、彼女の懺悔の中で多くの苦しみを耐えているので彼女は苦い海と呼ばれている。彼女はたくさんの涙を流し、主の足を涙で洗ったという事実から私達はこれを見ている。彼女は瞑想という最善の部分を選んで以来、瞑想の中で光から非常に多くの本質を導き出し、今度は豊富に光を注ぐ者になったので蒙を啓く者と呼ばれている。それは瞑想の中で彼女が後に他の人々の蒙を啓く光を受け取ったということである。彼女は天の栄光という最善の部分を選んだので蒙を啓かれたと言われる。彼女の心の中は、光の完全なる叡智によって今や蒙を啓かれており、肉体も栄光の光によって蒙を啓かれるだろう。

マリアはマグダラと呼ばれ、それは“罪を負っている“を意味すると理解されている。あるいは、防備をしている、征服されない、崇高な、を意味している。これらの意味は彼女が以前、改宗に際して、改宗後、そういった女性であったことを示している。改宗以前、彼女は罪深いままで、永遠なる罰の負債を背負っていた。改宗により彼女は懺悔の鎧で防備し、征服されないようになった。彼女が享受する全ての楽しみに対して、彼女は自らを犠牲にする方法を見つけたので、彼女は考えられる限り最高の方法―懺悔というあらゆる武器で―で自らを守った。改宗後、彼女は神の恩寵に満ち溢れていて気高かった、というのは罪があふれている所では神の恩寵も豊富であったから。

マリアのあだ名“マグダラ”というのは先祖伝来の資産のうちの一つの名前からきている。彼女は王族の子孫で良い生まれだった。父親の名前はシラスで、母親はユーチェリアと呼ばれていた。兄ラザロと姉マルタと共に彼女はマグダラを所有していた。そこはエルサレムから遠くなく、ベザニーに沿っていくとゲネザレスから2マイルの壁で囲まれた街であり、エルサレム自体のかなりの部分を占めてもいた。しかしながら、彼らは自分達の所有物を分割して、マグダラはマリアに(そういうわけでマグダラという名前になった)、ラザロはエルサレムの資産を保持し、ベザニーはマルタの物になった。マグダラは肉の喜びに全てを注ぎ、ラザロは軍事に専心した。一方で賢明なマルタは兄と妹の財産に目を光らせて、武装した者達や使用人、貧者の世話をした。しかしながら、キリスト昇天後、彼らはみな財産を売却し、売上を使徒に寄進した。

そういうわけでマグダラはとても金持ちで、感覚的な喜びが大きな富と共にあった。彼女の美貌と富は有名で、本当の名前が忘れられてしまうほど、肉体を快楽に捧げているのは知らぬものがないほどで、彼女は一般に罪人と呼ばれていた。その一方でキリストはあちこちで伝道していて、彼女は聖なる意思に導かれ、らい病患者であるシモンの家に急いだ。そこでキリストがテーブルにいることが彼女には分かり、罪人であったので正しき人々の間にあえて混ざろうとはしなかったが、後ろに控え、主の足を涙で洗い、髪の毛で乾かして、高価な香油を塗った。太陽の非常な熱の為、あの地域の人々は自ら定期的に入浴し、油を塗った。

パリサイ派であるシモンはこの方が預言者ならば、罪深い女性が触れることを許されないだろうと思ったが、主は彼の傲慢な高潔さを非難し、女性に全ての罪は許されたと言った。これがイエスがそのような大きな恩寵を与えたマグダラであり、彼が多くの愛の印を示した人であった。彼は7つの悪霊を追い出し、彼女が全く火のように彼を愛するようにし、彼女を彼のもっとも身近な友に加えて、彼の旅の身の回りの世話をさせ、いつでも快く側に連れて行った。パリサイ派が彼女は汚れていると言った時、姉が彼女は怠惰だとほのめかした時、ユダが彼女が無駄使いをすると言った時、キリストは彼女を守った。彼女の泣くのを見て、彼は涙を抑えることができなかった。彼女への愛の為に、彼は死んで4日間も経った兄を生き返らせた。彼女への愛の為に、姉マルタが7年間苦しんできた血の病を治した。彼女の役に立つように姉の使用人マルティラを与え、「貴方の持つ子宮は祝福されている」という顕著な言葉を呼び出す特典を与えた。実際、アンブロウズによれば、マルタは血の病を持った女性であり、呼ばれた女性はマルタの使用人だったそうだ。「主の足を涙で洗い、髪の毛で乾かし、香油を塗ったのは他ならぬマリアだったし、恩寵の時に宗教上の懺悔をし、最良の部分を選び、主の足元に座って彼の言葉に耳を傾け、彼の頭に香油を塗り、受難の時に十字架の側に立ち、彼の体に塗る甘美な香料を準備し、弟子達が墓を離れた時に去らずに復活したキリストが最初に現れ、彼女を使徒達への使徒にした。」と私は思う。

ラ・トゥールの描いたマグダラのマリア

主の受難と昇天から14年後、ユダヤ人が聖ステパノを殺害し、他の弟子達をユダヤの土地から排除してだいぶ経った時、弟子達は様々な国へ向かい、そこで主の言葉という種をまいた。その時、弟子達と共にキリストの72人の弟子達の一人である聖マクシミンに、聖ペテロがマグダラのマリアの世話を任せていた。バラバラに散っていく際に、マクシミン、マグダラのマリア、兄ラザロ、姉マルタ、マルタの使用人マルティラ、聖セドニウス生まれつき盲目で主によって治された人、そしてたくさんのキリスト教徒は不信心者達によって船長も舵も無い船に集められ、全員が溺れてもいいように海に出された。しかし、神の意思によって最終的に彼らはマルセイユに上陸した。そこでは、進んで彼らに休めるところを与えてくれる者は見つからなかった。それで、彼らはその地域の人々に属する神殿の柱廊玄関の下に避難した。聖マグダラのマリアが偶像に犠牲を供する為に人々が神殿に集まるのを見ると、穏やかな態度と澄み切った顔、よく選ばれた言葉で彼らを偶像崇拝から呼び戻し、情熱的にキリストを説いた。彼女の話を聞いた人は全て彼女の美しさ、雄弁さ、伝えたことの甘美さを称賛した。救世主の足にそのような敬虔で美しい口付けした口が他の者が語る以上に豊富に、神の言葉という香水を出すのは当然だと思った。

それから、その地域の領主が妻とともに犠牲を捧げにきて、子孫を求めて神に祈った。マグダラは彼にキリストを説き、犠牲を捧げるのを思いとどまらせた。数日後、その妻へヴィジョンの中でマグダラは現れて言った。「何故、あなたはとても豊かなのに神の聖人達が飢えを寒さで死ぬのを許しているのか?」もし、彼女が夫を説得して聖人達の必要なものを救援しないなら、天罰を受けるかもしれないという脅威もマグダラは加えた。しかし、その女性はそのヴィジョンについて配偶者に話すのを恐れた。次の晩、彼女は同じヴィジョンを見て、同じ言葉を聞いたが、また夫に話すのをためらった。三度目は、死んだように静かな晩にマグダラのマリアがそれぞれに現れ、怒りに身体を震わせ、家中が燃えているかのように顔を燃え上がらせて言った。「そうか、あなたは独裁者であなたの父悪魔の手先、私が行ったことをあなたに話すのを拒む毒蛇の妻と寝ていなさい。あなたが神の聖人達を飢えと渇きで滅ぼしているというのに、あなたは休息をとり、あなたはキリストの十字架の敵、あらゆる種類の食べ物いっぱいで飽き飽きした貪欲。あなたは彼らが家も無く、惨めなのを見て絹のシーツに包まれてここに横になり、それを見逃すのか?邪悪な人、あなたは逃れられない! 彼らを助けるのが遅くなることで罰せられないところには行けないだろう。」そしてマグダラがいうことを言った後、姿を消した。

女性は喘ぎつつ、震えながら起きて、困惑しているような夫に話した。「私のご主人様、あなたは私がたったいま見た夢を見ました?」「私は見た」と彼は答えて「私は恐れで驚愕し、震えないではいられない! 私達は何をすればいいだろう?」妻は言った。「彼女が説く天罰にあうよりは、彼女に屈した方がいいでしょう」そうして彼らはキリスト教徒達に住処を提供し、必要なものを与えた。

それから、マグダラのマリアが伝道していたある日、前述の領主が彼女に尋ねた「あなたが説く信仰を守る事ができると思いますか?」「私には実際それを進んで守るだけの準備があります」と彼女は答えた。「私の信仰は日々の奇跡と私の師であり、ローマを統括しているペトロの説くことにより、強められていますから」領主と妻は彼女に言った「御覧下さい、もしあなたがあなたの説く神から私達の息子を得ることができるなら、あなたが私達にいうことは何でもするだけの準備があります」「こういう時に、彼はあなたを失望させる事はないでしょう」とマグダラは言った。そうして聖マリアは彼らに息子を与えるよう主に祈った。主は彼女の祈りを聞き届けて女性は妊娠した。

夫はペトロのところへ行って、マグダラがキリストについて説いていることが真実かどうかをはっきりさせたいと思い始めた。「これは何?」妻にパンと気付かせた。「あなたは私無しに行こうと考えているでしょう。とんでもない!あなたが行くなら私も行く。あなたが戻るなら私も戻る。あなたがここに留まるなら私も留まるわ!」男は答えた。「私の愛しい人よ、そんなふうにはできない!あなたは妊娠しているし、海の危険は膨大だ。あまりに危険過ぎる。あなたは家にいて私達がここにもっているものの世話をしていて下さい」

しかし、彼女は女性達がするように主張した。彼女は彼の足に身を投げ出し、しばらく泣きながら、結局は彼を打ち負かした。それゆえ、マリアは道中、いにしえの敵の妨害からの防御として彼らの肩に十字架の印をつけた。彼らは船に必要なもの全てを蓄え、財産の残りはマグダラのマリアに面倒をみてもらうように残して出帆した。

しかしながら、昼夜が過ぎないうちに風が上がり、海は騒然となった。波が船を打つと、乗船しているのはみんな、特に妊婦は揺られて恐ろしかった。突如、彼女は産気づき、激痛と嵐との戦いで疲弊しきっていた。息子を産むと息を引き取った。新生児は母の胸の安らぎを求めて手探りし、可哀相に叫んだり、すすり泣きした。なんて気の毒なんでしょう!幼子は生まれて生きており、母を殺してしまった。彼は死んだ方がいいかもしれない、彼が生きていく為の栄養を与えてくれる人は誰もいないのだから。妻が亡くなり、子供が母の胸を探すように悲しそうに泣いているのを見て、巡礼者は何ができるだろう?彼の嘆きは限度が無く、一人つぶやいた。「ああ、あなたは何をするのだろう?あなたは息子を切望して母と息子を失った!」

その間に水夫達は叫んでいた「我々が滅びる前にその死体を海に投げ込め、それが一緒にあったんではこの嵐は弱まらないぞ!」彼らはその身体をつかんで海に投げ込もうとしたが、その巡礼者は邪魔をした。「少し待ってくれ!」彼は泣き叫んだ。「たとえあなた達が私やその母親の命を助けようとしなくても、可哀相な人達が小さな子供を泣いているのを哀れに思わないでいられるでしょうか!少し待って下さい!たぶん母親は苦痛で失神しているだけでまた息を吹き返すかもしれない!」

突然、彼らは丘の多い海岸を湾曲からさほど遠くないところに見て、巡礼者は海の怪物の餌に投げられるよりも、死体と幼子をそこの岸に置くほうがはるかによいだろうと思った。彼の嘆願と賄賂でかろうじて乗組員を説得してそこに錨を下ろさせた。それから彼は墓を掘れないほど堅い地面を見つけ、丘のくぼみに外套を広げ、その上に妻の身体を置き、母の胸の間に子供の頭を置いた。それからは彼は泣いて言った「お〜マグダラのマリアよ、あなたはマルセイユに上陸した時に、私に破滅をもたらした!不幸な私よ。あなたの助言で私はこの旅に出た。あなたは私の妻が妊娠するように神に祈らなかったか?妻は妊娠した、そして出産で死に、宿した子供は死ぬしかなく生まれた。子供を養える人がいないのだから。見てみなさい、これがあなたの祈りによって私が得たものだ。私は全てのものをあなたに委ね、私をあなたの神に委ねた。もしもあなたの力が及ぶなら、母親の魂を気にかけ、あなたの祈りで子供に憐れみを与え、命を助けて下さい。」それから彼は身体と子供を外套に包み、戻って乗船した。

巡礼者がローマに着くと、ペテロが会いに来て肩に十字架の印を見て彼が誰でどこから来たのかを尋ねた。彼はペテロに彼に起こった事全てを話した。ペテロは答えて「あなたに平和がありますように! あなたが受けた良い助言を信じたことは良い事をしました。あなたの妻が眠り、子供を彼女と共に残したことを誤解してはいけません。贈り物を誰に与えるか、与えたものを取り去るか、取り去ったものを復活させるか、あなたの悲しみを喜びに変えるかは、主のお決めになられることです。

ペテロは彼をエルサレムに連れて行き、キリストが受難を受けた場所や昇天した場所と同様に、布教した場所や奇跡を為した場所といったあらゆることろを見せた。ペテロは信仰の指導を通して彼に与え、2年が過ぎ去って故郷に戻る事を切望して彼は船に乗った。神の意思により、航海の途上で彼らは妻の体と子供を残した丘の海岸に近づいた。懇願とお金で彼は乗組員達に岸に下ろさせた。マグダラのマリアが安全に守った小さな男の子は子供達がそうするのが好きなように、海岸に下りてきて石や砂利で遊んでいたものだった。巡礼者の小船が岸に近づくと、彼は海岸で子供が遊んでいるのを見た。息子が生きているのを見て唖然として、小船から岸に飛び降りた。男性を見たことがなかったその子は、その光景で怖がって母の胸へ走っていき、見覚えのある外套に隠れた。何が起こったのかを見たいと思った巡礼者は後を追い、顔立ちの良い子供が母の胸でおっぱいを飲んでいるのを見つけた。「お〜、マグダラのマリアよ、なんと幸せなんでしょう。私にとって全てのことが良くなっているのが分かりました。妻が生きていて一緒に家に戻れたら!実際、私には分かります。疑いなく私は知っているし、信じています。私達にこの子供を与え、彼を2年間この岩場で生かしておいて下さった。あなたの祈りで妻も生き返り、健康になった。」

これらの言葉が語られると、女性が息をしてあたかも眠りから覚めたように言った「あなたの美点はどれほど偉大なのでしょう。お〜、聖なるマグダラのマリアよ、あなたは輝かしいのでしょう! 私が出産で苦しんでいると、助産婦の仕事をしてくださり、忠実な召使のように必要な全てのもの用意して待っていてくれる。」これを聞き、巡礼者は言った「愛しい妻よ、生きているのか?」「ええ、勿論です」彼女は答えました。「たったいま、あなた自身が戻ってきた巡礼の旅から戻ってきたところです。聖ペトロがあなたをエルサレムに導き、キリストが受難した場所、亡くなった場所、埋葬された場所や他のたくさんのあらゆる場所を見せたので、聖マグダラのマリアが私のガイドとして連れ立って私はあなたと一緒にいたので、あなたが見た全てのものを覚えています。彼女はキリストが受難したあらゆる場所を詳しく話し、彼女が見た奇跡や全ての事を一つも逃すことなく十分に説明してくれました。

巡礼者は妻と子供を取り戻し、喜びにあふれて船に乗ると、まもなくマルセイユの港に着いた。町に行くと、彼らは聖マグダラのマリアが弟子達とともに布教をしているのを見つけた。彼らは喜びで涙を流し、彼女の足元に身を投げ出して彼らに起こったこと全てを語った。そして聖マクシミンから神聖な洗礼を受けた。その後、彼らはマルセイユの町にあったあらゆる偶像の寺院を破壊してキリストの教会を建設した。彼らは聖ラザロを町の司教として選んだ。後に神の意思により、彼らはエイクスの町に行った。そして多くの奇跡によって人々がそこに導かれ、キリストの信仰を受け入れた。聖マクシミンがエイクスの司教に任命された。

ドルチの描いたマグダラのマリア

今度は聖マグダラのマリアが天への瞑想に専心することを望んで、なにもない荒地に引きこもり、天使の手によって用意された場所で30年間誰にも知られずに生きた。そこには小川の流れもなく、草や木々の快適さもなかった。こうして、贖い主は彼女を地上の食べ物ではなく、天の良い物だけでいっぱいにするのは明らかだった。毎日、第七課(教会法の時間)に彼女は天使によって天に運ばれ、耳には天の主人達の壮麗な聖歌が聞こえた。だから、毎日こうした天の喜びで満たされ、同じ天使達によって元の場所に戻され、物質的な栄養は必要でなかった。

隠遁生活をしたいと思い、マグダラの住居から数マイルのところに住まいを立てた聖職者がいた。ある日、主は聖職者の目を開かせて、天使が既に述べた場所―聖マグダラが住む―に降りていくのかを、天使達が彼女を上空に運び、一時間後に神聖な賞賛とともに彼女を元のところに戻すのかを彼は自らの目で見た。この驚くべきビジョンについて真実を知りたいと思い、創造主に祈りを込めて身を委ねながら、彼は大胆にも献身的に前述の場所へ急いだ。しかし、彼がその場所の近くに来ると、膝がぐらつき始め、ほとんど息ができないくらい怖くなった。彼が離れようとすると、足は反応するのですが、反転したり、目的地に辿り着こうとすると、体から力が抜け、気持ちが空白になって前に進む事ができなかった。

だから、ここには人の体験だけでは近付けない天の秘密があることを神の人は理解した。それ故、彼は救い主の名を唱えて呼ぶと、「主によってあなたにお願いします。洞窟にいるあなたが人か理性ある生き物ならば、私に答えてあなたの事を話して下さい」彼が3度繰り返すと、聖マグダラのマリアは答えた「近寄りなさい、あなたの魂が望むものはなんであれ真実が分かるでしょう」震えながら、彼は邪魔された場所へ半分ほど進んだ「あなたは悪名高い罪人であり、涙で救い主の足を洗い、神で乾かし、あらゆる悪行について許しを得たマリア、について福音書が言っていることを覚えていますか?」「私は覚えております。それから30年以上が経っています。神聖な教会もあなたが彼女についていった事を信じており、告解します。」聖職者は答えた。「私がその女性です」彼女は言った「30年もの間、私は誰にも知られずにここに住んでいました。あなたは昨日見ることを許されたように、毎日私は天使達の手により7度天に運ばれ、天の者達の楽しい歓喜を耳にします。主によってまもなく私はこの世界を離れることが知らされましたので、聖マクシミンの所に行って、彼に来年のキリスト復活の日に、それを知らせるように取り計らって下さい。彼は決まって朝課のために上がって来る時に、彼は教会に一人で行くのでそこで私が天使達によっていて、待っているのに気付くでしょう。」聖職者にとって、その声は天使の声のように聞こえたが、誰も見えなかった。

良き人は聖マクシミンのところへ急ぎ、彼の用件を伝えた。聖人マクシミンは大いに喜び、救い主にあふれんばかりの感謝を捧げた。約束の日、約束の時間に一人で教会に向かい、聖マグダラのマリアをそこに連れていった天使の合唱隊に囲まれた彼女に会った。彼女は床の上から2キュビット(古代の単位:1キュビット=43〜53cm)浮かび上がり、天使達に囲まれて立ち、神への祈りで手を挙げていた。聖マクシミンが彼女に近づくのをためらうと、彼女は彼の方を向いて言った。「神父よ、近くに来て下さい。あなたの娘から離れないで」「彼が近づくと、マクシミン自身の本に読めるように、彼女の絶え間ない日々の天使のビジョンの為、お顔はこのうえもなく光り輝き、顔を見つめるよりは太陽を直視するほうがずっと容易なほどであった。

既に述べた聖職者を含むあらゆる聖職者が集まり、喜びの涙を流している聖マグダラのマリアは主の肉体と血を司教から受け取った。それから、彼女は祭壇の階段前に全身を横たわり、ほとんど神聖な魂は主の国へ移った。彼女が息を引き取った後、教会に満ちた甘美な香りは非常に強烈で教会に入った人は7日間それが分かったほどだった。聖マクシミンは彼女の神聖な肉体に香油を塗って防腐処理を施し、立派なお葬式をした。また彼は自分の死後、彼女の側に自らを埋めるように命じていた。

ヘゲシプス(あるいは、幾つかの本があるようにジョセフス)はたったいま述べられた話に大筋同意しています。彼はエッセイの中で言っています、キリストの昇天後、マグダラのマリアは世界に疲れ、主への熱心な愛によって心を動かされたが、決して誰にも会いたいと思わなかった。彼女がエイクスに来た後、砂漠に行き、30年間知られないままそこで生きたが、毎日7課に天使によって天に運ばれた。しかしながら、彼女の所に言った聖職者は彼女がその住居に閉じ籠っているのに気付いたと加えた。彼の求めで、彼女に衣服を差し伸べ、彼女がそれを着ると、彼と共に教会へ行ってそこで聖体拝領を受けて、祭壇の側で祈って手を上に挙げ、安らかに亡くなった。

シャルルマーニュの時代、即ち西暦769年にブルゴーニュの公爵ジェラードは妻に息子ができなかったので気前良く貧しき者達に富を与え、多くの教会や修道院を建てた。彼がヴェズレーに修道院を立てると、彼と大修道院長はできるなら聖マグダラのマリアの遺骨を持ち帰れるように修道僧と適当な者どもをエイクスの町へ送った。修道僧が前述の町に着くと、異教徒によって土地が荒らされているのが分かった。しかし、たまたま彼は聖マグダラのマリアの体がそこに納められていることや、外側に彼女の全ての話が美しく刻まれているいることを示す銘のある大理石の石棺を発見した。それで修道僧は夜に石棺に侵入して遺物を集めて宿泊所に運んだ。その晩、聖マリアが現れて、彼に恐れることなく始めた作業を続けなさいと言った。ヴェズレーに戻る途中で、修道院まであと半分という距離でもう一歩も遺物を動かせなくなり、大修道院長と彼の修道僧達が遺物を受け入れる宗教上の儀式をして始めてそれは動いた。

毎年、聖マグダラのマリアの遺物を訪れことを習慣としていたある騎士が戦闘で殺された。彼はお棺に死んで横たわったが、両親は彼の死を悼んで、マグダラに信仰心から不満を言った。というのは、彼女はその熱心な崇拝者に告解と秘蹟を無しに死を許していたので。すると突然、その場にいた全員が驚くことに、死者が起き上がり、聖職者を呼んだ。彼は心から告白をし、臨終の聖餐をうけて静かに休息に戻った。

男女で混雑した船が沈もうとしていた、ある妊娠した女性が溺れる危険に遭遇していて可能な限り大きな声でマグダラを祈った。もしもマリア様のおかげで死を逃れ、子供が産めたなら息子を聖人の修道院に委ねますと誓った。すぐに威厳のあるお顔と態度をした女性が現れ、あごを上に持ち上げた。一方、残りの人は溺れてしまったが彼女は傷つくこともなく、上陸した。やがて女性は息子を出産し、忠実に誓いは果たされた。

マグダラのマリアは福音書著者ヨハネと結婚したという人々もいる。そしてヨハネはキリストが彼を結婚式から呼び寄せた時に、彼女を妻としようとしてた。それで彼女は配偶者を取られたので憤慨して自らをあらゆる種類の官能へ差し出したという。しかし、ヨハネの天職があったのでマリアは破滅の場合に至らなかったので、主は慈悲深く、彼女の向きを変えて懺悔へと向けた。彼女は肉体的な喜びの高さを断念しなければならなかったので、彼は彼女を他の人達以上に集中して神への愛から成る精神的な喜びで満たした。キリストはヨハネを前述の喜びから引き離したので、ヨハネを特別の好意で称賛したと主張する人々もいる。これらの話は間違っているし、ばかばかしいと思われる。アルバート修道士は彼のヨハネ福音書への序文でヨハネは結婚式から召されたので女性は処女のままで耐え続け、キリストの母である聖処女マリアと一緒に後に見られ、ついに聖なる終わりを迎えたとはっきりと言っている。

マグダラのマリアの肉体に訪れる為、ヴェズレー修道院への途上で視力を失った人に案内人が遠くに教会が既に見えると話した。盲目の人が大きな声で叫んだ「お〜聖なるマグダラのマリアよ、あなたの教会を少しでも見れたなら!」すぐに彼の目は開いた。

紙に自分の罪のリストを書いて、許してもらうよう彼女に祈って下さいと願いながら、マグダラの祭壇上の敷物の下に置いた人がいた。後に彼は紙を見ると、彼の罪は消されているのが分かった。

物を盗んだ罪を犯して鎖につながれている人がマグダラのマリアに助けてくれるように祈ると、ある晩、美しい女性が現れ、足枷を壊して彼に行くように命じた。彼が自由になったのを見ると、可能な限り急いで去った。

フランドルから来ていたステファンという名前の聖職者は、あらゆる種類の悪を犯して救済の行動も取れず、それらに耳を傾ける事さえしないような、罰当たりな無秩序に陥いっていた。しかし、彼は聖マグダラのマリアに深く帰依していたので断食によって彼女の徹夜のお勤めを守り、彼女の祝日を祝っていた。一度、彼は彼女の墓を訪れ、半ば眠り半ば目覚めたようだった時、マグダラのマリアが二人の天使に両脇を支えられて美しいが悲しい眼差しで現れて言った「ステファン、何故あなたは不毛な価値のない行為で私に報いるのか? 何故あなたは私の唇が強く言っていることによって後ろめたさに心を動かされないのか? あなたが私に帰依し始めた時から、私はいつもあなたのことを必死に主に祈っています。立ち上がりなさい!後悔なさい!私はあなたが神と和解するまであなたをそのままにしておかないでしょう。」聖職者はすぐに慈悲が非常にたくさん流れ込んでくるのを感じて、世界と関係を絶ち、宗教的な生活に入り、その後はとても神聖な生活を送った。彼の死後、マグダラのマリアは石棺の側に天使と共に立っているのが見られた。彼女は穢れない白い鳩に似た彼の魂を天の賞賛の歌と共に運んだ。

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関連サイト
マグダラのマリア(ウィキペディア)

関連ブログ
Saint Mary Magdalene 〜“Golden Legend”〜(訳する前の原文です)
The Golden Legend: Readings on the Saints 「黄金伝説」 獲得までの経緯
黄金伝説 Golden Legend コロンビア百科事典による
黄金伝説 〜聖人伝〜 ヤコブス・デ・ウォラギネ著
「黄金伝説抄」ヤコブス・ア・ウォラギネ 新泉社
「マグダラのマリア―マリア・ワルトルタの著作による」あかし書房
「図説 ロマネスクの教会堂」河出書房新社
「マグダラのマリア」 岡田温司 中公新書
「マグダラとヨハネのミステリー」三交社 感想1
「イエスのミステリー」バーバラ・シィーリング著 感想1
美の巨人たち ラ・トゥール『常夜灯のあるマグダラのマリア』
マグダラのマリアの福音書(訳)
posted by alice−room at 22:42| 埼玉 ☁| Comment(8) | TrackBack(4) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Saint Mary Magdalene 〜“Golden Legend”〜(マグダラのマリア黄金伝説より)

The name Mary, or Maria, is interpreted as amarum mare, bitter sea, or as illuminator or illuminated. These three meanings are accepted as standing for three shares or parts, of which Mary made the best choices, namely, the part of penance, the part of inward contemplation, and the part of heavenly glory. This threefold share is what the Lord meant when he said: "Mary has chosen the best part, which shall not be taken away from her." The first part will not be taken away because of its end or purpose, which is the attainment of holiness. The second part will not be taken because of its continuity: contemplation during the earthly journey will continue in heavenly contemplation. And the third part will remain because it is eternal. Therefore, since Mary chose the best part, namely, penance, she is called bitter sea because in her penances she endured much bitterness. We see this from the fact that she shed enough tears to bathe the Lord's feet with them. Since she chose the best part of inward contemplation, she is called enlightener, because in contemplation she drew draughts of light so deep that in turn she poured out light in abundance: in contemplation she received the light with which she afterwards enlightened others. As she chose the best part of heavenly glory, she is called illuminated, because she now is enlightened by the light of perfect knowledge in her mind and will be illumined by the light of glory in her body.

Mary is called Magdalene, which is understood to mean "remaining guilty," or it means armed, or unconquered, or magnificent. These meanings point to the sort of woman she was before, at the time of, and after her conversion. Before her conversion she remained in guilt, burdened with the debt of eternal punishment. In her conversion she was armed and rendered unconquerable by the armor of penance: she armed herself the best possible way-with all the weapons of penance-because for every pleasure she had enjoyed she found a way of immolating herself. After her conversion she was magnificent in the superabundance of grace, because where trespass abounded, grace was superabundant.

Mary’s cognomen "Magdalene" comes from Magdalum, the name of one of her ancestral properties. She was wellborn, descended of royal stock. Her father's name was Syrus, her mother was called Eucharia. With her brother Lazarus and her sister Martha she owned Magdalum, a walled town two miles from Genezareth, along with Bethany, not far from Jerusalem, and a considerable part of Jerusalem itself. They had, however, divided their holdings among themselves in such a way that Magdalum belonged to Mary (whence the name Magdalene), Lazarus kept the property in Jerusalem, and Bethany was Martha's. Magdalene gave herself totally to the pleasures of the flesh and Lazarus was devoted to the military, while prudent Martha kept close watch over her brother's and sister's estates and took care of the needs of her armed men, her servants, and the poor. After Christ,s ascension, however, they all sold their possessions and laid the proceeds at the feet of the apostles.

Magdalene, then, was very rich, and sensuous pleasure keeps company with great wealth. Renowned as she was for her beauty and her riches, she was no less known for the way she gave her body to pleasure-so much so that her proper name was forgotten and she was commonly Called "the sinner." Meanwhile, Christ was preaching here and there, and she, guided by the divine will, hastened to the house of Simon the leper, where, she had learned, he was at table. Being a sinner she did not dare mingle with the righteous, but stayed back and washed the Lord’s feet with her tears, dried them with her hair, and anointed them with precious ointment. Because of the extreme heat of the sun the people of that region bathed and anointed themselves regularly.

Now Simon the Pharisee thought to himself that if this man were a prophet, he would never allow a sinful woman to touch him; but the Lord rebuked him for his proud righteousness and told the woman that all her sins were forgiven. This is the Magdalene upon whom Jesus conferred such great graces and to whom he showed so many marks of love. He cast seven devils out of her, set her totally afire with love of him, counted her among his closest familiars, was her guest, had her do the housekeeping on his travels, and kindly took her side at all times. He defended her when the Pharisee said she was unclean, when her sister implied that she was lazy, when Judas called her wasteful. Seeing her weep he could not contain his tears. For love of her he raised her brother, four days dead, to life, for love of her he freed her sister Martha from the issue of blood she had suffered for seven years, and in view of her merits he gave Martilla, her sister's handmaid, the privilege of calling out those memorable words: "Blessed is the
womb that bore you!" Indeed, according to Ambrose, Martha was the woman with the issue of blood, and the woman who called out was Martha’s servant. "She [Mary] it was, I say, who washed the Lord's feet with her tears, dried them with her hair and anointed them with ointment, who in the time of grace did solemn penance, who chose the best part, who sat at the Lord's feet and listened to his word, who anointed his head, who stood beside the cross at his passion, who prepared the sweet spices with which to anoint his body, who, when the disciples left the tomb, did not go away, to whom the risen Christ first appeared, making her an apostle to the apostles."

Some fourteen years after the Lord's passion and ascension into heaven, when the Jews had long since killed Stephen and expelled the other disciples from the confines of Judea, the disciples went off into the lands of the various nations and there sowed the word of the Lord. With the apostles at the time was one of Christ's seventy-two disciples, blessed Maximin, to whose care blessed Peter had entrusted Mary Magdalene. In the dispersion Maximin, Mary Magdalene, her brother Lazarus, her sister Martha, Martha's maid Martilla, blessed Cedonius, who was born blind and had been cured by the Lord, and many other Christians, were herded by the unbelievers into a ship without pilot or rudder and sent out to sea so that they might all be drowned, but by God's will they eventually landed at Marseilles. There they found no one willing to give them shelter, so they took refuge under the portico of a shrine belonging to the people
of that area. When blessed Mary Magdalene saw the people gathering at the shrine to offer sacrifice to the idols, she came forward, her manner calm and her face serene, and with well-chosen words called them away from the cult of idols and preached Christ fervidly to them. All who heard her were in admiration at her beauty, her eloquence, and the sweetness of her message... and no wonder, that the mouth which had pressed such pious and beautiful kisses on the Savior’s feet should breathe forth the perfume of the word of God more profusely than others could.

Then the governor of that province came with his wife to offer sacrifice and pray the gods for offspring. Magdalene preached Christ to him and dissuaded him from sacrificing. Some days later she appeared in a vision to the wife, saying: "Why, when you are so rich, do you allow the saints of God to die of hunger and cold?" She added the threat that if the lady did not persuade her husband to relieve the saints’needs, she might incur the wrath of God., but the woman was afraid to.tell her spouse about the vision. The following night she saw the same vision and heard the same words, but again hesitated to tell her husband. The third time, in the silence of the dead of night, Mary Magdalene appeared to each of them, shaking with anger, her face afire as if the whole house were burning, and said: "So you sleep, tyrant, limb of your father Satan, with your viper of a wife who refused to tell you what I had said? You take your rest, you enemy of the cross of Christ, your gluttony sated with a bellyful of all sorts of food while
you let the saints of God perish from hunger and thirst? You lie here wrapped in silken sheets, after seeing those others homeless and desolate, and passing them by? Wicked man, you will not escape! You will not go unpunished for your long delay in giving them some help!" And, having said her say, she disappeared.

The lady awoke gasping and trembling, and spoke to her husband, who was in like distress: "My Iord, have you had the dream that I just had?" "I saw it," he answered, "and I can’t stop wondering and shaking with fear! What are we to do?" His wife said: "It will be better for us to give in to her than to face the wrath of her God whom she preaches." They therefore provided shelter for the Christians and supplied their needs.

Then one day When Mary Magdalene was preaching, the aforesaid governor asked her: "Do you think you can defend the faith you preach?" "I am ready indeed to defend it," she replied, "because my faith is strengthened by the daily miracles and preaching of my teacher Peter, who presides in Rome!" The governor and his wife then said to her: "See here, we are prepared to do whatever you tell us to if you can obtain a son for us from the God whom you preach." "In this he will not fail you," said Magdalene. Then the blessed Mary prayed the Lord to deign to grant them a son. The Lord heard her prayers and the woman conceived.

Now the husband began to want to go to Peter and flnd out whether what Magdalene preached about Christ was the truth. "What's this?" snapped his Wife. "Are you thinking of going without me? Not a bit of it! You leave, I leave. You come back, I come back. You stay here, I stay here!" The man replied: "My dear, it can’t be that way! You’re pregnant and the perils of the sea are infinite. It’s too risky. You will stay home and take care of what we have here!"

But she insisted, doing as women do. She threw herself at his feet, weeping the while, and in the end won him over. Mary therefore put the sign of the cross on their shoulders as a protection against the ancient Enemy's interference on their journey. They stocked a ship with all the necessaries, leaving the rest of their possessions in the care of Mary Magdalene, and set sail.

A day and a night had not passed, however, when the wind rose and the sea became tumultuous. All aboard, and especially the expectant mother, were shaken and fearful as the waves battered the ship. Abruptly she went into labor, and, exhausted by her pangs and the buffeting of the storm, she expired as she brought forth her son. The newborn groped about seeking the comfort of his mother's breasts, and cried and whimpered piteously. Ah, what a pity! The infant is born, he lives, and has become his mother's killer! He may as well die, since there is no one to give him nourishment to keep him alive! What will the Pilgrim do, seeing his wife dead and the child whining plaintively as he seeks the maternal breast? His lamentations knew no bounds, and he said to himself: "Alas, what will you do? You yearned for a son, and you have lost the mother and the son too!"

The seamen meanwhile were shouting: "Throw that corpse overboard before we all perish! As long as it is with us, this storm will not let up!" They seized the body and were about to cast it into the sea, but the Pilgrim intervened. "Hold on a little!" he cried. "Even if you don't want to spare me or the mother, at least pity the poor weeping little one! Wait just a bit! Maybe the woman has only fainted with pain and may begin to breathe again!"

Now suddenly they saw a hilly coast not far off the bow, and the Pilgrim thought it would be better to put the dead body and the infant ashore there than to throw them as food to the sea monsters. His pleas and his bribes barely persuaded the crew to drop anchor there. Then he found the ground so hard that he could not dig a grave, so he spread his cloak in a fold of the hill, laid his wife's body on it, and placed the child with its head between the mother's breasts. Then he wept and said: "0 Mary Magdalene, you brought ruin upon me when you landed at Marseilles! Unhappy me, that on your advice I set out on this journey! Did you not pray to God that my wife might conceive? Conceive she did, and suffered death giving birth, and the child she conceived was born only to die because there is no one to nurse him. Behold, this is what your prayer obtained for me. I commended my all to you and do commend me to your God. If it be in your power, be mindful of the mother’s soul, and by your prayer take pity on the child and spare its life." Then he enfolded the body and the child in his cloak and went back aboard the ship.

When the Pilgrim arrived in Rome, Peter came to meet him and, seeing the sign of the cross on his shoulder, asked him who he was and where he came from. He told Peter all that had happened to him, and Peter responded: "Peace be with you! You have done well to trust the good advice you received. Do not take it amiss that your wife sleeps and the infant rests with her. It is in the Lord's power to give gifts to whom he will, to take away what was given, to restore what was taken away, and to turn your grief into joy."

Peter then took him to Jerusalem and showed him all the places where Christ had preached and performed miracles, as well as the place where he had suffered and the other from which he had ascended into heaven. Peter then gave him through instruction in the faith, and after two years had gone by, he boarded ship, being eager to get back to his homeland. By God's will, in the course of the voyage they came close to the hilly coast where he had left the body of his wife and his son, and with pleas and money he induced the crew to put him ashore. The little boy, whom Mary Magdalene had preserved unharmed, used to come down to the beach and play with the stones and pebbles, as children love to do. As the Pilgrim’s skiff drew near to the land, he saw the child playing on the beach. He was dumbstruck at seeing his son alive and leapt ashore from the skiff. The child, who had never seen a man, was terrified at the sight and ran to his mother’s bosom, taking cover under the familiar cloak. The Pilgrim, anxious to see what was happening, followed, and found the handsome child feeding at his mother’s breast. He lifted the boy and said: " O Mary Magdalene, how happy I would be, how well everything would have turned out for me, if my wife were alive and able to return home with me! Indeed I know, I know and believe beyond a doubt, that having given us this child and kept him alive for two years on this rock, you could now, by your prayers, restore his mother to lift and health."

As these words were spoken, the woman breathed and, as if waking from Sleep, said: "Great is your merit, O blessed Mary Magdalene, and you are glorious! As I struggled to give birth, you did me a midwife's service and waited upon my every need like a faithful handmaid." Hearing this, the Pilgrim said: "My dear wife, are you alive?" "Indeed I am," she answered, "and am just coming from the pilgrimage from which you yourself are returning. And as blessed Peter, conducted you to Jerusalem and showed you all the places where Christ suffered, died, and was buried, and many other places, I, with blessed Mary Magdalene as my guide and companion, was with you and committed all you saw to memory. "Whereupon she recited all the places where Christ had suffered, and fully explained the miracles and all she had seen, not missing a single thing.

Now the Pilgrim, having got back his wife and child, joyfully took ship and in a short time made port at Marseilles. Going into the city they found blessed Mary Magdalene with her disciples, preaching. Weeping with joy, they threw themselves at her feet and related all that had happened to them, then received holy baptism from blessed Maximin. Afterwards they destroyed the temples of all the idols in the city of Marseilles and built churches to Christ. They also elected blessed Lazarus as bishop of the city. Later by the will of God they went to the city of Aix, and, by many miracles, led the people there to accept the Christian faith. Blessed Maximin was ordained bishop of Aix.

At this time blessed Mary Magdalene, wishing to devote herself to heavenly contemplation, retired to an empty wilderness, and lived unknown for thirty years in a place made ready by the hands of angels. There were no streams of water there, nor the comfort of grass or trees: thus it was made clear that our Redeemer had determined to fill her not with earthly viands but only with the good things of heaven. Every day at the seven canonical hours she was carried aloft by angels and with her bodily ears heard the glorious chants of the celestial hosts. So it was that day by day she was gratified with these supernal delights and, being conveyed back to her own place by the same angels, needed no material nourishment.

There was a priest who wanted to live a solitary life and built himself a cell a few miles from the Magdalene’s habitat. One day the Lord opened this priest’s eyes, and with his own eyes he saw how the angels descended to the already-mentioned place where blessed Mary Magdalene dwelt, and how they lifted her into the upper air and an hour later brought her back to her place with divine praises. Wanting to learn the truth about this wondrous vision and commending himself prayerfully to his Creator, he hurried with daring and devotion toward the aforesaid place; but when he was a stone’s throw from the spot, his knees began to wobble, and he was so frightened that he could hardly breathe. When he started to go away, his legs and feet responded, but every time he turned around and tried to reach the desired spot, his body went limp and his mind
went blank, and he could not move forward.

So the man of God realized that there was a heavenly secret here to which human experience alone could have no access. He therefore invoked his Savior's name and called out: "I adjure you by the Lord, that if you are a human being or any rational creature living in that cave, you answer me and tell me the truth about yourself! When he had repeated this three times, blessed Mary Magdalene answered him: "Come closer, and you can learn the truth about whatever your soul desires." Trembling, he had gone halfway across the intervening space when she said to him: "Do you remember what the Gospel says about Mary the notorious sinner, who washed the Savior’s feet with her tears and dried them with her hair, and earned forgiveness for all her misdeeds?" "I do
remember," the priest replied, "and more than thirty years have gone by since then. Holy Church also believes and confesses what you have said about her." "I am that woman," she said. "For the space of thirty years I have lived here unknown to everyone; and as you were allowed to see yesterday, every day I am borne aloft seven times by angelic hands, and have been found worthy to hear with the ears of my body the joyful jubilation of the heavenly hosts. Now, because it has been revealed to me by the Lord that I am soon to depart from this world, please go to blessed Maximin and take care to inform him that next year, on the day of the Lord's resurrection, at the time when he regularly rises for matins, he is to go alone to his church, and there he will find me present and waited upon by angels." To the priest the voice sounded like the voice of an
angel, but he saw no one.

The good man hurried to blessed Maximin and carried out his errand. Saint Maximin, overjoyed, gave fulsome thanks to the Savior, and on the appointed day, at the appointed hour, went alone into the church and saw blessed Mary Magdalene amidst the choir of angels who had brought her there. She was raised up a distance of two cubits above the floor, standing among the angels and lifting her hands in prayer to God. When blessed Maximin hesitated about approaching her, she turned to him and said: "Come closer, father, and do not back away from your daughter." When he drew near to her, as we read in blessed Maximin's own books, the lady's countenance was so radiant, due to her continuous and daily vision of the angels, that one would more easily look straight into the sun than gaze upon her face.

All the clergy, including the priest already mentioned, were now called together, and blessed Mary Magdalene, shedding tears of joy, received the Lord's Body and Blood from the bishop. Then she lay down full length before the steps of the altar, and her most holy soul migrated to the Lord. After she expired, so powerful an odor of sweetness pervaded the church that for seven days all those who entered there noticed it. Blessed Maximin embalmed her holy body with aromatic lotions and gave it honorable burial, giving orders that after his death he was to be buried close to her.

Hegesippus (or, as some books have it, Josephus) agrees in the main with the story just told. He says in one of his treatises that after Christ's ascension Mary Magdalene, weary of the world and moved by her ardent love of the Lord, never wanted to see anyone. After she came to Aix, she went off into the desert, lived there unknown for thirty years, and every day at the seven canonical hours was carried up to heaven by an angel. He added, however, that the priest who went to her found her closed up in a cell. At her request he reached out a garment to her, and when she had put it on, she went with him to the church, received communion there, and, raising her hands in prayer beside the altar, died in Peace.

In Charlemagne's time, namely, in the year of the Lord 769, Gerard, duke of Burgundy, being unable to have a son of his wife, openhandedly gave away his wealth to the poor and built many churches and monasteries. When he had built the monastery at Vezelay, he and the abbot sent a monk, with a suitable company, to the city of Aix in order to bring back the relics of Saint Mary Magdalene, if possible. When the monk arrived at the aforesaid city, however, he found that it had been razed to the ground by the pagans. Yet by chance he discovered a marble sarcophagus with an inscription which indicated that the body of blessed Mary Magdalene was contained inside, and her whole story was
beautifully carved on the outside. The monk therefore broke into the sarcophagus by night, gathered the relics, and carried them to his inn. That same night blessed Mary appeared to him and told him not to be afraid but to go on with the work he had begun. On their way back to Vezelay the company, when they were half a league from their monastery, could not move the relics another step until the abbot and his monks came in solemn procession to receive them.

A certain knight, whose practice it was to visit the relics of Saint Mary Magdalene every year, was killed in battle. As he lay dead on his bier, his parents, mourning him, made pious complaint to the Magdalene because she had allowed her devotee to die without making confession and doing penance. Then suddenly, to the amazement of all present, the dead man rose up and called for a priest. He made his confession devoutly and received viaticum, then returned to rest in peace.

A ship crowded with men and women was sinking, and one woman, who was pregnant and saw herself in danger of drowning, called upon Magdalene as loudly as she could, and vowed that if by Mary's merits she escaped death and bore a son, she would give him up to the saint's monastery. At once a woman of venerable visage and bearing appeared to her, held her up by the chin, and, while the rest drowned, brought her unharmed to land. The woman in due time gave birth to a son and faithfully fulfilled her vow.

There are some who say that Mary Magdalene was espoused to John the Evangelist, who was about to take her as his wife when Christ called him away from his nuptials, whereupon she, indignant at having been deprived of her spouse, gave herself up to every sort of voluptuousness. But, since it would not do to have John's vocation the occasion of Mary's damnation, the Lord mercifully brought her around to conversion and penance; and, because she had had to forgo the heights of carnal enjoyment, he filled her more than others with the most intense spiritual delight, which consists in the love of God. And there are those who allege that Christ honored John with special evidences of his affection because he had taken him away from the aforesaid pleasures. These tales are to be considered false and frivolous. Brother Albert, in his introduction to the gospel of John, says firmly that the lady from whose nuptials the same John was
called away persevered in virginity, was seen later in the company of the Blessed Virgin Mary, mother of Christ, and came at last to a holy end.

A man who had lost his eyesight was on his way to the monastery at Vezelay to visit Mary Magdalene's body when his guide told him that he, the guide, could already see the church in the distance. The blind man exclaimed in a loud voice: "O holy Mary Magdalene, if only I could sometime be worthy to see your church!" At once his eyes were opened.

There was a man who wrote a list of his sins on a sheet of paper and put it under the rug on the Magdalene's altar, asking her to pray that he might be pardoned. Later he recovered the paper and found that his sins had been wiped out.

A man who lay in chains for having committed the crime of extortion called upon Mary Magdalene to come to his aid, and one night a beautiful woman appeared to him, broke his fetters, and ordered him to be off. Seeing himself unshackled, he got away as fast as possible.

A clerk from Flanders, Stephen by name, had fallen into such a welter of sinfulness that, having committed every sort of evi1, he could do no works of salvation nor even bear to hear of them. Yet he had deep devotion to blessed Mary Magdalene, observed her vigils by fasting, and celebrated her feast day. Once when he was on a visit to her tomb and was half asleep and half awake, Mary Magdalene appeared to him as a lovely, sad-eyed woman supported by two angels, one on either side, and she said to him: "Stephen, I ask you, why do you repay me with deeds unworthy of my deserts? Why are you not moved with compunction by what my own lips insistently say? From the time when you began to be devoted to me I have always prayed the Lord urgently for you. Get
up, then! Repent! I will never leave you until you are reconciled with God!" The clerk soon felt so great an inpouring of grace in himself that he renounced the world, entered the religious life, and lived a very holy life thereafter. At his death Mary Magdalene was seen standing with angels beside the bier, and she carried his soul, like a pure-white dove, with songs of praise into heaven.

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関連ブログ
マグダラのマリア 黄金伝説より直訳(上記の英文を訳出したもの)
The Golden Legend: Readings on the Saints 「黄金伝説」 獲得までの経緯
黄金伝説 Golden Legend コロンビア百科事典による
黄金伝説 〜聖人伝〜 ヤコブス・デ・ウォラギネ著
「黄金伝説抄」ヤコブス・ア・ウォラギネ 新泉社
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2005年05月08日

図書館のいろいろ(5月8日、日経朝刊の記事)

本日の日経朝刊の最終頁に気になって無視しておけない記事があったのでここにメモ。

何が無視できなかったというと…海外の図書館について書かれていたりする。私がこのブログ開設にあたり、タイトルに「図書館」を入れたのもそれなりの思い入れがあり、プラハのストラーオホフ図書館の写真をトップに置いているのも自分なりのこだわりのつもりなのですが、この記事にはしっかりプラハのストラーホフ図書館にも触れられているし、私がそろそろ購入しようかとここ1ヶ月くらい目をつけていた本「ヨーロッパの歴史的図書館」を、記事を書いた人が持っていたというのも、かなり惹かれた理由だったりする。

ただ、記事というよりコラムかな。正直言って、たいした内容が無い。せっかくいろいろな国の図書館に行った経験があるのなら、もう少し興味深いコメントを書いてくれると良いのですが…。図書館の魅力や更にどんな蔵書があるとかも書かれていると参考になるのにね。単なる自己満足であまり役に立ちそうな情報は、ほとんど無い(悲しい)。

それに海外の図書館も確かに魅力的なものもあるだろうが、国内の特定の分野に偏って集めている専門図書館とかも効し難い魅力があると思うんですけどね。あと、旅先でのそこの土地の図書館。私は旅行先でも時間があれば、結構図書館を覗いてみることにしている。それなりに違った雰囲気があって楽しいし、奈良の田舎の方だと、郷土史的な資料が地元故に豊富にあり、全国の流通網に乗っていない珍しい本が読めたりしてとても楽しい。そこで何時間か読書して、本の中の興味をもった史跡を改めて翌日以降に回ったりというのもよくしていた。自分的には悪くないと思うだけどね、そういった図書館の利用法も。まあ、ひとそれぞれだけど。

library.jpgまあ、そんなこんなでちょっと気になる記事だった。そうそう、まだ未読(というか未購入)なので感想は述べられないけど、目次を見る限りでは味わいのある図書館を紹介している本としては一番良さそうなのがこの「ヨーロッパの歴史的図書館」。値段が高くてちょっと躊躇している、これとフルカネリの「大聖堂の秘密」どちらから買うべきか、悩んでいたりする??? しかし&しかし、なんでこんなに高いんだろう。経費で図書が購入できる作家が羨ましいなあ。

旅行にも行きたいのに…困った???(涙)

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関連ブログ
魔女と錬金術師の街、プラハ
「THE GOLD 2004年3月号」JCB会員誌〜プラハ迷宮都市伝説〜
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2005年05月05日

"666"は獣の数字に非ず - 新約聖書に新たな研究結果

616が書かれた写本

"666"は獣の数字に非ず - 新約聖書に新たな研究結果
非常に興味深い記事がいつも紹介されている「x51.org」さんのサイトです。 エジプト超大好きさんのブログを拝見して辿り着きました。

どうやら3世紀頃の文書が最新技術でようやく解読された結果、これまで獣の数字として知られいていた”666”の本当の数字は”616”であった、ということが分かったそうです。(上の写真が、その問題の解読された写本)

いやあ〜、正直驚きますね! 結構、ショックだったりする。意味をよく知らないままに、666って悪魔(獣、アンチキリスト)の数字なんだあ〜ってもっともらしく思っていたので。百科事典で調べてダ・ヴィンチ・コード用語集もどきを作った時にも下のように書いていたからなあ〜。
 666 : 黙示録13章18節より「ここに知恵が必要である。思慮のある者は獣の数字を解くがよい。その数字とは人間を指すものである。そしてその数字は六百六十六である。」 一説には、ヘブライ語の計算法を用い、ギリシア語でネロン・ケーザルと綴ると666の合計になる。即ち、キリスト教を迫害した皇帝ネロとなる。
でも、ここの記事以外にも海外の類似記事を読むと、今知られているヨハネ黙示録の資料というのは、今回解読された資料より150〜200年以上後になってからの資料でこちらの方がより古い資料みたいです。あと、当時はキリスト教徒が迫害を受けていて、この資料も非常に政治的な文書であり、暗号が使われていたということみたいです。まあ、キリスト教徒虐待で有名なネロを表す数字と言われていますし、納得ですね!

後は、これが教会からどのように評価されるのか…? だいぶ先の話になるでしょうが、とっても&とっても興味深いなあ〜。

Beast's real mark devalued to '616' Revelation fragment(National Postより転載)

Satanists, apocalypse watchers and heavy metal guitarists may have to adjust their demonic numerology after a recently deciphered ancient biblical text revealed that 666 is not the fabled Number of the Beast after all.

A fragment from the oldest surviving copy of the New Testament, dating to the Third century, gives the more mundane 616 as the mark of the Antichrist.

Ellen Aitken, a professor of early Christian history at McGill University, said the discovery appears to spell the end of 666 as the devil's prime number.

"This is a very nice piece to find," Dr. Aitken said. "Scholars have argued for a long time over this, and it now seems that 616 was the original number of the beast."

The tiny fragment of 1,500-year-old papyrus is written in Greek, the original language of the New Testament, and contains a key passage from the Book of Revelation.

Where more conventional versions of the Bible give 666 as the "number of the beast," or the sign of the anti-Christ whose coming is predicted in the book's apocalyptic verses, the older version uses the Greek letters signifying 616.

"This is very early confirmation of that number, earlier than any other text we've found of that passage," Dr. Aitken said. "It's probably about 100 years before any other version."

The fragment was part of a hoard of previously illegible manuscripts discovered in an ancient garbage dump outside the Egyptian city of Oxyrhynchus. Although the papyrus was first excavated in 1895, it was badly discoloured and damaged. Classics scholars at Oxford University were only recently able to read it using new advanced imaging techniques.

Elijah Dann, a professor of philosophy and religion at the University of Toronto, said the new number is unlikely to make a dent in the popularity of 666.

"Otherwise, a lot of sermons would have to be changed and a lot of movies rewritten," he said with a laugh. "There's always someone with an active imagination who can put another interpretation on it.

"It just shows you that when you study something as cryptic and mystic as the Book of Revelation there's an almost unlimited number of interpretations."

The book is thought to have been written by the disciple John and according to the King James Bible, the traditional translation of the passage reads: "Let him that hath understanding count the number of the beast: for it is the number of a man; and his number is Six hundred threescore and six."

But Dr. Aitken said that translation was drawn from much later versions of the New Testament than the fragment found in Oxyrhynchus. "When we're talking about the early biblical texts, we're always talking about copies and they are copies made, at best, 150 to 200 years after [the original] was written," she said.

"They can have mistakes in the copying, changes for political or theological reasons ... it's like a detective story piecing it all together."

Dr. Aitken said, however, that scholars now believe the number in question has very little to do the devil. It was actually a complicated numerical riddle in Greek, meant to represent someone's name, she said.

"It's a number puzzle -- the majority opinion seems to be that it refers to [the Roman emperor] Nero."

Revelation was actually a thinly disguised political tract, with the names of those being criticized changed to numbers to protect the authors and early Christians from reprisals. "It's a very political document," Dr. Aitken said. "It's a critique of the politics and society of the Roman empire, but it's written in coded language and riddles."
 
【追記】
他人の事はさておき、ひとごとだと思っていたんですが、うちのブログのURLって「666」じゃん?! いったい、どーしてくれるんでしょう? 以前、カバラで誕生日が18日だったのを見てみたら、666を足した数で再生と破滅とか書かれていたのが記憶に残っていてこれにしたのに・・・。チェッ! うちのブログのURLも616に変えるか・・・ってオイオイ、そんな面倒なことしないって(爆笑)。

関連リンク
問題の写本があるサイト
Beast's real mark devalued to '616' National Postより
Revelation! 666 is not the number of the beast (it's a devilish 616) The independentより
Papyrus Reveals New Clues to Ancient Worldナショナル・ジオグラフィックより
ダ・ヴィンチ・コード用語集
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2005年04月26日

「法王の銀行家」殺害で4人起訴 CNN

「法王の銀行家」殺害で4人起訴  イタリア(CNNの記事より転載)
ローマ――ローマ法王庁とつながりが深く、「法王の銀行家」として知られた銀行頭取が変死体で発見され、法王庁とイタリア政財界を揺るがした1982年の事件について、イタリア司法当局はマフィア関係者ら4人を殺人罪などで正式起訴した。弁護士が18日、明らかにした。

ボルツォーネ弁護士によると、起訴されたのはマフィア関係者とされる実業家フラビオ・カルボーニと元恋人マヌエラ・クラインスツィッヒ、マフィア幹部ジュセッペ・「ピッポ」・カロとエルネスト・デイオタレッビの4被告。公判は今年10月に始まるという。同弁護士は、被告らの関与を否定している。

事件では1982年6月18日、法王庁系のアンブロジアーノ銀行のロベルト・カルヴィ頭取(当時62)の遺体がロンドンのブラックフライアー橋で見つかった。バチカンの資金管理を担当していたとされる同銀行が倒産した直後で、遺体は橋から首を吊った状態で発見された。スーツの上着やズボンのポケットには石やレンガ、偽造パスポート、複数の国の通貨で1万5000ドル分の紙幣が入っていた。

今回起訴されたカルボーニ被告はカルヴィ氏の友人で、同氏が死亡する直前に会っていたことが確認されている。

カルヴィ頭取の死亡直前、アンブロジアーノ銀行がいわゆる「バチカン銀行(IOR)」関連の複数のパナマ企業に出資した約13億ドルが行方不明となり、アンブロジアーノ銀行は倒産。バチカン銀行総裁の米国人マーチンクス大司教は、アンブロジアーノ銀行バハマ支店の代表でもあり、関与が取りざたされたが、バチカンも同大司教も関与を一切否定。一方で、銀行倒産の「道義的責任」は認め、株主に計2億5000万ドルを補償した。

以来20年以上にわたり、カルヴィ氏の死が自殺か他殺かで論争が続き、法王庁とマフィア、さらにはカルヴィ氏が所属したフリーメーソン系秘密結社「P2」との関係をめぐり、様々な疑惑が指摘された。

イタリア司法当局は当初、自殺説を主張したが、遺族は口封じのための他殺を主張。98年には遺体が墓から出されて検死をやり直した。この結果、イタリア司法当局は03年7月に、自殺の可能性は低いと断定し、ロンドン警視庁とイタリア当局は以来、捜査を再開。03年12月には、英国警察が42歳女性を司法妨害や偽証などの疑いで逮捕された。
さっきの記事と同内容だけど、少し詳しいかな?BBCにも書いてあったけど、これにだいたいまとめてあるね。しかし、改めて思うけど、世界は奇麗事では生きていけないんだね。ネットニュースを見てたら中国は相当水準の高い(=巧妙な)ネット上のフィルタリングを実施しているようだし(=実質、検閲)、アメリカ軍は非常に大規模なサイバー特殊部隊を持っているそうです。バチカンはコンクラーベに際して最新の諜報防止用のハイテク機器で防御してたらしいし…。

一般人は、傍観するのみですかね…。情報操作で踊らされるのだけは嫌だなあ。そういえば、学生時代に政府の年金諮問委員をされている教授が独白していたのを思い出す。年金が破綻しているのは明白なのに建前上、年金制度が維持できるかのような嘘をつくのは…と言ってたなあ〜。

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法王の銀行家 2002年の映画
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法王の銀行家 2002年の映画

ネットで先ほどの事件関係を調べていたら、な・なんと映画になっていました。よし、これは見なくては。ということでメモ。

しかし、こんなの映画でやっていたんですね。話題にならなかったような気がしますが…。私が知らなかっただけかな?無知な私。JFKとかより、個人的にこっちの方がはるかに興味があるんだけどなあ〜。

【補足】
これ、いつものぽすれんで借りようとしたら、無かった。レンタルしてないのかな?買うほど、気に入ってるわけでもないし、ちょっと見てみたいんだけどなあ〜。TUTAYAはどうかな???

法王の銀行家 映画のサイト(以下、転載)
フリーメーソンのメンバーで銀行頭取 今世紀最大の金融スキャンダルを完全映画化!

1982年6月18日金曜日、テムズ川北岸。アンブロジアーノ銀行の頭取ロベルト・カルヴィが首吊り死体となって発見された―。イタリア政財界の要人が名を連ねるフリーメーソンの支部P2のメンバーで、ポール・マルチンクス大司教が総裁を務めるヴァチカン銀行とも密接なつながりを持っていた彼の死は、一体なにを意味していたのか。その死は自殺だったのか、他殺だったのか―。銀行家として危険な橋を渡りながらも、愛する家族は巻き込むまいと必死で生き抜いたカルヴィの壮絶な最期をラストまで一気に作り上げたのは、『首相暗殺』『100日の凶弾』などの社会派作品で定評のあるベテラン監督ジュゼッペ・フェラーラ。その見事な手腕で、世界中を驚愕させた金融スキャンダルの実話を完全映画化した。大司教をはじめ、銀行家、マフィア、秘密情報機関、CIAなどが複雑に絡み合い、陰謀や策略が渦巻く権力の中枢で起こった事件の真相が、今、暴かれる。

アンブロジアーノ銀行頭取ロベルト・カルヴィは、教皇庁の複雑な金融のトリックのために不名誉なレッテルを貼られた金融業者シンドーナに取って代わり、金融界で権力を手に入れた。ヴァチカン銀行IORの庇護を受けたカルヴィは、アンブロジアーノ銀行の管理を、内密の政治的取引によって負債を抱えた外国の関連会社に秘密裏に譲渡した。しかしその違法活動に気づいた監査役のイタリア中央銀行は、カルヴィを執拗なまでに追い詰めていく。イタリア中央銀行の息のかかった裁判官や検査官はじわじわとカルヴィを追い詰めていた。対するカルヴィも自殺を試みたり、裁判官に偽証させるなど、様々な策略を駆使しながら必死になって銀行崩壊を避けようとしていた。しかし、IORは自らの地位が危うくなるとわかった瞬間に、無情にもカルヴィを見捨てる行動に出る。愛する家族と自らを危険から守るため、数々の脅迫を受けながらもカルヴィは国外へと逃亡。だが1982年6月18日金曜日、テムズ川北岸で、カルヴィは首吊り死体となって発見されたのだった…。

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法王の銀行家 ロベルト・カルヴィ暗殺事件(amazonリンク)
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2005年04月25日

「教皇の銀行家」殺害で4人を起訴

「教皇の銀行家」殺害で4人を起訴、の記事(世界キリスト教情報より転載)
 【CJC=東京】バチカン(ローマ教皇庁)とつながりが深く「教皇の銀行家」として知られた伊アンブロジアーノ銀行のロベルト・カルヴィ頭取が1982年6月18日、変死体で発見され、教皇庁とイタリア政財界を揺るがした事件について、司法当局はマフィア関係者ら4人を殺人罪などで正式起訴した。公判は今年10月に始まる見通し。
ふと、見てたらこの記事が! さきほど、秘密結社の本に書かれていた事件がこれですね。う〜ん、その背景は結局、闇のままなんですね。まさに闇から闇へってことでしょうか? 国際政治の裏側って怖い・・・。

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関連リンク(全てBBCの記事、20年前の殺人事件です)
Vatican banker 'was murdered'
Call for third 'God's banker' inquest
'God's banker' case re-opened
New inquiry in Italian banker's death
First UK arrest over Calvi murder
An end to the mystery of God's Banker?
Mafia squad probe Calvi bag theft
Four face trial over Calvi murder
Four charged over Calvi killing
posted by alice−room at 20:20| 埼玉 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月23日

イエスの兄弟の石棺は偽物 CBSニュースより

問題の石棺

さっきTBSのCBSニュースを見てて、おっ!と思った。

イエスの兄弟の名を刻んだ石棺(上の写真)が発見されて真贋論争が盛んだって話は、以前から何かの本で知っていたんですが、TV見てたらニュースでやるんだもん。必死になって見ちゃいました。確か、本か雑誌ではあの当時の名前でイエスというのはありふれているから、どこのイエスか分からないという結論だったんですが、果たしてこのニュースでは・・・・?

ニュースの内容を要約すると、
アラム語で”james、ヨセフの息子でイエスの兄弟”と文字(下の写真)が彫られた石棺が見つかり、な・なんと大々的に宣伝のうえ、公開されているそうです。石棺の年代測定とか何人かの調査では、イエスが生きていた同時代のものとされ、すわ、イエスを裏付ける証拠の発見か?と大騒ぎになっているとのこと。

偽物の文字

そこまではいいのですが、イスラエルの考古学的遺跡の調査を担当するお役所が調べてみると、どうやらそれは偽造だったらしく、その出所はある人物に行き当たったそうです。よくよく調べてみると、過去にも偽物を世界中の博物館に売り飛ばしていたそうで、彼の部屋には、年代測定を誤魔化すための、古代の木炭や緑青(サビ)、いかにも石棺がでそうな土地の土とかが発見されたそうです。石棺自体は確かに古くて当時のものらしいのですが、彫られた文字が偽物の可能性が高く、最終的にイスラエルの調査当局は、偽物と断定したとのこと。更に入手ルートは調査中みたい…。

いやあ〜いるもんですね。そういう人。ギャラリーフェイクも噛んでたら面白いのに・・・。でも、相当荒稼ぎしていたらしく莫大の利益を挙げていたそうです。昔、投資としての美術品市場を調べたことがありますが、あまりに不透明な価格付け(特に日本国内)で諦めておとなしく株式投資のみにした記憶が甦りますなあ〜。やっぱり、素人は手を出さなくて正解でした!

しかし、いつの時代も大衆は刺激を求め、それに応える興行主は儲かって笑いが止まらないですね。キリスト教における中世の聖遺物崇拝や仏教における即身成仏崇拝、日本の香具師が作って輸出されていた人魚の木乃伊(みいら)等々。私もローマの骸骨寺やカタコンベ、湯殿山まで行って即身成仏見てきたクチなんで、まさにそれだあ〜(自爆)。プラハの元ゴーレムがあるというシナゴーグ巡りも一緒だし・・・うっ、骨の髄まで俗物ですな、私って。

そうそう、ちなみにCBSの記事がありました。ここ!
Oh, Brother: Jesus Box Is A Fake(CBSより転載)
(CBS/AP) An artifact said to be one of the most important archaeological discoveries ever has turned out to be a fake.

The inscription "James, son of Joseph, brother of Jesus" on an ancient stone burial box caused a stir last year, reports CBS News Correspondent Robert Berger, because it was said to be the oldest reference to Jesus outside the Bible. But Israeli experts announced Wednesday that "the inscription is a forgery."

Gideon Avni of the Israeli Antiquities Authority said the box is authentic and dates back 2,000 years, but the inscription was forged in recent times.

"The inscriptions, possibly inscribed in two separate stages, are not authentic," the Antiquities Authority said in a statement.

"This forgery was done sometime in the last decades, maybe in the last years," he told CBS News.

The James inscription cut through the ancient limestone box's patina, a thin coating acquired with age, the experts said, proving the writing was not ancient.

Avni said the decision by the authority was unanimous.

In the Bible, Matthew 13:55 refers to James as Jesus' brother. He later became head of the church in Jerusalem, according to the New Testament.

Oded Golan, the Israeli owner of the ossuary, dismissed the officials' findings as "wrong."

However, Biblical language professor Avigdor Horowitz, who served on one of the investigating committees, said not one inscribed passage on the tablet was without a linguistic mistake.

"The person who wrote the inscription was a person who thinks in modern Hebrew," he told a news conference in Jerusalem. "A person thinking in biblical Hebrew would see it as ridiculous."

The Israel Antiquities Authority and the Jerusalem police launched separate investigations into the two items after Golan offered one for sale.

The Yoash inscription is a shoebox-sized tablet from about the ninth century BC inscribed with 15 lines of ancient Hebrew with instructions for maintaining the Jewish Temple in Jerusalem.

When it was first disclosed two years ago, it caused a stir in the archaeological world, with some experts calling it a rare confirmation of biblical narrative.

The existence of the James ossuary was revealed last November at a news conference in Washington by the Biblical Archaeology Review.

Israel Antiquities Authority head Shuka Dorfman said the ossuary itself was not examined because its authenticity as an ancient burial box was not in question. The practice of reburying Jewish remains ended around A.D. 70.

"The box is original; probably we have in our storeroom hundreds of the same or similar ossuaries. The inscription is false," he said.

The artifact had been valued at $1 million to $2 million, based on the claimed link with Jesus.

Golan said he bought the James ossuary in the mid-1970s from an antiquities dealer in the Old City of Jerusalem for about $200, but he said he could not remember the dealer's name.

However, antiquities inspectors, who have questioned several Old City dealers, were also checking suspicions Golan bought the ossuary only a few months ago. In such a case, those involved in the sale could be prosecuted for dealing in stolen goods.

The police investigation into how the box was acquired will continue regardless of the committee's findings.

Dorfman said the antiquities experts made a purely scientific examination of the artifacts, without trying to prove or disprove any allegations against Golan.
その他の関連情報として
キリストの実在裏付ける?「兄弟ヤコブの骨箱」発見、と米専門誌(世界キリスト教情報より転載)
 【CJC=東京】米専門誌『バイブリカル・アーキオロジー・レビュー(聖書考古学雑誌)』11〜12月号に、紀元63年ごろの石灰岩製の約50センチ×25センチの長方形の骨箱が見つかったとする専門家の研究結果が掲載された。パリ・ソルボンヌ大学の研究者アンドレ・ルメール氏がその人。

 イエス・キリストの兄弟で初期エルサレム教会の指導者とされるヤコブのものとみられるのは、骨箱にアラム語で「ヤコブ、ヨセフの息子、イエスの兄弟」と記されていること。兄弟に言及する例は異例で、その兄弟(イエス)が名を知られていたからだ、と推定される。また「ヤコブ、イエスの兄弟、ヨセフの息子」とあれば、記述順序から偽物とも判断されるが、そうでない所が本物の可能性を示すと言う。

 ただし、イエスという名の兄弟がおり、父親がヨセフという名のヤコブは、当時のエルサレム住民4万人の中で20人いたと推定されると言う。ただその骨壷の記されるほどの存在としてのイエスが複数存在したとは考えられず、兄弟と父親に言及しているもので発見された骨壷は他に1例だけだ、とルメール氏は指摘する。

 「ユダヤ人の歴史家ヨセフスが、ヤコブが殺されたのは紀元62年としているが、これも箱の記述と一致する」とはするものの、なお最終的な結論までには至っていない。
 骨箱は、15年前にエルサレムで約700ドル(約8万4000円)以下で骨董商が買い取ったもの。それをルメール氏が発見以来、様々な検討がなされ、今回の発表に至ったものだが、これまでその存在は秘密にされていた。

 同誌サイトは次の通り。
 http://link.crosswalk.com/UM/T.asp?A1.8.8570.2.211487。□

【補足】なんと、このイエスに弟がいたというデッチあげの話は、本にまでなっていました。ちょっとだけ読んでみたいかも?(ニヤニヤ)
イエスの弟―ヤコブの骨箱発見をめぐって(amazonリンク)

関連ブログ
「イエスの弟」ハーシェル シャンクス, ベン,3 ウィザリントン 松柏社
posted by alice−room at 03:38| 埼玉 ☁| Comment(3) | TrackBack(2) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月16日

googleのロゴがダ・ヴィンチですね!

毎日必ずと言ってもいいほど使ってますがこないのだはつまらなくて普通のがいいなあ〜っと思っていました。だ・け・ど、これなら、笑顔。たまには、こういうお遊びの心が欲しいですね!

これだけでは、ちょっと寂しいので一言メモ。キーワードでアラート設定しておくと、相当早く自分の関心のある事柄を見つけられます。RSSリーダーと合わせて使うとちょっとした情報通気取り(笑)。でも、実際は情報に追われているだけで処理できていなかったりする・・・現代病の一種かな???
da_vinci.gif
posted by alice−room at 01:37| 埼玉 ☁| Comment(4) | TrackBack(1) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月04日

使徒座空位と教皇選挙に関して(メモ用)

使徒座空位と教皇選挙に関して  カトリック中央協議会(以下、全文転載)


カトリック中央協議会 [トップ] [教皇関係]
※これは参考として訳したものです。 正式には教皇庁のページをご覧下さい。
教皇ヨハネ・パウロ二世
使徒憲章
UNIVERSI DOMINICI GREGIS 使徒座空位と教皇選挙に関して

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神のしもべたちのしもべ

司教 ヨハネ・パウロ二世

永遠の記念に


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 主の群れ全体の牧者はローマ教会の司教である。その教会において使徒ペトロは、神のご意志によって殉教し、血をもってキリストに最高の証を立てた。その「崇高さゆえに、あらゆる教会が一致しなければならない」使徒座の正統な継承は、いつの時代にも特別の関心の的であったことを理解するのは難しくない。
 実にこのゆえに歴代の教皇は、教皇特有の権利と同様に、後継者選出のために適切な規範を定めることを特殊の義務と考えた。それゆえ、最近もピオ十世、ピオ十一世、ピオ十二世、ヨハネ二十三世、そしてパウロ六世は、使徒座空位の時に教皇選挙という非常に重要で厳粛な任務が委ねられている選挙会を規定し、開催を準備し秩序正しくこれを進行させるために、それぞれの時の必要に答えて賢明かつ適切な規則を定めたのである。
 今日ここに私がこの問題を扱うのは、既存の規則を軽視するためではない。むしろ高く評価しており、原理原則の大部分は再確認する意向である。この規則に手を加えるよう私を駆り立てるものは、非常に変化した状況の中で教会は今、生きているという認識と、司教団の賛意を得て実現した、教会法と東方典礼教会法の出版による見直された教会法全体を念頭に置く必要があるという理由のためである。第二バチカン公会議によって提唱された教会法の見直しにより私は、使徒憲章『Pastor Bonus』をもってローマ教皇庁を相応しく改革することに力を注いだ。教会法335条に記され東方教会の47条に転記されていることは、いかなる理由によれ、使徒座が空位の場合は必要な調整をするための特別法を発布し、絶えずこれを刷新する義務を促がしているととれる。
 現代の必要を念頭におきながらも、新しい規律の作成に当たっては、今日まで続いた聡明で尊敬に値する路線を逸脱しないよう配慮した。
 事実たとえ教皇が、使徒座にペトロの後継者として召された人を選出する方式を決めるにあたり、時代の変化に適応するとはいえ、原則はそのまま残ることは明白である。まず、教皇を選挙する人々の団体に関して言うと、この団体は、千年来続く慣習として教会の厳格な規則によって定められ、現行の教会法でも明言している(教会法349C.I.C参照)ローマカトリック教会の枢機卿たちによって構成される。真に教皇の権能が、キリストから直接来るものであり、教皇は地上におけるキリストの代理者であるということが信仰の教義であるならば、教会における最高の権威は「正当な選挙により、司教の叙階とともに本人が受理する」ことによって与えられるというのは正しい。選挙を委ねられている団体の責任は非常に重大である。したがって神のみこころによって選ばれた人が、最高の職責をはっきり自覚して受諾するのに相応しい方式で選挙が行われるよう、選挙の規則は正確かつ明確でなければならない。
 千年来の教会の伝統を反映する現行教会法の規則(教会法349C.I.C参照)を確認すると同時に、教皇を選挙するのはローマカトリック教会の枢機卿団のみであることを断言する。彼らは教皇職の2つの特徴というべき側面を現している。まずローマ。なんとなれば教皇はローマにある教会の司教である。したがってローマの司祭と助祭の肩書きを持つ枢機卿に代表されるこの街の司祭たちおよび、ローマ郊外の司教枢機卿と緊密な関係で結ばれている。次に普遍教会の教皇。なぜなら群れ全体を永遠のいのちの牧場に導く目に見えない牧者の見える代理者であるから。教会の普遍性は枢機卿団が、各大陸の枢機卿によって形成されていることによってよく表明されている。
 現在、枢機卿団が全世界と、異なる文化的背景を持つ120人の枢機卿によって形成されていることで、教会の普遍性は十分反映されていると思える。選挙権を持つ枢機郷の最高数は120人であることを確認する。パウロ六世が定めた、使徒座空位の初日に満80歳を越えた枢機卿は選挙に参加しないという掟は、それらの枢機卿に対するいささかの敬意を欠くものではないことを明確にしながら、これを遵守する事を明言する。このきまりは、高齢な枢機卿に教皇選挙という重い任務からくる負担を与えないという理由によるものである。しかしだからといって80歳を過ぎた枢機卿であっても、後ほど記すように、準備のための枢機卿会議に出席することは自由である。この枢機卿団が使徒座空位と、特に教皇選挙の間、ローマの大聖堂や世界の国々の司教座聖堂で、神の民の指導者として、選挙者が神のみ前にあって「教会における最高の掟である霊魂の救い」だけを考えて選挙するよう、聖霊に熱心に祈ることを期待したい。
 古来のコンクラーベ制度に私は特別の注意を傾けてみた。ずいぶん多くの先任教皇がこれに触れている。注意深く歴史をひもとくと、それらの制度は状況に応じて出来たもので、徐々に法制化されていったが、同時に規則正しく敏速に選挙が行われるよう、特に緊張や混乱が支配する時代のために作られたことが証明されている。
 それゆえ、あらゆる時代の神学者や教会法学者が教皇選挙の有効性のために制度は必要ないと主張することを認識しながらも、私はこの憲章にも基本的制度をそのまま残すことを宣言する。しかし、今日の必要に適応するため、いくつかの変化をもたらす。とりわけ教皇選挙の全期間中、枢機卿および選挙に関係ある一切の仕事に従事する者は、バチカン市国内の適当な場所に居住するよう配慮した。たとえ小さくてもバチカン市国は、全教会にとって重要な行為のため、選挙者に必要な孤独と潜心を確保する環境を持っている。
 教皇選挙がもつ神聖な性格ゆえに、相応しい環境で、典礼が有効に行われ、選挙者が内的霊の動きを識別出来るよう、選挙はシスティーナ礼拝堂で行うこととする。礼拝堂はいつの日かみな、そのみ前に出なければならない神の現存に満ちている。
 使徒的権威をもって、直接、間接に選挙に関する一切のことに対して、厳重に秘密を守ることを命じる。しかしこれに関しても疑いや心配、良心的な問題を避けるために規則の簡素化を計った。
 最後に時代の変化や現代文化の方向性を念頭において、選挙の方法について見直す必要を感じた。枢機卿の数と出身地を考えると、全員の考えを理解するのは難しいと思えるので、発声による選挙方法を廃止する方がよいと考えた。同様に、委任による選挙法も廃止することにした。過去においては必要と思われて考案された規則だが、実際にこれを行うのは非常に難しいばかりか、個人が意志表明することがないので責任逃れを生み出す恐れを考慮してのことである。
 熟考の末、教皇選挙は秘密投票のみにしぼるという結論に達した。以下にこれに関する規則を詳細に紹介する。この方法は実に教皇選挙のための明白さ、単純さ、透明性、とりわけ効果性と枢機卿全員の積極的な参加が保証される。
 以上のような意図で、この使徒憲章を発布する。憲章には、使徒座が空位になった時、教会の可視的頭、神の僕の僕であるペトロの後継者を選挙する権利と義務を有する枢機卿たちが、厳重に守らなければならない規則、規範が述べられている。

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第一部

使徒座空位

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第一章
使徒座空位期間の枢機卿団の権能

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1.使徒徒座空位の期間中、枢機卿団は、生存中の教皇が扱う問題に関する一切の職権も司法権も持たない。これらの問題は、すべて新教皇に委ねられる。この憲章に定められている範囲を越えて枢機卿団が教皇に委ねられている権限を行使しようと判断した場合、すべては無効であることを宣言する。
2.使徒座空位の間は、通常かつ延期出来ない事務と、教皇選挙に必要なことに関してのみ枢機卿団に委ねられる(n。6参照)。これは、本憲章の規定に基づいて行われなければならない。したがって、いかなる理由によっても、教皇の権限にのみ属することを行ってはならず、教皇選挙に関して本憲章に規定されている以外のことを行ってはならない。
3.なお枢機卿団は、いかなる方法によっても、使徒座とローマ教会の権限を随意に決したり、教皇の死後、不和を解消するため或いはこれらの権威に反対する行為を追求するためであっても、直接、間接にこれを喪失させることは出来ない。これらの権威を擁護することこそ枢機卿団の義務である。
4. 使徒座空位の間、教皇が公布した規則を、いかなる理由や方法によっても、訂正し、更新することは出来ず、また、特に教皇選挙に関して、何かを加筆、削除したり、あるいは一部分を免除することは出来ない。もしこれらのことが行われるなら、私は最高権威に基づいて、その無効を宣言する。
5.この憲章に含まれている規則や実行方法に疑問が生じた場合は、教皇選挙を除く問題であるなら、これを解釈し、必要な場合は決定を下す権限を枢機卿団に与え、その判断に委ねる。出席している枢機卿の多数の意見が一致していれば、それで十分である。
6.また多数の枢機卿が延期不可能と判断する問題が生じた場合、枢機卿団は多数の合意のもとに処理することが出来る。

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第二章
教皇選挙にそなえての枢機卿会議

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7 使徒座空位期間の枢機卿会議には、全体会議と特別会議の二通りがある。
@ 全体会議は:使徒座空位の通知を受けた時から、正当な妨げのない枢機卿は全員出席しなければならない。選挙に入るまで続く。80歳以上の枢機卿は参加自由。
A 特別会議は:ローマ・カトリック教会のカメルレンゴ(財政係)と他に3人の枢機卿(アシスタンスとよばれる)が参加する。3人の枢機卿は、ローマに到着した枢機卿の中から抽選で決める。この3人の任務は3日間で、3日が過ぎたら再度抽選できめ、選挙が始まっても同じ形式で続けられる。

 選挙の期間に特に重大な問題は、全体会議で取り扱われ、通常の問題については、特別会議が扱う。全体会議と特別会議において枢機卿は、黒のスータンを着用し、緋色の帯を締め、ベレッタ(角帽)をかぶり、胸の十字架と指輪をつけること。
8 特別会議では日々、あるいはその時々に通常のことだけを扱う。もし重大なことが起きた場合は、全体会議に委ねる。ある特別委員会が決めたり、解決したこと、また拒否したことを、他の特別委員会が取り消したり、変更したり、受諾することは出来ない。これらのことは全体会議の多数決をもってのみ行うことが出来る。
9 枢機卿の全体会議は、通常バチカン宮殿で行うが、状況によって枢機卿たちが他の場所の方を選ぶ場合は他の場所でする。全体会議の議長は首席枢機卿が務め、欠席や正当の理由で出席出来ない場合は、次席枢機卿が代理を務める。2人とも欠席の場合は枢機卿歴の最年長者が議長を務める。
10 枢機卿会議中、重大なことに関しては口頭ではなく、秘密投票を行う。
11 選挙前の枢機卿たちの準備会議は、ローマカトリック教会のカメルレンゴと3人の枢機卿が定めた日から、毎日開かれる。教皇の葬儀が行われる期間にも会議は開かれること。これはカメルレンゴが皆の意見を聞いたり、必要かつ有益と思われるコミュニケーションをすることが出来、また参加者の方では問題を提起したり、疑問を解決したり、提案を行うことが出来るためである。
12 全体会議の初めに、本憲章を各枢機卿に配り、中に書かれている規範についての意味や実践方法について質問をする機会を与えること。また使徒座空位に関する箇所を読むことが勧められる。その際枢機卿は全員、憲章に含まれている規則と秘密を厳守することを宣誓しなければならない。遅刻して途中から参加する枢機卿もこの宣誓をする必要がある。現憲章n9に規定されているとおり、他の枢機卿も出席のもと、首席枢機卿か他の枢機卿が以下の宣誓文を読み上げる。
 私たちローマカトリック教会の枢機卿は全員、教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒憲章『Universi Dominici Gregis』(ウニベルシ)の中に含まれているすべての規則を正確かつ忠実に遵守し、教皇選挙に関する一切のこと、または使徒座空位の間のことで秘密を要求されることについては厳重に秘密を守ることを誓います。
 その後枢機卿は1人ずつ、私…枢機卿はこれを義務とし、固く守ることを約束することを誓いますと宣誓し、福音に手を置き、神と今触れるこの福音が私を助けてくださいますようにと結ぶ。
13 これに続く会議で枢機卿団は、規定のプログラムに従い、教皇選挙に関する緊急事項を決める。つまり:
A. 信徒たちの弔問に付すために教皇の遺体を聖ペトロ大聖堂に移す日時と方法。
B. 亡くなった教皇のために、9日間続く死者の祈りに必要な諸事項とこれをはじめる日を、特別の事情がない限り、死後4日から6日の間に埋葬が行われるよう配慮すること。
C. 国務庁長官であったカメルレンゴとバチカン市国委員会の議長を務めていた枢機卿によって構成される委員会が、到着した有権枢機卿たちが宿舎サンタ・マルタ館に早く落ち着くことが出来、また本憲章46条で定めている他の人たちが適当な場所に宿泊出来るように、またシスティーナ礼拝堂のミサや選挙の準備を整えるよう速やかに対応すること。
D. 確固とした教義に裏付けられ、学徳に優れ、倫理性に秀でていて、信憑性のある2人の聖職者に、教会が現在直面している問題についてと、照らされた選挙が出来るよう2つの黙想を依頼する。その際、最初の黙想をする日時を決める。
E. バチカン市国政庁が提出する教皇の死から次期教皇選出までにかかる費用を承認する。
F. 教皇が枢機卿団に書き残した文書がある場合はそれを読み上げる。
G. 漁夫の指輪と使徒的書簡に捺印するために使われた鉛の印を破棄する。
H. 抽選で枢機卿たちの部屋を決める。
I. 選挙を開始する日時を決める。


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第三章
使徒座空位期間の職務について

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14 使徒憲章『Pastor Bonus』6に規定されているように、教皇の死によって、国務庁長官をはじめローマ教皇庁諸省の長官、議長はみな職務から解かれる。カメルレンゴと内赦院長だけはこの限りではなく、通常の業務を続け、教皇に提示すべきであったことは、枢機卿団に提示する。
 ローマの司教も使徒座空位の期間職務から解かれない。同時に聖ペトロ大聖堂首席司祭枢機卿とバチカン市国総代理枢機卿も司法権を保持する。
15 教皇が死亡した時或いは後継者が選出される前にローマ教会のカメルレンゴか内赦院長が欠員の場合、枢機卿団は選挙前の出来るだけ早い時期にこの任にあたる枢機卿を選出しなければならない。いずれの場合も出席枢機卿全員で秘密投票を行う。儀式係が投票用紙を配り、記入後これを集め、カメルレンゴと3人の枢機卿の前で開く。選挙された枢機卿は職務の全権を受ける。
16 使徒座空位の間にローマの司教が死去した場合は、現職の代理司教が、代理司教としての通常裁治権の他に枢機卿の権限をもって職務する。総代理司教が欠員の場合は補佐司教がこれに当たる。
17 ローマカトリック教会のカメルレンゴは、教皇死去の知らせを受けたら直ちに教皇庁儀典長、高位聖職者、秘書官、教皇庁会計院書記官の立ち会いのもとに、公に教皇の死を確認しなければならない。会計院書記官は死亡証明書に必要事項を記入して、これを作成する。カメルレンゴは教皇の書斎と居室を封印する。埋葬の後居住館全体が閉鎖されるが、それまでのあいだ教皇が居住していた館に常住していた人が住むように配慮する。ローマの司教と聖ペトロ大聖堂首席枢機卿に教皇の死去を通知する。ローマの司教は市民に訃報を告げる。聖ペトロ大聖堂首席枢機卿は、自分で或いは代理人によってバチカン、ラテラノ、カステルガンドルフォの宮殿を管理する。死去した教皇が遺言を残していない場合、3人の補佐枢機卿の意見を聞いて教皇の埋葬について決める。使徒座空位の期間、聖座の財産を管理し権威を守るのはカメルレンゴの使命である。
18 内赦院長とその職員は空位の間1935年3月25日ピオ十一世の使徒憲章『Pastor Bonus』によって定められ、私が確認した事項に関してのみ行為する。
19 枢機卿団の首席枢機卿は、カメルレンゴか教皇館長官から教皇死去の知らせを受けたら速やかに世界中の全枢機卿に通知し、枢機卿会議を招集する任務を帯びる。同様に、バチカン駐在の各国外交官、及びそれぞれの国の元首にも教皇の死亡を通知する。
20 教皇空位の期間、バチカン国務庁次官、国際関係評議会秘書、ローマ教皇庁諸省秘書官はそれぞれの省庁の責任をとり、枢機卿団の質問に答える。
21 同様に、教皇特使などバチカンの外交官も職務と権限を保持する。
22 教皇付き施し物分配担当者も教皇生存中の基準にしたがい、任務を続行する。新教皇選出までは、枢機卿団のもとにある。
23 使徒座空位期間、教皇のバチカン市国の統治権は枢機卿団に属する。しかし枢機卿団は、緊急を要する場合以外市国令を公布することは出来ない。また公布した場合、新教皇が認可しない限り、新教皇選出と共に効力を失う。

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第四章
使徒座空位期間の教皇庁諸省の権限

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24 空位期間、本憲章26条に規定してある以外は、全体会で扱う事項や教皇のみが長官、議長、秘書官などに与えられる権利を行使することは出来ない。
25 これに反し、各省庁の通常権はそのまま行使される。しかし、重大なもので延期可能なものに関しては、新教皇の選出を待たねばならない。延期出来ないものに関しては枢機卿団が、教皇死去まで長官を務めた枢機卿或いは議長の大司教に委ねることが出来る。
26 大審院の最高法廷と控訴院の法廷は、規則にもとづいて憲章 『Pastor Bonus』18条1、3に規定していることを遵守しながら裁判を続行する。

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第五章
ローマ教皇の葬儀

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27 教皇の死後枢機卿たちは、ローマ教皇葬儀の式次第に忠実にしたがって、教皇の冥福のため9日間の祈りを捧げる。
28 遺体が聖ペトロ大聖堂に埋葬される場合、証明書は聖ペトロ大聖堂参事会の公証人か、正式な記録保存係が作成する。カメルレンゴと教皇宮殿長の各代理が、教皇庁会計院のメンバーと教皇宮殿のメンバーが埋葬を確認出来るよう、それぞれの前に証明書を提示する。
29 教皇がローマ以外の地で死去する場合は、遺体を丁重にバチカンの聖ペトロ大聖堂に移す。このために必要な一切は枢機卿団が考慮する。
30 何人といえども、病臥する教皇と死去した教皇の写真を撮り、言葉を録音してこれを再生することなどは厳禁する。教皇の死後、証拠写真を撮りたい人は、ローマ教会のカメルレンゴ枢機卿団の許可が必要。しかし教皇服を召された後の撮影のみが許可される。
31 教皇の埋葬後と選挙の期間中、だれも教皇宮殿に居住することは出来ない。
32 教皇が遺言書、または私的書簡を残し、遺言相続人を指名している場合、教皇の個人的財産と書き物の処理はその者が行う。この人は処理したことについて、新教皇にだけ報告する。

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第二部
ローマ教皇の選挙

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第一章
ローマ教皇を選挙する人

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33 教皇の選挙権はローマカトリック教会の80歳未満の枢機卿にのみ属する。選挙者数は120人を越えてはならない。教会のいかなる高位聖職者も選挙権を持つことは出来ないし、いかなる世俗権威も選挙に干渉することは出来ない。
34 ローマ或いは他の場所で公会議、またはシノドスの開催中に使徒座が空位になった場合、教皇選挙は公会議やシノドスではなく、有権枢機卿によってのみ行われる。従って選挙に関する規則や有権者を変更する行為は一切無効であると宣言する。公会議やシノドスは使徒座空位の通知を受けた時点で即刻、中止されねばならない。いかなる集会や会議をすることも、また文書を作成したりすでに準備されたものを発表することも禁じられている。もしこのような行為をした場合、それは無効となる。いかなる理由のもとにも、たとえ重大な理由であろうとも、新教皇が継続或いは再開を命じない限り、公会議もシノドスも中断される。
35 本憲章40条を遵守しながらも有権枢機卿は、いかなる理由あるいは口実のもとにも選挙、被選挙から除外されることはない。
36 枢機卿会議が開かれる前に任命され、公表された聖なるローマ教会の枢機卿は、たとえまだベレット(枢機卿帽)と指輪を授与されず、宣誓をしていなくても、すでに教皇の選挙権を有する。しかし教会法的または教皇の同意を得て枢機卿職を放棄した者はこの権利を持たない。使徒座空位期間に枢機卿団は、上のような枢機卿を復職させることは出来ない。
37 教皇選挙のためには、使徒座が空位になってから15日間待たねばならない。重大な理由がある場合、数日これを延ばすことは、枢機卿団の判断に委ねる。しかし20日を過ぎない内に選挙をはじめなければならない。
38 教皇選挙のために首席枢機卿または首席代理枢機卿によって召集されたすべての枢機卿は、従順によって指定された場所に行かねばならない。病気、または他に重大な障害があり、枢機卿団からそれを承認された場合はこの限りではない。
39 遅れて到着する枢機卿は、選挙前ならその時点から選挙の準備に参加することが出来る。
40 有権枢機卿が、医師が診断を誓い、大多数の枢機卿が承認した病気がないにもかかわらず、選挙のためにバチカンに入ることを拒み、義務の遂行を免れようとするなら、他の枢機卿は、その人を待つことなく選挙を進めることが出来る。もしある枢機卿が病気のためにバチカンを出なければならない場合、その人の投票なしでも選挙することが出来る。しかし病気が回復し、選挙会場に戻りたい場合は受け入れなければならない。
 枢機卿の多数が認める重大な理由のためにバチカンを出た枢機卿は、再びバチカンに戻って選挙を続けることが出来る。

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第二章
選挙会場と、職務のため入場を認められる者

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41 教皇選挙のためのコンクラーベは、バチカン市国内の所定の場所で行われ、有権枢機卿および選挙が順調にいくように正式に協力を求められた人たちが安心して日を過ごすことが出来るように、外部の人たちから遮断される。
42 選挙が始まる時には、枢機卿全員が、近年バチカンに建築されたドームス・サンタ・マルタ(聖マルタ館)に、ふさわしい宿泊の場を割り当てられ、確保されなければならない。
病気のために選挙期間中も介護を必要とする枢機卿のためには、該当する枢機卿会が前もって認めたなら、付き添いの看護士にも適当な宿泊所を提供しなければならない。
43 選挙過程開始から新教皇の公式発表までの間、ドームス・サンタ・マルタと、特にシスティーナ礼拝堂、および典礼に使用される他の場所は、カメルレンゴ枢機卿の権限に基づき、また外部からは国務省次官の協力を得て、以下に列記される人以外立ち入りが禁止される。
 バチカン市国全域と、市国内にあるオフィスは通常の仕事を続けるが、この期間中は教皇選挙に関することが慎重かつ自由に行われるよう、気を配らねばならない。特に枢機卿たちがドームス・サンタ・マルタ(聖マルタ館)からバチカン宮殿に移動する間、だれも近づけないように配慮する必要がある。
44 枢機卿は、選挙が始まってから、教皇が選出され、公式に発表されるまで、外部の人との手紙や電話その他の手段によるコミュニケーションを控える。特別委員会から認められた重大かつ緊急事の場合はこの限りではない。
45 以下の46条に記されていない人、また43条により正当な理由でバチカン市国内にいる人が、選挙期間中に偶然有権枢機卿に出会ったとしても、理由や形式のいかんを問わず言葉を交し、立ち止まって相対する事は厳禁される。
46 枢機卿たちの個人的必要や、選挙事務局の必要に応じられるよう、選挙会の秘書を務める枢機卿団秘書官、教皇庁儀典長と2人の儀式係、香部屋係の2人の修道者、および首席枢機卿あるいは代理枢機卿を補佐する聖職者は、本憲章43条が示す相応しい場所に居住しなければならない。
 この他、告白のために種々の言語を話す司祭と、緊急事に対処出来るよう、2人の医師が常時待機しなければならない。
 食堂と清掃にあたる人も、適当な人数を揃えられなければならない。
 以上の人々は、事前にカメルレンゴ枢機卿と3人の補佐枢機卿の承認を得る必要がある。
47 本憲章46条に記されているすべての人は、理由や時を問わず、直接あるいは間接に選挙に関して、とりわけ投票に関して知った場合、有権枢機卿以外の人にこれを口外することは絶対に禁じられている。このため以下に記す誓願文によって宣誓しなければならない。
48 本憲章46条に記されている人は、宣誓の意味と重要性について勧告を受けた後、適当な時にカメルレンゴ枢機卿、あるいはその代理の前で、2人の儀式係の立ち会いのもと、以下の宣誓を行い、署名しなければならない。
 私…(名前)は、直接あるいは間接に、教皇選挙に関する一切のこと、特に投票に関しては、選出された教皇或いはその後継者から特別の権限を明確に賦与されない限り、選挙団以外の人には永遠に秘密を厳守することを約束し、誓います。
 同じく、選挙の期間にバチカン市国内で繰り広げられること、とりわけ直接、間接に選挙に関することに対して録音したり、視聴覚用の器具一切の使用を絶つことを約束し宣誓します。
 この宣誓によって、これを犯した場合、新教皇が定める精神的かつ教会法的制裁(教会法1399)が私に課せられると自覚していることを宣言します。
 神と、今手を置く福音が、私をまもってくださいますように。


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第三章
選挙開始

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49 死去した教皇の葬儀を規定通りに済ませ、選挙の準備が出来たら、規定の日(教皇死後15日から20日の間)に、枢機卿たちは、バチカンの聖ペトロ大聖堂、あるいは必要に応じて他のところに集まり、「教皇選挙のためのミサ」を捧げる。以下に規定されていることを午後に行うことが出来るよう、ミサは出来るだけ午前中の適当な時間に行うべきである。
50 有権枢機卿は、午後の相応しい時間に使徒宮殿のパウロ礼拝堂に集合し、そこから聖霊の助けを求めるために「聖霊来たりたまえ」の歌を歌いながら、選挙会場であるシスティーナ礼拝堂まで行列する。
51 コンクラーベの本質的要素を守りながらも、選挙の本来の目的には関係のない付随的な部分を変更し、本憲章の以下に続く条項に規定される教皇選挙は使徒宮殿のシスティーナ礼拝堂内で行うよう定める。したがって教皇選挙に関して直接あるいは間接的に言及され、または行われたことの秘密が絶対に守られるよう、システィーナ礼拝堂は、教皇選挙の間、そのためだけに使用される。
 選挙が規則正しく行われ秘密が守られるよう、システィーナ礼拝堂とその周辺を事前にきちんと整えるのは、カメルレンゴと特別委員会(7参照)の権限と責任のもとに働く枢機卿団である。これには国務庁次官の外部からの協力を得る。
 会場とその週辺に外部に通じる視聴覚の制作・通信機器が設置されていないか、信仰心の厚い専門技師の助けを借りて厳しくコントロールしなければならない。
52 システィーナ礼拝堂に入ったら、まだ行列に参加した人々がいる前で、枢機卿たちは50条にもとづき以下の手順に従って宣誓する。
 本憲章9条にもとづき、首席枢機卿か最年長の枢機卿が宣誓文を声高に読み上げる。その後各枢機卿は、福音書に手を置き次の条項に示されている通りに宣誓する。
 最後の枢機卿が宣誓した後、教皇庁儀典長が「Extra Omnes」(全員退場)を告げ、コンクラーベに関係のない人はみな、システィーナ礼拝堂を去らなければならない。
 聖堂の中には儀典長と、13条dに基づいて選ばれ、枢機卿団に今から行おうとしている使命の重大さと、普遍教会の善益のために正しい意向をもって行為するよう、2回目の黙想をする聖職者だけが残る。
53 前条に記されている通り、首席枢機卿あるいは最年長の枢機卿が以下の宣誓文を読み上げる。
 「教皇を選挙するためここに集まった私たち有権枢機卿は、全員としても個人としても、1996年2月22日に発布された教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒憲章 『Universi Domini Gregis』に含まれているすべての規則を忠実に厳守することを約束し、誓います。同様に、神のご意志によって教皇に選ばれた者は誰であれ、普遍教会の司牧を忠実に果たし、また聖座の霊的・現世的権利および自由を擁護することを誓います。更に教皇選挙に関しては、会場で起こるあらゆることについて、とりわけ投票と直接・間接にその結果に関して絶対に秘密を守ることを誓います。新しい教皇の選挙中もその後も、新しい教皇が明白な許可を与えない限り、この秘密を漏らさないこと、また、あらゆるレベルの世俗権力や圧力グループ、反対勢力、ローマ教皇選挙に関与したい個人の介入などに左右されないことを誓います」。

この後枢機卿たちは、親任年順に以下のように宣誓する:
 「私…枢機卿は約束し、これを義務として負うことを誓います」。
そして福音の上に手を置いて、
 「神と今手を置く福音書が私を守ってくださいますように」。

54 黙想の説教を終えた聖職者は、儀典長と共にシスティーナ礼拝堂を出る。式次第に規定されている祈りを唱えた後、首席枢機卿(或いは代理者)が、枢機卿団に、選挙に入る準備が出来ているか、あるいは本憲章が定める規則や方法に関してまだ疑問があり、はっきりさせる点があるか否かを尋ねる。しかし全員がそれに賛意を表明したとしても、選挙の本質に関しては変更することが出来ない。
 枢機卿の大多数が異義を唱えないなら、本憲章の規則に基づいて直ちに選挙に入る。

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第四章
教皇選挙に関する一切のことに対する秘密の遵守について

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55 カメルレンゴ枢機卿と、一時的に選ばれた3人の補佐枢機卿は、選挙が行われるシスティーナ礼拝堂と、その週辺で行われることについて選挙前、選挙中、選挙後に何事も異常がないよう厳重に警戒する義務がある。
 信用出来る2人の専門技師の助力を得て、選挙会場内に撮影、通信用の視聴覚器材などが設置されていないよう、秘密厳守には配慮すること。
 これに反する行為をした場合、新教皇から重大な罰が課されることを認識しておくこと。
56 選挙期間中、枢機卿は、枢機卿専用の宿舎に正当に宿泊する権利のない人と文通をしたり電話や通信で対話することを禁じられている。
第7条に記されているように、枢機卿の特別委員会が承認した、重大で緊急な事情のあることに限り、対話が許される。
57 同様に、正当な許可のもとにバチカンに居住する人を通してバチカン市国外にメッセージを送ったり受け取ってはならない。特に教皇選挙の期間枢機卿は、新聞や雑誌を受けたり、ラジオ・テレビの放送を聞くことは禁じられている。
58 本憲章46条に基づいて奉仕のために呼ばれた人が、直接或いは間接に言葉、文字、絵などを使って秘密を漏らすことが出来たとしても、それは絶対に避けなければならない。さもなければ、使徒座に保留されている破門の罰(latae sententiae)に処せられる。
59 特に有権枢機卿が、直接あるいは間接に投票に関する情報、また教皇選挙について選挙前、中、後の枢機卿会議で扱われたり決定されたことを他人にもらすことは禁じられている。この義務は、第7条の規定によって全体会議に参加する非有権枢機卿にも適用される。
60 枢機卿たちは、教皇から特別、明示的権限を与えられない限り、新教皇選挙に関する一切のことに関して、選挙終了後も、重大な良心的義務のもとに、秘密を厳守することを命じる。
61 更に枢機卿たちに圧力をかけたり、判断を強制し、また決定の自由を妨げるような他人の横暴さや策略から枢機卿たちを守るために、音声や映像、文章を録音(画)、再生、伝達する機器を選挙会場に持ち込んだり、もし既にあるなら、これの使用を厳禁する。

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第五章
選挙

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62 発声と妥協による選挙方法が廃止されたので、今後教皇選挙は投票による方法だけとなる。
 選挙の有効性のためには有権者数の3分の2の得票が必要である。
 出席者数が3等分出来ない場合は、1票を加算する。
63 本憲章第54条の規定を果たしたら、直ちに選挙に入る。
 選挙が1日目の午後に始まるなら、その日は1回だけ無記名投票する。2日目以降は、午前2回、午後2回ずつ無記名投票を行う。選挙は、前もって定められた時間に始められなければならない、枢機卿準備委員会或いは選挙期間に定めた時間に始め、本憲章第64条以下が規定する方式に従い。
64 選挙には3段階ある。第1段階は選挙の準備である。(1)儀式係は各枢機卿に2、3枚の投票用紙を配る。(2)抽選で、開票係3人、一時的に病人係と呼ばれる病気で会場に出席出来ない枢機卿の投票を回収する係3人、審査係3人を決め、助祭枢機卿の最後の人が9人の名前を読み上げる。(3)病人係と審査係に、健康状態が優れず任務を遂行出来ない枢機卿の名前があげられた時には、別の人が選ばれる。
65 投票のこの段階では以下のことを守る。(1)投票用紙は長方形で上半分に「私は教皇に選挙する」(Eligo in Summum Pontificem)と印刷してあり、下半分は選挙人が被選挙者の名前を書き込めるように空白になっており、2つ折り出来るようになっていること。(2)用紙の記入は個人的に秘密に行う。出来るだけ記入者がわからないように書き、1人の名前だけを書き込む。2人以上の名前が記入してある投票は無効になる。用紙は4つ折りにする。(3)投票の時は枢機卿だけがシスティーナ礼拝堂に残る。したがって、用紙を配布し終わったら、記入が始まる前に枢機卿団秘書、儀典長、儀式係は会場を出なければならない。彼らが退場したら1人の枢機卿が扉を閉める。そして、たとえば病人係が会場を出入りするような場合、必要に応じてその都度、開閉する。
66 第2段階は、実際に投票とよばれる部分で、次のことを含む。(1)用紙を投票箱に入れる。(2)よくそれを混ぜ、数を数える。(3)開票する。枢機卿は記名を済ませたら投票用紙の折り目をよく見えるように高く上げ、順位に従って祭壇に向かう。祭壇の側には開票係がおり、祭壇上には皿のようなもので覆われた投票箱がある。枢機卿は、祭壇前で以下のように宣誓する。
 私が、神のみ前にあって選ばれるべきと判断した人に、私の票が正しく投じられたことをあかししてくださいますよう、私は主キリストを呼び求めます。

 それから用紙を皿の上に置き、これを斜めにして箱の中に入れる。入れ終わったら、祭壇に一礼して自分の場所に戻る。
 病気のために祭壇に行けない枢機卿がいる場合、開票係の1人が彼のところに行き、宣誓をしたことを前提に用紙を受け取り、見えるように高く上げて最壇に行き、宣誓はせず用紙を皿にのせ、投票箱入れる。
67 本憲章41条に記すように、病気のため自室に残った枢機卿がいる場合、3人の病人係の枢機卿が、用紙を入れるため穴が上にある箱を持ってその枢機卿を訪れる。開票係の枢機卿は、箱が空であることを全員が認めることが出来るように、箱を病人係に手渡す前に皆の前で開き、閉めてから鍵を祭壇の上に置く。
 病人係は適当数の投票用紙を盆にのせ、枢機卿の宿舎であるサンタ・マルタに行く。病人は、用紙を受け、秘密裡に投票し、箱に入れる。書くことの出来ない枢機卿は、病人係かあるいは自分が選んだ枢機卿が、病人係の前で秘密を守ることを誓ってから用紙に記名する。その後病人係の枢機卿は箱を聖堂に持って行く。開票係は全員の枢機卿が投票を済ませた後これを開け、病人の数に合致するかを調べてから一票ずつ皿の上に置き、全部一緒に投票箱の中に入れる。投票があまり長くならないため、病人係は、最初の枢機卿が票を箱に入れた後、すぐに自分の投票用紙を箱に入れ、他の枢機卿が投票している間に病人の票を回収に行くことが出来る。
68 全員の枢機卿が投票用紙を箱に入れ終わったら、第1の開票係が何回も箱を振り、よく混ぜる。それから最後の開票係がよく見えるように1枚ずつ箱から出し、もう1つの箱に入れながら数を数える。もし用紙の数と選挙者数とが合致しない場合、用紙は焼却され、再び投票を行う。数が合致する場合は開票に進む。
69 開票係は祭壇の前に準備された椅子に掛ける。第1開票係が1枚用紙を取り出し、名前を確認してから第2の開票係に渡す。2番目の人も同じように名前を確認してから3番目の人に渡す。3番目の開票係は、名前を確認してから、選挙者たちが配られている用紙に得票数を書き込むことが出来るよう、はっきりと名前を読み上げる。開票係も読み上げた名前をメモする。開票のときに、同一人物が書いたと思える2枚の用紙が折られている場合、名前が同じなら1人として数えられ、2人の違う名前の場合は、2枚とも無効になる。
 開票が終了したら、開票係は名前ごとに得票数を合計し、別の用紙に書き込む。最後の開票係は、名前を読み上げた後、用紙を確実に保存出来るよう、「選挙する」という文字のところに針をあて、糸で綴る。開票が終わった、らこの糸の両端をくくって箱の中に入れるか、祭壇の上に置く。
70 次に「投票後の行為」(post-scrutiny)と呼ばれる第3段階に入る。(1)投票の集計(2)票の検査(3)用紙の焼却、がある。
 開票係は各人の票を集計する。3分の2の得票者がいない場合、教皇は選出されなかったことになる。もし3分の2の得票者がいれば、会法的に教皇が選出されたことになる。
 教皇が選出されたか否かにかかわらず、開票係が忠実に任務を果たしたかどうかをみるため、審査係は開票係が扱った票とメモを検査する。
 審査が終わり、最初の枢機卿がシスティーナ礼拝堂を去る前に、枢機卿団秘書と儀式係が会場に呼び入れられる。開票係はこの人たちの助けを借りて、投票用紙を焼却する。しかし、続いて2回目の投票に移る場合は、1回目の投票用紙は2回目の用紙と一緒に焼かれる。
71 秘密が厳守されるよう、 選挙者は投票の結果について書いたものがあれば、投票用紙と一緒に焼かれるため、カメルレンゴか3人の補佐枢機卿の1人に預けることを命ず。
 選挙の終わりにあたってローマ教会のカメルレンゴ枢機卿は、それぞれの投票の結果を含む報告書を作成し、三人の補佐枢機卿の承認を得る。報告書は一枚の封筒に入れ、封印し教皇に手渡され、特別の記録保存所に保管される。この報告書は教皇の明示許可がない限り、だれも開封することは出来ない。
72 私は先任教皇であるピオ10世、ピオ12世、パウロ6世が定めたように、コンクラーベ初日の午後を除き、毎日午前も午後も、一回目の投票で教皇が選出されない場合は、引き続き2回目の投票に入ることを定める。2回目の投票は、1回目と同じ方式による。ただし再び宣誓したり、開票係、病人係、審査係を再選する必要はない。1回目の人が任務を続行する。
73 上に規定されていることは毎日、午前と午後、コンクラーベ式次第に規定されている儀式或いは祈りを唱えた後に行われる投票において、厳密に遵守されなければならない。
74 本憲章62条以下の規定に従って行われる選挙が3日続いても教皇が選挙されず選挙が難航する場合は、祈ったり、選挙者同士のあいだでの意見交換、助祭枢機卿による講話を聞くために1日選挙を休む。その後同じ方法で選挙をし、7回投票しても結果をみない場合、祈り、意見交換、講話のためにもう1度休みを取る。投票を再開し、7回投票しても教皇が選出されない場合は、同じように休みをとる。そして投票を開始し、また7回繰り返す。
75 前条の規定に従っても結果が出ない場合、カメルレンゴは投票の仕方について皆の意見を聞き、過半数の意見に従って投票する。
 いずれにせよ、過半数による投票かあるいは2人の決選投票によっての有効な選挙を放棄することは出来ない。決戦投票は、最後の選挙で多数を得た2人の間で行う。
76 本憲章に規定されている以外の方法で選挙が行われた場合、その選挙は無効であり、選出された人にはいささかの権限も持たない。
77 教会法333条2項と、東方教会教会法44条2項の規定に基づき、教皇が教皇職を辞任したために使徒座が空位になったとしても、教皇選挙前と選挙に関する規定は、全面的に遵守されなければならない。

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第六章
教皇選挙において遵守すべきことと、避けるべきこと

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78 教皇選挙において聖職売買(シモニア)の罪が犯された場合−神がこれからお守りくださるように−それに関与したすべての人は、伴事的破門(excommunication latae sentensiae)の制裁を受けることを、私は宣言する。同時に私は、私の前任者がすでに確立したように、教皇選挙の有効性がこの理由によって異議を申し立てられることがないよう、同じ聖職売買規定による無効性を取り除く。
79 先任教皇の定める通り、私も、たとえ枢機卿であっても、教皇が生存中に彼の後継者について、交渉したり投票を約束したり、秘密集会でこれに関して決定することなどを禁ず。
80 ゆえに、聖なる従順の徳と伴事的破門制裁の下に、現在においても将来においても、各々すべての有権枢機卿と、枢機卿団秘書や選挙遂行に必要なすべての準備をするために働く者であっても、どのような口実があろうと、いかなる俗世の権力から、拒否権や候補者への異議申し立て(exclusiva)の行使について、たとえそれが単なる希望であったとしても、選挙者全員に対してまたは選挙者個人に対して、書かれたものによるか口頭によるか、直接か個人的または間接的か、選挙前か選挙期間中であるかにかかわらず、伝えることを、私は再び禁じる。この禁令は、あらゆる干渉、反対、示唆などによって、教皇選挙に関与しようとする一切の世俗的権威、個人、団体に及ぶ。
81 有権枢機卿は、強制的に特定の人に投票させたり、或いはそれを控えさせる義務を負わせるあらゆる形の駆け引き、協定、約束などを受けてはならない。それらのことを受けた場合、たとえ誓っていても、そのような義務は無効であり、だれもそれに従う義務のないことを宣言する。この掟を犯す者に対しては、あらかじめ破門を申し渡す。だがこれは、使徒座空位の期間に教皇選挙に関する意見の交換を禁じるものではない。
82 私は同様に、枢機卿が選挙前に、彼らのうちの誰かを教皇に挙げようと共通の確認をとるいかなる約定に加わることを禁止する。たとえこれらの約定が宣誓の下に結ばれたものであっても、私はこれらが無効であることを宣言する。
83 先任教皇と同じく、枢機卿たちは教皇の選挙に当たって個人の好感や反感に左右されたり、個人的関係や受けた恩恵に影響されたり、また権威ある人や圧力団体、コミュニケーションメディア、脅迫、恐れ、人気などに動かされてはならないことを私も強調する。神の栄光と教会の善益のみを見つめ、神の助けを祈り求めた後、枢機卿団以外の人でも普遍教会の指導者として選ぶであろうと思える人に投票しなければならない。
84 使徒座空位期と、特にペトロの後継者を選挙する間、教会は、牧者たちと一致し、中でも有権枢機卿たちと一致して、神のいつくしみと摂理の賜物として新しい教皇が与えられるよう祈るように。使徒言行録に記されている初代のキリスト教共同体の模範にならい、普遍教会はイエスの母であるマリアに霊的に一致して心を合わせて祈らなければならない。こうするなら教皇選挙は神の民から孤立して、枢機卿団だけが行うのではなく、ある意味で教会全体の行為となる。したがってすべてのところで、使徒座空位の知らせを受けたら、特に逝去した教皇のために荘厳に祈った後、枢機卿たちが、魂の救いと神の民の善益のために一致して使命遂行にあたり、迅速に効果的な選挙を行うことが出来るよう、有権者の魂を照らしてくださるように、主に謙遜で熱心な祈りを捧げるように。
85 このことを、特に年齢のために選挙権を有さない枢機卿たちに心から願う。枢機卿職は使徒座との特別に密接な関係ゆえに、ローマの司教座聖堂と他の部分教会に集う神の民の指導的立場にあって、特に教皇選挙の間有権枢機卿たちが、必要な神の助けと聖霊の光を受けるように熱心に祈ること。こうして普遍教会に牧者を与えるという、厳しく、重い使命に実質的、効果的に参与することになる。
86 選ばれた人は、重責を恐れてこれを拒むことなく、神のご意志に謙虚に従うよう願う。神は重荷を与えるとき、同時にそれを相応しく果たすよう、御手を差し伸べて支えてくださる。要職に就かせると同時に職務の重みに打ちひしがれないよう、力を与えてくださる。

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第七章
新教皇の受諾、公表、教皇職開始

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87 有効な選挙が終了すると、助祭枢機卿の最後の人が、枢機卿団秘書と儀典長を聖堂内に呼び入れる。首席枢機卿或いは最年長の枢機卿が枢機卿団を代表して選挙された枢機卿に次のような言葉で受諾を求める。「教皇に選挙されたことを受け入れますか」。受諾したら次に、「どんな名前を選びますか?」と尋ねる。儀典長は公証人を務め、その時呼び入れられる2人の儀式係を証人として新教皇の受諾と名前に関する証明書を作成する。
88 選出された人が司教なら、受諾した時からローマ教会の司教、教皇、司教団の頭として普遍教会に対して最高権を有し、これを行使することが出来る。
選出者が司教でない場合は直ちに司教に叙階される。
89 コンクラーベ式次第の規定にしたがって、すべてを済ませたなら、枢機卿は1人ずつ新教皇に敬意と従順を表明する。ついで神に感謝を捧げ、第1の助祭枢機卿が選挙の結果を待ち受けている群集に選挙の結果と新教皇の名前を告げる。新教皇は聖ペトロ大聖堂のバルコニーから「Urbi et Orbi」(ローマと全世界)の使徒的祝福を与える。
 当選者が司教でない場合、敬意の表明と公表は、司教叙階の後に行われる。
90 当選者がローマの外に住んでいる場合、上記のコンクラーベ式次第の規定を遵守しなければならない。
 当選者が司教でない場合、本憲章88、89が規定する司教叙階は、枢機卿団首席枢機卿、欠員の場合は次席枢機卿、この人も出来ない場合は最年長の枢機卿が教会のしきたりによって行う。
91 選出された新教皇が受諾した時、彼が他のことを命じない限り、コンクラーベは終了する。この時から国務庁次官、国家外務評議会次官、教皇館長官、その他新教皇と取り扱わねばならないことがある人はだれでも教皇のところに行くことが出来る。
92 荘厳に教皇就任式を終えた教皇は、適当な時に規定の儀式により、ラテラン教会の着座式にのぞむ。

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発 布
(最後にこの憲章を発布することが書かれている)

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1996年2月22日 ローマ聖ペトロの座にて。教皇登位18周年の日に
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法王を選出するコンクラーベ2

コンクラーベの成立の背景にある事件についてエーコの「薔薇の名前」書かれているので抜粋
フィリップ五世が、まだポワティエ伯であった頃、カルパントラから逃げ出した枢機卿たちを呼び集めた。枢機卿たちをリヨンのドミニコ会修道会に閉じ込め、彼らの身の安全を図る為であって決して虜にする為ではないと誓いながら、改めて教皇の選出に当らせたのだった。

しかしながら、彼らを掌中に収めるや鍵をかけて(その後、これは正当な習慣となるのであるが)閉じ込めてしまったばかりか、日一日と食べ物の量を減らしていって、彼らに一つの決断を下さるざるを得ないように仕向けたのだった。そして枢機卿一人一人に自分が王位に就いたときには支援してやる事を約束した。

やがて実際に玉座に昇ったとき、枢機卿たちはすでに二年に及ぶ捕囚の生活に疲れ、粗食の中でその場に一生閉じ込められてしまうのではないかと恐れて、すべてを受け入れてしまった。あの意地汚しめたちがペテロの座(教皇の位)へあの70歳を過ぎた矮小な人物を昇らせてしまう。

教養のある男で、モンペリエで法学を修め、パリでは医学を修めた。アヴィニヨンの司教としては神殿騎士団を壊滅されるためにありとあらゆる適切な(非道な企ての目的にそって、適切な、という意味だが)進言をフィリップ美王にした。
さすがに時代が違うが、一つの慣習にも歴史が付き纏う、善悪や好悪は別にして歴史を知らないと目の前の事が表層的にしか理解できなくなる恐れがあるなあ〜と思いました。

あと、これ文献が定かでないのだが、以前に女性の法王がいて儀式の最中に出産をしてしまったことがあり、それ以後、法王になるものは股間を露出させて穴の開いた椅子に座り、男性であることを確認される習慣が出来たという話を聞いた覚えがあるのですが…これは本当なのかな?あちこちの本で読んだ記憶があるのだが真偽は不明。

「コンクラーベ」と云う言葉は、ラテン語の「cum-clavis」すなわち、「鍵のかかった部屋」から来ているそうですね。どっかの新聞みたいに"根比べ"ではありません(笑)。

どうしてもこれに関連して浮かぶのは、ダン・ブラウンの「天使と悪魔」。なかなか強烈なストーリーを描いてますからねぇ〜。あまりにもタイムリー過ぎるが・・・。また、ダン・ブラウンさん儲かってしまうんだろうね。

関連ブログ
法王を選出するコンクラーベ1
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世逝去
「天使と悪魔」ダン・ブラウン 角川書店
薔薇の名前(映画)
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法王を選出するコンクラーベ1

白い煙はいつ 新法王選出の手続き CNNより全文転載
(CNN)ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死去に伴い、新法王の選出に世界中の注目が集まっている。「コンクラーベ」と呼ばれる法王選出会議で決まり次第、バチカン宮殿から白い煙が立ち上るが、コンクラーベは「根比べ」と言われるほど、長引く可能性もある。

法王が死去すると、最大20日以内に枢機卿会議、つまりコンクラーベが開かれる。在外の枢機卿のローマ到着を待つため、死後15日がたつまでは開いてならない。出席する枢機卿は、80歳以下で法王選挙権をもつ最大120人で、参集した後は、外部の人間との接触が禁じられる。

コンクラーベはシスティナ礼拝堂で午前中に始まり、その日の午後から選出のプロセスが始まる。

枢機卿たちはまず、体の不自由な枢機卿たちから投票用紙を集める係3人と、集計係3人、立会人3人を選ぶ。次に、投票用紙が配られる。これは長方形の白い紙で、上半分にラテン語で「至高の法王としてこの人を選ぶ」と書かれていなくてはならない。枢機卿120人は、推薦する人物の名前を下に書き、紙を2つ折りにする。

原則的には、カトリックの洗礼を受けた男子なら誰でも、法王に選ばれることができる。もし聖職者でない世俗の人物が選ばれた場合は、司教に叙階される必要がある。

全員の記入が終わると、枢機卿たちは年長順に祭壇に向かい、自分の責務を真摯に果たすことを誓う。その後、枢機卿は用紙を貴金属製の小さなディスクに乗せて、ミサに使われる大杯の中に入れる。

投票の結果、誰か1人が3分の2の票を得れば、新法王が決定する。3分の2以上を獲得した人物が誰もいなければ、その日のうちに2回まで再投票が行われる。

開票のたびに、一度使われた用紙は燃やされる。新法王が決まらなければ、薬品を加えて煙が黒くなるようにする。バチカン宮殿の屋根から黒い煙が立ち上れば、サンピエトロ広場で新法王選出を待つ人々は「まだだ」と分かることになる。新法王が決まると、投票用紙は薬品なしで燃やされる。このため白い煙が、新法王が決まった印となる。

コンクラーベ開始から3日たっても新法王が決まらないと、投票は一時中断される。最大1日を祈りや話し合い、最上位の枢機卿からの訓戒などに費やした後、投票が再開。7回かけても決まらなければ、再び祈りと話し合いと訓戒が繰り返される。そしてまた、最大7回の再投票が続く。

伝統的には、新法王となるには全体の3分の2より1票多く獲得する必要があったが、ヨハネ・パウロ2世は法王選出手続きに関する規則「使徒憲章」を96年に改正。もしコンクラーベ開始から12〜13日後にも決まらなかったら、コンクラーベ過半数の賛成をもって、絶対過半数を獲得した枢機卿を法王とするという規定を実施することができる。これによって複数の候補をめぐり膠着(こうちゃく)した場合は、事態収拾がしやすくなった。

選出された枢機卿は、コンクラーベの意志を受け入れるか質問される。8回目の投票で選ばれたヨハネ・パウロ2世は、涙を浮かべてうなずいたと言われている。枢機卿が法王即位を受け入れると、司祭長が、法王としての名前を何にするか質問。即位名がその場で公表され、集まった枢機卿たちが新法王を祝福する。

これをもって最年長の枢機卿が、サンピエトロ広場を見下ろすバルコニーに進み出て、「ハベムス・パパム(法王が決まった)」と宣言し、新法王を紹介。新法王は法王として初めて、ローマと世界に祝福を授ける。

過去に多くの法王は戴冠式を経て即位したが、ヨハネ・パウロ2世は戴冠式を拒否し、サンピエトロ広場でのミサをもって即位した。

コンクラーベを「根比べ」というのは、名訳だか迷訳だか分からないが、なかなか決まらなくて大変なのは事実らしい。システィーナ礼拝堂に籠って鍵をかけて次の法王が決まるまで延々と続くのだから、大変です。

筆跡変え無記名投票、新法王選出の「コンクラーベ」、読売の記事転載
新法王を選出する会議「コンクラーベ」は、全世界の枢機卿のうち80歳未満の枢機卿(2005年4月3日現在117人)で構成される。

 ミケランジェロのフレスコ画「最後の審判」で有名なシスティナ礼拝堂を会議場とし、出席者は外部との接触を絶たれる。

 法王に選ばれる資格は、すべての男性カトリック信者にある。年齢制限もないが、1389年以降は枢機卿から選ばれるのが慣例になっている。

 コンクラーベの進め方は選挙法で投票用紙の持ち方から祈りの言葉まで細かく規定されている。無記名投票で「なるべく筆跡を変えて記入」と定められており、選挙の行方が当事者間のしこりとなりかねないことをうかがわせている。
やはり伝統があるのですね、そこまで施行細目が決まっているんだ。ところでやっぱり文字はラテン語なのかな?何にも知らない私だったりする・・・???

関連ブログ
法王を選出するコンクラーベ2
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世逝去
「天使と悪魔」ダン・ブラウン 角川書店
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2005年04月03日

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世逝去

2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)、ローマ法王が逝去されました。ご冥福をお祈りします。

世界中のニュースで報道されていますので、記事はさておき、私の知らないことをメモ。
教皇ヨハネ・パウロ2世略歴 バチカン放送局より全文転載
使徒聖ペトロの後継者、第264代教皇ヨハネ・パウロ2世(カロル・ヨゼフ・ボイティワ)

 1920年5月18日、ポーランド・クラクフから50キロ地点のワドビチェにて誕生。父親カロル・ボイティワ(職業軍人)、母親エミリア・カツォルブスカ(教師)の次男。

 8歳の時、母を、3年後には兄エドモンド(医師)を失い、父によって育てられる。

 9歳の時初聖体、18歳で堅信を受ける。

 ワドビチェのマルチン・ワドビタ高校卒業後、1938年、クラクフのヤゲロニカ大学に入学し、ポーランド文学を専攻。しかし、39年、ポーランドにドイツ軍が侵攻し、大学は閉鎖。さらに翌年には父が他界し、20歳にして全ての身寄りを失った。

 生活を支えるために、また、ナチ軍によるドイツへの連行を避けるため、化学工場の石切り場で働きながら、勉学と、演劇活動に打ち込み、地下演劇集団「ラプソディコ劇団」にて指導的な役割を果たす。

 この間、司祭職への志が芽生え、1943年、クラクフのアダム・ステファン・サピエーハ大司教がひそかに開いていた ゛地下神学校″に入り、46年11月1日、司祭に叙階される。

 同年、大司教の推薦で、ローマのアンジェリクム大学に入学、神学を修める。

 1948年、神学博士号取得。論文のテーマは「十字架の聖ヨハネの著作における信仰」。ローマでの神学研修の休暇中、フランス、ベルギー、オランダなどのポーランド人移民のための司牧に従事する。

 同年、スターリン体制に支配された祖国に戻り、クラクフ近郊の二エゴヴィッチ小教区助任司祭、その後、サン・フロリアーノ小教区助任司祭、1951年まで大学生担当司祭を勤める。

 この間に哲学、神学の勉学再開。1953年、ルブリン大学に、論文「マックス・シューラーの倫理体系によるキリスト教倫理構築の可能性」を提出。

 後、クラクフ大神学校、および、ルブリン大学神学部にて倫理神学教授。

 1958年7月4日、教皇ピオ12世により、クラクフ補佐司教任命、9月28日、クラクフ司教座大聖堂にて、エウジェニウス・バジアク大司教から司教叙階。38歳で、ポーランドで一番若い司教として、教会と政府の対立の中、困難な司牧の使命を受ける。

 62年から始まった第二バチカン公会議に定期的に出席、『現代世界憲章、ガウディウム・エト・スペス』編纂において、重要な役割を果たす。

 64年にパウロ六世教皇によってクラクフ大司教に、67年1月13日には枢機卿に任命される。同年6月26日枢機卿就任。

 枢機卿時代、5つの世界代表司教会議(シノドス)に参加。

 ヨハネ・パウロ一世帰天後の教皇選挙(コンクラーベ)の結果、1978年10月16日、第264代目のローマ教皇に選出され、ヨハネ・パウロ二世と名乗る。

 教皇登位後は、第2バチカン公会議の精神を引き継ぎ、新しい福音宣教を推進、聖職者、奉献生活者、信徒のそれぞれの使徒職に光を当て、青少年、家族、病者、女性、職業人など様々な立場の人にキリスト者としての自覚を促した。

 また、国や民族、宗教を超えた対話を目指した教皇は、平和の使者として積極的に世界各国を歴訪し、多くの政治リーダー、諸宗教の指導者との会見を持った。

 紀元2000年には大聖年の開幕を告げ、これを機会に世界中の信徒に回心と償い、赦しと和解、新しい希望を呼びかけると同時に、過去の歴史の中でカトリック教会の子らが犯した様々な罪を認め公式に謝罪した。

 「愛の文明」の構築を訴えた教皇は、すべての人々の命と人権を擁護、様々な闘争に揺れ動く世界の中で、戦争や暴力に勇気ある反対の声を上げ、平和への力強いアピールを発し続けた。
ある程度は知っていましたが、激烈な人生を歩まれた方のようです。若い時には劇団にもいられたんですね。知ってる方にはピンとくるでしょうが、舞台という芸術はかなり特殊ですからね。その後の画期的な(賛否両論ありますが)行動の芽がこの辺りにもあるのかもしれません。まして、あのナチの時代を生き抜いてこられたのですから、生半可なことではないですね。納得。

葬儀の手続き、CNNの記事より抜粋
(CNN)ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(84)が2日夜に死去したことに伴い、葬儀と新法王選出への手続きが注目されている。いずれも、ヨハネ・パウロ2世自らが1996年にまとめた「使徒憲章」に定められている。

まず最初に、カトリック教会の行政上の職務を担当する枢機卿たちが、葬儀の日取りと法王選出会議(コンクラーベ)の開始日を決める。 使徒憲章の決まりでは、法王の遺体はサンピエトロ大聖堂に安置され、一般の弔問を受けた後、死後4〜6日後に埋葬されなくてはならない。 服喪期間は、亡くなった翌日から数えはじめて計9日間。コンクラーベは法王死去から15日たたないと開始できず、開始は死後20日以降を過ぎてはならない。 法王死去からの予定は次のとおり。

1日目
・「sedes vacantes(法王の座が空になった)」と宣言される。
・法王の空位期間が始まる。各地から枢機卿がバチカンに向かい始める。
2日目
・慣例では、亡くなった翌日から法王の遺体は法王衣を着た状態でサンピエトロ大聖堂に安置され、弔問を受ける。
・「Novendiales (9日間の祈り)」と呼ばれる服喪期間が始まる。毎日ミサが行われる。
4〜6日目
・遺体が埋葬される。慣例では、法王の遺体はサンピエトロ大聖堂に埋葬される。
10日目
・慣例では、サンピエトロ大聖堂で追悼ミサ
15日目
・早ければ、コンクラーベが始まる。最も早い場合には、この日の午後に新法王が決まる。

コンクラーベ開催中は、午前に2回と午後に2回に投票が行われる。30回を経ても誰も3分の2を得票しなければ、過半数で選ばれることになる。

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法王を選出するコンクラーベ2
法王を選出するコンクラーベ1
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2005年04月01日

イエスを偽預言者、嘘つきとみなす「マンダ教徒」

今、読んでいる 「マグダラとヨハネのミステリー」。ダ・ヴィンチ・コードの元ネタ本のうち、未読だった最後の一冊。

読んでみると、この本すごい!というか、憑かれている?狂気の沙汰とも思えないような内容。マグダラのマリアがイエスの妻だった、なんていうレベルはもう大前提で考える間もなく、当然扱い(一応、いろいろと説明はされているけど)。イエスはユダヤ人じゃないし、魔術師(秘儀宗派)。マグダラのマリアはイシス神でもう、ありとあらゆるキリスト教的価値観を否定&否定&否定。当然、聖書なんて捏造が当たり前でしょ、扱い。

この本は何故、教会から禁書扱いされないのかな?やっぱ、売れてないからだね。これ買う人って、知らないで買ってしまった人か、知的好奇心が強い人か、オカルトマニアに限定されてしまいそうだもん(私はどれだ?)。面白かったし、いろんな文献一覧集として使えるけど。

おまけにヨハネはキリスト教徒ではなく、イエスの敵対者であったとか、もう歴史が変わってしまいますなあ〜、ホント!

まあ、この本の感想は別途、詳細に書くのでここではタイトルのことを書きます。やっと本題!

そのイエスの敵であるヨハネを崇めるキリスト教徒が存在するそうです。南イラクの湿地帯とイラン南西部にいるというマンダ教。自称「聖ヨハネのキリスト教徒」というそうですが、イエスを弟子達や人々を誤った方向に導いた偽預言者、嘘つきとみなしている為、およそキリスト教徒として認められない人々。

彼らは、ローマ教会に吸収、弾圧されたライバルであるヨハネ教会の系譜を引き、グノーシス的な要素を持っているそうです。さてさて、これってどこまでは信頼できるんでしょうか??? 他にもこの本に書かれている事って…?

著者達がすご〜い博識であることは、感嘆します。実際、すっごく調査している。いろんな文献に目を通している。但し、狂信者的な情熱で。学術論文も、偽書も、雑誌に書かれたエッセイでも何でも自分の思う仮説(当人には真実?)に使えることは貪欲に利用するのは、ほんと頭が下がります。

今日は4月1日。エイプリルフールということで、こういう話も許されるかなあ〜って。でも、ここに書いたことは本当に、この本に書かれてます。すごいね、ゾクゾクしてきますね(笑顔)。

マグダラとヨハネのミステリー(amazonリンク)
posted by alice−room at 23:45| 埼玉 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月23日

魔女と錬金術師の街、プラハ

部屋の中で本を探していたら、プラハに行った時の資料がボロボロ出てきたので、メモとしてちょこっと載せておきます。まずは、プラハで買ったお土産のゴーレム人形ペンダント、魔女狩りの処刑場面の置物。左は、お店の前で客引きしてゴーレム・フィギュア(秀逸!)。

ゴーレム魔女狩りの処刑場面ゴーレム・フィギュア

でもって、ここが未だ屋根裏部屋にゴーレムだった土塊が残されているという伝説のあるシナゴーグ(ユダヤ教徒の公会議所)。真ん中がまさに、ダ・ヴィンチ・コードで問題になる六芒星。確かシナゴーグの入口にあったもの(だったかな?)。通常は「ソロモンの紋章」「ダヴィデの星」と言われているものですね!さてさて、ここにもコード(暗号)はあるのかな???

シナゴーグソロモンの紋章

ストラホフ修道院図書館。写真は撮れたんだけど、フラッシュがつかえなくて光量不足の為、出来はイマイチ。しかたないのでこれは購入した葉書をスキャナーしたもの。で、これは夜中のプラハを私が徘徊していた時の写真。海外でこういう事するのは非常に危険なんですが…。まあ、所用がありまして。

ストラホフ修道院図書館謎に満ちた深夜のプラハ

全部で150枚以上、写真あるんだけど、さすがに載せられないか。まあ、自分的にはお気に入りのメモってとこかな。(写真はクリックすると、大きくなります)

関連ブログ
「THE GOLD 2004年3月号」JCB会員誌〜プラハ迷宮都市伝説〜
NHK世界美術館紀行 プラハ国立美術館
posted by alice−room at 21:58| 埼玉 ☔| Comment(6) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月21日

小説『ダ・ヴィンチ・コード』にジェノバ大司教が反発

[SKJ]■世界キリスト教情報■第742信より転載
【CJC=東京】CWニュースによると、米人作者ダン・ブラウンによるベス
トセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』を買わないようにタルチジオ・ベルトーネ枢機卿(ジェノバ大司教)が3月15日バチカン放送(ラジオ)で語り、イタリアの新聞やラジオも報じた。

 ジェノバ大司教区が同書に関するセミナーを開催するのを機会に訴えたもの。セミナーでは、『新宗教研究センター』の設立者マッシモ・イントロヴィネ所長が「この小説が基づいている偽りを暴露する」という。

 ベルトーネ枢機卿は、『ダ・ヴィンチ・コード』が世界各地でベストセラーになったのも、「Y2K」と呼ばれ「人類の全体の歴史で例外的ば衝撃」を与えた程の成功を収めた紀元2000年祝典を打ち消すために「偽りの城」を構築する戦略の一部だ、と指摘する。

 枢機卿は、カトリック系の図書館や学校さえ「全く並はずれた」宣伝に屈して、同書を購入しているのは残念だと言う。特に出版社側が「この本を読んでいないなら、あなたは成熟したキリスト者ではない」という見方を伝えようとしている、と注意した。教皇ヨハネ・パウロ二世が入院していた、ローマ市内のジェメッリ病院内の書店でも売っていたとして「残念なことだ」と述べた。

 『ダ・ヴィンチ・コード』は、キリストが結婚し、後継者は女性のはずだったが、後世の教会が男性優位に教義を書き換えたという説を軸に展開する。同枢機卿は、キリストとマグダラのマリアの間に子供がいたとしている部分などを特に問題視している。

 同書の「複数の錯誤」の一つに、聖書における、女性の影響の「除去」がある、と同枢機卿は言う。「新約聖書の成立の歴史と福音書の中での女性グループは、使徒とほぼ同等に見えることがある」とし、さらに枢機卿は史的事実としての「死の否定とイエスの復活」について言及した。そして、仏陀、モハメッドなど他の宗教指導者に関して同様の反真理をまき散らす本の刊行を社会が許容するかどうか、と疑問を投げ掛けた。


どんな情報でもニュースとなって報道される過程で、変化していくのもここでも強く感じます。これまで他のところで扱われていたニュースと比べてみても、細かい所が違うのに気付きます。

関連ブログ
「ダ・ヴィンチ・コード」信仰への影響は
「ダ・ヴィンチ・コード」は恥ずべき本…枢機卿が批判


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2005年03月12日

資料集め・・・別名、無駄使いと言う人も

今日は、新宿で商談があり、都内に出掛けたので、仕事終わるや否や神田を初め古書店を20件近くハシゴ。ずいぶんと久しぶりの古書店巡りで、(自分的には)掘り出しモノがたくさんあったので本が持てなくなるまで買いまくりました。あ〜、ハードカバーは重い。部屋の床、本の重みで抜けないかな?(いつもながらの心配???)

とにかく、欲しい本がいっぱい見つかってラッキー! 「ダ・ヴィンチ・コードの謎を解く」も興味あったけど、図書館に無いし、取り寄せも面倒で二の足踏んでたけど、格安でGET!明日には感想をブログに書こうっと。わ〜い。

それ以外にも収穫がたくさん。絶版のはずの人文書院刊「黄金伝説1」 が格安で綺麗なのを発見!既に英語版持っているけど、やはり日本語もみたいもん(知り合いからは無駄・・・)とかいじわるされそうですが(苦笑)。古書店の中で、店内の奥に埋もれて、死角にあるものをまさに掘り出して救出した感じ。聖人の本だけに、ご利益あるかな〜?ついでに「黄金伝説抄」も獲得。まあ、これは新刊で買えるけど、安いからね。そうそう、以外だったのは大航海時代叢書「エチオピア王国誌」も相当安く入手しました。エチオピアってシバの女王のいた所とも言われ、ソロモンの息子がエチオピア王国の血筋に繋がるという伝説も有名で、一度読んで見たかっただけに、嬉しいなあ〜。なんか面白いエピソードとかありそう。

あと、中野美代子の「西遊記の秘密」。中野さんの中国関係の話って面白いんだよねぇ〜。資料とかもよく調べてあって、結構為になったりする。ただ、何の役に立つかは疑問だが?まあ、教養が身に付いて、浮世離れが一層進むとか・・・・(救われないなあ)。

あと、もう何冊も同じタイトルで持っているけど、内容が違う別の本「媚薬」でしょ。それに「ダヴィデ王とパテシェバ」。どの本もとっても&とっても面白そう。でも、読み残して積読(つんどく)本が出てきそうで怖い。家の中にもそういう本が結構あるんだけど、見つけた時に買わないとすぐ無くなっちゃうんだよねぇ〜、古書は。ヒドイ時には、他の書店回って戻ってきた時に売れていたりすると、もう立ち直れないぐらい落ち込むしぃ〜(鬱&鬱&鬱)。そういうわけで仕方ないよね、うん。(と、自己弁護に励む私であった)

そういえば、「レンヌ=ル=シャトーの謎」が3000円で売っていたのにはショックを受けた。探してもどこにもなくて定価で買ってしまったから。まあ、この本はしっかりした内容で蔵書としておく本だから、なんとか許せるが悔しい〜!! たま〜に品切れ扱いになってる書店があるのにね。一気にダ・ヴィンチ・コードのブームのおかげで売れちゃったんだろうけど。

さて、どれか読むか図書館で借りてる「オクシタニア」もあるんだよね。アルビジョワ派の異端を扱った本。とっても面白そうでこれかな、最初は? 
本当は、あと3、4冊買いたかったけど、物理的に持てなくて断念。う〜買いたかったなあ〜。ある程度、読み終わったらまた行こうっと。
タグ:古書店
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大英図書館、シェークスピア作品の原本画像をネットで公開

大英図書館、シェークスピア作品の原本画像をネットで公開、の記事 (以下転載)
大英図書館は先週、英ウォーリックシャー州の劇作家、William Shakespeareの21作品をインターネット上で公開した。大英図書館のウェブサイトでは、21作品の93種類に及ぶ原本の高画質画像が閲覧可能になっている。

 仮想ページをめくると、Shakespeare自身や彼の劇をグローブ座の観衆の前で演じていた役者らが見ていたのと同じフォーマットで、劇の脚本を読むことができる。

 一般に読まれている多くの原本と異なり、大英図書館がデジタル化した四つ折り判はShakespeareの生前にまとめられたものだ。多くのShakespeareファンは、これほど本物の原本を忠実に再現した画像を目にすることは今後もありえないだろう。

 同サイトに関心を示すのは主に学者たちだろう。彼らは同サイトにアクセスして、Shakespeare自身が書いたとされる「ロミオとジュリエット」「リア王」「オセロ」といった劇の様々なバージョンの草稿や下書きを比較/対比できるようになる。

実際に、シェークスピアが見れるのはこちらのサイト
いやあ〜、ホントいい時代になりました。いろんなものがいながらにして見れる。バチカンの写本だって、一部であってもネットで見れるし、嬉しい限り。情報が無限に転がっているしね。あとはそれを取捨選択して、本物を見分ける力ですね。それと検索能力。情報の海に溺れずに有益なもの(=価値ある真実)を探すのは、なんかますます難しくなる一方だし。まあ、なにはともあれ、喜ばしいニュース。問題は、情報リテラシーか?う〜ん。
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大英図書館、アマゾンの書籍リストに希少本を掲載

大英図書館、アマゾンの書籍リストに希少本を掲載、の記事  (以下、転載)
 大英図書館が、Amazon.co.ukの書籍リストに数百万冊分の記録を追加する形で、膨大な書誌記録をインターネット上で公開した。これにより、Amazonのサイトに初めて希少本や古書がリストアップされることになり、その中には1970年の国際標準図書番号(ISBN)導入以前に出版されたおよそ200万冊の書籍も含まれている。

 同図書館の書誌記録には、出版社、出版日、製本の種類、ページ数などの情報が含まれている。Amazonによると、24日(現地時間)にAmazon.co.ukのカタログにその書誌記録が追加されたという。書誌記録の情報が同サイトの既存の書籍リストに追加される場合もあるが、この情報がAmazonのサイトにもたらす最も注目すべき効果は、すでに絶版となっているISBN導入以前に出版された希少本を、同サイトでリストアップできる点だ。これにより、インターネット上での希少本の検索が以前に比べ格段に容易になる。ISBNは出版業界が1970年に導入した識別番号だ。

 Amazonが昨年導入したMarketplaceサービスでは、古本屋などの第三者の販売業者は商品をAmazonのメイン書籍リストを通して、サイトに直接掲載することができる。例えば、「ハリーポッターと秘密の部屋」のリストでは、Amazon自身が4ポンド79ペンスで販売しているほか、27の第三者業者が、新品(2ポンド29ペンス〜)、古本59冊(50ペンス〜)、収集版8冊(20ポンド〜)を販売している。

 しかし、Amazonのサイトで書籍を販売できるのは、そのカタログエントリがすでに存在している場合に限られており、大英図書館の書籍データが追加されたということは、Amazonで扱い可能な書籍の種類が大幅に増加したことを意味する。このカタログには、1967年に出版されたIvor Herbertの「The Queen Mother's Horses」などの比較的最近の作品だけでなく、Phillippe de Monteの2冊目のマドリガルなどのあまり知られていない作品や1570年まで遡るその他の作品も含まれている。

 大英図書館によると、Amazonのリストに追加された書籍255万冊のうち、170万冊が1970年以前に出版されたものだという。

 同図書館の業務/サービス担当ディレクター、Natalie Ceeneyは声明の中で、「我々の書誌カタログは世界でも他に並ぶものがない存在で、Amazon.co.ukがMarketplaceサービスを支え、サポートするために同カタログを使用してくれることを大変嬉しく思う」と語った。

すっご〜い!! いろんな人が利用できるし、社会的にどれほど有用なことでしょう。世界中の人がこの恩恵に浴せますね。滅多に使わないだろうけど、調べるだけで楽しいかも?(満面の笑み)

でもね、これってamazonだけが圧倒的優位に立たない?ビジネス上で他社は絶対に敵わなくなるし、他社にも提供しないと問題だよね。その辺りはどうなんでしょう??? まあ、いっか。それよりももっと洋書が読めるようにならないと・・・。でもとっても楽しみですねぇ〜。
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黄金伝説の問い合わせ

The Golden Legend: Readings on the Saints 「黄金伝説」 獲得までの経緯
以下、洋書の在庫がなくて価格調査を依頼した後に、書店からメールで連絡を受けた内容です。結論から言えば、古書でいいのが見つかって新品を買う必要はなくなったんですけど。結構、高いなあ〜。アマゾンではるかに安く買える。ハードカバーもアメリカのアマゾンにはあるのにね。あまり使えない書店だこと。大手なのに・・・。この手の本も面白そうですよ!結構、高い値でusedの出品者いそうですけど・・・。
 先日ご注文いただいた本についてのご連絡です。
@ “Golden legend”(PB 0691001537) 
 こちらの書籍ですが、国内に在庫はありませんでした。海外発注というかたちで取り寄せることが可能です。
その際1〜2ヵ月かかってしまいますがよろしいでしょうか?こちらは一度ご注文いただくとキャンセルが出来ません。ご了承くださいませ。お値段は3800円前後でございます。

A @のハードカバー (0405022271) 
 こちらは絶版でございます。
 以上、お問い合わせの件のご連絡をさせて頂きました。
こちらについてのご連絡を頂きたいので、3月の10(木)までにお願いいたします。ご連絡がなかった場合、まことに勝手ながら一度キャンセルとさせて頂きます。それでは失礼致します。

担当: ××
(株)××書店××本店 洋書売場
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2005年03月11日

「ダ・ヴィンチ・コードの謎を解く」 覚書

アンク十字: ank
古代エジプトの神聖文字ヒエログリフで「生命」を意味する。輪の部分は、サンダルのひも、またはペニスの包皮を象徴すると考えられている。また、女性の生殖器を表すという説もある。別名、エジプト十字、コプト十字。

アスモデウス:
ソロモンの神殿建設に力を貸したといわれる伝説の精霊(魔神、鬼)。レンヌのマグダラのマリア教会の扉の内側に描かれていて、シオン修道会の証拠資料となる秘密文書を守る"鬼形の守護神"だとされる。

黒い聖母:
黒い聖母のイメージには特に豊穣と癒しの分野において非常に強力な霊力があると信じられ、偉大な知識の宝庫でも有り、魔術と密接に結びついているとされる。論理的な説明として、黒い聖母の聖堂のほとんどの場所が古代異教徒の土地にあることから、古代の女神崇拝をキリスト教が取り込んだ過程によると言われる。

ニケーア公会議:イエスの神性を認めないアリウス派を異端として排除し、「父なる神、子なる神、精霊なる神」の三位一体を正統として公文化した。

サン・シュルピス(教会):
メロビング朝時代、サン=ジェルマン=デ=プレ大修道院の敷地に建てられ、6世紀のブールジュの大司教、聖シュルピスに捧げられている。シオン修道会の文書によれば、この教会は古い異教のイシス神殿の跡地に建てられているという。その後、1646年にサン・シュルピス神学校に奉仕し、ノートル=ダム大聖堂に対抗するために拡張工事を行ってきた。なお、ボードレール、マルキ・ド・サドもこの教会で洗礼を受けている。

本の感想はこちら
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2005年03月05日

「ファティマの奇蹟(奇跡)」最後の目撃者が死亡

fatima.jpg「ファティマの奇蹟」最後の目撃者が死亡 の記事(以下、転載)
[リスボン 14日 ロイター] ポルトガルではこの火曜日を服喪の日に定め、政治家は選挙運動を縮小する。ファティマで聖母マリアの出現を目撃した3人の子どもの最後の生き残り、ルシア・ドゥ・ジュズス・ドス・サントスがこの世を去ったからだ。

カトリック教会によれば、ドス・サントスは幼い少女だった1917年に、その何十年も後の1981年に起こったローマ法王ヨハネ・パウロ2世暗殺未遂事件を予言したという。彼女は日曜日、リスボンの150キロ北の街コインブラのカルメル会修道院で97年の生涯を終えた。彼女は火曜日に修道院で埋葬され、遺骸は一年以内に近くの都市ファティマに移される予定だ。ファティマはカトリックの主要な巡礼地である。

日曜日、ペドロ・サンタナ・ロペス首相は火曜日を国家的服喪の日とすると宣言した。「シスター・ルシアは近代ポルトガル史における偉大な人物です」サンタナ・ロペス首相はTSFラジオで発言した。広報担当者によれば、彼は葬儀に出席するかもしれないそうだ。ポルトガルでは日曜日に解散総選挙が予定されているが、サンタナ・ロペス首相の所属する中道右派の社会民主党と連立相手の右派・民衆党は月曜日と火曜日の選挙運動を一時中止する。世論調査では大幅にリードしている野党の社会党は、選挙運動の規模を縮小するという。

ドス・サントスは20世紀の大事件に関する聖母の預言の主な受信者だったと信じられている。預言の第一部は地獄のヴィジョン、第二部は第二次世界大戦の勃発を予見するものだった。バチカンは預言の第三部を、法王暗殺計画と共産主義によるキリスト教の迫害を予言するものと解釈した。教会は2000年に法王がファティマを訪問するまで何十年ものあいだ、預言の詳細を秘密にしてきた。

ほかのふたりの子どもたち、ドス・サントスのいとこヤシンタとフランシスコ・マルトは、それぞれ1919年と1920年に亡くなった。ふたりは列福され、2000年には聖人となった。

全然、知りませんでした。この記事の事。先月だったにもかかわらず、日本では全然報道されないんだもん(TVでは)。世界中で、このファティマさんを巡る話題は絶えず起こっており、たくさんの記事が出ているのに・・・。少し、拾ってまとめておくと(以下、記事転載)。
◎『ファティマの預言』の第三の秘密公表=バチカンのソダノ国務長官「教皇狙撃を示す」= (2000年5月)
【ファティマ(ポルトガル)=ENI・CJC】 ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は五月十三日、二日間のファティマ巡礼訪問を終えた。疲れが目についたものの、長年の課題だった、一九一七年にイエスの母マリアの顕現に接したという『羊飼いの子供』の列福を果たした。ファティマは人口八千人の小さな町にも関わらず、教皇の訪問に合わせてやって来た巡礼は六十五万人に上ったと見られている。フランシスコとジャシンタ・マルトは教会史上初めて、殉教者ではないのに列福された点で顕著な事例。

 しかし、いわゆる『ファティマの預言』の第三部があるとされながら、明らかにされていなかったものを、一部とは言え教皇が最後に公表したことで、メディアの関心は一挙にそちらに移った。
今も九十三歳で健在のルシア・ドスサントスさんはカルメル会の修道女。一九一七年七月十三日に、処女マリアが三部からなる『秘密』を明かしたと主張している。

 第一部は、地獄と救済に関するもので、第一次世界大戦の終結と第二次大戦の勃発(ぼっぱつ)などが示され、第二部は、東方からの脅威として、ロシアでの無神論の広がりとその完全な転換を予想していたとされていた。しかし第三部は、ルシアさんが四〇年代にポルトガル語の方言で書いた文書を当時の教皇ピオ十二世に送って以来、ルシアさんと歴代の教皇を除いて、その内容は知られていなかった。

 今回、教皇に代わって国務長官アンドレ・ソダノ枢機卿が明らかにした第三の秘密は、白衣の司教が地面に、銃撃を受けたかのように倒れている、というものだった。教皇は十三日にルシア修道女と会見した際、この預言が八一年にサンピエトロ広場で銃撃され、重傷を負った事件を示すものだという理解で一致した。さらに預言は共産圏諸国だったキリスト者の迫害に言及したものと理解されたという。

 教皇庁は近い将来に第三の秘密にかかる文書を全部公表する。教皇ヨハネ・パウロ二世はこれまでにも、八二年と九一年の二度、ファティマを訪問したことがある。

◎「大惨事にファティマの預言は触れず」=シスター・ルチアがうわさを否定=
(2001年12月)
 【CJC=東京】『ファティマの聖母』の顕現に接した中でただ一人の生存者ルチア・ドスサントス修道女(94=カルメル会)が、あの九月十一日のテロリスト攻撃に関する新たな幻は見ていないし、バチカン(ローマ教皇庁)が、『ファティマの第三の秘密』と呼ばれるものについて、その一部しか発表していない、ということを否定した。

 教理省局長のタルチシオ・ベルトーネ大司教が、この十一月に同修道女と会見した内容を十二月二十日、文書で明らかにしたもの。この文書にはルチア修道女も署名している。

 ベルトーネ大司教は十二月初め、ポルトガルのカトリック・ラジオ局に、『ファティマの聖母』を尊崇するカトリック者が、ファティマの預言や米国で九月十一日に起きたテロ攻撃に関する誤った噂に「気分を害し、そして困惑して」いるので、ルチア修道女に説明を求めたいと語っていた。

◎イランが聖母マリア横取り=バチカン、イランに抗議=(1995年12月)
 【CJC=東京】国営イラン放送が「聖母マリアの出現」で知られるポルトガルの聖地ファティマを、イスラム教の開祖マホメットの娘ファティマに由来するかのように放映した。十月からファティマ巡礼のドキュメンタリーを数回放映したもの。

 放送で、約八十年前に現れた「ファティマの聖母」は、実は預言者マホメットの娘でシーア派初代イマム(指導者)アリの妻となった七世紀の実在の女性ファティマだったと説明したことから、バチカン(ローマ教皇庁)がイラン外務省に抗議している。 ファティマは、一九一七年に聖母マリアが目撃されたといわれ、現在は内外から年間数十万人の巡礼者が訪れる。

 一方、共同通信によると、ファティマ信仰のあついイラン人からはテヘランのポルトガル大使館には早速、巡礼希望者のビザ申請が殺到している。

確かに割合として日本にはキリスト教徒は少ないですが、海外のペット情報とかを流してるわりにこういうのをほとんど放送しないのも、偏向報道のような気がするんだけどなあ・・・(私が新聞を読み飛ばしているせいもあるか?)。まあ、日本のマスコミは嘘と虚飾にまみれた報道しかしないから、仕方ないか(平気で学問的に間違ってことを書いてあるし)。イラク問題の報道も、大本営発表と変わらないみたいだし。憲法改正もそうだが、討論すること自体は当然のことなのになあ〜。与えられた範囲内でしか、行動できないとは・・・。報道機関が、そもそも既得権化して腐敗してるのはお役所と一緒だしね。悲しいお話。

関連ブログ
「ファティマ 第三の秘密」教皇庁教理省 カトリック中央協議会
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2005年03月04日

エクソシスト養成講座 記事各種

ローマの大学で“エクソシスト養成講座”始まる  サンケイ・スポーツの記事
(以下、転載)
【ローマ17日=サンケイスポーツ特電】イタリア・ローマにあるカトリック教会系の大学で、聖職者向けの「悪魔払い講座」が17日から始まった。近年、イタリア国内で悪魔崇拝の動きが広がりを見せ、その儀式的な殺人事件も発生していることを受けたもので、まさしく世界でも初めての“エクソシスト養成講座”だ。

 ホラー映画の傑作「エクソシスト」で名前を知った人も多いだろうが、悪魔を払う祈祷(きとう)師をエクソシストと呼ぶ。この悪魔払いについて学び、プロを養成しようという世にも珍しい講座が開設された。

 「本当に悪魔に取りつかれたケースと、単なる精神的な問題とを見分けられるようにすることが目的」と、同大学は説明する。エクソシストのガブリエル・ナンニ師が最初の講義を行い、約100人の聖職者が出席。

 今後4月までに、エクソシストや精神分析医、犯罪学者らから幅広く講義を受けることになる。受講料は180ユーロ(約2万4000円)。

 エクソシストが悪魔払いを行うのは、精神科医による調べが尽くされたケースに限定されているという。あるエクソシストによると、悪魔払いを扱うのは年間20件程度。しかし悪魔払いの要請を、助手が見極めてふるいに掛けないと「私を必要としない人々からの要請で、忙殺されてしまう」ともいう。

 それほど悪魔払いを求められることが多く、その中から「本当に悪魔に取りつかれたケース」を見極めるのも難しいということ。イタリアのみならず、海外から聖職者が講義を受けに来るほど、関心が高まっている。

 悪魔崇拝主義の宗派メンバーによるオカルト的な殺人事件が増加。こうした宗派は警察の監視対象にあるが、最近では宗派に属さず個人的に悪魔崇拝に走る若者も増えている。多くはインターネットを通じて悪魔について学んでいるようだ。

 ローマ法王庁は1999年、学んだことのない外国語を話せたり、十字架に強い嫌悪を示したりすることなどを、悪魔に取りつかれた兆候と認定している。

★ヘビメタバンドメンバー宗教儀式で殺される

 イタリアでは昨年、ヘビメタバンドのメンバーだった10代の2人が、宗教儀式的に殺された遺体が発見され、国内で話題を呼んだ。悪魔崇拝主義とみられる同じバンドの複数のメンバーが逮捕されたが、被害者のうち特に19歳の少女は「聖母マリアの化身」と見立てられていたとされる。イタリア高官が「カルト宗教が台頭している」と、危機感を訴えるほどだった。

悪魔払い: 世界初の「講座」に聖職者100人出席 ローマ  毎日新聞の記事
(以下、転載)
世界初の「悪魔払い講座」がローマのカトリック教会系大学で開講。17日の最初の講義には聖職者約100人が出席した。受講料は180ユーロ(約2万4000円)。

 イタリアでは悪魔崇拝が拡大しているとされ、同大のスカファロニ師は「音楽やファッションに見られる悪魔主義や、魔法、オカルト主義の広がりに対処するのが目的」と説明。講義では「本当に悪魔が乗り移ったのか、それとも精神的問題なのかを見分けられるようにする」という。

 最初の講義を担当したエクソシスト(悪魔払い師)のナンニ師は「悪魔払いはまじないではなく、祈りを通じて行うもの。臨機応変かつ慎重でなければならない」などと説いた。

2万4千円でいいんだ。くだらない英会話学校よりはるかに安くて良心的なお値段ですね。そもそもお金儲けではないのだから、単なる実費でしょう。もっとも、これは時代に応じて必要性が増したから真摯な姿勢で学ぶ人達のものだろうし、学んだ後が大変なんでしょうね。確かに現代の科学や医学では説明できないものがあるのだろうとは思うのですが・・・。キリスト教徒以外のものに、その症状が現われたら、どうなるのでしょうか?素朴な疑問。
同じ内容の別の記事について書いたブログ
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牡蠣の殻にキリストが!?

牡蠣の殻にキリストが!?の記事
確か、e-bayで同じようなネタでチーズトーストを競売にかけたら、すごい金額になったという記事がありましたが、これもその便乗版ですね。なんか、パクリのパクリみたいであまり感心しませんが、他のサイトやブログで採り上げていないようなので、参考までに。うっ、気をつけないとこのブログも俗っぽくなり過ぎるかな?いささか心配・・・。
(以下、転載)
スイス在住のイタリア人男性、マテオ・ブランディ氏(38歳)がこの牡蠣を発見したのは2002年のクリスマスだった。友人と牡蠣を食べていたところ、手にくっ付いて離れない牡蠣があった。

 「まるで、彼(キリスト)が僕を呼んでいるように、手から滑り落ちないのです。それをひっくり返したらキリストが見えました」とブランディ氏は回想する。「本当にショックでした。それを友人に見せたところ、彼もすぐに(キリストの)顔が見えると言いました」と語る。

 彼はバチカンにこの発見を伝えなかったのは教会も信じないだろうと思ったからだとスイスインフォに説明。笑い者になるのが怖かったからだ。そして、この牡蠣は彼のコーヒー店のステレオの上に2年間も飾られることになるのだが…

神様を食い物にしてはいけません

 昨年の11月に聖母が現れたチーズトーストの競売。続いて、カナダ人男性がキリストの顔が焦げ目に現れた魚フライ(fish finger)をインターネット・オークションにかけた話を発見。「これらの記事を見たとき、僕の発見を何故、世界に言わない?」と思い始めたという。

 ブランディ氏はこの宝物の正当性を信じているようだ。大衆紙ル・マタンにも「今日になってこの価値に気づきました。この肖像は本当にキリストのものです。この逸品がユニークなのは焼いたり、料理したものでなく、自然の作品だからです」(1月13日付け)と語っている。

お金のためではありません

 なお、ブランディ氏はキリスト牡蠣の出品は流行にのってお金をもうけるためではないと説明する。「全く、お金のためではありません。人々にお話を聞いてもらいたくってやっているのです」と言う。まずはバチカンや博物館などからの申し出がないかを待ってからネットに出品する予定だという。

 オークションについては「値段を決めるのは不可能。私の牡蠣殻は値段のつけようがありません。人々が値段を付けてくれるのを待ってみます」とル・マタン紙に語っている。今のところ、問題の聖なる牡蠣はカフェのステレオの上から銀行の保管金庫へ移動したらしい。
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聖女チェチリア Saint Cecilia 黄金伝説より訳出

【黄金伝説】
チェチリアという名前は、天国の百合coeli lilia か、無分別なところがないことcaecitate carens、あるいは無知な者への道caecis viaか、天の為に働く女性coelum and lyaに由来しているかもしれない。または、その名前は人々coelum and laosから生じているかもしれない。というのは、聖チェチリアは処女の慎みにより天国の百合であった。彼女は光り輝く清浄さ、翳ることのない良心、そして素晴らしい名声の気品から百合と呼ばれている。彼女は良き実例を与える事で無知なる者への道であり、絶え間ない瞑想を通じて天であり、良き行いへ専心することで天の為に働く者であった。イシドールがいうように賢人は天が丸く、炎のように回転すると言っていて、テェチリアは良き行いの絶え間ない円の中で忍耐力で至る所、慈愛の暖かさで炎のように回転しているので、彼女は天と呼ばれた。彼女は叡智の輝きを通して、無知のところが無かった。彼女の中で、あたかも精神的な天国ー太陽、月、星々においてーにおいてのように、主として、彼女の叡智の洞察や信仰の寛大さ、美徳の多様さによって天をいかにしてお手本にするかを見ることができたので彼女は人々の天であった。

チェチリアは、

・・・・・・・・・途中・・・・・・・・・・・・
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2005年03月02日

教皇庁立大学で「エクソシズム」コース開講

世界キリスト教情報 2005/02/21号 (以下、上記より転載)

◎教皇庁立大学で「エクソシズム」コース開講
 【CJC=東京】ローマの教皇庁立レジーナ・アポストロールム大学で、エクソシズムを専門とするコースが2月17日開講した。バチカン放送が伝えた。
 悪魔崇拝の実態、悪魔祓い、解放の祈りなど、エクソシズムに関する知識を深める講座で、受講出来るのは、司祭と、司祭になる準備を進めている生徒で神学の修士号を取得した者に限られている。
 講座では、神学的観点だけでなく、社会学、司牧、霊性、典礼、科学、医学、法学の観点からも研究に光を当てるほか、若者たちの音楽、雑誌、ビデオゲーム、インターネットの世界も対象としている。
 人間学専門のチェチリア・ガット・トロッキ教授は、講座開設の理由として、オカルティズムへ傾倒する若者たちの増加と、それが社会や文化に与える影響への懸念を挙げている。

純粋に学問的好奇心から受けてみたいですが、そもそも信仰の為に行われるのだろうから、私のような部外者には無理なんでしょうね。でも、テキストだけでも販売してくれないかな?放送大学みたいに、学べたらいいのに・・・。e-learningとか。と、そんなことを言いつつ、受講しているコースがまだ終わっていない。頑張らないと!でも、内容には興味津々だったりする。こういう人では駄目なんだろうなあ〜残念(涙)。

ネットで見てたら、この件について書かれていたブログを発見!更にこのようなNEWSソースがあるのが分かりました。以下、転載
Uni to offer exorcism courses

The Pope's Regina Apostolorum University in Rome is to offer courses on Satanism and exorcism to counter the influence of an increasing number of Satanic cults in Italy.

The courses for novices and trainee priests will start in February next year.

They will cover demonology, the devil in holy texts as well as pathology and medical treatment of people allegedly "possessed by Satan".

One teacher, author and journalist Carlo Climati, said the seminars would end with two exorcists sharing their experiences.

He said that they would explain how to tell the difference between a sick person that requires medical treatment and someone possessed by the devil.

他にも同じような記事について
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Mystery of the Abbey - $44.95 薔薇の名前のゲーム

game
ゲームを販売してるサイト 'Days of wonder'
こちらのサイトを見て発見!
最初は、ちょっと驚きましたね。だって、薔薇の名前をテーマにして作ったボードゲームがあるなんて思わなかったから。内容もなかなか魅力的ですね。修道士が亡くなった原因を質問によって徐々に解明いくものらしいです。対象年齢は8才以上。大丈夫だ、できる(笑)。プレイ時間は60−90分で人数は3〜6名だって。

あ〜すっごい欲しいかも?約5千円か、安くないけど欲しい!!でも買った後に誰か一緒にやってくれる人がいるのだろうか・・・?みんな忙しいのに。まあ、買って一人で眺めていてもいいかもしんない。誰かアメリカに出張に行かないかな? 某金融関係の人とか? OZに売ってたらお土産に期待しようかな(嘘だよ〜、お忙しいだろうから用事を最優先で用事済ませてね)。

しかし、いいなあ〜。シッピングを追加で払えば海外発送してくれるのかな?それともどっか日本で輸入して販売してるかな?後で調べてみようっと。輸入してうちで売ろうかな?でも、儲からなさそう・・・。う〜む。

薔薇の名前はこちら。
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2005年03月01日

カエキリア(聖女チェチリア) cecilia

moro
「西洋美術解読事典」ジェイムズ・ホール 河出書房新社より抜粋。いつも参照しているんですが、メモとして。
イタリア語ではチェチリア。キリスト教聖女で童貞殉教者。2〜3世紀の人物と信じられている。ローマのサンタ・チェチリア・イン・トラステーヴェレ聖堂はきわめて早い時代の創立となり、聖女自身のものとされる聖遺物を蔵している。彼女の生涯と殉教は歴史的事実を見做すことはできないが、その記録は6世紀にはすでに存在している。

キリスト教徒として育てられたカエキリアは純潔の誓願を立て、ウェレリウスという名のローマ貴族と結婚するに際し、彼に性的交渉を放棄するよう説得した。ウェレリウスは妻の身を絶えず守っているという天使の姿を見せてもらうことを条件に、妻の申し出を受け入れる。その後、天使が二人の上に舞い降り、薔薇と百合の冠を彼らの頭上に置いた(これらの花は時としてカエキリアの持ち物になっている)。ウェレリウスは兄弟のティブルティウスと共に洗礼を受けてキリスト教徒となったが、その結果二人はローマ長官により処刑されてしまう。カエキリアは蒸し風呂で窒息死させられる刑を申し渡された(あるいは福音書記者ヨハネのように油の煮えたぎる大蝦蟇に投じられた)が、彼女は死ななかった。剣を3度振り下ろしても首に傷がついただけで、さらに3日間彼女は生き延びて、その間財産を貧者に分け与えていた。
(音楽の守護者としてカエキリアは当時まだ知られておらず、15世紀に初めて美術に登場する)

音楽の守護聖女:
音楽に対するカエキリアの守護の由来は、彼女の生涯(受難)に関する物語の一節に拠っている。「結婚の当日カエキリアが様々な楽器の音(cantantibus organis)に送られて婚約者の家へ導かれた時、彼女は心中神に念じて、どうか魂と体を汚さずに済む様に祈った。」ラテン語の「オルガヌムorganum」は諸楽器を含めてあらゆる精巧な道具類を意味したが、16世紀の美術家たちはこの言葉を同時代のオルガン(持ち運び可能なポルタティーフ・オルガン)と解釈し、これを彼女の持ち物とした。

ラファエロの作品に「聖女カエキリア」がある。

以前に調べた時の説明はこちら
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2005年02月25日

The Golden Legend: Readings on the Saints 「黄金伝説」 獲得までの経緯

前日のブログでも黄金伝説についてちょこっと書いていたけど、聖フランチェスコ然り、聖チェチリア然り、他にもいろんなことを調べていると必ずこの文献の名前が出てくるんですよ。で、黄金伝説いわく・・・というくだりが頻繁にある。こりゃどうしても、避けて通れない必須資料だよねぇ〜。マグダラのマリア絡みでもこの黄金伝説いわく・・・と同様だったし。

gl1そんなわけで買おうかと思って調べてみると、な・なんと!日本語訳(人文書院 黄金伝説全4巻)はあるんですが、絶版中。もう・・・どうすればいいの?しかたなく古書店等を当ってみると神戸の古書店で16000円。洒落にならないほど、高いよ〜。専門の学者じゃなくて在野の趣味人にはちょっと手が出ない。某先生みたいに科研費で落すわけにはいかないんですから・・・。

英語なら安いかなあ?と思ってアマゾンで調べるとペーパーバッグでありました。わ〜い!1冊2140円で2冊だから、4千円ちょっと。これも高いけど、まあ買えるかな〜と思ったらハードカバーもあるんですね。これは在庫切れ。ペーパーバッグってあれ、本当に紙が悪いし、すぐ駄目になるでしょ。それに4千円出すなら、定番資料としてハードカバーで揃えたい所ですよね。でも1冊9324円。日本語訳よりは安いけど、高い。(後ほど、ハードカバーは1冊だと思っていたのに、これも2冊買う必要があることが判明。結局、約2万円で日本語より高かったりする)

しかも手に入らないといわれると欲しくなるのが人情。しかたないので海外でgoogleやアメリカのアマゾンを使って探したりする。で、ようやくハードカバーを探し当てると・・・。shipping(エアー等の配送料)の問題が!それにcustom(関税)もあるし・・・号泣。最悪、海外輸入の練習も含めてやってみてもいいけど、まずは国内で探そうと本日は神田古書店巡り。

いやあ〜疲れた、疲れた。4・5時間の間、お昼も食べずにひたすら日本語訳と英語版を探し続けました。丸善には無かったし、三省堂にも無い。もう、全然無いんだもん。洋書専門店もあちこち聞きまわったけど、全滅でした。あるところでお取り寄せならと言われ、価格も見積もりをお願いしたのがせいぜい。まあ、他にもモローの展覧会目録とか、余計なものまで見ながら回っていたので時間がさらにかかったのでしょうが、お腹すいたうえに足まで痛くなり、泣きそうな状態でとある店を覗いて、「princeton univ.から出ているgolden legendってあります?」と尋ねると・・・・

gl2「こないだ、入ったばかりの本ですね。ありますよ!」と、まさに天使のささやき。で、喜び勇んで案内してもらうと、サイドがちょっと汚れているけど、表紙や中身はとても綺麗な本が2冊セットでこちらを見て微笑んでいたりする。実は最初、ペーバーバックは2分冊なの知ってましたが、ハードカバーは1冊だと勘違いしていて、なんで2冊?といぶかっていたのですが・・・ハードカバーも2冊だったんですね。良かった!アメリカから買わないで2万円を超えるところだった。しかもお値段は2冊セットで6千円。ペーパーバッグ2冊だと新品で4・5千円だけど、すぐ駄目になることを考えれば、もう大満足。速攻でGET!!

もう嬉しくってしょうがなかったりする。今、このブログを書きながらも側に置きながら書いてるしね(満面の笑み)。これからは、のんびりと気に入った聖人から、読み進めていくつもりです。そのうち、alice-room版の日本語訳でも作ろうかな?でも、売れずにすぐ絶版か・・・(鬱)。まあ、気にせず頑張ろうっと。表紙の絵もなかなかいいし、だいぶ気に入ってます。

あと問題は、知り合いからも早速メールで嫌味を言われたように挫折しないか、だけですね。
英語って、量を読むのは疲れるんだもん・・・。M1の時に、テキストが全て英語で数式の説明がされていてあれは非常に辛かった。今、思い出しても泣ける。そういやあ、以前にこの本を買った古書店でstatisticsのテキスト買ったことあったっけ?大学生協にもなく、何店もハシゴしても見付からなかった時、唯一ここだけあったなあ。でも1冊のテキストに9千円以上したのに、なんか今回のはすっごく安かった。そういうこともあるのかな?とにかく感謝&感謝なのでした。

さて、ちゃんと読まないと・・・。元はとるぞ〜!
(下の本が第2巻、画像が無かったので自分の本取り込みました・・・満面の笑み 3月3日)

そうそう、問い合わせたものには、後ほどメールで回答を頂きました。

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2005年02月24日

黄金伝説 Golden Legend コロンビア百科事典による

"Golden Legend”の説明 The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition. 2001.
《日本語訳》
「黄金伝説」。ヤコブ・ダ・ヴァラギネにより13世紀に書かれた聖人の人生を集めたもの。元々は"聖人の人生の読み物”というタイトルだったが、(宗教改革まで続いた)その人気故にすぐ黄金伝説と呼ばれるようになった。

それは1年の各区分と個々の祝祭日の紹介をしている聖人カレンダーであり、批判的な目的や歴史的な目的ではなくて、聖人らしい生活の理想を表した不思議な話をまとめたものであった。それは伝記を集めたものというよりは礼拝の為の本であり、早い時期にラテン語からそれぞれの国の言葉に翻訳され、ウィリアム・キャクストン(英国の印刷業者)が英語訳を出版した。

話の幾つかは、奇想天外で単純でもあり、粗野なラテン語でルネサンスの人文主義者達には軽んじられた。しかし、その本が非常に人気を博したことは明白で、中世文学に広い影響力を有していたことからもそれは明らかだった。グレンジャ・リャンとエルム・リペルジャにより、洗練し、幾分短く改作されものが1941年に現われた。

The Golden Legend: Readings on the Saints 「黄金伝説」 獲得までの経緯
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黄金伝説 〜聖人伝〜 ヤコブス・デ・ウォラギネ著

Praeputium Domini 私見 (前 田敬作氏)
上記サイトからの転載です。非常に興味深い内容ですので失礼ながら、そのまま転載させて頂いています。
キリスト教で聖遺物(reliquiae)とは,聖人の遺骨や遺品のたぐいをさす。聖人の宗教的偉大さは死後もあらたかな霊験をさずけてくれるというので,これを崇敬する。このような習慣は,仏教においても盛んである。
 中世は,キリスト教の聖遺物収集が花ざかりの時代で,とくに十字軍の遠征で聖地パレスティナや小アジアの士を踏むと,ここは聖遺物の宝庫であった。われ先にとおびただしい数の聖遺物を西ヨーロッパへもち帰ってしまった。そこでオリエントの抜け目のない商人たちは,聖遺物の贋造に精を出すことになる。にせ聖遺物の数は,真正品のそれよりはるかに多かった。十字軍の時代にヴェネツィア商人とならんで一番甘い汁を吸ったのは,コンスタンティノープルの聖遺物製造業者たちであった。
 表題のPraeputium Dominiは,「主の前の皮」の意のラテン語である。「前の皮」は,口語聖書の訳語で,最近出た新共同訳聖書ではそのものずばりに「陽皮」または「包皮」と訳されている(英語foreskin)。ユダヤ教徒の男子は,生後まもなく〈割礼〉を受け,包皮の一部を切除しなくてはならない。神ヤーウェの律法なのである(出エ12:40−49)。当然のことながら,おさな子イエスも,生後8日目に割礼を受けた。教会では,主の無垢の血が人類のためにはじめて流されたことを記念して,降誕祭の8日目にあたる1月1日に〈主のご割礼の祝日〉を祝う。
 ところで,このとき主キリストの前の皮から切除された聖肉片,この超絶的聖遺物は,どこへいったのであろうか。
 キリスト教的ヨーロッパの開始者カール大帝(742−814)は,第1級の聖遺物を集めていた。彼が宮居したアーヘン(オランダ・ベルギーとの国境にあるドイツの町)の大聖堂には,おん母マリアの聖衣,おん子イエスの聖むつき,聖腰布,ヘロデ王に殺された洗礼者ヨハネの首をくるんだ布などの逸品がそろっていて,中世期を通じて巡礼の列が絶えなかったほどである。カールが情熱的な聖遺物収集家であることを知った天使たちは,天国に冷凍保存してあった主の聖肉片を彼のもとにとどけた。大喜びした大帝は,早速これをアーヘンの聖母教会につつしんで埋葬した。ところが,彼は,その後気が変わったのか,聖肉片をゴシック聖堂で知られるフランス中北部の町シャルトルに移し(ここにはマリアの聖肌着がある),さらにローマのラテラノのサン・ジォヴァンニ大聖堂にはこんだ。この聖堂は,「諸教会の母にして首」と呼ばれ,教皇みずからが司教をつとめるカトリック最高位の教会である(ヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂が最高位なのではない)。この聖堂につづいてラテラノ宮殿という教皇の住居があり,そのなかに至聖所小聖堂という礼拝堂がある。主の聖肉片は,この礼拝堂におなじく主の聖へその緒および聖靴とともに安置されていた。
 ところが,1527年神聖ローマ皇帝カール5世(位1519−56)麾下のドイツ・スペイン軍による凄惨な〈ローマ掠奪〉のさい何者かが聖肉片を盗み去ってしまった。この聖遺物中の聖遺物をめぐって,まもなく各地の教会や修道院などが再発見の名乗りをあげ,すさまじい真贋争いがまき起こり,なかには今世紀の初頭まで崇敬されていたものもある。それらの教会や修道院の数は,500を下らないという。聖肉片1個の重さが1ミリグラムだとしても,それらを合計すると,おさな子イエスは,なんとも巨大な聖おちんちんをもっていたことになるではないか。
 私見によれば,再発見されたという聖肉片は,すべてにせものであって,本物は,天使たちによってふたたび天国にはこび去られたのである。
 以上は,ジェノヴァの大司教ヤコブス・デ・ウォラギネによって集大成されたキリスト教聖人伝説の白眉『黄金伝説』の拙訳からのこぼれ話である

中世においてベスト・セラーであり、アッシジの聖フランチェスコ聖堂の壁画のテーマとされたり、私が調べていて何度もその書名を聞いた聖人伝であるジェノバ市の大司教であった福者ヤコブス・デ・ウォラギネによる『黄金伝説』ですが、絶版なんですよ〜(号泣)。これがまた、困った。某図書館まで行って読むのも面倒だしなあ〜。近場で借りれないかな・・・。日本で言うなら、「日本霊異記」とか「往生要集」みたいなもんかな?高校生の時に読んだ以来でうっすらとした記憶しかないけど・・・。シバの女王やマグダラのマリア、聖ジョージ、聖杯伝説等々に係わってくるし、読んでおかないとなあ〜。荒俣氏や種村氏と友人だったら貸してもらえるのに・・・(オイオイ)。洋書なら入手可能かな?調べてみようっと。

あと、この引用文に出てくる聖遺物もなかなか関心をそそるものだったりする。シャルトル大聖堂には、イエスの包皮の他、マリアの肌着もあるし、第二回十字軍の決起を呼びかけた地でもあるしね。なかなか一筋縄ではいかない、とっても怪しい聖地だったりする(ニヤニヤ)。もっと情報が欲しいなあ〜。フルカネリの「大聖堂の秘密」とかになんか出てこないかな?あれも入手しないとなあ〜。お金と暇な時間が必要ですね、趣味に生きるには・・・。

黄金伝説 中世の写本
The Golden Legend: Readings on the Saints 「黄金伝説」 獲得までの経緯
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2005年02月06日

オタクの守護聖人

otaku_seijin.jpg

ニューオリンズの教会にいる「オタクの守護聖人」 記事
確かに日本でも原子力の神様がいて、東京電力とか関係企業がお祓い受ける話は聞いたことがありますが、オタクにも守護聖人がいるとは・・・。恐るべしカトリック教会、やりますね(ニヤリ)。是非、秋葉原のメイドカフェの入口とかにも置いて欲しいもんです。(誤解ないようにいうと、厳密にはまだ聖人として認められていないようです・・・。)

さて、記事の内容はというと、どうしてオタクの守護聖人になったのかはっきりしたことは分からないそうだが、聖エクスペダイトというその名からきているらしい。聖エクスペダイトは、まずその名が、信者たちに素早く恩恵を施すという、能力にぴったり!(expediteは「手早く処理する」の意味) 

それ以外のエピソードもいろいろ書かれて面白いが、まさに時代にマッチした聖人ですね。恩恵でさえもすぐに欲しいという効率性・スピードを要求する時代にあいそう。しかし、なんか笑える。リストラされた人がすぐ次の職を見つけられたというご利益や、請求書にこの聖人の絵をつけると、期日通りに支払いがあるとは・・・。日本でも需要がありそう。サラ金とかね(笑)。

【以下、HTOWIREDより転載】
ルイジアナ州ニューオリンズ発ニューオリンズで最古の教会の、中央の祭壇から最も離れたドア際の薄暗い片隅に、聖エクスペダイトの像が安置されている(写真)。聖エクスペダイトは、非公認の「ハッカーの守護聖人」だ。

 なぜ非公認かというと、ローマカトリック教会が、聖エクスペダイトをどう扱っていいのか決めかねているからだ。あまりにも異教的なので、正統な聖人とは認められないが、あまりにも人気があるので、教会から追い出してしまうわけにもいかない。

 聖エクスペダイトの像(写真)は、理由はわからないが、いくつかの教会に存在するらしい。これらの像はどこからやってきたのか? 誰が寄贈したのか? 聖エクスペダイトの生前の人となりを誰も知らないようだし、実在した人物なのかどうかさえ不明だ。

 しかし正体は何であれ、コンピューター・オタク、ハッカー、悔い改めた怠け者、電子商取引サイトの運営者、そして人生を自分の頭脳と一か八かの運に賭けている人々がこぞって、聖エクスペダイトは自分たちの守護聖人だと主張する。

 「コンピューターのスペシャリストや、コンピューターを使って働く人たちは、エクスペダイトは自分たちの守護聖人だと強く主張する」と、米国の教会では唯一聖エクスペダイトの像が置かれている、ニューオリンズのグアダルーペ聖母教会の牧師、マイケル・アメッセ氏は話す。

 「なぜエクスペダイトがコンピューターの聖人と呼ばれるのか、理由は分からない。テクノロジーとインターネットの聖人は、聖イシドルスだ。しかしこれらの人々は、聖エクスペダイトに祈りを捧げると言ってきかない。聖人を取り巻くすべてと同じように、この理由も謎だ」とアメッセ氏。

 ローマカトリック教会は2002年、コンピューター・プログラマーの聖人として、セビリアの聖イシドルスの名を挙げた。聖イシドルスの選択は、妥当なように思われる。彼は7世紀に、世界最初のデータベース20巻から成る百科全書的書物『語源論』を送り出した人物。同書は、当時の世界におけるあらゆる知識をまとめることを目的としたものだった。

 しかし聖イシドルスは、ハッカーたちにとって少々重苦しすぎるようだ。加えて、聖イシドルスの逸話のなかには、多くのハッカーを喜ばせるような、おかしなシャレが一切ない。

 一方の聖エクスペダイトは、まずその名が、信者たちに素早く恩恵を施すという、その立証済みの能力にぴったりだ(expediteは「手早く処理する」という意味)。ただしそれだけではない。まんまと複数の教会に自分の像を送り込んだその方法について、ある逸話があるのだ。

 話は1781年頃に遡る。パリのダンフェールロシュローにある地下墓地に埋葬されていたある聖人の遺体を納めた箱が、パリの修道女たちのところへ送られてきた。遺体の発送人は箱に「Expedite」(至急)と書いた。当然、遺体を運ぶのだからその必要がある。

 ところが修道女たちは、殉教者の名前がエクスペダイトだと誤解し、祈りを捧げた。そして多くの祈りが驚くほど早く通じたので、聖エクスペダイトを熱狂的に崇拝する一団が生まれた。気前よく即座に奇跡をもたらすこの聖人の噂は、瞬く間にフランス中に広まり、他のカトリック教国にも行き渡った。

 なかなか素敵な話だが、実はイタリア人は、1781年よりずっと前から、願い事の成就のために聖エクスペダイトに祈りを捧げていた。つまり、前述の話の1781年という時期、あるいは物語全体が間違っていることになる。いずれにせよ、この話全体がいかにも都市伝説っぽい。

 ニューオリンズでは、同じ話の別バージョンが語り継がれている。それによると、グアダルーペ聖母教会に、さまざまな聖人の像が詰まった大きな荷物が届いたという。そのうちの1つだけ、中に入っている像が何の聖人なのか書かれていない箱があった。しかし箱には「Expedite」と書かれたラベルが貼られていた。そこで地元の人たちは、これが聖人の名前に違いないと判断した。

 話はまだ続く。それから150年ほど経ってから、人々は「エクスペダイト」という聖人が存在しないことを知った。しかし調査の結果、聖エクスペダイトゥスというあまりよく知られていない聖人の存在が確認された。恐らくアルメニア人殉教者と考えられているこの聖人の存在が、聖エクスペダイトの神話に信憑性を与えることになったのだ。

 聖エクスペダイト像は、通常は古代ローマの百人隊の若い隊長で、右足でカラスを踏み付け、時計後期のものは、「hodie」(ラテン語で「今日」の意味)と刻み込まれた十字架を高々と掲げている。そして「cras」(ラテン語で「明日」の意味)と書かれたリボンが、踏み付けられたカラスの口から出ている。つまり聖エクスペダイトは、人々のぐずぐずと先延ばしにしがちな性癖を打ち破り、喜びを与える明日というあやふやな約束をやめさせ、今すぐに物事を実現させようというのだ。

 なぜカラスなのか? 母国語が英語の人がカラスの鳴き声を真似すると、だいたい「カア、カア」(caw caw)となる。一方、イタリア人にとっては、「クラース、クラース」(cras cras)と聞こえるようだ。イタリアの民話では、カラスはいつも「明日、明日」とまくしたてているわけだ。

 聖エクスペダイトはまたそれを信じている多くの人のなかでは種々の問題に対して即刻手を差し伸べてくれると考えられている。聖エクスペダイトは、迅速な解決を行なう聖人なのだ。彼は、厳しいスケジュールのなかで仕事をしたり製品を納品しなければならない人たちの守護聖人でもある。

 ニューオリンズの聖エクスペダイトを訪ねたとき、5〜6人の人が教会に入ってきて、像の横にメモや花を置くのを目にした。彼らは、教会に並んだ正式な聖人たちには目もくれなかった。

 「先月、働いていた会社がつぶれてしまったが、聖エクスペダイトのおかげですぐに仕事が見つかった。この街で仕事を見つけるのがどんなに大変か知っている人なら、就職先が見つかったのは、もの凄い奇跡だということが分かるはずだ」と、ニューオリンズ在住で、聖人にお礼を言いにきたレティッシュ・ジャクソンさんは話した。

 聖エクスペダイトに経済的な窮地を救ってもらおうとしたのは、ジャクソンさんだけではない。『ウォールストリート・ジャーナル』紙の1面に最近掲載された記事によると、聖エクスペダイトはアウトソーシングの犠牲になった人たちの守護聖人にもなったという。

 ジャクソンさんをはじめ、グアダルーペ聖母教会の地元の人たちジャクソンさんは「コンピューターの人たち」と呼んだは、よく聖エクスペダイトを訪れるという。

 「コンピューター修理サービスを営む友人に、どうしてこうした人たちがここに訪れるのか質問したら、聖エクスペダイトは、コンピューター・オタクの聖人なのだと答えた。この友人の話では、聖エクスペダイトは、とにかく情報を送るのが速いそうだ」とジャクソンさんは話した。

 概して守護聖人は、全能の神とブロードバンド接続されており、必死にすがる人たちや信仰の篤い人たちのメッセージを受け渡してくれるのだ。ローマカトリック教会では、考えうるすべての望みに対して守護聖人を割り当てているようだ。

 ちなみに、クパティーノの聖ジョセフ(『空飛ぶ修道士』)という聖人がいるが、彼はマック・ユーザーの守護聖人ではない。この聖人にすがるのは、用心深い航空旅行客だ(この修道士は、幸せに感じたときはいつでも宙に浮かんだと言われている)。田舎に住む少女たちは、農家の女性の守護聖人、ピブラクの聖ジェルマンに祈りを捧げることができる。

 「聖人の熱心な信者ではないけど、聖エクスペダイトとなるとまったく話は別だあまりにも見事なので怖いぐらいだ」と、ニューオリンズに住むフリーのコンピューター・サポート・コンサルタント、キャシー・デュポンさんは話した。「私の顧客は、決まって支払いが遅れるので、去年ジョークのつもりで、聖エクスペダイトの絵の付いたカードを郵便受けの後ろにテープで貼っておいた。今、私宛の小切手はほとんど必ず、期日通りに配達されてくる」
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2005年02月03日

ヴァチカン教皇庁図書館、古文書をデジタル解析する共同研究で調印

凸版印刷とヴァチカン教皇庁図書館、古文書をデジタル解析する共同研究で調印 (抜粋)
凸版印刷は1日、ヴァチカン教皇庁図書館との間で古文書をデジタル解析する共同研究プロジェクト「パリンセスト・プロジェクト」の推進に合意し、17日に調印した発表した。
  パリンセストとは羊皮紙製の写本のことで、当時は高価だったために、書き文字を洗い流したり削ったりして上書きをされていた。この消された文字を判読し貴重な古文書を発見するという試みで、化学薬品や紫外線を使い写本や作業者に負担がかかる従来の方法と違い、同社が独自に開発した専用機器による画像識別技術・デジタル化技術を用い、同図書館の所蔵するパリンセスト200冊の解読を目指す。
  今後3年間で機器を開発し、読み込んだデータを解析するソフトウエアの開発などの作業を進め、解読した文字や画像の研究や出版も手がけるとしている。

という記事に妙に心惹かれたのですが・・・。
高価な羊皮紙の再利用は聞いたことあったのですが、消し去った文字を読むなんてことができるとは知りませんでした。でも、そういうことができるならば、たとえば歴史的に抹殺(抹消)したい事柄について書かれた文章を書き換えたりした場合、それ以前の元の文章を知る可能性があるわけです。

何が言いたいかというと、ヴァチカンにはいにしえの貴重な文献がたくさんあるわけですし、カトリックにとって存在しては困る文献(一般信者の信仰に動揺をもたらすもの)もたくさんあるわけです。即ち、異端にあたる文献・資料が。そのままの形で一般に触れないように秘匿される他、自分達の教義に都合のいいように改変・補足修正されたものも相当数あるはずです。

勿論、可能性ですがそれらが改変等、手を加えられる前の内容が分かれば、とっても興味深いと思うのですが・・・。凄い内容が・・・。でも、きっと公開されないんでしょうね。分かったとしても。その為に、技術それ自体はさておき日本の会社が選ばれたのでは?というのは、勘繰り過ぎかなあ? やばい&やばい、最近、陰謀史観の本ばかり読んでいて毒されているかもしれませんね。(但し、死海文書の二の舞はごめんですが・・・。)

でも、きっと美しい写本がたくさんあるんでしょうね。薔薇の名前に出てきたみたいに、人類の叡智を詰め込んだものが。ううっ〜見たいなあ・・・。

ラブリー写字室   素敵な写本のサイトです
ヴァチカン教皇庁図書館展  しまった!そんなのやってるとは知らなかった。行きたかった。
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